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追憶・中学入学式―出発前―

 入学式前の教室は、不安と興奮でざわざわと揺らめいていた。集まっている人数はたぶん全体の三分の一程度だろう。教室の所々でグループをつくり、お喋りに花を咲かせている。大まかに出身の小学校でふたグループに分かれているようだ。

「なにしてんの、八尋」

「人間観察」

 教室に入ってきた春樹が、朝の挨拶を抜きに声をかけてきた。ひとつ後の机を椅子にして座る彼とは、学校側が故意にやっているのか、小学校に入ってからずっと同じクラスだ。もちろん、今年も。

「まだあんま来てないんだな」

「廊下で話してるのもいるからでしょ」

「で、人間観察の結果は?」

「春樹が、なんか落ち着いてる」

「八尋がそうだから、つられてだろ」

 年相応に見えないとはよく言われる。落ち着いてると言えば聞こえはいいだろうが、実際は周囲から浮いているせいで傍観者になっているだけだ。今でこそ不自由なく体を動かせるが、数年前まではそうではなかったせいだろう。自分たちとは何か違う奴、を区別するのはいつの時代でも同じなのだろうか。ぼうっと教室を見渡しながらそんな事を考えていた。その視界に、黒髪の少女が紛れ込む。教室に入ってきた彼女は、黒板に書かれた座席表を見て場所を確認すると、少しうつむいた姿勢でこちらに歩いてきた。その一連の動作から、何故か目を反らせない。目の前を通りすぎひとつ後ろの席で足を止めた彼女は、春樹を見て困ったように眉を動かした。

「あの、そこの席私のなの」

「あ、ごめん」

「ありがと」

 机から飛び降り謝る春樹に律儀にお礼を言い、髪を耳にかけながら席につく。未だに離せない視線に気づいたのか、彼女が顔を上げ……。

「あっ──」

 僕、この人が好きだ。

 完全な一目惚れだった。周囲の音が消えて、身体中の感覚が彼女に向けられているのが分かる。景色の中で唯一鮮明な彼女は、驚いた顔をして短い間固まっていた。

「あの」

 しかし言葉が続かないままに声をかけたとたん、ハッとしたような表情をして彼女は顔を俯かせてしまう。何かまずいことをしてしまっただろうかと焦ったが、彼女はすぐに顔を上げてひたとこちらを見つめてきた。その瞳には、この上なく真剣な光が浮かんでいる。

柴清良しばきよらって言います。私と、付き合ってくれませんか」

「はぁあ!?」

 驚きの声を上げたのは近くにいた春樹の方だった。僕の方はといえば不思議と心は凪いでいて、どこかでこうなることを知っていたような気さえしている。だから、何も気負うことなく笑って頷いた。

「坂城八尋って言います。ありがとう、よろしくね清良」

 クラス中の視線を集めてることに気づいたのは、それからしばらく後のことだった。


 携帯端末からタクスを予約しながら、ふと彼女のことを思い出していた。

「春樹、どのくらいで来るって?」

「あと五分くらい」

「以外と早い。今から出てもいいくらいだね」

 あぁと生返事を返す。

「八尋」

 もう仕度を済ませている彼はさっそく玄関へと足を向けていた。その背を呼び止めると、訝しげな視線がこちらを見る。

「なに、まだ仕度終わってないの?」

「終わってるよ。そうじゃなくて、柴にはなんて言ってあんのかなって思ってさ」

 机の上に置いてあった財布を手に取りポケットへつっこんだ。頭の中で中身を思いだし、しまったと内心舌打ちをする。

「キヨには何も。それに、もう別れてるから」

「は?」

 大した話をしているつもりはなかったせいで、意識をほとんど別に向けていた。だから、それが聞き間違いだと思ったのだ。

「言ってなかったっけ。高校卒業するときに、僕から一方的に振ったんだよ」

 ──だからあいつ泣いてたのか。

 過去の疑問がこんな風に解決するとは思ってもみなかった。

「あんな劇的な始まりだったのに、最後は静かに終わってたんだな」

「あれはねー、凄かった。後になって二人とも恥ずかしくなっちゃってさ」

 あははっ。八尋はよく笑う。いや、彼はいつもこうやって笑っていたな。突然襲ってくる悲しみに、心が軋んだ。

「結婚したいとか、子どもが欲しいとか思わなかった?」

「思ったよ。こんな身体だから余計に」

「柴なら、喜んで頷いてくれたと思うけど」

「うん、だからだよ。実際、そんなことも言ってたしね」

 じゃあ何で。そう訪ねる前に、八尋はあのねと言葉を次いでいた。

「僕、子どもをつくっても、堕ろさなきゃいけないんだ。隠しても、見つかったりしたら良くて被検体、悪くて安楽死だ。……そんな辛いこと、彼女にさせたくなかった」

 何か固いもので頭を殴られたような錯覚がした。視界がぐらぐらと揺れている。

「なんで、そんな事……」

 彼は変わらない。ほんのりと微笑みさえ浮かべてすらすらと質問に答えてゆく。その異常さに、今度は腹の底が冷えた気がした。

「この体質が遺伝しない為に」

「遺伝するものなのか?」

「何例かあるらしいよ」

「けど生むかどうかは本人たちの意思じゃねぇの」

「元来の理由を考えれば正当だよ。それに僕みたいなのは極めてまれな存在だし」

「けど、もう時代が違う。ちゃんと問題として表にも出てきてるじゃないか」

「時代が変わろうと、問題提起されようと、関係ないんだよ。彼らにとって僕らは失敗作なんだから」

「失敗作ってなんだよ。お前は今普通に生きてんだろ!」

「生きてるよ。彼らのモルモットとして」

「何、お前、笑ってんの」

 あっはははははっ!

 八尋の軽やかな笑声が部屋に響いた。

「春樹、ありがとう。モルモットは冗談。僕は、僕の意思で彼女と結ばれないことを選んだんだ。それにこの状況を嘆いてもいない」

「本当に……」

「本当だよ。さぁ、こんな話は終わりにして早く出掛けようよ。残念ながら、時間が限られているからね」

 彼は再び背を向け、今度は振り返ることなく玄関へと歩いていった。なんだか自分ばかりが熱くなっている。八尋の言う通り時間は限られているのに、このままでは終始こんな調子で終わってしまいそうだ。

 それは、嫌だな。

 途端に思考が冷静になるのが分かった。疑問や混乱が消えたわけではない。けれど今は、それにつられて感情的になってはいけない気がした。

 ニィっと八尋のように口角を上げて、息を吸い込んだ。

「八尋、途中で金おろしたいからどっか寄っていい?」

 先ほどのやり取りなど何もなかったかのような声音で話しかける。振り返った八尋は一瞬目を見張り、しかしすぐに調子を合わせるように笑みを浮かべた。

「なに春樹、おごってくれんの?」

「せっかくの誕生日だからな。多少はおごってやるよ」

「一日早いけど、やったね! 誕生日さまさまだよ」

「意味わかんねぇよ、バァカ。って置いてくなよ!」

 二人分の笑い声を閉じ込めて、春樹は八尋の後を追いかける。途中見上げた空は薄く遠く、そして目に染みるほど青く澄んでいた。

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