1話 異世界と美女
最初に感じたのは臭いだった。
草の臭い。
次にそれを運んでくる風を感じた。
目を開ける。
視界に広がる緑。
森?
森だ。俺はどうやら森の中で倒れているらしい。
何でだ?
確か、俺は叔父からのゲームのテスターをしていたんじゃなかったか?
それが気がついたら森の中。
意味が分からない。
とりあえずは立ち上がって現状確認。
そこで、更に疑問が生じた。
どうにも視線が低い。
俺の身長はそこまで高くは無かったが、160㎝後半はあったはずだ。
それにしては俺の視線は低い気がする。
気のせいか?
それに服装も変わっている。俺はさっきまでラフなTシャツを着ていたはずだ。それが今は、ローブを身にまとい、まるで旅人みたいな格好をしている。
これは気のせいではない。
しかし、それよりも、今は俺が何で、こんな場所にいるのか、という問題の方が先決だ。
身体は動く。怪我もない。
視線の低さと服装は気になるが今は重要視しない方向で。
とにかく、今は現状の確認が先だ。
と言っても、周りは森で俺はこれと言った荷物もない。
これでどうしろと?
仕方ない。まずは人を探そう。何をするにしてもそれからだ。
現代っ子の俺にサバイバルなんてできないのだから、誰かを見つけて頼るしかあるまい。
俺はここが日本のどこかの森林だと当たりをつけた。
ならば、半日も歩けば、確実に道路や民間は見つかるだろう。
と、そんな甘いことを考えていた。
◆ ◆ ◆
俺は目の前の事態に唖然としていた。
分かりやすく言えばパニックになっていた。
まだ時間にして一時間も歩いていない。そんな俺に森の中で立ちふさがるのは大型犬程の大きさもある兎。
それも額には巨大な角がある。
歯も草食動物とは思えないほど鋭く、牙と言って差し支えない。
まったく可愛くない兎ちゃんである。
‥‥なんだこいつは?
考えても答えは出ない。そして考える時間も無い。
どうやらこいつは俺を餌と認識したらしい。
冗談じゃない!!
足元にあった手頃なサイズの枝を拾う。足元にそんな枝があったのはラッキーだった。
これで少なくとも丸腰ではなくなったわけだ。
いきなり森なんかで目を覚ました上に命の危機にまで晒される。いったい何がどうなってるんだか。
いくら嘆いても現実は同情なんかしてくれないらしく、とうとう我慢の限界が来たのか、兎ちゃんが俺に向かって疾走してくる。
昔から胴体視力だけは良かった俺は持っていた枝を兎ちゃんが俺の間合いに入った瞬間、兎ちゃんの頭部に向かって振り抜いた。
枝が折れた。
兎ちゃんは衝撃で吹っ飛んだ。
しかし兎ちゃんを仕留めるまでには至らなかったらしく、兎ちゃんはまだピンピンしている。
更に今ので怒らせてしまったらしく、目がギラギラしている。
やべ~、これは死んだかも。
あの角で刺されたら一巻の終わりだ。
そして今の俺には半ばで折れて短くなった枝しかない。
取っ組み合いで野生動物に勝てる訳もなし。
再び疾走してくる兎ちゃん。
短くなった枝でも無いよりは増しと構える。
次の瞬間、俺の視界が赤く染まった。
一瞬、俺の血かと思った。兎に刺されてしまったのかと思った。
しかし、そうではない。俺の視界を覆った赤は血ではなく、炎の赤だった。
炎の玉がいきなり現れて兎ちゃんにぶつかったのだ。
辺りにタンパク質が燃えた時の特異臭が漂う。
俺はそれをただ呆然と眺めていた。
事態の展開に頭が付いてきていない。
とりあえず、兎ちゃんという明確な危機は脱したと見てもいいだろう。
だが、先程の炎の玉は何だったんだろうか?
その答えもすぐに出た。というか、答えの方から現れてくれた。
「大丈夫か、少年?」
声の方を見れば美しい女性が立っていた。
長くて黒い髪に褐色の肌。整った顔に、抜群のプロポーション。そして人のそれよりも長い耳。
【ダークエルフ】
エルフと対になって物語やゲームなどに存在する異世界の住人。
「あなたが、助けてくれたのですか?」
思っていたより、兎に恐怖していたからか、声が裏返る。
しかし、そんな些細なことに気を取られている余裕も俺には無かった。
まさか、さっきの炎の玉は魔法なのか?
ダークエルフがもし実在するなら、魔法だってあっても何ら不思議はない。
「ああ。角兎に襲われているように見えたからな」
角兎と書いてホーンラビットと、何故か字と読み方が頭に入ってきた。
俗に言うルビという奴だが、それが会話で分かるのはおかしい。
どうなっているんだ?
「ありがとうございました。おかげで助かりました」
ダークエルフのお姉さんに頭を下げる。
とにかく、まずは御礼だ。ダークエルフが何故いるのか、とか、角兎は何か、とか、魔法を使えるのか、とか聞きたいことは沢山あるが、命の恩人なのだから、まず礼を尽くすべきだろう。
「いや、子供を助けるのは当然だよ、少年。
しかし、森の中を一人で彷徨くなんて感心しないぞ、少年。見ない顔だが、村の人間か?」
子供、ね。今年で17才なのだが、そんなに俺は子供っぽいかな?
まぁいい。そんなことより、いろいろと確かめたいことがある。
角のある巨大な兎、目の前にいるダークエルフのお姉さん、さっきの魔法。これが全て本当なら、ここは地球じゃない。
ここは‥‥
異世界なのか?
いやいや、まだ決まった訳ではない。もしかしたら、地球のどこかに、角のある巨大な兎はいるかもしれないし、お姉さんみたいな肌が褐色で、耳の長い種族だっているかもしれない。魔法だって手品だったという可能性もある。
だから、まだ異世界と決まった訳じゃない。
「ん? どうした少年?
黙り込んでしまって?」
お姉さんが心配そうにこちらを覗き込んでくる。
視界の隅に入ってくる大きな胸が眩しい。
ごほん。それはさておき、とにかく今は判断材料が足りなさすぎる。
「すみません。迷ってしまったみたいなんです」
嘘は言っていない。というか、紛れもない真実であり、俺の現状そのままだ。
「村のものではないみたいだな。どこから来た?」
分からない。今ここで日本の俺の住所を言うのは容易いが、もしここが異世界ならば、その答えは正しいのか判断しかねる。
「言えない、か。何か訳ありみたいだな。
分かった。とりあえず私の家に来るか少年?」
何も答えられない俺のことをお姉さんの方で勝手に勘違いしてくれたようだ。
これは幸運だ。
それにお姉さんが俺のことを保護してくれるという話も渡りに船である。
「すみません。お願いできますか?」
「分かった。付いて来な」
お姉さんが歩き出した方へ俺も着いていく。
「私の名前はクリーシアだ。少年の名前は?」
「俺の名前は‥‥」
俺の名前、俺の名前は‥‥なんだっけ?
え? 嘘だろ? 自分の名前が思い出せない。
家族の名前は覚えているのに、自分の名前が思い出せないなんて馬鹿な話あるか?
「どうした、少年?」
クリーシアさんが訝しんでいる。
これ以上、怪しまれるのは勘弁だ。適当でもいいから何か名前を言わなきゃ。
「俺の名前はアノンです」
咄嗟に口から出たのは俺がゲームで使う名前。
「そうか、アノン。よろしくな」
これが俺の異世界での物語の始まりだった。