歌姫
わたしが『歌姫』と出会ったのは、森の沼だった。
緑陰の香りと湿った空気が入り混じる中。
沼の中央に突き出ている岩へ腰掛け、彼女は表現できないほど美しい声で歌っていた。
外国語なのか、歌詞の意味はわからず、もしかしたら、言葉ですらなかったのかもしれない。
ただ、その声は、魔性への恐怖をはるかに上回る呪縛になって、わたしの心臓を鷲づかみにし、足を縫いとめた。
木漏れ日が濡れた金髪を輝かせ、彼女の透き通るような白肌と、繊細な顔立ちを照らし出す。
ほっそりした身体に、藻で編んだ深緑のドレスがよく似合っていた。
年頃はわたしと同じくらいなのに、比べるのも恥ずかしいくらい、彼女は綺麗だった。
ううん。綺麗とか、彼女の姿と歌声の素晴らしさは、そんなありふれた言葉じゃ追いつかない。
気づけば、わたしの頬には涙が二筋伝っていた。
やがて歌は終わり、夢中で手を叩いた。
「あら? ありがとう」
可愛らしく小首を傾げ、少女はわたしに微笑みかけた。
「この沼に誰かが来るのは、本当に久しぶりだわ」
話す声まで、音楽めいたうっとりする響きだったけど、わたしは今更ながら、怖くなってきた。
「小さな頃から、この沼には悪魔が出るから決して近づくなって、言われてるもの……あなたは沼の悪魔なの?」
いつでも逃げ出せるように身構えて、恐る恐る尋ねた。
「そう呼ばれてるわ。この沼から出れないってだけで、ひどい呼び名ね。私には『歌姫』って名前があるの。そっちで呼んでくれる?」
拗ねた子どものように眉をしかめる歌姫は、とても人を頭から食べてしまう悪鬼には見えなかった。
「それで、今度は私が聞く番よ。貴女の名前、それに、どうしてそんな沼に一人できたの?」
「えっと…わたしはフルール。あの…ここなら誰もいないと思って…歌の練習をしたかったの」
彼女の歌を聴いた後では、すごく言いづらかったけど、正直に答えた。
わたしは勉強も苦手だし、何をやってもトロくて手先も不器用。
見た目も酷くて、パサパサの赤毛とそばかすだらけの顔は、鏡を見るのも嫌になる。
だけど歌だけは、密かに自信があった。
学校の音楽劇ではいつもソロを歌わせてもらうし、みんな褒めてくれる。
口の悪い幼馴染、ジーノでさえ、
『お前が声だけだったら、嫁に貰ってやったのにな』なんて言うくらい。
「来月、村で歌のコンテストがあるの。一番上手い娘が、王宮の音楽祭に招待されて、歌えるのよ」
「ふぅん、なかなか楽しそうね」
「だって、王様の前で歌えるのよ! それに優勝した娘は、たいていどこかの貴族から求婚されるんだって!」
「あなた、顔も知らない男と結婚したいの?」
驚いたように尋ねられて、わたしのほうこそ面食らった。
「そんな……わたしはまだ14だし……ただ、こんなつまらない田舎の村で暮らしてたら、お姫さまの夢に憧れるだけよ。いけない?」
「いけなくなんかないわ。賑やかな王都で、大きな舞台で歌を披露し、稀代の歌姫としてもてはやされて、どこかの見目麗しい貴族の若君から求愛されるなんて素敵よね」
うっとりと彼女が言った壮大な夢物語は、まさしくわたしが思い描いていたものなのに、改めて人から言われたら、途端に現実味があせた
しがない村娘が、何を妄想していたんだと、恥ずかしくて居た堪れなくなる。
「まぁ……そうできたら素敵だけれど、やっぱり目が覚めた。優勝なんかできっこないわ」
「あら、どうして?」
キョトンと小首をかしげて彼女に尋ねられ、少々シャクだったけれど正直に答えた。
「貴女の歌を聴いた後じゃ、自信なんかすっかり消えちゃった。村で一番上手いかもなんて言われて良い気になってたけど、わたしの歌なんて、全然たいした事ないわ」
「へぇ、貴女って正直で謙虚ね。気に入ったわ」
彼女は肩を竦め、ふいに岩から飛び降りた。
華奢な裸足は、とぷんと水に飲み込まれることなく、水面を歩いて来る。
水際で彼女は歩みを止め、わたしの顔を覗き込んだ。
「もし良かったら、歌の練習を手伝うけど?」
「え……どうして?」
驚いて尋ねたけれど、すぐに彼女が悪魔だと思いだし、背筋が寒くなった。
「だ、だめっ! どうせ引き換えに、魂をよこせとか言うんでしょう!?」
「そんな事言わないわよ。強いて理由を言うなら……私の歌を最後まで聞いて拍手してくれた人間は、久しぶりだったから、ちょっと嬉しかったの。そのお礼ってトコかしら」
「本当に……?」
「ええ。もっとも、私が教えたからって、優勝できるかどうかは貴女しだいよ。それでもいい?」
少し前のわたしだったら、悪魔に教えを乞うなんて、絶対に断っただろう。
でも、わたしはもう、彼女の歌を聴いてしまった。
あんな風に歌えるなら……何を失ったって良い。
それからわたしは、こっそり沼に通い続けた。
歌姫のおかげで、わたしの歌はどんどん上達した。
「うん。すっごく良かったわよ。あとはもう少し、息継ぎを……」
くったくない笑顔で、歌姫は親切に励まし教えてくれる。
時々、歌にあわせて魚にダンスをさせたり、沼の水を生物のように操って見せてくれる事もあった。
それから、たわいないおしゃべりも沢山した。
悪魔といっても、ちょっと世間ずれしてるだけで、彼女は普通の女の子とあまりかわらない。
村の出来事や、学校の話を興味深そうに聞き、ときどき持っていく小さなキャンディーを、すごく嬉しそうに食べる。
最初こそ、歌姫に会いに行くときは、内心ビクビクしていたけれど、いつのまにか彼女は一番の親友になっていた。
そして、コンテストの前日。
「どうしたの?」
泣きながら沼に来たわたしを見て、歌姫は驚いた。
「……アタシ……コエガ……」
しゃがれてひび割れた声で、それだけ言うのも、精一杯だった。
お医者さんが言うには、喉に悪いできものが出来てしまったそうだ。二ヶ月は歌っちゃいけないと言われた。
そうでなくても、痛くて痛くて、歌なんかとても歌えない……。
あんなに頑張ってきたのに……。
歌姫は、なんとも言えない表情でわたしを眺めていたが、不意に明るく言った。
「なら、私の声を貸してあげるわ」
「?」
そして、歌姫は歌いだした。
美しい旋律が、ぼんやりと緑色の光を放ちながら歌姫の喉から溢れ出て、わたしの喉へ吸い込まれていく。
ヒリつく喉の痛みが、波のように引いていった。
「……シャベッテミテ」
呆然としているわたしを、歌姫がにっこりと促した。その声はひどくしわがれて病んだ、わたしの声だった。
「あ、あーーー……え!?」
そして、わたしの喉から出たのは、歌姫の声。
美しい美しい、どんなに練習しても、人間は永遠に得ることの出来ない、魔性の声。
「コレデ、ウタエルデショ?」
「あ、あ……ありがとう!本当に、ありがとう!!」
翌日。
わたしは歌姫に借りた声で歌い、満場一致で優勝した。
これも悪魔の力がなせる業なのか、声が変わっている事に、両親さえも気付かないようだ。
皆がわたしの歌にうっとり聞きほれ、賛美してくれた。
――ただ、数人を除いて。
「おめでと、フルール。アンタにも一つくらい、得意なモノがあって良かったわね」
二位になったマガリーとその取り巻きが、噛み付きそうな顔でわたしを睨んでいた。
同い年のマガリーは、村長の娘で美人、成績も優秀と三拍子そろってる。
今回のコンテストでも、優勝できるのは自分だと、彼女は前から豪語してた。
それが、いつも小バカにしてるわたしなんかに負けて、悔しくてしかたないんだろう。
いつもなら、トゲのある嫌味に耐えられず、こそこそ逃げ出してたけど、今日のわたしは違う。
「ええ。王都に行って歌えるなんて、夢見たい」
優越感にひたりながら、言い返してやった。
「っ!いい気になってるみたいだけど、忠告してあげるわ。アンタみたいなブスが王宮で歌っても、恥をかくだけよ。鏡でそのみっともないそばかすと赤毛をよく見たらどう?」
「……」
さっきまでの得意な気持ちが、みるみるうちにしぼんでしまった。
今度は言い返せなくて、花束を握り締めて駆け出す。
後から聞えるマガリーたちの嘲笑から、必死で逃げた。
コンテスト会場から、その足でまっすぐわたしは沼に行った。
遠くからわたしを見た歌姫が、岩の上で手を振る。
「ドウダッタ?……アラ?」
まだガラガラ声の彼女に、花束を差し出した。
「ありがとう。おかげで優勝できたわ……声を返すわね。王都になんか、とても行けないもの」
泣きながら、マガリーに言われた事を訴えた。
「ソンナ、イジワル、キニシナイコトネ」
「歌姫みたいに綺麗な金髪の子に、わたしの気持ちなんかわからないわよ!」
思わず叫んだら、歌姫の金色の瞳に、傷ついたような色が走った。
「あ、ご……ごめんね……つい……」
「……ジャァ、コウシマショ?」
歌姫の白い手が、優雅な仕草で舞う。
ぼんやりした薄緑の光が、わたしと歌姫の身体を包んだ。
「……う、嘘……」
透き通るような白く細い手を見て、わたしは大慌てで沼の水に顔を映す。
水面に映っているのは、赤毛で少し太めのみっともない女の子じゃない。
金髪の、美しい歌姫だった。
「カラダ、カシテアゲル」
「で、でも……」
「コマッテルノ、タスケルノガ、トモダチデショ?」
わたしの姿をした歌姫が、水面に立ったまま、にこりと笑う。
「コレダケ、ワスレナイデ……ホントのウタヒメは、ワタシよ」
「ええ!王都から帰ったら、かならず返すわ!」
何度もお礼を言って、わたしは家に帰った。
両親も周囲も、声の時と同じように、わたしの変化に何も言わなかった。
その日から、わたしをとりまく環境は激変した。
それまで、わたしに見向きもしなかった男の子達が、競ってチヤホヤしてくれる。
デートのお誘いが毎日あるし、もう最高!
「フルール。……なーんかお前、変わったよな」
幼馴染のジーノが、家の窓から中を覗き込んで、口を尖らせた。
背が高く、そこそこ顔も良いジーノへ、密かに憧れてる女の子はけっこう多い。
わたしから見れば、口が悪いお調子者なんだけど。
「べ、別に……前からわたし、こうじゃない」
ドキリとし、わたしは慌てて答えた。
「変なこと言わないでよ。これからデートなんだから、忙しいの!」
「デート? 誰とだよ」
わたしは相手の名前を告げる。学校で一番人気のある男の子だ。
「へ? アイツ、確かマガリーと付き合ってるんだろ?」
「今は、わたしのほうが好きなんだって」
怒り狂うマガリーの顔が頭に浮かんで、わたしはますます上機嫌になった。
「……お前、やっぱり変わったよ。しかも、とびきりヤな感じにな」
顔をしかめてジーノは窓から顔を引っ込めた。
「ちょ……っ、何よ!」
とっさに反論しようとして窓から顔を突き出したけど、もうジーノは隣りの自宅に入ってしまっていた。
(嫌な風に変わった?)
冷たい手で、心臓を掴まれたような気がした。
わたしは、変わったんだろうか……
鏡を見れば、そこには綺麗に着飾った金髪の美しい少女が写っている。
赤毛のさえない女の子は、沼の岩に一人で座っているはずだ。
――ガラガラの声で。
そういえば最近、忙しくて沼に行っていない。
歌姫には悪いと思ってるけど、明後日には王都に行くんだし、それが終わったら身体を返すんだもの。
そうよ。
それまで、ちょっとくらい楽しんでも良いじゃない。
「うわぁ……」
生まれて初めて訪れた王宮は、話しに聞いて想像していたより、何百倍も豪華で煌びやかで素敵だった。
真っ白な大理石の壁。色鮮やかなステンドグラスの窓。雪花石膏でできた神々の彫像が飾られ、広い庭園には美しい花が咲き乱れている。
もう夜だったけれど、幻想的な光を放つ魔法灯火が、昼よりも美しく辺りを照らしていた。
村の皆がお金を出し合ってくれたドレスを着て、わたしは恐る恐る大理石の回廊を歩き、大広間に入場した。
大広間は、更に華やかで素敵だった。
目が潰れそうに豪華なシャンデリアが煌き、一段高座には、玉座が置かれ、国王夫妻がそこに座っていた。
傍らには、とびきり美しい護衛剣士の少女が控えている。
そして、大勢の着飾った貴族たちが、半円を描くように壁際を埋め尽くしている。
右を見ても左を見ても、洗練された美しい人々ばかり。
絵画かおとぎ話の世界に迷い込んだみたいだった。
他に歌う女の子達も、やはり緊張しているらしい。今にも倒れてしまいそうに青ざめている子もいた。
わたしの順番は、一番最後。
王国中からあつまった女の子達が、次々と美声を発揮していく。
一曲終わるたびに、貴族たちから関心のため息や、拍手が起こり、審査員たちが手元の書類に何か書き記していく。
そして、ついにわたしの番。
大広間に、『わたしの』歌声が、静かな旋律を奏で始める。
貴族達も審査員も、厳しい顔の王さまも、冷たい無表情だった王妃さまさえも、うっとり聞きほれ……終わった後も、広間は静まりかえっていた。
誰一人、みじろぎすらしない。
何か良くなかったのかと、不安になった瞬間、割れんばかりの拍手が沸き起こった。
貴婦人達は、ハンカチでしきりに涙を拭っている。
頷きあった審査員たちが断言するより早く、王さまが玉座から立ち上がり、叫んだ。
「フルール・コレッティに、『歌姫』の称号を授ける!!」
もう一度、割れんばかりの拍手が響いた。
他の歌い手たちさえも、拍手してくれた。
「素晴らしかったわ!」
「一生忘れないわ!」
口々に賞賛され、大勢の人から握手を求められた。
信じられない!!
本当に、優勝してしまった!!
『わたし』が歌姫になった!!!!
そして、王さまの手で金細工のティアラを授けてもらい、大広間を振り返った時、わたしはその人に気がついた。
グレーの髪をした、若い男の人だった。
冷たいほど整いすぎた美貌の顔立ちだったけれど、わたしが気になったのは、そんな事じゃない。
誰もが熱狂的な賛美の視線を向けている中、その人だけは拍手するでもなく、冷ややかな視線でつまらなそうにわたしを眺めていた。
そして彼はクルリと背を向け、ひっそりと広間から出て行った……。
その後、王都で過ごした十日間は目まぐるしく過ぎた。
大勢の貴族に紹介され、誰もが『わたしの歌』を聞きたがり、『わたしの美貌』を誉めそやした。
何人もの貴族から求婚もされた。
けれど、誰もかれもいまいちもの足りず、全てに曖昧な返答をして、わたしはニッコリ微笑んではぐらかす。
求婚者たちは、それだけでもうっとりして、一層わたしに夢中になった。
砂糖に群がるアリみたいに、男たちは次々寄ってくる。
最初は一々相手にしていたけど、次第に面倒くさくなってきた。
「――あら? 貴方は……」
『彼』に会ったのは、たまには一人になりたくて、城の裏庭へ避難した時だった。
あの広間で、たった一人わたしに賛美の視線を送らなかった、若い男の人だ。
今日は正装の上着じゃなく、長い白衣を着て、青いブローチで北国の錬金術師だったんだと気がついた。
「僕をご存知ですか?」
「ええ。音楽祭の広間で……お名前は知りませんけど」
「失礼しました。ヘルマン・エーベルハルトと申します」
非の打ち所のない優雅で丁重な物腰で、彼は一礼して名乗った。
天使の彫像みたいに整った口元に、柔らかい笑みが浮かんでいる。
アハハ。なんだ、この人だって結局、わたしに夢中になったんだわ。
「嬉しいわ。広間では、わたしの歌が気に喰わなかったのかと思っていたから」
そう言った瞬間、 凍てつきそうなアイスブルーの双眸に気付き、心臓が凍りつくような感覚を憶えた。
「偽りの勝利を賛美しようとは思いませんよ」
柔らかく見えていた口元の笑みは、これ以上ないほど皮肉で冷たい嘲笑だった。
「い、偽り!? 変なこと言わないでよ!」
「忠告いたしますが、『借り物』は早く返した方が宜しいですよ」
「な、なに言ってるのか……わかりません……」
「そうおっしゃるのでしたら、それで結構です。せっかく珍しい光景に遭遇いたしましたので、ガラにもない老婆心から警告いたしただけです」
そう言うと、不思議な錬金術師はあっさり背を向け、立ち去って行った……。
―――しばらくぶりに沼にやってきたわたしを見て、彼女は嬉しそうな声をあげた。
「久しぶりね!王都の音楽祭はどうだった?」
沼の岩に座り、緑の藻でできたドレスを身につけた、赤毛のさえない女の子が尋ねる。
喉はすっかり治ったらしいけど、その声もやっぱりつまらない、平凡な声だった。
「ええ。優勝できたわ……」
わたしは沼のほとりに座り、華やかな王都の出来事を、彼女に話してやる。
すっかり話し終わってから、ふとわたしはずっと気になっていた事を尋ねた。
「ねぇ……ところで、貴女の名前はなんて言うの?」
「いまさら何言ってるの?私の名前は『歌姫』よ」
おかしそうに声をあげて、赤毛のつまらない女の子がケタケタ笑う。
「それは称号でしょ?」
「称号でもなんでも、この世界で一番の歌姫は私だもの。私は『歌姫』なの」
「違うわ!」
思わず、立ち上がってわたしは怒鳴った。
“借り物の力で得た、偽りの勝利を賛美しようとは思いませんよ”
冷たいアイスブルーの双眸と、嘲笑めいた冷酷な声が、わたしの脳裏に蘇る。
「ねぇ、何を怒ってるの?」
『歌姫』を自称する沼の悪魔が、滑稽なものをみるように、わたしの顔を覗き込む。
「……歌姫は、アンタじゃないわ」
びっくりするほどドス黒い感情が、腹からわきあがった。
「そりゃ確かに、声とこの身体を借りたわ。 でも、王宮で緊張に耐えて歌ったのは、わたしよ! 沼から出られないがアンタ持っていたって、この声も美貌も生かす事なんかできなかったじゃない!!」
「でも……歌姫は私よ」
薄笑いを浮べたまま、彼女は断固として譲らない。
「違うわ!!」
表現しがたい怒りをぶちまけ、わたしは声を限りに叫んだ。
「違うわ! 歌姫は!!!」
―――その瞬間、彼女がニタリと笑り、視界が暗転した。
「え……? えっ!?」
気付けば、沼の岩に座っているのは、わたしだった。
美しい金髪をしっとり濡らし、ほっそりした白い身体に藻のドレスをまとい、冷たく硬い岩の上に、わたしは腰掛けていた。
水辺では、赤毛の女の子がニヤニヤ笑っている。ほんのさっきまで、わたしが着ていた綿のワンピースを身につけ、革靴を履いて。
「ええ。これからは貴女が『歌姫』よ」
「どういう事!?」
「アハハハ!! 私、もうずぅぅーーーーっと前から、私に代わって歌姫になってくれる子を待ってたの。本当に友達って良いわね。ありがとう」
「な……っ」
「これでもう、私は自由になれる。この身体、貰うわ!」
「騙したの!? ひどい!!」
「あーら? 貴女が勝手に、自分は歌姫だと言って、そうなるのを望んだのよ」
「だ、だって……」
「まぁ、気長に待ちなさいよ。誰かが貴女と同じように、歌姫を名乗ってくれれば、交代できるから。この誰もこない沼じゃ、なかなか難しいけどね。アハハハ!!」
ケラケラ笑いながら、『わたし』は走り去っていく。
「待ちなさいよ!!」
慌てて岩から飛び降り、追いかけようとしたけれど……
「きゃぁっ!?」
外へ出ようとした途端、見えない無数の手が、わたしを沼へと引き戻す。
「離して! 離してぇ!!」
めちゃくちゃに暴れたけど、どんなにもがいても、沼から一歩も出られない。
叫んでも叫んでも、不気味な静寂と、ときおりあざ笑うような鳥の鳴き声が返って来るだけだった……。
――あれから、何週間たっただろう。
冷たい濁った沼の底で、わたしはうずくまっていた。
時々、わたしは沼の水面に出て歌う。
魔性の美しい歌声で、知る限りの歌を歌う。観客もいなければ、拍手もない。
けれど、歌わずにはいられないのだ。
だってわたしにはもう……それしか出来ない。
「……」
ふと、水辺に気配を感じ、わたしは身体を浮かび上がらせた。
「どう?沼の生活は慣れたかしら?」
かつての『わたし』が、ニヤニヤしながら水際に立っていた。
「よくも……っ!!」
湧き上がる怒りのまま、わたしは両手を振り上げて沼の水を操る。
軟体の触手のように形を変えた水が、近づきすぎていた彼女の足を捕らえ、縛り上げた。
「きゃあ!」
「アハハハ! 昔、自分が出来た事を忘れたのかしら!? それとも、わたしができないと思ったの!?」
「っ!!!」
水の触手に巻かれた彼女は、蒼白になって手も足も出ない。
「このまま、溺れさせてやる!!」
沼の中央まで引き寄せ、二度と浮かび上がれないよう、暗い水中に沈め………………られなかった。
黙って、彼女を沼の外へ放り出した。
「わたしを、溺れさせるんじゃなかったの?」
水辺に座り込み、青ざめた彼女が静かに尋ねる。
「もういいから、帰ってよ!!」
触手を離し、ずぶぬれの彼女に背を向けて怒鳴った。
「こうなったのも全部、わたしの自業自得だわ! 借りたものを、自分の物だと思ってイイ気になって……親切にしてもらった事も忘れて……教養もない地味な村娘だって恥くらい知っているわ。これ以上、みっともない真似をさせないで!!」
あれから、ずっと考えていた。
最初こそ、怒りしか感じなくて、もし彼女の姿を見たら、本当に殺してやろうと思ったのに……。
この暗い水底で、彼女がどれほどわたしを待ち望んでいたか、よく身に沁みた。
美しい声や身体を貸してくれたのは、罠にかける為だったのかもしれない。
わたしの欲望を引き出し、身体を乗っ取る下心も、確かにあったんだろう。
でも……本当に悪意しかなければ、もっと上手なやり方があったはず。
「こうなったのは辛いけれど……解ってる。わたしが先に、貴女を裏切ったのよ…………ごめんね」
震える声で、わたしはようやくその言葉を呟いた。
「だから、もうここに来ないで……」
背後で、彼女の立ち上がる気配を感じた。
そして、ひそやかなため息。
そのまま立ち去る足音を聞くのが耐えられず、水底へ潜ろうとしたわたしの耳に、泣きそうな声が聞えた。
「そうはいかないわ……だって、『歌姫は私』だもの!」
緑の閃光が、わたしの身体を貫く。
「どうして……」
水辺にへたり込んだまま、わたしは水面に浮かぶ金髪の歌姫を見上げた。
「どうだって良いでしょう?悪魔は気紛れなものよ」
腰に手を当て、フンと彼女は見下した目でわたしを眺め降ろした。
「そうね……どうせなら、もっと素敵な身体が欲しくなったって所かしら。貴女の生活も悪くなかったけど、気長に他を探す事にするわ」
彼女の足元から、不気味な水の触手が何本も這い上がり、威嚇するようにうねってみせる。
「さぁ!ここから立ち去るのは、そっちよ!!!!」
「きゃぁ!!!」
恐ろしい怒鳴り声に弾かれ、わたしは無我夢中で駆け出した。
走りながら、涙が溢れて止らなかった。
元に戻ったわたしは、以前と同じ生活に戻った。
ちょっと歌が上手いだけで、さえない外見の平凡な子。
皆、あれだけ夢中になってちやほやしてくれた事なんか、すっかり忘れてしまったみたいだ。
ただ……ジーノだけは、前よりちょっとだけ優しくなった。
「お前を嫁に貰う物好きなんか、俺くらいだろ」
真っ赤な顔でそう言った彼と、わたしは数年後に結婚した。
子どもも産まれ、平凡だけど、穏やかで幸せな日々を過ごす。
あれ以来、わたしは二度と沼に行かなかったし、これからも決して近寄らないだろう。
……本物の友達の為にも。
――月も星も出ていない真暗な夜。
森の奥にある沼地へ訪れる、物好きがいた。
プカリと浮き上がり、頭を水面に突き出すと、とっても見たくない相手がいた。
「まぁーた逃がしたのか。これで何人目だ?お前、ちっとも交代できねーじゃん」
フルートを片手にした青年に、私は水を引っ掛ける。
「うるさいわね!黙って笛でも吹いてなさいよ!」
「プハッ!王都でお前の身体を見かけたからさ。今度こそ生贄を手に入れたかって思ってたんだけどなぁ。ま、余計な忠告してやってたヤツもいたけどよ」
『笛吹き』ったら、いつもこうだ。
私が生贄を逃すたびに、こうやってからかいに来る。
同じ悪魔なのに、自由に歩けるなんて、憎ったらしいたらありゃしない。
「私だって、今度こそはって思ったわ。でも仕方ないわよ。だって……」
水に濡れた私の頬を、溢れた涙が更に濡らす。
『歌姫』になったのは、もう思い出せないほどはるか昔の事だ。
私が騙されたように騙してやると、いつも決意するけど……結局、私は沼に戻ってしまう。
新たな身体で自由を満喫しようとしても、ちっとも楽しくないからだ。
友達と信じていた相手に裏切られた痛みを、私は誰よりもよく知っている。
誰にもバレなくとも、この暗い沼地で、一時の楽しい時間をくれた相手に、その辛さを押し付けた罪を、私自身が知っているから。
「だって……フルールは、謝ってくれたんだもの」
泣き顔のまま、私は口を尖らせる。
「他の子たちは、私を本気で溺れさせようとしたのにね。思い直して謝ってくれたのは……あの子だけだったわ」
「ふぅーん。女ってわかんねーな」
「軽薄男なんかに、わかって貰わなくて結構よ」
「んなに怒るなって。久しぶりに、飲みに行こうぜ」
ニヤつく笛吹きを見上げ、私は観念してため息をついた。
「そうね。こんな時はウサ晴らしに限るわ」
「そうこなきゃ」
笛吹きはかがみこみ、沼の水を特別な水筒に詰める。
私もしゅぽんと、その中に入った。
「たまには酒場にいる連中にも、お前の歌を聞かせてやれよ」
「連中?あそこにバーテンと貴方以外、誰がいるってのよ」
「そうそう。俺ら二人がいるじゃねーか」
「貴方って、いつもフラフラしてお酒とフルートばっかり。ろくでなし」
「そりゃ、お前と同じ悪魔だからなぁ」
「ちょっと!一緒にしないでよ!」
揺れる水筒に入って口論しながら。私はたった一箇所だけ行ける、沼以外の場所へ向かう。
悪魔だけが客になれる、世界の果ての酒場へと。
無愛想なバーテンが磨きぬいた小さなステージで、私は歌うのだ。
そして沼に戻り、また一人で歌い続ける。
きっと、世界の終りまで……
だって、私は永遠に『歌姫』だから。
終