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朱い花弁

 アパートのベランダからは、通りに面した石塀までの隙間に植えられた桜が見える。

 大学進学のために実家を出て下宿をすることとなって、ここに住み始めた日の夜、ふと窓辺を見ると盛った桜の花弁が電燈に白々と浮かび上がり、風に煽られてその幾らかが枝を離れ、儚げに佇む月の元に宙を彷徨い、二三枚が都合よく開いた窓の隙間からはらはらと、まだ実家から送られた段ボールがそこらに置かれたままになっている部屋の中へと入り込み、殺風景な空間にぱっと光が灯った光景が脳内に映し出された、そのことが卒業を間近に控えた今になっても眼の裏に鮮やかに焼きついている。それはまるで荒野に咲いた一輪の花で、キャンバスに落ちた一筋の赤で、交差点を歩く止め度のない灰色の人々のただ中でひとり、違った色合いを持つ君を見つけた時も同じような印象として胸の中にある。君はその細い身体で、大きな瞳で、長い髪で、世界の空気を独特のものに変質させ、纏い、いつになっても自分自身と肌から一ミリほどの周りの空気の輝きを失わせない存在を予感させた。そう、僕も彼女になりたかったのだ。彼女に同質化し、僕が見るくだらない世界と隔絶し、彼女の見るさながら水面から絶えず光の筋が歪みながらも射し込む海底のような世界にいたかったのだ。彼女を認めた時の僕は、微かならざる希望を抱き、確かにそう思っていた。光を見出していたのだ。

 運命線は奇妙に歪んで曲折してしか、僕らを歩かせてはくれなかった。

 四年間を過ごそうとしている自室の窓辺に腰を下ろしながら、電気も点けずに、射し込んでくる外の電燈や月の光が舐めまわして浮き上がった、ゴミの掃き溜めのような部屋の中を、双眼鏡で遠い風景を眼差す心境で見渡す。部屋は、鼻をつく生活臭を放つものどもで満たされている。床には脱ぎかけの服、折れた栞、くたびれたレジ袋、漫画本、狭い台所には空き缶の山、シンクに放り込まれた汚れた食器、濡れた布巾が所狭しと小汚く積み重なっている。ここで生きてきた、と思うも現実感はない。もう現実が僕の指先から離れて久しくなる。それはいつの間にか、離してしまった風船のように視界の片隅にその残像を留め、雰囲気を留め、しかしその実空高く、この先一生触れることは能わないのだ。朧ながらも光を孕んだ蜘蛛の糸は遠く。寂しさもなく、悲しさもなく、食べかけの喪失感だけ微かに感じつつ。

 外を見ると桜が咲きかけていた。膨らんだ蕾たちの中に三分の一ほどの花が開いている。初めて来た時の情景のフラッシュバックを重ねるも、しかし今は段ボールだけの閑散とした部屋じゃない。部屋は夜の中に落ちていき、時間は無常にも経ち過ぎた。

 まだ僕は、また僕は、飛び込んでくる桜の花弁を希うことが許されるのだろうか。その権利が残されているだろうか。

 無理か。それには、余りにも僕は疲れてしまっている。

 終わりに孤独と後悔しか存在していないのならば、始まりにも邪な意味を付加せざるを得ないのだろうか。非情な罪過を背負わせなければいけないのだろうか。

 月を見上げて、自嘲気味な笑みを浮かべるも、すぐに崩れて、閉じる前の唇の隙間からためいきが漏れる。

 そんなことは成立しやしない。

 ここには孤独感も後悔もない。

 ここにいるのは僕ひとりで、あるのは行き場所を失った虚無、それ以外はなく、それだけだ。



 大学は実にくだらないところだった。

 と、いって大学を思い出そうとすると、まず頭には彼女のいる風景が上る。dominantというわけなのだろう。何ものだって残ってはいるが。それにしても、彼女の指先が叩く鍵盤が奏でる旋律が、僕の記憶を彩っている。それは朝焼けのように切なさをもって清白に、昼間にアスファルトをタップする雑踏のごとき無機質に、あるいは山鳩が鳴いた気怠さを覆わせ、そしてなんといっても躊躇いと自責の夜半、夜闇のどこまで歩いてもひとりでしかない厭世感を漂わせる。しかし夕焼けのもつ躍動的な情熱さはない。全ては静かだ。それによって僕は記憶の遡及が可能となる。

 彼女は家でよく机の上で目には見えない鍵盤を弾いていた。両目を瞑り、時には身体を微かに揺らして、聞こえない旋律の中から答えを探しだすように十指を滑らかに動かした。実家にはピアノがあって、幼い頃から触れていたのだという。一人暮らしにあたっては、部屋も狭いので置かないことにした。僕には音楽についての教養がなかったので、初めの頃は全て同じ光景に見ていたのだが、多くの時が経つにつれて、彼女の表情や仕草から彼女の奏でる音符の配列がどんな意味を持っているのかが透かし絵のように浮かび上がってくるのだった。家に限らず彼女はどこででも指を小刻みに叩き、意識の放流を窺わせた。例えば階段の手すり、例えば講義中の机、例えば信号に待つ自転車のハンドル。彼女は一緒に寝る時も、腕を背に回し、僕の肩甲骨の辺りに微睡みと共に心地よい刺激を落とした。

 君は朝顔に譬えられる、といった確信を、僕は彼女を認識した時に抱いた。僕と彼女は駅前のスクランブル交差点で出会ったわけでも、僕が歩道橋から見下ろしてた先に、のちに必然的と定めたくなる偶然が光を伴って生起し、彼女がいたわけでもない。われわれが邂逅を果たしたのは、奇跡的な風景の一部でもなんでもなく、どこにでもある月並みなサークルの新入生歓迎会を兼ねた飲み会でのことだった。大学生御用達の値段が安いだけの飲み屋で、どこにでもいる蟻のごとき群れた人たちがわらわらといて、そういった集団的行動には常識に似たそれなりに守るべき規則があり、彼らはそれを罰という悪夢に怯える子羊さながら従順に己に内面化させたかのように、さほど面白くない会話があちらこちらで手探りに始められ、それ自体が目的化したコミュニケーションを目指して飛び交い、次第に加速・エスカレーション化し、誰かの襟首をつかんでは揺さぶる行為を縷々綿々と繰り返していった。僕はその腐った情報の奔流に悪酔いし、吐き気すら覚え、ゆえに机を挟んだ斜向かいに座る彼女のことも、その時は暴れ渦巻く雑音の中で自分じゃない自分を自分と寸分疑わずに思い込んで振る舞う無価値な人形のひとつに見えて、僕は、手の施しようもなく進行してしまい逃げ場も封じられた癌の末期的症状のごとき状況から、少しでも視線を逸らそうと、必死に目の前のグラスを煽ることに意識を傾けていた。



「懐古は濃密に甘く、居心地のすぐれた洞窟であり、そこに身を投じている限り未来はない」

「そんなことは分かってる、別に忘れたわけじゃない。けれど、少しくらい過去を思い返す、それくらいの権利は僕にもある。それに、どうせ何もかもが意味のないことだ。それこそ、もう分かりきってることでしかない」



 とにかく、その飲み会の後、他人の心情を斟酌することもできない屑どもの二次会への誘いを振りきった組の中に、僕と彼女は居合わせ、歓楽街から閑静な山際の住宅地の方へと進むバスに乗り、僕は揺られながら窓の外を見、光の線となって流れる電燈の数を数えていたが、気がつくとさっきまで一緒だった他の参加者たちはそれぞれの停留所に降り立ち、帰路を辿り、バスには僕と彼女だけがいた。その時、僕はようやくまじまじと彼女の横顔を見た。吊革につかまり、僕の隣で外を向いていた。顔も身体も足の先まで、薄闇の風景と常夜灯の橙が走り、すっかり夜色に染まっている。

 彼女が視線に気づいてこちらを向いた。僕は愛想笑いに変わる前、一瞬の無表情を愛した。彼女は首を傾けて口を開く。「疲れた?」

「いいや、別に。君は?」

「……少し」

「まあ、騒がしかったからね」

「私、あんまり、ああいうの苦手」

「僕も」

「そう? 一緒だね」

 長い髪の輪郭を彩るは、路地裏の感情の凝縮で、動的な眼差しが示すのは、愚にもつかない世界の姿で、彼女の引き攣った笑みには、諦めとため息が横溢している。それらは、それは、紛れもなく夜辺に咲いた朝顔だった。そこには悼みだけが表象されていた。


 僕らはいつか行動を共にするようになり、心の底にあるものを分かち合うようになる。僕が初めて、俗にいう信頼なるものがもつ、地平を満たす安らぎと解放されることのない危うさを知ったのも、それを通じてだ。

 ところで僕は段々と他人というものが嫌になってきていた。昔からその気はあったのだが、一人暮らしといった環境が実際の行動を許すにあたってそれは促進され、街に住む誰もが自分勝手に振る舞うことなど当たり前のことであるのも知ってはいたが、それが矢鱈と怖くなって、それを嫌悪する余り、自分がそうなってはいけないと過剰に自分の振る舞いすら怯えを感じるようにもなり、外での自らの一挙手一投足が何らかに迷惑をかけてはいないのか不安になり、無暗に純粋なる身近な人に確認作業をすることが嗜癖化し、

 ――好き? ――え? ああ、うん。の足のもつれるような応酬。

 それによって肯定されても一瞬我に返るとそんなことすること自体が、卑小で、みすぼらしく、たちの悪いことだと分かり、そんなことをしていたらもう誰とも話をしたくなくなり、そうであれば、路上を走る車は僕を轢かなかったがために、僕は家に引きこもるようになった。

 けれど糸電話というものが、あんなにか細く、弱々しい連絡線によって奇跡的とも思われる通信を可能にしているように、彼女だけは僕から離れず、僕も彼女は離さないという事態が結実した。



「意味のないことによる悲しさを、それにもかかわらず生み出すことは、悪質な行為ではないのか」

「悪質だったら? 迷惑だったら? 誰かを傷つけることのなにがいけないのか? じゃあ何か、ひとり閉じこもって河原の石を積み上げろとでもいうのか、それこそ馬鹿げてることに違いないだろ、僕は、今はそう思ってるさ」

 部屋に落とされた物たちは、相変わらず、青白く照らされて美しい死を表明している。僕が何かを彼らに告げられることはない。



 しかし、かつての僕には、なかなかそんな風に思うことはできなかった。何を企んでか、そんな僕を彼女だけは必死に励まそうとした。

 ――大丈夫、好きよ。君は、頑張っているもの。やさしいだけよ。無垢なだけ。やさしさは真の孤独と表裏一体、紙一重だから。大丈夫、好き、好きよ。大丈夫。好きよ。

 彼女が言葉を放つごとに、僕は安堵し、千切れ、ぷつんと途切れそうになる生活に一応の力が与えられた。それは呪文のような効用を発揮した。僕は夕方に目を覚まし、手触りのないつかめない夜を死んだように生き、無情な朝を迎え、昼になる前に倒れるようにして床に伏した。こんな日常に意味はないのだと、そんな活動ならいっそ終わらせてしまった方がいいのだと、何度も思い、重い夜を眺め明かした。しかし一日が過ぎ、二日が過ぎても、僕の部屋は意義を失わなかった。僕はひっそりととはいえ、生き続けた。僕は一人になるたびに、彼女の言葉を呼び起こし、ぎゅうと握りしめ、その硝子片のような感触に宿ったぬくもりを慈しんだ。だから、消えなかった。僕の繰り返す消えたさは、彼女の言葉によって隠されることができた。

「空虚?」「いや、彼女」の命題。


 僕はたまに昼間に起きると、本屋に行くついでに雨が降ってても小学校裏の拉麺屋に足を運ぶことがあった。彼女がそこで働いていたからだ。暖簾をくぐり、ドアを開け、カウンターに座る。その一連の動作は、宗教的な儀礼性を伴っていた。僕は解放されるために、スープを飲んで麺を啜った。そこの店舗はさほど繁盛しているわけでもなく、僕は変に気を使わず、ゆっくりと時を過ごすことができた。僕はいつも単品のレギュラーの拉麺しか頼まなかったが、彼女は時折、こっそりと葱を多く入れてくれることがあった。

 彼女は僕をやさしいと諭したが、彼女こそ僕にやさしかった。

 やさしすぎた。

 部屋で共に過ごす時も、久々に並んで落ち葉踏み、歩道を歩いたりする時も、帰って来た時も、迎える時も、僕のための時も、自身のための時も、曇りの日も、雪の舞う日も、桜の日も、蝉鳴く日々も、彼女の言葉は日常に溶け込む以上の効用を発揮し続けた。言葉は、薄く弛緩し、形が捉えられなくなりながらも、それはそこにあり続け、生活を辛うじて繋ぎとめ、僕を打ちのめした。



 ――醜いよね。

 ――そんなことないよ。

 ――いらない器官は切り捨てられたらよかったのに。

 ――それだって君だよ。美しく、ただそれでしかなかった君だよ。

「過去の苦悩は、確かに甘いが、そこに僕は留まっていられない。

 ああ、さよなら、さよなら、さよなら」

 ――さよなら。



 Something went wrong.

 日々が経ち、音楽で耳を塞ぐことが多くなった。彼女の言葉を聞くことがつらくなっていた。僕はもう何も聞きたくなくなっていた。彼女の言葉は、僕の腐った生を高貴な十字架に縛りつけ、自ら耳を削ぎ落とし、目を抉り、口を縫いつける自由を奪い去り、崩れ落ちそうな肉体は嫌な臭いを漂わせて焼け焦げた。乾いた唇の隙間に彼女はどろりと舌を挿し込む。十字架が放つその光は彼女のものだ。彼女は嫌みたらしく咲き誇る桜そのものであり、夜辺に咲いた朝顔は、機械の中の幽霊となった。

 彼女の言葉は彼女そのもので、そこに僕はいなかった。

 言葉は僕の身体を撫でる、彼女のあらゆる景色よりも感動的な自己愛だった。僕とは何の関係もなかった。僕は知らなかった、気づいていなかった。いや、見たくなかっただけかもしれない。彼女は彼女なりの方法で、擦り切れゆく身体で、懸命に自己愛に生きていたのだ。誰かの痛みを網膜に投射することによって自らの存在を確かめるあり方。全ては消え去っていくものだとして、それらすら腐った種子であること。どうせいなくなってしまうのだ。

 感じていた空虚は、自己愛なる言葉によって飾られているに過ぎなかったのだ。それは見えなくされ、隠されることによって、僕も知らないところでじわじわと深度を増していた。最早、底が見えない暗闇だった。僕は僕がどこにいるのかも分からなかった。

 抱き合う時、背を叩く指が奏でる彼女の音は、空しい地平に落ちて弾ける。


 世界からありはしなかった音。ずれた時空。外された蝶番。


 僕は家に鍵をかけて泣いた。僕は自らの衣類に存在を埋め、便器に顔を押しつけて吐き気を漏らさず、喜びを流した。あるはずもない憎しみは遠のいて、求めてない孤独が押し寄せる海岸に僕はいた。

 空虚、それはアスファルトに落ちた金魚に他ならない。


・喪失こそリアルの証といったって、意味もない言い訳、誰にとっての?

・シンメトリーな依存性が屋上から飛び降りれば、止揚は踊った球体運動?

・手首の赤みに泳いだ魚だって、雨水を纏えば感染症?

・アイデンティティーこそ、吐き気であって、嗚咽であって、悲鳴であって、溶けゆく錠剤?

 ――だから何?

 ――くだらないね。


 円環する循環は毒気を放って、回帰する。何度でも。夜が来て、朝が来て、朝を待つだけの夜が来て、夜でしかない朝が来る。

 おお、主よ。

 どうして、去りゆくあなたの御姿を拝む手を、縋りゆく無垢な手を、地上を這う潔白な手を、蠱毒の果てに突き落とすのか。

 純粋でいたかった。

 白くいたかった。残雪のように儚くても、ただ真っ白でいたかった。それだけだった。信じたかった。

 それはただ風に吹かれ、たちまちに消えゆく一筋の祈り。



 次第にある決意が首を擡げて、胃袋を紫に染め上げる。

 今と似た夜に、机で遺書をしたためた。

 そこにあるのは、恥、後悔、かなしさ、運命、そして少しばかりの大事にしてきたやさしい思い出。

 もう終わったことだ。何もかも終わったことだ。

 僕は部屋を見渡す。窓には桜。

 もうここには誰もいない。彼女もいない。いつかの僕もいない。最初からそうであったはずもないが、もうここには誰もいない。



「この部屋からは桜が見えます。この桜は三月の終わり頃には花をつけ、光のような薄紅色の花弁が夜を照らし始めます。桜は、どうしてそんなに健気なのかと心に痛みが走るほどに、それは醜い地上に美しく、清く、咲き誇ります。見る者を後押しする使命の光をもって、その花弁は風に吹かれるごとに舞い散って、命を擲っていくのです。皐月にもなれば、花弁は全て露の生を枯らし、元いた場所は毛虫がつくだけの横暴に茂る葉々に奪い尽くされてしまいます。しかし、たかが一二カ月先に、そんな未来が待ち受けるのにも関わらず、蕾が開いてからの桜の花は、それを窺わせない力強さをもって、散っている間すら空気を彩り、地面に落ちて誰かの靴に踏みつけられるまで、誰かに喜びを投げかけ、幸せを謳い、その生を全うするのです。そうでもあれば、木が花をつけてない間も、失われてる誇りがその幹から浮き上がってくるようで、冬の惨めな状態にあっても、それはどこか尊いものに思えてくるのです。分かりますか? その儚さ、その気高さ、その強さ。薄紅色の花弁は、咲いている一瞬一瞬を、少しの間も気を抜かず、懸命に、自分以外に代われる者などないと言いたげに、堂々と、高らかに、生きているのです。咲いている間がそれほどに綺麗だから、咲いてない間にも高貴に清廉であり続けられるのです。何があっても生きている今を肯定するあり方、これはこうでしかなかった、これは僕が全て望んだことだ、誰にも否定させはしないと、肌で感じるあらゆるものを、目の前に現前するものを、ひとつ残らず、余すところなく、かけがえのないものとする運命愛。

 いつからか僕に好きと言ってくれる女性がいました。彼女は僕を好きと言い、僕も彼女を好きと言いました。それによって僕の壊死しゆく精神は遅延するようになり、食事を一日三回採ることも増えました。僕は彼女の言葉によって罪過を清められ、自らの存在を、信頼を押しつけるようにして預けました。しかし、彼女にとって言葉はモノでしかないのです。僕と彼女は違う存在です。そんなことは頭では知っていました。けれど僕は彼女の内部に取り込まれ、そこで安心の羊水に包まれて生きていたかった、どうしても。そこにしか希望の楼閣は見えず、そこにしか澄んだ空気はなかった。

 けれど、蜃気楼。

 それはことあるごとに、把握できない彼女の行動が目に映るたびに、心で増幅され、ざわめきとなって、不安となって、僕のやっと見つけた安住の住処がバラバラな欠片に成り果てる光景を、脳裡に浮かび上がらせるのです。以前の健全だった誇大妄想狂的な自分は暗部の深奥に遠ざかり、残った半身の自分の肉の筋は強張り、痙攣を始め、今や希望のビジョンの維持のために自らの傲慢を備給することに疲れてしまったのです。

 しかし一方で、道路を歩く人々、街に棲みつく人々は、そんな心的障害を物ともせずに、腕を棒となるまで酷使し、据傲を炉にくべることに躊躇いはしません。彼ら自身の業は社会に充満した偽善を取り込んで、パチパチと豪奢に燃え上がり、それぞれの実存を現働化する。それは恥知らずにも、苦労人の生き方です。そんな彼らを見る時、僕の眼差しの光は彼らの在り方に、桜の姿を重ねるのです。

 あの儚くも力強い桜花です。

 桜も、彼らも、瞬間的現在を、来たりゆく即時的な未来と、過ぎ去りゆく即時的な過去の狭間に配置し、それ以外の、もう蘇生の叶わないところにまで追いやられて呪詛を吐く機能しか残されていない往時や、目を焼く光線がいくつもの鏡に映し出され、屈折し、交差する中に狂ったように幻出する後来を亡きものと無視して扱います。それらはあっても有害なだけ、役に立たない不穏分子。そんなのに左右されず、彼らも桜も瞬間的な生から快楽だけを抜き取って、享楽的に生きるのです。今を楽しめるということは、今が楽しければいいことに由来します。それは尊い時の欠片たちを蔑ろにすることではありますが、しかし本質的には正しいことなのです。それら、日常の深層にあるものを過剰に大事にすることは、死刑が決まった囚人に無駄な思い入れをするようなもので、生きた現在が不可視な時の断片に阻害されることほど、ナンセンスなことはありません。インスタントな真理だとして、本当は中身のない生き方だとして、全体からみれば意味のない実像だとして、実質的にはそれが正しい在り方なのです。罪悪感なんてないほうがいい、そんな取るに足らない瑣末なもの、捨ててしまえばいいのです。誰も見てないんだ……、きっとそうだ。綺麗事を言って誰かに迷惑をかけるくらいなら死んだ方がマシなんだ、死刑執行人に懺悔して首を差し出せばいい、結局自分が救われたいだけだ、逃げてるだけだ、楽をしたいだけだ、こんなの生きてるだけで有害だ、桜のように生きれたらなんて、彼女が僕を好きだったらなんて、全部嘘だ、あり得ない妄想だ、知っていた、都合のいい独白だ、知っている、もう無理だ、もう無駄だ、もう続かないこと、さようなら、さようなら……」

 涙が紙面に落ち、文字が滲んで、ふと我に返った。

 いつの間にか、感傷的になってしまった自分が醜くて、そこまで書いた便箋を、すぐさまビリビリと引き裂いて捨てた。

 何が遺書だ。所詮、自分などに聖なる終極の告白は似つかわしくもない。

 僕は洗面所から剃刀を持ってきて、机に置き、傍に落ちていた黄色いチラシの裏側にペンの先を当てた。

 栓が抜かれ、内包していた水が流れ尽きてしまったプールのように、言葉はもう湧きあがってこなかった。仕方がないので、ありあわせにただ線の細い文字で一行、

「もう死にます。ごめんなさい」

 とだけ記して、剃刀を持って、刃を左の手首に当てる。ひやりとした感触、背筋が微かに固くなる。僕はこうするしかないんだとためいきを漏らし、

 ――横ではなく、縦に。

 ――横ではなく、縦だ。

 少し引っかかった気がして、引き抜いてもう一度。

 出来るだけ深く。

 痛かったが、感覚的な刺激よりも心理的な抵抗の方が強かった。力が弱まることを恐れ、思考をヴェールで覆ってやろうとしたが、何か考えようと思っても、特定の何かを浮かべることはできず、駅前の様子やファーストフード店や中学校、いつか親と行った湖、祖母の家、高校の担任、誰か分からない顔、顔、顔、そんなのが次々と瞬く間に現れては消え、サブリミナル効果のように、これが走馬灯なのかと思っていると、壁際にある時計の音がやけに鋭くて、チクタクチクタクとだけ、それが無限に、細かくも鬱陶しいほど多く、それ以外は無音で、あとは身体が軽くなったのか重力がなくなったのか、自分が底の無い谷に落ちていくような錯覚、だんだんと意識が遠のくのが感じられ、眠りのような心地すらして、でもふとすぐ近くに鉛筆の芯を突きたてられるのに似た軽い痛みが走って、手元を見るに、左手は真紅、そこから黒い血が溢れ落ち、床を汚していた。

 僕は目を瞑った。身体全体がそうしろと言っていたのだ。僕はもう何も抗うことなどなかった。身体のあちこちに重い鎖が巻きつけられ、土の匂いのする広大な大地に仰向けになって、まだ暗い夜の空を眺めながら身を埋める光景が網膜に浮かんだ。


 記憶は身体からも精神からも離れたようだった。記憶が離され、体感が零となり、僕が扱えるものはなくなって、俯瞰だけ、まるで夢の世界にいるようだった。

 果てしなく続く草原だった。脛ほどの雑草が一面に広がり、緩やかな風が翔け抜け、端がちぢれ西に行く雲のひとつ越しに射す黄金の光がぼやりと辺りを照らしていた。見えない太陽の光は雲が流れるごとに、その輝きを異なったものとさせ、そのたびに世界の色は少しずつ変わった。朝方のような雰囲気の中、遠くには靄ができていて霞み、その奥に連なり立つ青い山嶺が微かに映えていた。草には露が降り、僕はそこに寝そべりいつまでも空を見ていた。次第に、空は暗さを帯びて細かな雪の結晶が降ってくる。僕は涙を流した。なぜなら雪は融けゆくから。なぜなら過ぎゆかないものなどないから。どんどん暗さは深くなってくる。本当の夜が到来してくるにつれて、僕の鼻腔は雨の匂いに支配された。とても長い時間が経って、何も見えなくなって、ただ雨の匂い、雨が染み込んだ土の匂いがした。地響きが起こり、遠くに見えた山嶺は持ちあがり、どこかで折り線がつけられたのだろう、浮き上がった地面が空を覆ったかと思うと、こちら側に倒れ込んできた。

 世界は暗転と共に折り畳まれ扉となって、開かれる。


 目を開けても、まだ夢現といった感じでただ漠然と、僕は雨上がりを思い浮かべていた。そうしていると、嗅ぎ慣れた匂いがして、頬に生温かさを感じた。霧が晴れてくるように、辺りの状況が滲みだしてきて、服を引っ張られる感覚と、音、激しい荒波のような声が聞こえてきた。

 途端、僕は部屋にいた。そして、そういえば鍵を掛けていなかったなと呆然と思った。

 横たわる僕のお腹辺りに顔を埋めて彼女が嗚咽を漏らしていて、僕の頬も腕もお腹も生温かく湿っていて、どうやらそれは彼女の涙のようだった。見ると、部屋の中は誰かが喧嘩をした跡のように乱雑になっており、机はずれ、本はいくつか棚から落ち、ペットボトルは床に落ち、玄関の横にある台所の前には買い物袋が無造作に投げ出され、倒れたその口から野菜が顔を出していて、視線を戻すと、切った腕には包帯が厚く何重にも巻かれていて潔白さが上塗りされていたが、袖口や隠されていない肌には褪せた血がざらりとこびりついて固まっていた。

 僕が目を覚ましたのが分かったのか、彼女は顔を上げた。まだ泣きじゃくっていた。僕は離人症的に驚いていた。彼女の表情には見たこともない皺が刻まれ、瞼は腫れて、淡さを基調とする彼女の性格からは考えられない様相が、そこに映し出されていた。

 彼女が僕を揺さぶると、貧血からか頭がくらくらした。彼女の涙がぽたぽたと僕に落ちた。

「私のことも考えてよ」彼女は叫んだ。

「僕は……」

 何らかの言葉を返そうとしたが、彼女は感情の波に任せるがまま、矢継ぎ早に言葉を紡いだので、僕は耳を澄ませてそれを聞くことにした。それは自己愛に生きてるにしても必死すぎるほどの剣幕だったのだ。

「ねえ、分かる?」彼女との間には水面の膜があるようで、海底に落ちた僕はそれをただ聞いていた。「ねえ、あなたが死んだら、私はどうしたらいいの? 私とあなたは多くの時間を経験したわ。そのことをちゃんと分かっているの? 二人の間にあったことは、どうせ過ぎ去る意味のないものだなんて、どうせなくなっちゃうものなんだって、あなたはそう言って、悲しい顔をよく私に見せたけれど、今まであったことはちゃんとあったことなんだよ。私たちの間にあったことは確かとか不確かとか、そういった次元にはないことなの。私とあなたはちゃんと一緒にいたんだよ、分かってよ。現実を生きるのがどれだけつらくても、私を一人になんてしないで。私とあなたは生きているだけで、ただそれだけで色んなものを束ねているの。それは一緒にいたことの全部。ねえ、私たちはずっと一緒にいたんだよ? だけど……」彼女は込み上げる嗚咽を止めようと、反射的に手を口に翳したが、思いとどまり、唾を飲み込んで言葉を続けた。次第に普段の顔が見えてくるようだったが、その目はずっと何かに縋りつく怯えのようなものを感じさせた。「だけど、あなたがいなくなってしまったら、それを束ねるものが消えてしまったら、今までの記憶や憂いていた未来だって、全部が全部敵になって襲ってくるんだよ? 束ねるものがなくなって放たれたそれらは凶暴になって、狂った猛禽のように飛び交って、そこらの物にぶつかっては跳ね返って、まるで重力を無視したボールみたいにね。それで、そうしたら、私は飛び交うそれらに傷つけられ続ける暗闇から抜け出る術を失ってしまうの。そんな地獄で一人ぼっちなんて耐えられるわけがないでしょう? 考えてよ。私のことも思ってよ。あなたといた思い出の全てが敵になるのよ。ずっと大切だったものが、大事にしまっておきたかったものたちが、私を傷つける刃物でしかなくなるのよ。私は、そんなの嫌よ……、絶対いや。ねえ、お願いだからそんなことしないで? 私を傷つけないで? 生きて。ただいるだけでいいから。私もつらいけど、ちゃんと生きるから。そばにいるから……」

 そう言って、彼女はさめざめとまた泣いた。僕はぽつり、「ごめんね」と呟いて、まだ感覚のある右腕をかぶさってくる彼女の背に回した。

 ごめんね。ごめん。と僕は何度も謝った。無声映画のような昼が窓辺から僕らを嘲笑っていたが、僕と彼女だけはずっと夜の底にいるようだった。それでいいのだと僕は思った。


 無事に恢復した後も、僕と彼女は相変わらず一緒にいて、僕は知らなかった彼女の痛みを知るようになった。そして死のうとしたことを心から後悔した。そんなことをしたって結局のところ、何もならないのだ。逃避にもなってやしない。数ある厄介事のひとつから目を背けただけに過ぎない。それよりも僕は。


 暗闇には慣れない。いつでも光を探してる。

 僕は子宮に思いを馳せた。幸福に浸れる母なる大地。

 問題は別にあることに、窓辺から枯れた桜の枝枝の隙間を細かな雪の結晶が落ちていくのを眺めながら思った。落ちゆくひとつひとつの雪は、地面に辿り着くとたちまちに消えてしまう。僕らの生だ。僕らは天から発せられ、地に着くその短い間で自らの生を肯定しなければならない。そして彼女の言った通り、僕らは記憶や時間を束ねている。それらは束ねられることによって機能し、僕らは縛られることによって人として感情を有し、生きられる。

 しかし、制限で生まれる定立では、否定的な意味合いを免れない。だから僕らはそうではない方法で、幸福を探さなくては、見つけなくてはならない。そこでこそ生は肯定され、生きられるのだ。


 冬はだんだんと足音を軽くし、春がその息吹で凍えた街を舐め始める。僕は必死に生きられる道を求めていた。だから彼女を部屋に呼んだ。夜だった。僕らがいるのはいつだって夜だ。

「どうしたの?」

「ううん、会いたかっただけ」

「そう」彼女は何も不審がることはなかった。それもそうだ。僕は彼女に会いたかったのだから。ずっとずっと会いたかったのだから。

 現実にいる限り断絶される。僕らは分断された部屋の中でしか生きられない。思い出を感覚するためには制御を解かなくてはならないのだ。そうしたならば、どこまでも繋がった部屋同士を仕切る壁は一気に瓦解し、あらゆる記憶や時間や感覚が溶け合い繋がって、蔓延しては空間を満たし、僕と彼女は二つの孤独から脱出することができる。僕は彼女の中で生き、彼女は僕の中で生き、そこでこそ呼吸器官は息を吹き返すのだ。

 彼女と僕は狭い部屋に言葉を落とすことで、夜をより深い暗さで彩った。夜に僕は光を求める。この狭い部屋を子宮とする方法、永遠を瞬間へと変える方法を僕はもう知っていた。僕は彼女と多くの時間を過ごした。僕と彼女はやさしさを通じて思いを伝え、助け助けられ、救い救われて、ここまでやってきた。けれど、それも言ってしまえば断絶され、薄められたものだった。分断線としての互いを共振させることで僕と彼女は一緒にいれたのだ。だけど僕は、今こそ、今夜こそ彼女を彼女とすることを可能とする。

 彼女は窓から外を見ていた。静かな夜で、何もかもが暴力さを隠し、平和な世界を幻出させていた。桜もいくらか蕾がひらいて、灯った可憐で儚い花が月光の青に照らされて、どこからか讃美歌が流れてきてもおかしくない光景だった。

 いや、僕の耳には確かに福音を秘めた唄が聞こえていたのだ。

 僕はそっと台所から包丁を取り出し、窓の桟に凭れて外を眺めていた彼女の背に突きつけた。

 思い出せない記憶も、これから来る未来も、一緒に今として生きられるように。

 僕は彼女のあたたかい息を、落とした言葉を、握る手のやさしさ、指が弾いた音符の感情、からだの持っていた切なさを有限なものとはしない。僕はその刹那的な快楽を絶対に過ぎ去らせはしないのだ。一瞬一瞬の快楽を刹那性と共に、僕に宿らせ、僕は生きる。

 彼女に刃を深く突き、何度も引き抜いては刺した。冗談みたいに血がドバドバと出て、床を一種の絵画とした。彼女は目を見開いて驚いた風で、それに抗おうともしたが、僕はそれを制して何回だって刺した。胃を、肺を、肝臓を。ごめんね、でもこれで君も僕も生きられるんだ。存在が引き裂かれる血の臭いに混濁した頭が悦びの悲鳴を上げる。彼女はあらゆるものを手放して、放たれたそれらは僕に襲いかかることだろう。無邪気になって、悪びれもせず。けれど、そうでなくてはならない。繋ぎとめる楔から解放されてこそ、それら、期待も記憶も時間も蘇ることができ、僕らは生きることができるのだ。君と過ごした一瞬が、何回だって回帰する。僕は床に倒れた彼女に馬乗りになって、息が止まっても刺し続けるのをやめなかった。いつかの雨上がりの匂いがした。視界が滲む。雨に曝された血は散らばる桜の花弁だった。笑みが頬に翳る。彼女の息が完全に止まり、これで全ての時間が動き出すのだから……。



 僕は狭い部屋で、昔、桜の花弁が僕に一時の希望を与えてくれたことを思い出す。

 足元に転がる死骸、今や青白い光が差し込む中で部屋を満たすは朱い花弁だ。教会の鐘の音が空間に広がるように、彼女が僕を包んでいく。

 彼女が僕となって、今こそ現実は身体に襲いかかり、僕は多幸感の中に落ちて、生まれる。もうすぐ朝の光が線となって窓からやってくることだろう。そうして僕のようやく手にした本当の虚無を、露わに照らし出してゆくのだ。

(了)


明日は希望でなくてはならない。

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