命は無料、入国は有料
森を抜けた瞬間、風が変わった。
湿り気を帯びた冷たい空気から、乾いた土埃の匂いへ。
空は広く、雲の流れがやけに速い。
木々が途切れ、視界の先にゆるやかな丘陵が広がっていた。
直人は立ち止まり、背後を一度だけ振り返る。
森は、もう静まり返っている。
しばらく歩くと道が現れた。
踏み固められた土の道。
車輪の跡。
人の往来がある証拠。
直人は、その道の中央に立って、少しだけ肩の力を抜いた。
「……やっと、“人の世界”か」
道の先には当目で見てもわかる大きな壁が立っている。
直人はそのまま壁の近くまで足を運ばせた。
「でっか」
見上げれば、城壁――それは重々しい重圧を放っている。
壁の向こうからは、話し声。
笑い声。
鍋を叩く音。
門番は二人。
どちらも鎧は軽装で、片方は欠伸を噛み殺している。
「次の隊商、まだかねぇ」
「日暮れ前には来るって話だったろ」
直人は、その会話を聞きながら、何食わぬ顔で近づいた。
門番の一人が、気づいて声をかける。
「おーい、そこの兄さん。入国か?」
「ああ」
直人は立ち止まり、軽く手を上げた。
「旅の途中でな。今日は宿を探したい」
門番は、直人を上から下まで眺める。
装備は軽い。
荷も少ない。
服装も、この辺りじゃ見ないものだ。
「身分証は?」
「ない」
「……通行証は?」
「それもない」
門番は、眉を寄せた。
「外から来たのか?」
「まあ、そんなとこだ」
もう一人の門番が、面倒そうに口を挟む。
「金は?」
直人は、一瞬だけ黙った。
それから、正直に言った。
「持ってない」
二人の門番が、顔を見合わせる。
沈黙。
「……冗談だよな?」
「冗談ならよかったんだが」
直人は、肩をすくめた。
「森で色々あってな。今は、手持ちがない」
門番は、溜息をついた。
「兄さん、この国――エルドラルはな、入るだけでも銅貨が要る」
「一人につき、三枚だ」
「三枚」
直人は、内心で舌打ちした。
「払えないなら?」
門番は、事務的に答える。
「引き返してもらう」
「……融通は?」
「ない」
即答だった。
直人は、門の横に寄りかかり、しばらく考えるふりをした。
無理に通ろうとすれば、確実に揉める。
ここで騒ぎを起こすのは、得策じゃない。
(ビスタがいるかもしれない国で、目立つのは最悪だ)
「じゃあ、こういうのはどうだ」
直人は、門番の一人を見る。
「働く。中で」
「は?」
「肉体労働でも、雑用でもいい。稼いだ分から通行料を引いてくれ」
門番は、目を丸くした。
「……珍しいこと言うな、お前」
「背に腹は代えられなくてな」
しばらく、二人でひそひそと話す。
やがて、欠伸していた方が、顎で街の中を示した。
「北区画に、土木の詰め所がある。人手不足だ」
「そこで一日働けば、銅貨三枚くらいにはなるだろ」
「その間、門は?」
「閉めねぇよ。俺たちが覚えとく」
直人は、小さく息を吐いた。
「助かる」
「勘違いするなよ」
門番は、少しだけ声を低くする。
「これは“例外”だ。次はない」
「十分だ」
直人は、門をくぐる。
門をくぐった瞬間、直人は――わずかに、息を詰めた。
街並みは先ほど見えた通りだ。
商人の屋台。
石畳。
洗濯物を干す家々。
人の声も、生活の匂いも、確かにある。
「……嫌な感じだな」
空気が、張り付くように重い。
胸の奥を、じわじわと押される感覚。
それなのに、直人の本能が警鐘を鳴らしていた。
(森より、よっぽど落ち着かねぇ)
理屈じゃない。
“外の世界”で生きてきた直人の感覚が、ここを危険と断じている。
直人は、ゆっくりと歩き出した。
石畳を踏む靴音が、やけに大きく響く。
周囲では人々が普通に暮らしている。
笑い、値切り、怒鳴り、冗談を言う。
どれも見慣れた“人の営み”だ。
なのに。
(……重い)
原因は、住人じゃない。
誰一人として直人を見張っている様子はないし、敵意も感じない。
むしろ無関心だ。
しかし空気が、押し潰すように存在している。
まるで目に見えない巨大な手が、街全体を上から押さえつけているみたいだった。
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