追憶の始り―夜明け前―
よく晴れた日だったと記憶している。家の庭先で僕がひとり遊んでいると、やっちゃん、と高いこどもの声に名前を呼ばれた。姿を見なくとも、声の主はすぐに分かる。
「はるくん、ちょっとまって」
そう叫び返し、うまく動かない左足を引きずりながら玄関までの道のりを急いだ。ステンレス製の門扉の向こう側には、虫取網を片手にした彼が待っている。その肩に掛けられた虫かごの中身は、からっぽ。そのことに僕は首を傾げた。いつもならばその中は蝶々やらバッタやら、何かしら生き物が入っており、それをこうして足の悪い僕の為に見せに来てくれる。からっぽの時など今まで一度もなかったのだ。戸惑う僕に春樹は笑いかけ、網を持っていない方の手を差し出した。
「やっちゃんも、いっしょにいこ。むしとり」
彼の誘いに、僕は首を横に振る。
「むりだよ、ぼくあしわるいもん」
「だいじょうぶだよ」
「むりだよ」
二度目の拒否に、春樹は眉をしかめて怒った顔をした。怒らせてしまったと僕は内心ドキドキで、けれどやはり彼と一緒に行くのが怖くて、むりだよともう一度声に出さずに呟いた。しかし彼はメゲない。
「やっちゃんのおかあさーん!」
器用に虫取網でチャイムを鳴らし、大きな声で母を呼んだのだ。ばたばたと家の方から音がする。しかし出てきたのは母ではなく年の離れた兄だった。
「こんにちは、はるくん。ごめんね、お母さん今出掛けてるんだ。どうしたの」
「こんにちは。いまから、やっちゃんとむしとりにいくの」
「そっか。八尋、気を付けて行くんだよ」
「いかないよ!」
勝手に進められる会話に、僕は怒ってそう叫んだ。
「いかないの、どうして?」
「だって、ぼくあしわるいから」
「でも八尋は歩けるし、両手があるじゃないか」
ストンと膝を曲げ、兄は視線を合わせてそう諭してきた。視界の端で、春樹が不思議そうに首を傾げている。
「おかあさんが、だめだっていった。あぶないからって」
「八尋は、はるくんと虫取行きたくないの?」
「……いきたい」
「ならいってらっしゃい。大丈夫、母さんには俺が怒られてあげるから」
「にいちゃん」
「はるくん、八尋はゆっくりしか歩けないから、一緒にゆっくり歩いてあげてね」
春樹はうんと強く頷いて、また手を差し出してくる。僕は兄とその手を何度も往復し、ようやくうんと頷いた。
「ぼく、はるくんとむしとりにいってくるね」
うん、と優しい笑みで兄が頷く。そして、兄が開けてくれた門扉を過ぎ、僕は初めて家族以外の誰かと一緒に家の外へと足を踏み出した。
「やっちゃん、いこ。ゆっくりね、ゆっくり」
「うん!」
嬉しさと興奮で、先ほどまでの不安など何処かに消えていた。
「にいちゃん、いってきます!」
「はい、いってらっしゃい」
ゆっくり、ゆっくり進む世界は、いつもより輝いて見えた。
ココアを飲みながら聞いていた昔話に、そんなことがあっただろうかと首を傾げる。
「覚えてねぇな。あ、お兄さん元気にしてる?」
「さぁ、最近会ってないから」
「連絡とってねぇの?」
「そんな頻繁に連絡しないでしょ、兄弟で」
あっさりと返された言葉に少し驚いた。あの兄ならば、弟を心配して定期的に連絡をしていると思っていたのだ。けれど自分の兄弟を思い浮かべれば、彼の言う通りだと思った。
「まぁそうだな」
残り少ないココアを飲み干してカップを机の上に置く。それまで八尋の語りに任せていたせいで、会話が続かない。夜の重い静けさが部屋に忍び込み、辺りを覆っていくようだ。
「春樹、朝になったらどこか出掛けようよ」
静寂を破ったのは八尋だった。机の角を意味もなく指先で撫でながら言う姿に、少し緊張が見てとれる。
「出掛けるってどこに」
普段通りに、少し意識して返せば会話は滞りなく流れ始めた。
「どこがいいかなぁ」
「行きたいとこねぇの」
「あるけど、春樹が嫌がりそう」
「分かった、水族館だろ」
「せいかーい」
小さく拍手をして笑う彼に、思わず苦い顔を向けてしまう。それを見てさらに笑みを深めるのだから、嫌な奴だ。何がいいのか、八尋は水族館が好きで何度も付き合わされていた。飽きた、と思う程度の回数と頻度で。
「けど、行き飽きたでしょ」
「正直……けど、まぁいいよ。付き合ってやるよ」
「同情?」
「だったら?」
彼は笑っていた。笑っただけで、俺の問いに答えてはくれない。
「八尋、ほんとに死ぬの」
急な話題転換に八尋は惑うことなくすらすらと言葉を返してきた。まるで、遠い見知らぬ誰かの噂話でもしているようだ。
「死ぬよ、心臓が止まって。今も、普通の人よりずっと弱くて遅い」
「聞いてみたい」
今ここに生きている証を、この耳で直接聞いてみたいと思った。これには彼も驚いた表情をみせ、それからぎこちなく頷いた。
「どうぞ」
「どうも」
薄い胸に耳を押し当てると、心臓が鼓動を刻む音が聞こえてくる。ドクリ……ドクリ……と耳から伝わるその間隔はひどく長く、今にも止まってしまいそうだ。それは、彼がこうして自分と会話しているのが不思議なほどに。
「お前、よく……」
恐ろしさに声が震えた。しかし彼は相変わらず冷めた声音で話続ける。
「身体の方が慣れてくるんだろうね。走ったりしない限りは平気だし」
「みんなこうなのか」
「僕と同じ人はみんなこうだって聞いてる。例外はない」
ヒヤリと首筋に冷たい指が触れた。それは探るように肌を這い、ある一ヶ所て動きを止める。
「うん、これが正常か」
右の人差し指と中指に伝わっているだろう自分の鼓動に、八尋は納得したように頷いていた。
「指冷たいな」
「これは昔から。……というかこの態勢、冷静に考えるとちょっと」
「俺も今思ったところ」
再び会話が途切れる。しかし今回は先よりも気まずい沈黙だ。
「……寝るか」
「そうだね。明日も早いだろうし」
おやすみ。同時にそう言うと、俺たちはそれぞれのベッドに潜りこんだ。
静かな部屋の中では、時計の秒針が進む音がよく聞こえる。それから自身の鼓動。そして今日は、幼馴染みの心臓の音が耳から離れない。三つの音が混じりあい、睡魔によって意識は混沌としだした。過去と今、夢と現が入り乱れる中で、悲しみが膨れ上がってゆく。流れる涙をそのままに、叶わない願いを幾度となく夢想した。
あぁ、全て夢ならば……。




