ようこそ異世界、さようなら安全圏
異世界転移。
ラノベで何度も読んだ設定だ。
しかし実際に起こってしまうと、どうにも気が乗らない。
「異世界転移って、もっと親切なものだと思ってたんだけどな」
チュートリアルとか、説明役の女神とか。
そういうものが一切ないのは、正直どうかと思う。
現実はというと――
俺はただ乱暴に、ボロ雑巾みたいに大自然の中へ放り出されていた。
起き上がろうとした瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
息が、うまく吸えない。
何かが身体の外側から押さえつけてくる。
見えない規則が、肺の動きをなぞっているような、
気持ちの悪い感覚だった。
これは、体がまだこの現実を受け入れきれていないだけ――
そう思うことにした。
軋む体を動かし、俺は周囲を見回す。
そこには、見渡す限り木、木、木。
森だ。
日本でよく見る杉やら広葉樹やらとは、微妙に違う。
幹は異様に太く、樹皮にはうっすらと青みが混じっている。
葉は針葉樹みたいに細長いのに、触ると妙に柔らかい。
風が吹くたび、葉同士が擦れて、金属音に近い高い音を立てた。
「……ほんとに異世界かよ」
悪態をつこうとして、また胸が締めつけられる。
さっきよりはマシだが、呼吸のたびに違和感が残る。
空気が重いというか、密度が違うというか。
肺がこの世界の“仕様”を必死に読み込んでいる感じがした。
試しに深呼吸。
――できた。
少し苦しいが、死ぬほどじゃない。
「環境適応中、ってやつか?」
誰に聞かせるでもなく呟く。
返事は当然ない。
女神も、システム音声も、画面に浮かぶステータスウィンドウもなし。
相変わらず不親切な世界だ。
立ち上がろうとして、今度は別の違和感に気づいた。
身体が、軽い。
いや、正確には“反応が速い”。
地面に手をついた瞬間、思った以上にあっさり体が持ち上がる。
筋肉が勝手に最適な動きをしている感覚。
運動神経がワンランク……いや、ツーランクくらい上がっている気がした。
「……これ、もしかして」
ラノベ的お約束が、遅れてやってきた可能性。
ステータス、と心の中で念じてみる。
何も起きない。
「だよなぁ……」
苦笑しつつも体の変化は普通ではなかった。
そのとき――
ざわり、と森の奥が揺れた。
風じゃない。
規則的で、重い音。
地面を踏みしめる振動が、足裏から伝わってくる。
反射的に身を低くする。
心臓が跳ね、さっきまでとは別の意味で息が詰まった。
木々の隙間から、何かが覗く。
黒褐色の毛皮。
太い前脚。
獣――だが、サイズがおかしい。
牛ほどの体躯を持つ狼。
いや、狼に似た“何か”。
赤い目が、まっすぐ俺を捉えた。
「あー……」
思わず声が漏れる。
剣も魔法も、知識も準備もない。
完全な初期装備、ゼロ。
それでも不思議と、頭は冷えていた。
逃げるか。
隠れるか。
それとも――戦うか?
心の中で色々なものが混ざり合うような感覚の中で……
狼型の化け物と、数秒――いや、もっと短かったかもしれない――視線が交錯した。
次の瞬間、そいつは低く唸った。
腹の底に響くような音。
それだけで、これは“野生動物”じゃないと分かる。
威嚇の仕方が、妙に理性的だった。
「……やっぱ来るよな」
逃げるなんてのは無理だ。
どこに向かって逃げればいいのか分からないし、相手は四足。
しかもデカい。追いつかれる未来しか見えなかった。
なら――隠れる?
視線を切ろうと、近くの太い木の陰に身を寄せた、その瞬間。
地面が爆ぜた。
化け物が跳んだのだ。
助走もほとんどなく、信じられない跳躍力で距離を詰めてくる。
「くっ――!」
身体が、勝手に動いた。
頭で考えるより先に、脚が地面を蹴り、横に転がる。
さっきまで俺がいた場所に、巨大な前脚が叩きつけられ、土と木の根が吹き飛んだ。
――速い。
でも、見えている。
不思議な感覚だった。
恐怖はある。心臓もバクバクしている。
それなのに、動きが“読める”。
化け物がもう一度跳ぼうとした、その瞬間。
俺は足元の小石を蹴り上げた。
狙ったわけじゃない。
ただ、邪魔になるものをどかしただけ。
だが、その石は、異様な速度で飛んだ。
「……は?」
乾いた音。
石は化け物の横顔に当たり、赤い目のすぐ下を抉った。
ギャアッ、と甲高い悲鳴。
巨体がよろめき、着地に失敗して転がる。
疑問を抱く暇はなかった。
好機だと、本能が叫んでいる。
地面に落ちていた、折れた木の枝を掴む。
いや、枝というには太い。ほとんど棍棒だ。
握った瞬間、またあの感覚が来た。
見えない規則が、腕の動きをなぞる。
どう振ればいいか、どう踏み込めばいいか――知識じゃなく、感覚として流れ込んでくる。
「……マジかよ」
化け物が立ち上がろうとする、その首筋に向かって――
俺は、全力で振り下ろした。
鈍い衝撃。
手応えは最悪だったが、一撃で相手の動きが止まる。
脚が痙攣し、赤い目から光が失われていく。
数秒後。
森は、再び静かになった。
「……勝った?」
棍棒を握ったまま、俺はしばらく動けなかった。
息が荒く、手が震えている。
でも――生きている。
化け物の死体を見下ろしながら、胸の奥の圧迫感が、少しだけ和らいだ気がした。
代わりに、別の感覚が芽生える。
――ここで生きろ。
そう言われているような、逃げ場のない実感だった。
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