いちご
体調不良ネタwebアンソロジー「WHAT'S WRONG?」に寄稿させていただいたものです。
彼女の額は熱くはなかった。むしろ平熱よりも不健康にぬるい。冷や汗なのか脂汗なのか、じっとりと湿っているので掌で拭う。布団の中で体を丸めている彼女は身じろぎひとつせずにひたすら呼吸を続けていた。必死で酸素を取り込もうとしている。痛みを和らげるのが酸素だと知っているのか、ただそう信じているだけなのか僕は知らない。僕は彼女の痛みを体験したことがない。
「栞那」
名前を呼ぶ。眠っていないのは知っていた。虚ろに半分開いていた目が一つ瞬きをする。それ以上の反応を彼女は返そうとしない。
「薬、」
「いや」
頑なな声はさっきよりも細くなっているように聞こえる。
少し前から同じ問答を繰り返している。酸素なんかより病院で処方された薬の方が効くだろう、そう主張する僕に彼女は決まって首を横に振った。すごく苦いから今飲んだら吐く、と。錠剤だったはずの頭痛薬は、僕の知らないうちに粉薬に変わっていたらしい。以前よりも強いものに。
彼女は光が網膜に刺さるのが嫌だと言った。だから電気は点けられない。僕は空腹が峠を越えるのを感じながら、薄暗いを通り越した和室で彼女の寝る布団の脇に座っている。料理はできる。でも彼女はきっと、音も匂いも嫌だと言うだろう。言いはしなくてもそう感じるだろう。いつか聞いた話では、すべての刺激が苦痛なのだという。
玄関に放置されていたレジ袋を思い出す。冷蔵庫に入れたときはまだ冷たかったから、肉も牛乳も腐ってはいないだろう。空想する。膨らむ頭痛を抱えて帰ってきた彼女が、玄関にレジ袋を取り落とす。そのがさつな音に顔を歪めながら彼女はソファにたどり着き、崩れ落ちる。無造作に投げかけた体が緩慢に、ひどくゆっくりと丸くなる。だらだらと時間が流れて、電気を点けない部屋が暗くなり、やがて僕が帰ってくる。
長い黒髪を掻き上げる。生気のない横顔があらわになる。髪の生え際をたどり精一杯優しく頭を撫でると、彼女は微かに顔を歪めた。僕の掌の感触、薄めた愛撫でさえも今の彼女には苦痛に変わる。それをわかっていながら僕は手を止めず、彼女の髪を撫で続ける。ぞく、と嗜虐性が背骨を這い上がる。彼女の白い肩に赤黒い歯形を残したときよりも微かで、けれど同質の感覚。
一度閉じていた彼女の目が開く。黄昏の薄闇の中で黒く濡れた瞳が僕を見上げる。睨みつけるほどの力はないのにはっきりと僕を責める。恍惚に紛れていた歯形のときよりより純度を増した苦痛の色。喘鳴があれば、熱があれば、悶絶すれば、声を上げれば、彼女はもっときちんと病人に見えるだろう。明かりの下で見れば彼女の顔は青ざめているのだろう。ただでさえ白い肌がいっそう血の気を失っている様子は、今は見えない。見た目だけは健康な彼女。いつも通りくっきりと鮮やかな存在の彼女から表情が欠落しているだけ。健康であるかそうでないかなんて、きっと僕には判別できない。彼女が無音で喘ぐ今ですら。
彼女を苛むのが痛みであろうと別の何かであろうと、僕にはわからない。彼女が言葉にしたとして、それが本当なのか嘘なのか僕にはわからない。
「栞那」
無声音で呼ぶ。かんな。
ねえ君は何に苦しんでいるんだろうね。
僕は笑顔でそう問える気がして仕方がない。
目が覚めて初めて、僕は自分が眠り込んでいたことを知った。畳に寝転んだ体に布団が掛かっている。彼女がいない。襖の隙間から光が漏れているのを見て起き上がる。頭の芯がぼんやりとだるい。鈍痛に似ている。彼女の痛みとはきっと違う。
襖を開けると、彼女がリビングの椅子に座っていた。まだぼんやりとした双眸が僕を捉える。
「尚道」
僕の名前を呼ぶ声もまだ少しぼんやりとしてかすれている。向かいの椅子に座る。彼女の前にはいちごの入った透明なパックが置かれていた。むしられたへたがいくつか机に並べられていた。
「頭痛は?」
「治った」
「よかった」
手を伸ばし、彼女の髪に触れてみる。垂れていた一房を耳にかけ、頬を撫でて顔の輪郭をなぞる。彼女の目はもう僕を責めずに緩く微笑んだ。僕がわざと追い討ちをかけたことは覚えているのだろうに、彼女はそのことに何も言わない。
いちごを一つ取り、へたを取って口に入れた瞬間微かに青い匂いがする。甘い。大きくて少し酸っぱい品種より、小さくて甘いこのいちごが彼女は好きだ。もういちごの旬も終わろうとしていると、ふと思う。これが食べ収めかもしれないとも。今時いちごは通年手に入るのに。
時計を見ると零時を少し回っていた。空腹感は既にどこかに去っていた。




