追憶・小三登校前―朝食―
自分の家とよく似たインターホンを少し背伸びして押す。背の順で並ぶと前から数えた方が早い自分には、まだそのボタンは少し遠いのだ。中から電子音が聞こえ、応答するまでの間に身なりを整える。そんなにかしこまる相手ではないのだが、今日は特別だ。
『はぁい、あら八尋くん。ちょっと待ってね~』
春樹の母だ。優しく明るい外用の声音でインターホンを切ったにも関わらず、後から春樹を呼ぶ大きな声が聞こえてくるから台無しだ。
『春樹! 八尋くん待ってるわよ。まだ学校の準備出来てないの!』
『今いくところ!』
『毎朝そう言ってるじゃない』
仲の良い事を伺わせる応酬に思わず笑ってしまう。
「おはよう、やっちゃん」
「おっはよー、やっちゃん」
「おはよう。まなちゃん、あいちゃん」
春樹より先に、彼の兄と姉である愛斗と愛菜がやって来た。詰襟とセーラー服、それに髪型以外は鏡に写したようにそっくりな双子の兄弟だ。
「まなちゃんはやめてって。女の子みたいだからさ」
「あっごめんなさい、まなとくん」
「いいのにねぇ。愛斗、私そっくりの女顔なんだから」
愛菜と怒った顔で愛斗が言うので、僕はまたごめんなさいと謝った。
「いやいや、やっちゃんはなにも悪くないから……って、やっちゃん、眼帯取れてるじゃん」
ようやく今日の特別に気づいてくれた愛斗が顔を覗き込んでくる。
「きのう、お医者さんがもういいよって。だから、今日からもういいの」
「そっか、やっちゃんよかったねー!」
「ありがとう」
自分のことのように喜んでくれる愛菜。頭を撫でられるのは照れくさかったけれど、それ以上に嬉しくて、早く春樹に見せてあげたいと思った。そこに、ようやく彼が玄関から飛び出してくる。
「春樹、愛斗に愛菜も、気を付けていってらっしゃいね」
玄関から少し顔を出して、春樹の母は注意を促した。はぁいと三人は、聞きあきたと書いた顔で返事をしている。春樹の母はそれを満足そうに見届けると、小さく手を振って玄関をしめた。
「おはよう、はるく――」
「あ、それから八尋くんも、気を付けるのよ!」
春樹に挨拶をする間もなく再び開けられた玄関に、ハイと元気よく返す。今度こそ閉じられたそれから春樹へと視線を移すと、彼はこどもらしくないため息を吐き出して肩をすくめてみせた。やれやれとでも言いたげだ。
「おはよ、やっちゃん。目の、眼帯だっけ? とれたんだね」
「うん、昨日お医者さんに行ってきたんだ」
「じゃあこれで、全部同じだね」
「まだ早く走れないけど、同じだね」
二人で笑いあい、初めて僕たちは両の目を合わせた。
「おんなじだ」
「おんなじだよ」
「はいはい、同じだから早く学校行くよ」
「喜ぶのは歩きながらな」
中学校と小学校がさほど離れていないことから、登校はいつも四人でだ。三年目ともなれば慣れた道も、両の目で見ればまた違って見える気がした。
彼は、思い出話ばかりを語る。しかし彼の語り草はおもしろく、知らず耳を傾け共に過去に旅をしていた。あぁそうだったなと、改めてその顔を見ながら思う。小さな頃の彼は足が悪く、右手も上手く使えないこどもだったのだ。加えて右目にはいつも医療用の眼帯をしており、こども同士でもあまり関わりたくないと思わせる外見をしていた。もちろん、自分は積極的に関わりにいった類いだが。
「そう思うと器用になったもんだな。運動も、中の中くらいだったか」
「そうだね。普通に走れるようになったし、料理もこうやって作れるしね」
ご飯に味噌汁に卵焼きとありふれた朝食を前に八尋が微笑む。若干意地の悪い笑みに見えるのはたぶん気のせいではない。
「悪かったな、料理もできなくて」
「本当に、春樹は顔はよくて運動もできて頭も悪くない、加えて優しいのに……家事はてんでダメなんだよねー」
「限りなく上げて落とすな」
「大丈夫だよ」
卵焼きを箸で半分にしながら、八尋が唐突に優しい声でそう言った。どこか老成したその表情は胸を詰まらせ、朝食を食べる箸が止めていた。
「僕の机の引き出しにいろいろ書いたノートがあるからさ。もちろん、春樹の好きな肉じゃがのレシピものってる」
「必要、なくなるかもしれないだろ」
「春樹、やっぱやめようか。あんな勢いでした約束なんか、無意味だよ」
「けどお前からは、反故するつもりはないんだろ?」
二人とも朝食にはほとんど手をつけないまま箸を止めていた。いつも通りにしようと頭では思うけれど、どうにもうまくいかないな。それこそ無意味に味噌汁を箸先でかき混ぜる。
「あ、キャベツの芯……」
思わず口をついた固有名詞に、八尋が据わった目でこちらを見てきた。
「おいしいから、食べなって」
「おいし……捨てるのがもったいないのは分かるけど、わかるけども」
「けどぉ?」
「オイシイデス」
口の中で歯応えと存在感を醸し出すそれを咀嚼して、苦手なんだよなぁという言葉と共に呑み込んだ。クスクスと前から聞こえる笑い声に、今度はこちらが据わった視線を向ける。
「ごめん、春樹」
「いいよ、別に。お前もとっとと食え、水族館行くんだろ」
「行きますよ、もちろん」
話がずいぶんとそれてしまった。しかし繰り返せばまたギクシャクとしてしまいそうで、だから流されたふりをして卵焼きを頬張った。最期の朝食はあまりにもありふれたもので、きっとすぐに忘れてしまうだろう。それが悲しくて、俺はいつもよりゆっくりと味わった。
大丈夫、まだ一日は始まったばかりなのだから……。




