追憶・高校卒業、成人式―夕暮れの海―
いつかは結婚したいね。子どもはね……。そうやって楽しそうに笑う君の横で、僕はいつだって泣きそうだった。君が欲しくて仕方がないのに、手に入れてしまえば後悔しか残らない事が分かっているから。……ねぇ、キヨ。未来なんて曖昧なものばかり見ないで。今を、こっちを向いて、清良。
「八尋、どうかした?」
卒業式が終わり皆が教室で別れを惜しむ中、二人は普段から使われていない階段の踊り場で向かい合っていた。突然の呼び出しにキヨは戸惑うように首を傾げている。
「あー、えっと……その」
前日に覚悟を決めたはずなのに言葉は出てこない。何度も何度も口ごもりためらい、唇を噛んだ。心臓はいつもより早く、苦しさを覚える。
「ごめん。その……別れて、欲しい」
声にして伝えると、身を切られるような痛みが喉から胸にこびりついた。
柴清良と別れようと思ったのは、彼女の進路を聞いた時だった。必然的に遠距離になることが分かったその時に、別れるならこの時しかないと思ったのだ。付き合った当初から、心臓が止まる前に別れなければとも考えていた。彼女を巻き込みたくはなかったからである。そんな自分勝手な思考から紡がれた別れの言葉に、彼女は怒るでもなく呆然とその身を固まらせていた。やがてその瞳からは大粒の涙が溢れ、頬を濡らしてゆく。
「ど、して」
掠れた声で尋ねる彼女に、胸の苦しさが増してゆく。
「どうしても」
キヨは何度も首を振り、拒否を示した。
「意味分かんない」
「うん、ごめん」
謝罪しかできない僕に彼女は涙を拭うこともせずに詰め寄ってくる。
「ほかに好きな子が出来た? 私を嫌いになった?」
いいや、ちがう。と今度はこちらが首を横に振る番だ。
「君は僕の唯一だよ。ほかの子なんて目に入らないし、君を嫌いになんてなれない。でも、君にとっての唯一は僕じゃないだろ?」
「分からない。ただ好きじゃダメなの」
「ダメじゃない。けど君と僕は似た者同士だから、きっといつか君にとっての唯一を見つけられるはずだ。その時に、僕がいたら邪魔になる」
「それが、理由?」
「理由のひとつだね」
「でも、今私は、八尋が好きだよ」
「うん、僕も。愛してる」
愛してる。そう愛してる、愛しているのに、どうして別れなければいけないんだろう。切り出した本人が迷い口ごもり、会話が途切れた。上の方から聞こえるざわめきはまだ収まりそうにない。最後の別れをみな惜しんでいるのだろう。
「キスして」
「え」
小さな声だったが、聞こえなかった訳ではない。その内容が咄嗟に理解できず、聞き間違えではないかと思ったのだ。
「キス、して欲しいの。八尋が苦しんで出した答えなのは分かったから。だから、最後のわがまま。お願い、八尋。さよならの前に一度だけ」
キスをして。六年間付き合ってまだ一度もしたことのないその行為に、心臓が高鳴る。顎を上げ、まっすぐに見つめてくる清良。背の低い彼女に合わせて背を丸め、唇を近づける。本当は、ずっと欲しかった。キスして、君に触れてそれから……。唇が触れるか触れないかの距離で、涙が止めどなく溢れ出した。
「……ごめん、ごめん。キヨ……ごめん」
大切だから、触れられない。愛してるから、別れたい。矛盾だらけの僕に、君は仕方ないと涙に濡れた顔で笑った。
「ばか」
それが、別れの挨拶だった。
あれから二年。この日は、成人式出席の為朝から慌ただしく準備が始まった。身長が兄よりも高く、なおかつ兄の成人式から時間が空きすぎた為に新調してもらったスーツ。父が一時間悩んでくれたというネクタイ。大学の入学祝いに兄が買ってくれた革靴。それらを全部身につけて、行ってらっしゃいと母に見送られた。
「いってきます」
むず痒い嬉しさに頬を緩め、家を出る。空は遠く青く、気持ちのいい朝だった。
成人式は滞りなく進み、一旦の終わりが告げられる。それからパイプ椅子を端に追いやり、菓子やジュースの置かれたテーブルが用意された。どうぞご自由にお喋りを楽しんで下さいということらしい。
「他に友だちいないの、春樹」
「そういうお前こそ、行かなくていいのか?」
壁に寄りかかり、紙パックのお茶を飲みながらの会話である。ご自由にと言われても、その当時親しかったもの同士で固まるのは必然である。そして、中学時代ずっと一緒にいたのは春樹であるため、自然とこのような形になってしまったのだ。しかし高校も一緒で、今は同居さえしている。つまり、話すことなど無いに等しい。
「懐かしいなぁとは思うけどねぇ」
「まぁな」
「なんの感慨もなく、二十才を通り過ぎていくんだろうなぁって思いの方が強くてね」
「来なきゃ良かったか?」
「いいや。けど、話すのは辛いかも」
「分かってて来たんだろ」
「うん、会いたい人がいるから」
「それって、私のこと?」
「うおっわ、びっくりしたぁ。いたのかよ、柴」
会話の途中から近づいて来ているのは気づいていた。だから春樹のように驚きもせず笑って彼女と顔を合わせる。別れてから二年を経たその姿は、彼女をより大人の女性へと近づけ美しくしていた。
「綺麗だね、キヨ」
自然と賛辞の言葉がこぼれる。彼女はそれを当然のように受け止め、そして首をかしげた。
「それは振り袖が? それとも私が?」
「どっちも。よく似合ってる」
開始早々の甘い会話に、春樹はため息をついて壁から背を離す。特に約束もしていなかったから、帰るつもりだろうか。慌てて呼び止めた。
「先に帰らないでよ、春樹」
「はいはい」
ひらひらと手を振ってお座なりな返事をされる。清良は相変わらずねと呟いたきり黙って横に立った。あんな別れ方をしたにも関わらず、そこに気まずさはなく無言が心地良いほどだ。
「八尋は、私が誰かと結婚してもいいの?」
手に持っていた紙パックのジュースにストローをさしながら、キヨはポツリと呟く。どこか迷子のような弱々しさを含んだ声だ。唐突な内容だったが、答えは簡単だった。
「君が幸せなら」
なんの躊躇いもない返答に、質問した本人がまごつき言葉を探している。
「まだ、私のこと好きなんでしょ」
「うん、愛してる」
「私ね、なんで八尋と別れなきゃならなかったのか、今でもわかんないの」
うん、と頷くことしか出来ない。彼女に、この心臓のことを教えたくはなかった。なにも知らず、笑っていて欲しかったのだけれど、そううまくはいかないようだ。彼女の苦しそうな横顔に、胸の奥が痛む。
「けどね、初めて会ったとき思ったの。きっとひどい別れ方するって」
「それなのに、付き合ってくれたんだ」
「今捕まえなきゃ、絶対後悔するって思ったから」
「良かった、捕まえてくれて」
きっと自分から彼女を捕まえることはなかっただろう。最終的に悲しませるのを分かっていながら、無責任に縁を結びたくなどなかった。あの時、彼女の瞳は怖いほど真剣で、だから頷けたのだ。
沈黙が再び降りる。会話は途切れたが、彼女はまだなにか言いたげに指先を遊ばせていた。それを待つこと数秒、キヨが小さな声で話始めた。
「八尋、私、見つけたよ。唯一の人」
「──……あぁ、良かった。良かったぁ……」
一瞬喉が詰まり、時が止まったかと思った。それほどの衝撃だったのだ。彼女を想って大事にしてくれる人がいてくれた。彼女の涙を拭ってくれる人がいた。彼女の隣で、共に幸せに笑いあえる人がいるのだ。その存在がこれほどまで嬉しいとは、思ってもみなかった。キヨは泣きそうになる僕を見てようやく笑顔を見せる。
「ホント、変な元カレ。何であなたが喜んで泣くのよ」
「だって、キヨ……あぁ、だから結婚してもいいのなのか。あーもう、何度だって言うよ。君が幸せなら、僕にはそれだけで充分だ」
「ありがとう。でも、八尋の事は一生忘れない。私をキヨって呼んでいいのは、八尋だけなんだから」
「それは、彼氏がちょっとかわいそうだよ」
「いいの。それでも彼が私の唯一だから」
そう言って笑う彼女があまりにも美しくて、また泣きそうになる。彼女が綺麗になった理由が、分かった気がした。
「なら、もうさよならだ。これで、本当に」
「寂しい言い方」
「仕方ないよ。……幸せにね、キヨ」
「うん、ありがと。……さよなら、八尋」
あの日のようにもう互いに泣いたりはしなかった。二度目の別れは静かに、そして確かに二人の繋がりを断ち切る。八尋はそれ以上何も言わず、会場の出口を目指した。振り返らなくとも、彼女が見ているのが分かる。だから振り返らずに、外にいるだろう春樹の元へと急いだ。心は、怖いほど穏やかだった。
白い砂浜の上に、足跡を二人分刻みながら歩く。太陽は傾きかけ、影を長く伸ばしている。一日かけて語られた思い出話は終わりに近づき、成人式の日にたどり着いていた。
「そういや、成人式の帰りも二人で歩いたね」
「お前が歩いて帰るって言って折れなかったからだろ」
「なんかね、歩いて帰りたかったんだよ」
「なんかって何だよ」
たった数ヶ月前の出来事だ。なのに、記憶は既にかすれ始めとても遠くの事のように感じた。あの帰り道に、彼と何を話したのだったか。己に問いかけてみても他愛ない会話はもううまく思い出せない。それがまるで、彼と過ごした時を無くしてしまったのかのようで、悲しみが膨れ上がり口を重くさせた。会話は途切れ、砂を踏む音だけがしばらく二人を包みこむ。
生まれ育った地域からほど近い場所にあるこの砂丘。全国的にも知名度があり、観光スポットのひとつでもある。けれど互いに来るのは今日が初めてだ。海に行きたい、と言う八尋の願いで来たのだが、彼の顔色は冴えない。お昼を過ぎた辺りから少しずつ苦し気な表情をするようになった彼は、日が暮れようとする今ではいつもの笑みが消え、血の気のない唇は一文字に結ばれている。
「八尋、苦しいなら、休もう」
思わず口をついた言葉に、八尋はわずかに口角を上げて言い返す。
「バカ言うな。早く行かなきゃ、日が沈む。時間がないんだよ、春樹。それに、苦しくなんてちっともない」
そう言ってへらりと彼は笑う。嘘つき、そう言ってやりたかった。けれどそんなことを言えるはずもなく、口を出たのはまったく違うものだ。
「海で夕日見るとか、どっちがロマンチストだよ」
「春樹のがうつった」
「うつんねぇよ」
「ロマンチストなのは認めるんだね」
「…………ロマンチストじゃねぇよ」
「いや、遅ぇよ」
軽口の応酬に八尋は笑った。その表情に安堵と寂しさをを覚え、また感情が入り乱れて訳が分からなくなるのだ。口を閉ざすと、足音と一緒に波の音が聴こえてきた。どこか懐かしさを覚えるその潮騒に、うつむいた顔を上げて目を細める。熟れた夕日が、海に溶けて水面を赤く染め上げている。絵画のようなその景色に思わずため息が漏れていた。
「スッゲー綺麗」
「こんなに赤いなら、温かいのかな」
「は?」
何を言っているのかさっぱり理解できない。どういう意味だと問いかけようと彼の方を見ると、八尋は歩調を緩めず海へと向かってゆく。
「お、おい、八尋!」
制止の声にも振り返らず膝近くまで水に埋まった彼の姿に心臓が凍りついた。このまま、海に沈むつもりか? のんびりとした思考を置いてきぼりに、体は彼を追って走り出していた。塩水が跳ね上がり服を濡らしてゆく。
「八尋!」
すぐに追い付いて腕を掴んで振り向かせた彼は、今にも泣きそうな顔をしていた。えっと間抜けな声が出る。
「春樹。海って冷たいんだね」
「こんな春先なんだから、当たり前だろ」
「当たり前かぁ。でも、初めて体験したな」
「八尋」
「ね、春樹。どうしてこの心臓は、もうじき止まるんだろうね?」
静かな声だった。しかしその声とは裏腹に、彼の瞳からは涙が溢れ頬をつたってゆく。久しぶりに見る幼馴染みの泣き顔は、思考を停止させるのには十分な効果を持っていた。八尋の問いかけは続く。
「どうして僕だったんだろう。どうして、この心臓だったのかな」
「八尋…………」
「死ぬことに、疑問も恐怖も覚えない。でも、生きてみたかったとは思うんだよ。その他大勢がなんの疑問も持たずに通りすぎる二十という時を。春樹、この死はあまりにも残酷なんだ。予告なく訪れる突然の死よりも、ずっとずっと、残酷だ」
最初から答えなど期待していなかったのか、何も言えない友人を気にするでもなく彼は喋り続けた。堰を切ったように溢れる言葉は、どれ程の間彼の中で渦巻いていたのだろう。どれ程の想いを抱いて死ぬつもりだったのだろうか。鼓膜を震わす静かな声は、さもすれば波音に紛れてしまいそうだ。
「あぁ、本当に冷たいな。見に染みる冷たさだ」
「生きてるんだから、当たり前だろ」
八尋の瞳が大きく見開かれる。それから、肩を震わせて笑い始めた。おかしそうに、ずっとずっと。
「そんなこと、知ってるよ。生きてるから分かるんだ。海が冷たいことも、夕日が赤いことも。春樹、僕は今生きているんだ。生きてるからから死ぬんだよ」
「なら、死ぬのは今じゃなくてもいいだろ。まだずっと先だって」
「それは無理だよ」
確信を持って八尋は否定した。顔を少しうつむけ、右手で心臓の辺りを握りしめそして微笑んで、彼は再度否定する。
「あと少し、ほんの数時間後に僕は死ぬんだ。二十という時を知らないまま。……この夕日は沈んだままだし、夜は二度と明けない。そういう生き物なんだよ」
赤に染まった空と海に挟まれた彼が、このまま景色に溶けてしまうのではないかと、そう思った。握った腕に力がこもる。
「海から出よう、凍えそうだ」
「うん」
震える声に八尋は優しく答える。心地よいその声音が潮騒と共に涙腺を緩ませる所為で、堪えるのに必死だった。会話をする余裕もなく、また二人して浜辺を歩いた。沈んでゆく太陽が夜の闇を引き連れて、星を散りばめる。最後の光が消えたとき、あぁとどちらとともなく吐いた吐息が、空気を震わせて消えていった。
「帰ろう、春樹」
「……あぁ」
帰ろう。全ての、始まりの場所へ。




