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―深夜、病院―

 生きることも死ぬことも、僕には等しく難しい。


 夜はいつだって静けさと共にやってくる。闇はトロリと体にまとわりつき、静かに夜の世界へと誘ってくるようだ。風が木々の葉を揺らし音をたてて去っていった。

「静かだね。救急車の一台も来やしない」

「来ない方がいいだろ」

 何も物がない空っぽの個人用病室は、着いたときにはもう既に明かりが落とされていた。月の光が射し込むベッドの上で二人、壁を背に並んで座る。八尋は足を伸ばし、壁に身体を預けて重い瞼を開けていた。

「静かすぎて、眠くなる」

「いつもなら眠ってる時間だしな」

「んー。けど今日はまだ、眠りたくないんだよね」

 夜の静けさがなければ消えてしまいそうな声で、八尋はもう一度眠いと呟いた。このまま睡魔に拐われてしまいそうな幼馴染みが、いつものように目を閉じ、そして朝になったら目覚めればいいのに。叶わないと知りながら何度も願ってしまう自分に苦笑する。

「眠りたくないって、いつ止まんの」

 何でもない口調で疑問を投げ掛けると、八尋はいつも通り他人事で返答した。

「十二時ぴったり」

「妙にきっかりした時間だな」

「欠損児で分かってることのひとつ。理由は分からないけれど、自力呼吸を始めてからちょうど二十年で心臓が止まるんだ。だから僕たちは、十二時ぴったりに人工子宮から出される」

「へぇ」

 こちらも他人事で生返事をして語を次ぐ。

「もうひとつ訊きたいんだけどさ。始まりの場所って、どういう意味」

 今朝タクスに乗り込む際に八尋は、最後は病院へゆくと告げてきた。自分の全てが始まった場所だからだと。

「そのまんまだよ。僕はここで生まれたから」

「人工子宮から生まれた場所って意味か?」

 ちょっとした引っ掛かりだった。生まれた事を始まりと称すには、全てのが邪魔になるのだ。予想通り、彼は首を振って否と答えた。

「違う。僕を作る為に必要な生殖細胞も、ここで作り出されたんだ。うちの両親は二人とも子どもを作る才能がなかったからね。だから、僕の産みの親はこの病院と言っても過言じゃない」

「……なるほど」

 講義でも聞いているかのような心持ちになり、間の抜けた返事しか出てこなかった。淡々と話す姿は、やはり異常としか思えない。くすっと、こちらの思考を読んだかのようなタイミングで八尋が笑った。

「なんだよ」

「いや、ごめん。僕と同じ反応してると思って」

「お前は自分自身の事だろうが」

「そうだけど、なんか他人事みたいで。なるほど、そういう仕組みなんだって言ったらめちゃくちゃ怒られた」

「今でも他人事だろ」

「まぁね。いろいろ理屈つけたところで、この心臓が止まって僕が――」

「そっから先は、言葉にしないで欲しい」

 クスッ。八尋は笑う。

「わがままな奴」

「何とでも言ってろ」

 会話は続く。他愛ない、言った端から記憶から抜け落ちてしまいそうな言葉たちを二人で紡ぎ続けた。時間が経つにつれて、八尋は基本聞き役として相づちをうっているだけの事が多くなってゆく。もう長く話すのは難しいのだろう。疲れたように壁にもたれ始めた彼が目をすがめ、口を閉ざした。

「どうした」

「うまく、見えない」

 暗いからではないことは分かっている。彼の五感が少しずつ機能を失っているのだ。体は自然と八尋に近づき額を合わせるように顔を寄せた。

「見えるか?」

 色素の薄い虹彩に笑みが浮かぶ。

「ぬばたまの瞳だ」

 夜をとじ込めたような瞳だと、いつだったか言われた事があった。黒色に程近いこの瞳が好きだとも。

 ――春樹を嫌いになることが万が一にあったとしても、その瞳だけは嫌いになれない気がする。

 そう言っていつも通りに彼は笑ったのだった。

「お前好きだろ、この眼」

「うん。優しい、闇の色」

 ――これが闇なら怖くはないね。

 いつかと同じ台詞を吐き出し八尋は瞼を下ろす。これから否が応でも訪れる消失を、自ら招き入れるように。

「八尋。心臓の音、聴かせて」

「いいよ。けど、聴いててよ。……最期まで」

 分かったと囁き、その身体を抱き締めて薄い胸に耳を押し当てた。心臓が鼓動を刻む音が聞こえる。ドクリ……ドクリ……と耳から伝わるその間隔はひどく長く、今にも止まってしまいそうだ。けれどそれは、彼が今生きている証。冷たい彼の指が手持ちぶさたに、髪を弄び始めた。

「明日の朝、何にしよっか」

 ふと、八尋が未来を口にした。体の中で響くその言葉が、使い慣れない異国の言葉のように感じる。彼から『明日』がもう一度出てくるとは思わなかったのだ。驚きはしたが、戸惑いはしない。

「明日?」

「うん、明日」

 戸惑いはしないが、悲しみはこらえられなかった。震える声に、彼は気づいているのだろうか。

「明日は、ごはんと味噌汁がいいかな。けど、俺が作るから。いいよ、八尋はゆっくり眠ってて」

「おかずは、卵焼き?」

「いいや目玉焼き」

「それなら、失敗しないね」

「卵焼きだって失敗せずに作れるからな」

 声をたてずに八尋は笑う。小刻みに揺れるその身体にまわした両腕の力を強めた。会話は途切れ、静けさが耳につく。

「春樹、何かしゃべって、眠りそう」

 突然に曖昧な要求をされ思考が凍り付いた。短い逡巡の後出てきたのは女々しい弱音。

「……俺、お前のいない未来が分からない」

「それは、好きな子にいうセリフ」

「俺はお前が好きだよ、八尋」

「うん、僕もすきだけどね」

 二人の間にあるこの感情は、恋愛と呼ぶには生ぬるく友愛と呼ぶには異質だ。ならば家族に対する情愛かと問われれば、それもまた違うと答える。お互い以外他の誰にも向けられないこの感情は、幼馴染み、という関係を表す言葉が一番相応しい。

「けどぼくは居なくなるよ」

 髪を弄んでいた手が慰めるように頭を優しく叩いた。

「居なくなるんだよ、はるき」

 未来を語った口が、今度は未来を否定した。夢見心地な彼の物言いは掠れて、空気ばかりが聞こえる。本当にこのまま眠りについてしまいそうだ。

「まだ眠るなよ。起きてろよ八尋」

「ねむらないよ。まだ、眠りたく、ないんだ」

「八尋」

 一回、二回彼の呼吸に合わせて胸が膨らんだ。空気が肺へ入る音、肺から出てゆく音が聞こえる。木々がざわめく音に、小さな鼓動。静かになった室内に、八尋はもうこのまま起きないのだと思った。眠って最期を迎えるのだと思った時、春樹とやけに明瞭な声音で名前を呼ばれた。

「春樹、ありがとね。ずっと隣に居てくれて。一緒に遊んでくれて。最期まで側にいてくれて。ありがとう春樹、本当にありがとう……」

「俺の方こそ。ありがとう、隣に居てくれてありがとう。お前がいたから、俺今生きているんだよ。ありがとう、ありがとう……。生まれてきてくれて、生き続けてくれて。最期まで側にいさせてくれてありがとう。八尋、八尋。ありがとう」

 ありがとうと幾度も幾度も繰り返した。不思議と涙は出てこない。今はまだ確かにある温もりを強く抱き締め、小さな音に耳を澄ませもう一度、八尋と名を呼んだ。

「あぁ、生きたなぁ」

 また囁くような声音で、八尋が言う。見なくても彼が笑っていることが分かった。いつものように、優しく彼は笑ってるのだろう。

「あー、生きたなぁ…………」

 肺の中の空気を出しきるように八尋は囁き、それぎり口を閉ざした。夜の静けさが辺りに漂う。寂しさも悲しみもその静けさに押し黙り、心は波ひとつたっていない。トクリ…………トクリ…………トクリ。風も凪いだのか、木々の音も聞こえなかった。トクリ………………トクリ。

 時計など、見ていなかった。けれど、最後の瞬間はハッキリと分かったのだ。小さく小さく鳴った心音を最期に、八尋の心臓は……止まった。

「八尋。二十才、誕生日おめでとう」

 彼の、終わりの日が始まった。

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