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追憶・始まりの日―終わりの日から―

 目覚まし時計のカン高い電子音が鳴り響いている。だんだんと大きくなる耳障りなその音に、唸り声をあげた。幼馴染みは何をしているのだろうか。寝起きの良い彼がこんなに長く音を鳴らしているなんて。……あぁ、違う。

 短い呻き声をあげて起き上がる。窓からは燦々と朝日が差し込み目が痛い。どうやら昨日カーテンを閉めるのを忘れたようだ。ついでに言えば、昨晩どうやって帰ってきたのかも忘れてしまった。いや、帰ってきた方法ならば分かる。けれどいつ帰ってきたのか、その道中の記憶がさっぱりないのだ。混沌とした記憶は時系列を無視して断片だけを再生させ、彼の居ない虚しさが心と身体を支配してゆく。

「……腹へった」

 それでも腹は減るし時は進む。理不尽だと誰かを責めたくて、誰を責めればよいのか分からなくてまた呻いた。重い足を引きずり台所へと向かうと、炊飯器にメモが貼り付いている。

『おはよう、春樹

 ご飯炊けてる。

 残ったらタッパーに入れて冷蔵庫へ。

 味噌汁はインスタントも引き出しにあるよ。

 しばらく分の食材もあるから。よろしく。

 八尋』

「エスパーかよ、お前は」

 鼻先で笑って、丁寧にそのメモを剥がした。汚れない場所にそれを移動させ、引き出しからインスタントの味噌汁を取り出す。明日は自分で作るから。心の内で誰かに言い訳をしながら朝食を作り始めた。簡単な朝食を作りながら、時系列を確かに昨日の記憶を遡る。聞こえてきたのは、彼の両親の声。誰かに聞いてほしかったのだろう一方的に語られた追憶に、ため息がもれそうになった。

 彼らが病室へ来たのは、八尋の心臓が止まってしばらくたった頃。すでに泣き腫らした目は赤く、全員が彼の死を悼んでいた。ベッドへ横になった息子に何事か語りかける姿を帰るでもなく眺めていた時、彼らが過去を語り出したのだ。まるで己れの犯した罪を懺悔するかのように。

 坂城八尋の両親は、彼の言う通り子どもを作る才能がなかった。父親は生まれつき、母親は後天的に子どもを生めなくなったそうだ。これが何十年か前だったならば子どもは諦めるしかなかっただろう。しかし時代は変わった。多機能性幹細胞の研究、またその他医療技術の向上が進んだ今日では、同性同士でさえ子どもが居る家庭がほとんどである。

「だからあの子は、生まれてくるはずのない子だったんです」

 母親は、涙に濡れた声でそう言った。

 とはいえ、簡単にできるような金額でも技術でもない。二人は子どもを作る為に働き、そうして長男の二葉を授かった。やがて時は過ぎ、二葉もあまり手がかからなくなってきた頃、彼らは二人目の子どもを望んだ。過程は割愛するが結果的に、八尋が生まれるまでに数年の月日がかかった。ようやく授かった第二子に両親はおおいに喜んだが、その僅か数ヵ月後絶望の淵に落とされるのだ。

「何があの子の為だったんだろうな」

 独り言のように、父親は言う。

 彼らは悩み、そして八尋を育てることを決意した。それと同時に、欠損児の事実の隠蔽や実験への協力に合意したのである。

「だから僕たちも、ここの研究者たちと罪は変わらないんだよ」

 兄はそう言って歪に笑った。

「……そうですか」

 寝不足の頭に講義を詰め込まれている気分だ。一方的に語られる思い出話は、感情を置き去りにただの情報として脳内に蓄積されてゆく。その為に返す言葉もそっけない。しかし悲しみに暮れる彼らにはどうでもいいことなのだろう。こちらの返事もお構いなしに話を続けていた。既に話は右から左へ抜けてゆくだけだ。それでもしばらく彼らの語りに付き合った。それにも耐えきれなくなった頃、

「それは、大変でしたね」

 思わず出てしまったおざなりの言葉に、母親が顔を上げた。貴方に何が分かるの、とでも言いたげだ。分かるはずがないだろう。しかし母親という生き物はやはり、子どもの死に過敏だ。微かに指先があの日の記憶に触れる。ちらつく映像を振り切るように目を瞑り、頭を下げた。

「すいません、俺もう帰ります」

 返事を待たず、逃げるように踵を返す。

「あっ春樹くん」

 呼び止めたのは、兄の二葉だった。

「お葬式にも、来てくれないかな。また連絡するから」

「……ありがとうございます」

 これが正しい返答だったろうか。過去と現在が混乱し始めた頭ではもう何も考える事はできなかった。

 そこからの記憶はやはり無い。覚えていなくとも支障はないから構わないけれど。しかし彼らは、後悔しているのだろうか。思考が追憶から、そこから派生する臆測へと切り替わる。彼の両親は、八尋を産んだことを後悔しているようにも見えたのだ。もしも本当にそうならば。

「そうだったなら、辛いな、八尋」

 そんなことないよ。八尋が笑う。

 ――あの人たちが僕を愛してくれてることは、ちゃんと分かってるから。

 いつの記憶だろう。眼裏の幻がまばたきと共に消えた。

「そっか、ならいいや。後はえぇと、そう。目玉焼きだ」

 時は巡る。心を置き去りに、身体を連れていってしまう。足りなくなった心の分感情は薄く、目の前の光景に現実味を感じさせない。八尋、どうしてお前はここにいないの?

 携帯のバイブ音が静かな室内に鳴り響いた。

「はい、もしもし」

 無意識に指先が画面を操作する。耳元に聞こえる声は幼馴染みの兄のものだ。簡単な挨拶の後、葬式は家族とごくわずかな知人だけでやると手短に用件を告げられる。それを聞いたとき、頭に浮かんだ人がいた。

「あ、あの。ひとり、呼びたい人が居るんですけど、いいですか」

 誰、と静かな声が問う。

「柴清良。八尋の……唯一です」

 元カノと紹介するのはふさわしくない気がした。八尋と彼女との関係はそんな甘いものではないはずだ。それに、元カノを葬式に呼びたいというのもおかしいだろう。二葉は少し悩むように口ごもり、最後には分かったと頷いた。

「ありがとうございます」

 見えない相手に、頭を下げていた。通話が終わったその流れで、電話帳へと指を伸ばす。連絡先を交換したものの、数回しか使われたことのない数字の羅列から繋がる電波。電子音が途切れた後に聞こえた声は、当たり前だけれど数ヵ月前に聞いたそれだった。

『もしもし、戸嶋くん?』

「柴……ごめん」

『何、どうしたの』

「八尋が、死んだ」

 耳元で鳴り響いた衝撃音に、心がえぐられたように痛んだ。胸は痛むくせに、どうして涙は出ないのだろう。枯れ果てた涙腺に笑声を上げたい気分だ。


 結局全てが終わってなお、涙が流れる事はなかった。彼の葬式が終わって数週間、未だに心はあの日に取り残されたまま。

「ここまで薄情な奴だったかなぁ、俺って」

 一人になった部屋で呟く声は空しく、天井へと吸い込まれてゆく。二人用の部屋は今では広く、彼の居ない事実を毎日のように突き付けてきた。けれど、所々に八尋の跡を残すこの部屋からそう簡単に出ることはできない。せめて大学を出るまではそのままにさせて欲しいと頭を下げ、今もこうして住むことができているのだ。交換条件として提示されたのは遺品の整理。

「それもさ、少しずつ整頓してけばいいと思ってたけど」

 寿命を知っていた彼は当然のように、全てを綺麗に片付けていた。大学の手続きも、荷物の整理も何もかも。それをどんな思いでやったのだろうか。想像すればまた、胸が引きつれた。

「ははっ……キッツいなぁ」

 日に日に多くなってゆく独り言をまたひとつこぼした時、来客を告げる電子音が部屋に響いた。誰だろうか。床に貼り付いた身体を剥がし起き上がる。

「はい」

 玄関の扉を挟んで声をかけた。宅配便です、と明るい声が返事をする。宅配便? 何か頼んだろうか。

「今開けます」

 首を捻りながら扉を押すと、テレビCMでお馴染みの制服を着た青年が小さな段ボールを片手に立っていた。

「えー、こちらは。坂城八尋さまから、戸嶋春樹さま宛になります。こちらにサインを」

「は?」

「へ? あれ、すいません。違いましたか?」

「あ、いえ大丈夫です。すいません。ここにサインでしたよね」

 坂城八尋さまから? 混乱した頭で荷物を受け取り再び部屋に戻る。送り状に書かれた名前は確かに坂城八尋と戸嶋春樹。それにこの筆跡は幼馴染みのもので間違いないだろう。とするとこれは、どういうことだ?

「まぁ、俺宛だし。開けてみるか?」

 絡まる思考を放棄して、行動に移すことにした。カッターを取り出しガムテープを切り開いてゆく。恐る恐る箱を開き中のものを取り出した。

「あ……」

 壊れないように包装されたそれは、あの日水族館で見たネックレス。そう言えば彼はあの後これを着けていなかったな。

「お前の方が、似合うだろうに」

 声が、震えた。

 箱の中にはもうひとつ、小さな封筒が入っている。ネックレスを脇に置き、水族館のロゴの入ったそれを開いた。呼吸は浅くなり、鼓動は早さを増してゆく。取り出した便箋には数行、彼の文字が綴られていた。

『春樹へ

 21歳、誕生日おめでとうございます。

 どうかこの先、君の人生が幸せで溢れますように

 これ以上君が、僕のことで苦しみませんように

 君が、ちゃんと泣けますように

 心より祈ってます。

 僕はもう大丈夫だから。本当にありがとう。

 八尋』

「だから、お前は、エスパーかよ」

 春樹、ごめんね。もう大丈夫、大丈夫だよ。

 八尋の声が聞こえた。優しい声音が、聞こえた気がしたのだ。

「や、ひろ……っぅ」

 枯れたはずの涙が視界を曇らし、熱い滴が頬を滑り落ちてゆく。八尋、お前は死してなお、俺を救ってくれるのか。

「ぁぁああああ゛あ゛あ゛‼」

 咆哮が喉の奥から溢れ出した。苦しい、悲しい、辛い……。空っぽだった胸の奥が、心が痛い。

「やひ、ろ。……やひろ、あり、がとう。ありがとう八尋」

 ドグリ・ドグリと、内側からの音が耳の奥に響いている。規則正しく鳴り続ける心音が、今生きていることを確かに教えてくれた。ドグリ・ドグリと、心臓が動いている。あぁ、生きている。あぁこれからも、生き続けるんだ。お前を、過去にして。

「ははっ。生きるって、難しいなぁ。なぁ、八尋?」

 ――あはは、春樹。そんなの当たり前だろう?

 八尋が、笑った。

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