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『召喚に応じよ』と言われたので『契約書をください』と申し上げました

作者: 夢見叶
掲載日:2026/05/05

 光が収束した。


 床の古代文字は青白く、私の靴の周りに、一つの輪を描いていた。



 異世界召喚。



 そう認識した瞬間、私の右手は、無意識のうちに、腰のポーチへ、伸びていた。手帳。ボールペン。電子辞書。指がそれぞれの位置を確認している間に、頭の方は、別の作業を、もう済ませていた。


 ──「召喚」とは、法的に、何か。


 労働契約の成立要件は、申込みと承諾の合致。当事者の意思の合致がない労務提供は、業務命令として、無効である。十年、私が認定実務でそう書いてきた理屈に照らせば、いま私の足元の召喚陣は、法律上、ただの一方的な意思表示にすぎない。


 つまり、私は、まだ、何一つ、引き受けては、いない。



 そう確認できた時点で、私は、ようやく、顔を、上げた。



 円形の間。天井に星座図。正面の床より一段高い場所に、三人の男。中央に金の刺繍の重い外套。その右に深紅の祭服。その左に銀の鎧。


 広間の周囲には、儀礼を見守る貴族たちの影が、薄く、控えていた。


 そして、彼ら三人の後方に、四人目の男。


 紺色の制服。胸に銀の刺繍の徽章。手に、革の、書類袋。年齢は私と同じか、少し下。一歩控えた位置に立っているだけで、装飾の数が、他の三人より、明らかに少ない。


 制服の裾には、薄く、土埃のようなものが、ついていた。


 そして、その男だけが、私を、見ていなかった。


 私の足元の、召喚陣の図形を、見ていた。


 私は、それも、覚えておいた。



 胸元に手を当てた。社労士のバッジが、まだ留め金で、布に、止まっていた。手帳の左ポケットの、いつもの付箋。一番上のメモは、昨日の会議のメモだった。「労働基準法第七十五条:療養補償」。


 腕時計は、止まっていた。



 私は息を整えて、礼を取った。深く、けれど退かない角度で。


「失礼します」


 中央の金の刺繍の男が、口を開きかけた。私は、彼が話し始める前に、続けた。


「私は結城怜、社会保険労務士でございます」


 正面の三人が、ほんの僅か、視線を交わした。何の話だろう、という顔だった。


「先に確認させていただきたいのですが──」


 私は、もう一度、深く、息を吸った。



「最初に、契約書を、いただけますでしょうか」



 中央の男の眉が、寄った。


「召喚に応じよ。これは王国の名誉ある召喚である」


 深紅の祭服の男が、頷きながら、付け加えた。


「神に選ばれた者が報酬を口にするなど、不敬の極みですぞ」


 私は、答えなかった。代わりに、地の文で、考えた。「召喚」と「業務命令」の差は、合意の有無である。合意のない労務提供は、強制労働である。それは、私の世界の法律でも、たぶんこの世界の良識でも、一致するはずのことだった。



    ◇



「報酬の話ではございません」


 私は、敬体のまま、続けた。


「労働条件の確認でございます」


 中央の男──たぶん王太子だろう、外套の刺繍が王家紋章だった──が、苛立たしげに眉を寄せた。


 彼の右手中指に、大粒の青い宝石の指輪があった。私は、それを、視線の隅で、確認した。執政印というものは、その印影で文書を有効にするものである以上、印面の刻印を、私の世界では「権限の根拠」と呼ぶ。けれど、王太子の指輪の青い宝石は、どの角度から見ても、装飾の宝石としてしか、機能していなかった。


「金など貴族の女が考えるものではない。生活は保障してやる」


 私は、まばたきを一つしただけで、答えを返さなかった。代わりに、地の文で、記録した。「金など考えるものではない」=賃金支払いの義務認識ゼロ。「生活は保障してやる」=口頭の包括的義務、内容不明。両方とも、労働基準法第十五条「労働条件の明示義務」違反に該当する。


 銀の鎧の男──聖騎士団長らしき男が、口を、挟んだ。


「異世界の常識をこの国に持ち込まれては困る」


 私は、静かに、答えた。


「異世界の常識ではございません。労働法の根幹でございます」


 深紅の祭服が、また、口を開いた。


「神託の通り、聖女様は疫病を鎮めるためにのみ召喚されたのだ。役務の対価を求める性質のものではない」


 私は、ようやく、最初の問いを、返した。


「神託は、文書化されておりますでしょうか」


 祭服の男が、束の間、答えに、詰まった。


 彼の右手は、自分の懐の方へ、動かなかった。神託書は、いつでも提示できる距離に、無いのかもしれなかった。あるいは、提示できない理由が、別にあるのかもしれなかった。私は、それも、地の文で、覚えておいた。


 祭服の男は、神託書を取り出す代わりに、声を、高くした。


「神託は、文書化する必要はない。神聖なものだ」


 私は、頷かなかった。


「では、神託の有効性を、後日検証する手段が、ございませんね」


 祭服の男の頬が、微かに、動いた。


 王太子が、私の方へ、一歩、踏み出した。


「君のような女が選ばれただけでも幸運だ。ありがたく思え」


 私は、深く礼を取った。退かない角度で。それから、顔を上げて、初めて、自分の方から、問いを投げた。


「失礼ながら、ご署名は、いただけますでしょうか」


「何の?」


「労働条件通知書のご署名でございます。私の世界の用語で恐縮ですが、貴国でも同種の文書は存在するはずでございます。雇用主とその印、業務内容、業務時間、報酬、安全衛生、補償、契約期間、解約条件──以上、八項目」


 私は、八項目を、息継ぎなしで、数えた。


 広間の空気が、ほんの僅か、停止した。


「つまり──」


 私は、四人目の男──書類袋を抱えた紺色の制服──の方を、ちらりと、見た。彼はまだ、私の足元の召喚陣を、見ていた。彼が、いつから、それを見ているのか、私は、知らなかった。けれど、彼は、それを、見続けていた。


「契約書はないということでしょうか」


 祭服の男が、声を、上げた。


「不敬な!」


 銀の鎧が、続いた。


「警備の都合がある。書類仕事は後回しだ」


 王太子が、結論として、言った。


「たかが手当の話だろう、後で出してやる」


 私は、頷かなかった。


 代わりに、地の文で、思った。「後で」とは、いつのことだろう。法律の世界に、「後で」という時間は、ない。あるのは、「いつまでに」と「期日までに」だけ、だった。


 私は、もう一度、礼を取った。深く、しかし、退かない角度で。



    ◇



「では、こちらから、八項目を、順にご提示申し上げます」


 私は、腰のポーチから、手帳を取り出した。表紙の右端は擦り切れていて、私が一年使ってきた証拠が、そこに残っていた。


「第一項目。雇用主のお名前とご署名。第二項目。業務内容の特定──疫病沈静化、と神託にあると伺いましたので、その範囲を文書で。第三項目。業務時間。第四項目。報酬の額、支払時期、支払方法。第五項目。安全衛生──業務上のご感染、ご負傷の予防および医療体制。第六項目。補償──業務上死亡された場合の遺族補償、ご負傷の場合の療養補償の規定。第七項目。契約期間および帰還条件。第八項目。一方的解約事由およびその場合の補償」


 私は、手帳から、目を、上げた。


「以上でございます」


 広間の天井の高いところで、何かの鳥の影が一瞬、過ぎた。窓の高さが、私の声の届く距離を、どこか拡げているようだった。


 祭服の男が、最初に、答えた。


「神託の通り、聖女様は神に従う」


 銀の鎧が、続けた。


「警備計画は口頭で十分だ」


 王太子が、苛立ちを隠さずに、片手を振った。指輪の青い宝石が、広間の灯を、無意味に、反射した。私は、ペン先で、自分の手帳の隅に、小さく、メモを取った。「指輪・装飾的・刻印見えず」。


「金の話か」


 王太子が、結論として、言った。



「『後で』とは、いつでしょうか」



 私は、敬体のまま、問い直した。


「文書での約束を、いただけますでしょうか」


 広間の四人目の男──書類袋の紺色の制服──が、初めて、ほんの僅か、私の方を、見た。それから、自分の腕の書類袋を、片手で、抱え直した。革は、何度も使われた、艶を、持っていた。



「業務開始前に、八項目のご提示をお願いいたします」



 私は、繰り返した。今度は、語尾を、少しだけ、強くして。



「失礼ながら、業務開始は、不可能でございます」



 広間が、それまでとは、別の質の沈黙に、変わった。



    ◇



 王太子が、最初に、その沈黙を、破った。


「不可能、とは何だ」


 私は、答えた。


「契約書のない労務提供は、業務命令として、無効でございます」


 祭服の男が、続いた。


「神に選ばれた者が、神に逆らうのか」


 私は、頷かずに、問い返した。


「失礼ながら、神託書のご提示を、改めて、お願い申し上げます」


 祭服の男の右手が、自分の懐の方へ、動きかけて、止まった。彼は、神託書を取り出さなかった。代わりに、声を、高くした。


「神託は、文書化する必要はないと、先ほど、申し上げた」


「では、神託の存在を、何によって、私は、確認すればよろしいでしょうか」


 祭服の男は、答えなかった。


 銀の鎧が、その沈黙を埋めようと、口を開いた。


「警備計画は、団長である私が、口頭で承る」


 私は、丁寧に、頷いた。


「では、その口頭の警備計画を、文書化していただけますでしょうか。第五項目の安全衛生に関わるため、私の側で、確認の必要が、ございます」


 銀の鎧が、束の間、答えに、詰まった。


「……後日でよかろう」


「『後日』とは、いつでしょうか」


 私は、また、同じ問いを、返した。


 そして、王太子の方へ、視線を、移した。


「失礼ながら、王太子殿下。ご署名のご権限を、お持ちで、いらっしゃいますか」


 広間が、静止した。


「何を──」


「いえ、お疑い申し上げているわけではございません。ただ、ご署名権限と執政印は、ご身分とは別個の制度でございますことが、私の世界では一般的でございましたので、念のため、確認させていただきたく」


 私は、視線を、王太子の右手の指輪に、ほんの一瞬、向けた。


 広間に、別の沈黙が、降りた。


 深紅の祭服が、何かを言いかけた。神官長の唇が、開いて、閉じた。


 銀の鎧が、自分の足元を、見た。


 王太子は、自分の指輪を、無意識に、左手で、覆った。


 私は、それらすべてを、地の文で、記録した。三人とも、署名権限の所在について、即答できなかった。それは、回答の遅延ではなく、回答の不在を、意味した。


 私は、もう一度、最初の問いを、繰り返した。


「最初に、契約書を、いただけますでしょうか」


 そして、付け加えた。


「ご署名の権限を、正規にお持ちの方の、お手から」


 広間の四人目の男──ずっと一歩控えていた紺色の制服の男──が、その時、ようやく、一歩、前に出た。


 革の書類袋を、抱え直していた。


 彼が、その書類袋を、いつから抱えていたのか、私は、その時まで、意味づけてはいなかった。けれど、いま、思い返してみれば、彼は、私が降臨した瞬間から、それを、抱えていた。私が「契約書をいただけますか」と最初に問うた時から、彼は、それを、抱えていた。


 私は、彼の方へ、視線を、向けた。


 彼は、私と目が合うと、軽く、礼を、取った。深くはないが、十分に丁寧な、官吏としての、礼だった。



    ◇



「失礼」


 その男は、低く、けれど、よく通る声で、言った。



「すべての項目に署名する権限は、私にあります」



 私は、礼を返した。深さを、相手と、揃えて。


「失礼ですが、お名前とご身分を、よろしければ」


「セルウィウス・ヴァルディ。内務尚書を拝命しております」


 王太子が、彼の名を、初めて、声に、出した。


「セルウィウス、お前──!」


 セルウィウスは、兄に向かって、振り返らなかった。代わりに、自分の懐から、片手で、何かを取り出した。重みのある、銀色の、印章。それを、王太子の見える位置で、片手の上に、載せた。


「兄上。署名権限は、内務尚書である私に、譲渡されております。執政印は、こちらに」


 広間の貴族たちが、息を呑む音が、ばらばらと、聞こえた。


 王太子の指輪の青い宝石は、執政印では、なかった。装飾の宝石だった。私が記録した通りの、ただの装飾、だった。


 セルウィウスは、執政印を、片手の上に載せたまま、神官長の方へ、視線を、移した。


「神官長殿。神託書のご提示を、結城殿のために」


 神官長は、答えなかった。彼の右手は、もう、自分の懐へ、動かなかった。代わりに、視線を、床へ、落とした。


 セルウィウスは、頷いた。



「では、私の責任において。神託は、文書化されておりません。よって、結城殿のご指摘は、完全に、正確です」



 私は、初めて、敬語の鎧を、ほんの少し、緩めた言葉を、口にした。


「あなたの認識は、私の認識と、一致いたします」


 セルウィウスは、初めて、私の方を、まっすぐに、見た。


 彼の制服の裾には、薄く、土埃のような汚れが、あった。降臨の瞬間から、私が、覚えておいたものだった。革の書類袋の艶は、使い込まれた者の証だった。彼は、儀礼の場のために装ってこの広間に来たのではなく、別の場所で別の仕事をしていた途中で、ここへ呼ばれて、来ていた。


 そして、書類袋を、最初から、抱えてきていた。



「では、契約交渉に入りましょう」



 セルウィウスは、それだけを、言った。


 聖騎士団長が、何かを、言いかけた。


「セルウィウス様、警備の手配が──」


「警備計画書を、明日午前までに、文書で、提出してください。提出のない場合、内務省は警備の予算を、承認しません」


 セルウィウスは、振り返らずに、それだけを、答えた。


 銀の鎧の男が、口を、閉じた。


 セルウィウスは、王太子と神官長と聖騎士団長の三人を、それぞれ、短く、見た。視線は、抗議でも、軽蔑でも、なかった。ただ、業務の処理として、彼らをそこから外す、視線だった。


「兄上。本件は、内務尚書として、私が、引き取ります」


 王太子は、何かを言いかけて、結局、何も、言わなかった。



    ◇



 セルウィウスは、私の方へ、改めて、視線を、戻した。


「結城殿。会議室へ、ご案内、申し上げます」


 彼は、片手で、広間の側面の扉を、示した。私は、礼を返して、彼の半歩後ろを、歩いた。身分として後ろを歩いたのではなかった。客として、案内されただけの、距離だった。


 扉の向こうの会議室は、簡素だった。長い卓と、椅子と、壁の書架。書架には、製本された記録が、年代順に、並んでいた。卓の傍には、すでに、一人の若い男が、羽ペンと紙を、準備して、立っていた。


「補佐官のカイルでございます」


 セルウィウスが、紹介した。カイルは、深く、礼を取った。彼の右手の中指の側面には、長年のペンの跡が、薄い隆起になって、残っていた。


 セルウィウスは、革の書類袋を、卓の上に、置いた。袋の口を開けると、中から、複数の様式の文書のひな形が、現れた。


 私は、それを、目だけで、確認した。労働条件通知書。雇用契約書。安全衛生規程。労災補償規程。すべて、空欄を埋めれば、その日のうちに発効する形式の、ひな形だった。


「ご準備されて、いらしたのですね」


 私は、敬体のまま、事実を、確認した。


「召喚陣に、不備があることは、複数の関係者が、以前から、認識しておりました」


 セルウィウスは、卓の椅子を、私のために、引いた。


「カイル、八項目の条文化を、この場で、行います」


 カイルは、頷いた。それから、私の方へ、視線を、向けた。


「結城様、第一項目から、ご口述、ください」


 私は、手帳を、卓の上に、置いた。手帳の隅の「労働基準法第七十五条」のメモが、紙の上に、上向きで、見えた。


「第一項目。雇用主──ヴァルディ王国、内務尚書、セルウィウス・ヴァルディ閣下」


 カイルの羽ペンが、紙の上を、走り始めた。


 それは、現代のボールペンと、ほぼ同じ角度の、握り方だった。



    ◇



 第二項目から第七項目までは、前世で何度も書いた条文の、語の置き換え作業だった。私は、口述の速度を、カイルの羽ペンの速度に、合わせた。カイルは、合わせる必要を、ほとんど、感じさせなかった。


 第八項目に、私は、少し、時間を、かけた。


「一方的解約事由およびその場合の補償──」


 セルウィウスは、卓の向こう側で、聞いていた。


「結城殿。この国の現状では、解約事由は、一方的にこちら側からのみ発生する可能性が、高うございます」


 私は、頷いた。


「でしたら、解約の場合の補償は、業務遂行中の各種補償と、同水準でなければ、釣り合いません」


「賛成いたします」


 カイルが、頷いて、その条文を、書いた。


 そして、第五項目と第六項目──安全衛生と補償──のところで、私は、敬体のまま、改めて、申し上げた。


「失礼ながら、この国に、業務上のご負傷・ご感染・ご死亡に関する、聖女向けの規定は、ございませんね」


 セルウィウスは、即答した。


「ございません」


「では、本日、起草することに、なります」


「起草いたしましょう」


 カイルが、新しい紙を、卓の上に、置いた。


 私は、十年分の労災認定実務の中から、最も骨格の太い条文を、口述した。第一条──業務範囲の定義。第二条──業務上の負傷および感染の認定基準。第三条──業務上の負傷・感染・死亡が認定された場合の、王国による全額補償義務。第四条──遺族の範囲および補償の支払先。第五条──審査機関の独立性。第六条──不服申立ての手続。


 カイルは、すべてを、書き取った。


「以上、六条」


 私は、口述を、終えた。


 セルウィウスは、卓の向こうで、立ち上がった。彼は、執政印を、もう一度、片手の上に、載せた。


「労災規定第三条は──」


 彼は、私の方を、まっすぐに、見ていた。



「本日、施行いたします。私の責任において」



 彼は、執政印を、起草された規定の末尾の、署名欄の上に、押した。重い、銀の音が、卓の上に、降りた。


 私は、深く、礼を、取った。



「労災規定のない召喚は、業務開始不可能でございました」



 私は、顔を、上げた。



「これにて、不可能では、なくなりました」



    ◇



 会議室の窓は、王宮の東棟の方を、向いていた。


 セルウィウスは、窓の傍で、執政印を、自分の懐に、戻した。カイルは、契約書と労災規定の原本を、複写のために、別室へ、運び出した。会議室には、私と、セルウィウスの二人だけが、残った。


「では、業務開始と、いたしましょう」


 セルウィウスは、窓の方を、見ていた。


「結城殿、執務室をご案内、いたします」


 私は、立ち上がった。彼の方へ、一歩、近づいた。身分としての一歩では、なかった。一緒に歩き出すための、一歩、だった。彼が、扉の方へ、歩き始めた。私は、彼の半歩、横を、並んで、歩いた。


 窓の外、王宮の屋根の向こうに、薄く、赤い雲が、見えていた。


 疫病の雲だった。空気の特定の温度で発色する、地上の死者の数の、視覚的な像だった。私の仕事は、たぶん、あの雲の下に、あった。


 私は、扉の前で、一度、足を、止めた。


 セルウィウスも、足を、止めた。


 私は、彼の方を、見た。彼は、振り返って、私を、待っていた。


「結城様」


 カイルが、別室から、戻ってきた。両手に、契約書の原本と、労災規定の原本を、抱えていた。


「ご署名のお時間を、いただいてもよろしいでしょうか」


 私は、頷いた。


 カイルが、卓の上に、原本を、置いた。


 セルウィウスが、最初に、署名を、した。執政印が、署名の下に、押された。


 私は、卓の傍に、進んだ。羽ペンを、受け取った。署名の角度は、現代日本の社労士事務所で書く時と、同じ、だった。


「結城 怜」


 私は、それだけを、書いた。


 そして、ペンを、置いた。


 顔を、上げた。



「これでようやく、業務を開始できます」


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