003
――現在、午後八時三十分。
生徒会室での仕事を終えて帰宅した僕は、夕食を済ませた後、再びあの公園に訪れていた。三日前、各務原葵と遭遇した公園である。
仙崎にはああ言ったものの、おそらく彼女にはお見通しなのだろう。――そう。各務原に関わることはない、なんてのはその場しのぎで言っただけの嘘っぱちである。
各務原を助けようというわけではない。ただ、確かめたいことがあるだけだ。ある種、興味本位なのかもしれないが。『影がない』などという怪異な状況に身を置く彼女に対して、同じく他人には言えない秘密を持つ僕としては、仲間意識さえ持ってしまっているのかもしれない。
自転車を駐輪場に停め、公園内に足を踏み入れる。前回訪れたときと同様、公園内を月明かりが照らし、辺りは閑散としていた。――どうやら、各務原はいないようだ。
とりあえずはベンチに腰掛けて彼女を待ってみることにした。
――待つこと数十分。
腕時計に目をやると既に九時をまわっていた。足元には暇つぶしに描いたドラえもんが十数体。……ドラベースみたいだ(顔みんな一緒だけど)。何回心の中でドラえもん絵描き歌を歌ったことだろう。ていうか、馬鹿正直に待ち続けた自分にあきれた。そもそも、まだ来てないならともかく、毎日来ているわけではないかもしれないじゃいか。
座りっぱなしで凝り固まった体をほぐそうと、立ち上がろうとしたそのとき、僕は目を疑った。――驚愕。
顔を上げた視線の先数メートル、目的の人物こと各務原葵が怜悧な目つきでこちらを見ていた。
待ち人来たれり、である。うわぁ、タイミング悪。
「――や、やあ。こんばんは。いい月夜ですね」
声が裏返ってしまった。
「あなたは……、昨日も会ったけど、一応聞きましょうか。何をしているのかしら?」
「……え、あ、いや、そのですね」
「いいわ、みなまで言わなくても結構よ。夜の公園で一人、ベンチに座って、ドラえもん絵描き歌を歌いながら、地面に落書きしてるようなあなたは心を病んでいるのね。とりあえず、救急車を呼びましょうか?」
「…………………………」
全部見られていた。ていうか僕歌ってたんだ……、超恥ずかしい……。
「十回近く歌っていたのだから、江戸川ドラーズくらいは出来たのかしら?」唇に指をあてながら各務原が呟く。ドラベース知ってるんですね。
「僕は……」「ストーカー?」「ちげーよ!!」「誰に口を利いているのかしら? 初対面の相手に怒鳴りつけるなんて、やっぱり警察に……」「すいません。警察は勘弁してください」
――ちょっと待て。何故に警察? 何も悪いことしてないのに、してないよな?
「――それで、何の用なのかしら? 九重君。――九重、新君?」
「……何で、僕の名前を?」
まさかこいつも心を読めるのだろうか。
「かわいそうに……、心じゃなくて頭が悪かったのね。話したことがないとはいえ、三年間同じクラスの人のことを記憶していないなんて。極刑ものだわ」
非常に失礼なことを言われた気がするが、それよりも、僕と各務原が三年間同じクラスだというのは事実のようだ。仙崎まじぱない。流石会長様。これからはあいつのことを歩く生徒名簿と呼ぼう――。
「私の話を無視するなんていい度胸してるじゃない。それとも聴覚が欠落しているのかしら? 残念な記憶力といい、そんなことだからあなた、『ぼっち』なのね」
「…………………………」
――こいつは喋る度に人を傷つけないと気が済まないのだろうか。話しだして数分でもう心がズタズタだ……。
「ぼっちを強調するな。ぼっちを。僕は友達がいないんじゃない、つくらないだけだ」
「(笑)」
「あまりにもぞんざいな反応!?」
「あまり喋らないでもらえるかしら? 空気が汚れるわ」
「よ、汚れるかっ!!」
「日中光合成に勤しむ植物に申し訳ないとは思わないのかしら」
「僕は植物以下なのか!?」
「九重君<<<<<越えられない壁<<<<<植物、といったところかしら」
「遠すぎる!」
「ちなみに私は植物の遥か先に位置しているわ。ま、当然のことね」
「……再検討を要求します」
「却下」
「うわああああああああああああああ」
もうやめてくれ、僕のライフはもうゼロだ。
――完全に各務原のペースだ。
各務原葵、恐ろしい女だ……。
ていうかこいつ、話に聞いていた感じとは全然違うじゃないか。……何だったかな。
――各務原葵。
成績優秀。
品行方正。
容姿端麗。
………………どこが?
容姿は、まぁ間違いなく美人の部類に入るのだろう。頭も良さそうだ。しかし毒舌すぎる。学校じゃキャラ作ってたのか?
実際話したのは初めてだが、これは何というか、毒舌の域越えてるだろ。口悪すぎ……。
――やっぱり噂は噂、というやつか。
そもそも僕は何をしに来たんだったか……、そうだ各務原に話があったんだった。決してドラえもんを描きにきたわけじゃない。いい加減話を戻さないと……。
――軌道修正。
「――ところで九重君、何か私に話があってここで待ってたんじゃない? まさかドラえもんを描きに来ただけというわけではないのでしょう?」
僕が切り出す前に各務原の方から話を振ってきた。
「ああ。単刀直入に言うと、その足元のそれのことなんだけど……」
と、各務原の足元を指さしながら恐る恐る言葉を発した。その途端各務原は僕に背を向け、出口の方へと歩き出した。
「ちょっ、ちょっと待てよ、各務原」
すかさず追いかける僕。
「誰にでも、触れられたくないことの一つや二つあるものでしょう? というわけで、さようなら九重君、おやすみなさい」
立ち止まって振り返らないまま各務原はそう言い放った。
自分は散々人の触れられたくないことに触れてきたくせにあっさりこんな台詞を吐けるとは……、寧ろ清々しい気がする。
――ふたたび歩き出した各務原の背中に問いかけた。
「――各務原、お前、誰かを呪ったことってないか?」
「どうしてそう思うのかしら?」
足は止めない。しかし若干歩幅が小さくなった。動揺しているのだろうか。
「いや……、もしそうなら、僕が力になれるかもしれない、と思って――」
――瞬間。
各務原は髪が乱れるのも厭わず、勢いよく振り返った。そのまま肩を怒らせ僕に近づいてくる。そして勢いそのままに僕の胸ぐらを掴んできた。
「一つだけ忠告しておいてあげるわ。……あまり、無責任なことを軽々しく口にしないほうがいいわよ」
柳眉を逆立て僕を睨む各務原。
女子に胸ぐら掴みあげられるという貴重な体験をしている僕。
背は僕の方が若干高いはずなのに、凄まじい威圧感だ。
どうやら完璧に地雷を踏んでしまったらしい。さてどうしたものか。
「僕が力になる? あなたに一体何ができるというの? この、影がないなんてふざけた状態に、普通じゃ考えられない状況にある私に何ができるっていうのよ」
先ほどとは打って変わって、感情を露わにしながら、そう捲くし立てる。筋肉質とはまるで程遠いその細腕にさらに力を加える。
「お、落ち着け、各務原。話を聞いてくれ」
「これ以上あなたと話すことなんてないわ。私の前から消えて。そして二度と私の前に現れないで」
僕を突き飛ばし、絶対零度の視線を浴びせてくる。
もはや人間を見る目つきじゃないな……。
「だから落ち着けって、それから人の話を聞け」
「何度も同じことを言わせないでちょうだい」
だめだこりゃ。
まるで話を聞いてくれそうにない。
こうなったら、実力行使だ……、って、いやいや冗談。話し合いが駄目なら暴力、なんていつの時代だよ。星一徹じゃないんだから。加えて一応相手は女の子だ(僕より強そうだけど)、暴力、ダメ、ゼッタイ。
じゃあどうするのかといえば、まあ、あり体に言うと奥の手というやつだ。
いや、ホント、出来れば使いたくなかったんだけど。
僕は立ち上がり、おもむろにポケットからある物を取り出した。
「各務原」
彼女の名前を呼びながら、それを見せつけた。
「……っ」
驚きに目を丸くする各務原。
念のためにとポケットに忍ばせておいたそれは、
カッターナイフだった。
それも工作なんかで使うような大きいサイズのやつ。
各務原は完全に沈黙。--そりゃそうか。
しかし、別にこれで各務原をどうこうしようというわけではない。
目的は他にある。
「……そんなもの取り出して、どうしようって――」「ちょっと黙ってろ」
各務原の言葉を遮る。僕も他人のこと言えないな。
チキチキと、カッターナイフの刃を目一杯出す。月明かりが当たって鈍く光る。
――長さは六、七センチか、十分すぎるな。
各務原は目に見えて警戒心を露わにし、刃から目を離さない。
空いたほうの手のひらを各務原に向ける。
各務原の視線が掌に移動したことを確認して、
――僕はカッターの刃を手の甲に思い切り突き刺した。
「――な、何を……」
ドン引き各務原さん。
そりゃそうか、いきなり刃物を自分の手に突き刺すなんてマネすればなぁ。
もちろん刃先は掌からこんにちは(こんばんは、か?)している。――超痛い。
「ぐ……」
柄を握る手に再び力を込める。
手を各務原の方に向けたまま刃を一気に引き抜く。
「……………………嘘」
しばしの沈黙の後、目を丸くしながら各務原が呟く。
その原因はもちろん僕で、正確に言うと、僕の手にあるのだが。
確かに僕はカッターナイフで自分の手を突き刺し、引き抜いた。そんなことをすればどうなるのか、なんてチビッ子にだってわかる。血ダバダバのギャーイタイーーーである。
しかし結果は違った。
刃を引き抜いた手から血は流れることなく、見通しの良い風穴があいただけである。
――それだけではない。
ものの数秒でその風穴はふさがったのである。
押さえつけたわけではない。もちろん縫ったわけでもない。
回復したのである。
自然治癒。
種も仕掛けもございません。ハイ。
「――あなた、それってどういう」
「見たとおり、こういうことだよ。僕もお前の言うふざけた状態に――普通じゃ考えられない状況にある人間ってわけだ」
各務原の問いに僕は静かにそう答えた。