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28 卑怯者

 あんなにも恐ろしかった義母は、私にはもう手が出せない。


 不敗の軍神と呼ばれる夫アーロンに守られて、私は幸せだ。


 ……心からそう思う。何があったとしても、私を守ってくれる。愛してくれる。誰よりも肯定してくれる。


 アーロンは私との距離を縮めようとしてか、ことある毎に逢瀬(デート)を望んだ。


 今日も王都の郊外にあるにある、小さな村で買い物をしようと言うのだ。エタンセル伯爵家での生活を話せば、彼は遠出を良く提案してくれた。


 馬車で二時間ほどかかる道のりだけど、アーロンと一緒ならば気詰まりすることもなく、長時間の移動も楽しむことが出来る。


 お母様が亡くなってから、私が失った何もかもを、彼が取り戻してくれたような気がしていた。


「しかし、帳簿を確認して驚いた。ブランシュ」


 馬車に揺られて変わらない風景を写す窓をぼんやり見ていた私に、アーロンは言った。


「自分は生活するのに必要な物以外何も買わずに、仕事ばかりしていたか……クウェンティンは、俺の言うことを聞いていないな」


 私は苦笑した。


 執事クウェンティンは料理人に頼まれたとかで、途中の村で新鮮な海産物を仕入れに行って、今一緒には居ない。


「きっと、クウェンティンはこう言うわ。旦那様には奥様の意向を第一にとお聞きしております。奥様は贅沢な生活は、望まれませんでした……って」


 今ではクウェンティンの無表情や、こちらの話を言葉通りにしか受け止めないという理由が私には理解出来ている。


 彼は裏稼業を営む暗殺者として育てられたから、気持ちの機微がわからずに、そのまま大人になってしまった。


 ……あまりにも育った環境が特殊過ぎて、感情を殺すことが当たり前になってしまったのかもしれない。


 アーロンは真面目な表情をして頷いた


「俺がもっと細かく指示をしていれば、良かった。悪かった」


「いいえ。アーロンはこの国を……私の命を守るために、それこそ死ぬ気で戦ってくれていたのです。それを感謝こそすれ、非難したりするなど、絶対に出来ませんわ」


 アーロンは三倍の数の軍勢を相手に、それこそ死に物狂いで私たちを守ってくれたのだ。


「ブランシュ……お前に会う前にはもう、戻れない。軍人だって辞めても良い。周辺国は当分何も出来ない。平和が続くだろうし……今は誰も、俺に将軍であることを強要しない」


 私と結婚するために将軍となったアーロンは、今では不敗の軍神と恐れられるようになってしまった。


「けれど、アーロン。辞められますか? 皆、貴方を頼りにしています。もちろん、私だって一緒です」


 アーロンさえ居れば大丈夫だと思われてしまうくらいに、彼が考え出すいくつもの奇策や知略は素晴らしいらしい。


 辞めたいという事は簡単だけど、おそらく周囲は必死で止めるはずだ。


「だが、ひとたび戦いが起これば一年も……いや、それ以上に妻に会えなくなる。それは、嫌だ」


 ため息をついたアーロンだけど、私は彼が簡単に辞められないだろうと予想し、何も言わないことにした。


 きっと辞められるわと励ます事は簡単だけど、きっと、キーブルグ侯爵位を維持させる事を考えれば、辞められないはしないもの。



◇◆◇



「まあ……すごく素敵だわ」


「ゆっくりまわろう。近くに宿を取っても良い」


 観光で栄えているという小さな村には可愛らしい土産もの屋が建ち並び、私はどこの店に入ろうかと目移りしてしまった。


「……どれもこれも、可愛いわ。どうしようかしら」


 アーロンに困ったように問いかければ、彼は苦笑して頷いた。


「選ぶなら時間を掛けても良いし、どれも欲しいと迷うのなら、店ごと全部買い取っても良いが」


「それは、しないで!」


「冗談だよ」


 キーブルグ侯爵家はお金に困っていないことは私だってわかっているけれど、これだけの土産ものをすべて買い取りするなんて、置き場所にも困ってしまう。


「……それに、それだけのお金を使うなら、キーブルグの領地で思う存分買い物をしたいわ」


 キーブルグ家の領地ならば領民が潤うけれど、ここは王家の直轄地。私たちがお金を使っても治める民には届かない。


「一年間留守にした間に、俺の妻は領地経営も上手くなってしまって、俺もなんだか立つ瀬がないよ」


 やれやれと肩を竦めたアーロンは、急に驚いた顔をして背後を振り向いた。


「……ヒルデガード!」


 私はそこに居るはずのない人物を見て、驚いて彼の名前を呼んだ。


「はははははは!!! 油断したな? 兄上がいなければ、俺がキーブルグ侯爵だ!」


 まるで気が触れたように笑い出したヒルデガードに、村の住民達は店をしまい家の中に逃げ込み始めた。


「お前……さっさと殺しておけば良かったよ」


 吐き捨てるように言ったアーロンの言葉を、ヒルデガードは鼻で笑った。


「ふんっ! 何を今更、先に地獄を見ろ!」


 私はアーロンが青い顔をしている事に気がついた。そして、彼の背中に赤い血が流れているのを。


「アーロン!!!」


 私の悲鳴を聞いて、アーロンは眉を寄せて言った。


「わかっている。大丈夫だ。ヒルデガードくらい、怪我をしていても殺せる」


 安心させるために言っているとわかっていた。背中からは大量の血が流れ、ヒルデガードは手に血に塗れた剣を持っていたからだ。


「あーあ。兄上。不敗の軍神も、背中を刺されて死ぬとは……軍人としては、一番不名誉な死に方ですね」


 ……なんてこと。私が殺さないでと言ったから……ヒルデガードは殺すべきだと、アーロンやクウェンティンが何度も何度も言ったのに!


「背中の傷など、見せなければ意味もない……」


「その傷で、強がりがいつまで続くでしょうか。ここで死んだら、兄上のものはすべていただきます。キーブルグ侯爵家の血を持つ僕だけです。妻も可哀想だから、引き取りますよ。実家には帰りたくないようですしね」


 嫌な笑い。私がエタンセル伯爵家に戻されれば、どうなるかを知っているんだ……だから、逆らわないだろうと?


「……ふざけないで! 死んでも貴方の妻になんてなるものですか!」


 私は倒れ込むアーロンを支えて、ヒルデガードを睨み付けた。


「姉上?」


 ヒルデガードは私が声の限り叫んだことで、呆気に取られているようだ。これまでのことを考えて、私は自分には、逆らわないと思っていたのだろう。


「私はキーブルグ侯爵夫人よ! 私は自分の夫を守るわ。もし、彼を殺すというのなら、私を先に殺しなさい!」


 村の中に響き渡るような声で睨み付けながら叫んだ私に、目を見張ったヒルデガードは怯んでいるようだ。


 ……何よ。


 あの時にひどく恐れていたものは、こんなにも……弱くて卑怯で、私の怒りの言葉にも言い返せない、くだらない男だったのね。



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