黄昏
明美・・・30歳女性。歌手を引退したばかり。
主人・・・50代女性。定食屋の女主人。
黄昏時、ある定食屋に一人の女性がやってくる。
主人「いらっしゃい。明美ちゃん」
明美「こんにちは~、ん?もうこんばんは?」
主人「好きな方でいいのよこんな曖昧な時間は、誰も分かってないんだから正解なんて」
明美「そんな適当でいいの?」
主人「適当がいいの」
明美「そんなもんですか」
主人「そんなもんです・・・いつものかい?」
明美「お願いします」
主人「はいよ!味噌カツ一丁、はいお水」
明美「ありがとうございます」
主人「先日はありがとうね、改めてお疲れ様」
明美「こちらこそありがとうございます。女将さん来てくれて嬉しかった」
主人「そりゃ行くわよ、最後と聞けばなおさらね」
明美「どうでした?」
主人「最高だったわよ、泣いちゃったもん」
明美「号泣してましたね」
主人「しょうがないじゃない、頑張ってきたの知ってるんだもん、あなたも泣くと思ってたけど」
明美「だって号泣している人がいたから」
主人「あたしのせい!?」
明美「うそうそ、女将さんのせいじゃないです・・・私も意外だったんです」
主人「意外?」
明美「はい、私も最後泣いちゃうだろうなって思ってました。実は私、その日の最初の曲からあと何曲歌ったら引退だってカウントしてたんです。どんどん減っていく数、あと4曲、3曲・・・その辺が一番寂しかったかも・・・あと2曲、これで最後、これで引退、よしちゃんと歌うぞ、私のありったけを聞いてもらうぞ~って思ってたら終わってた」
主人「明美ちゃんらしいね」
明美「そうですか?」
主人「そうです」
明美「そのらしさのせいか、なんか未だに実感が無いんですよね」
主人「実感が?」
明美「そう、私、引退しそこなったのかな・・・もう歌手じゃないのに全然変わった気がしない」
主人「そうなの?」
明美「私にとってこの決断は大きなことだった筈なんです。この日に辞めると決めた時胸が引き裂かれそうだったのに」
主人「それなのに平気な自分がいると」
明美「そうなんです、小さい時から歌が好きで歌ってた、念願だった歌手の活動を始めて、私には歌しかなかった、歌を歌うことが私の人生だった・・・実際にそれを辞めたのに私は私のまま、もっと戸惑ったり、悲しかったりして激変すると思ってたのにな、実は私にとって歌ってそんなもんだったのかな。」
主人「そりゃそうよ」
明美「やっぱり・・・」
主人「違う違う、私は私のままってところ」
明美「え?」
主人「人は簡単には変わらない、何かを辞めたからってその瞬間を境に違う人になったりなんてしない」
明美「・・・」
主人「変わるとしたらゆっくり変わっていくんだと思う。曖昧な淡い部分があってそこから少しずつ濃淡が出来ていくように少しずつ少しずつ積み重なって変わるんだと思うよ」
明美「そんなもんですか」
主人「そんなもんです。それに歌手を辞めても明美ちゃんにとって歌が、音楽が大切なことは変わらないでしょ」
明美「そうですね、ありがとうございます」
不意に上を向く明美
主人「どうしたの?」
明美「実感が遅れて来ました。泣きそう」
主人「あらま」
明美「とりあえず大丈夫です。はぁ女将さんは凄いな、カッコいいな」
主人「でしょ、よく言われる」
明美「はは」
主人「明美ちゃんは今後どうするの?やりたいこととかあるの?」
明美「実は何にもないんです。引退するってことだけ決めてたから、何か見つかるといいんですけど」
主人「だったらママやってみない?」
明美「ママ!?」
主人「そう、知り合いにいい人居ないって言われてて」
明美「でも、お付き合いもしてないのにいきなりママってハードル高いというか
とりあえず一度お食事してからじゃないとお返事出来ないというか、それに私がお子さんに気にいって貰えるかも分からないし。子育ての経験もないし。確かにもうそろそろ結婚は考えてもいい歳だとは思うけど、そもそも会ったことはおろか今は顔も知らないし。やっぱりいきなりママは・・・・」
主人「ちょいちょいちょい、暴走しない、スナックのママね」
明美「・・・分かってたよ・・・分かっていましたとも」
主人「何でそんなに免疫ないの?」
明美「音楽に集中しようと思って、恋愛辞めてから始め方が分からなくなった」
主人「明美ちゃんらしいね」
明美「そうですか?」
主人「真面目で集中すると他の事なんて吹っ飛んじゃう。」
明美「ごめんなさい。」
主人「何で、謝るの?」
明美「ご迷惑を沢山かけたのではと思いまして」
主人「そりゃかけられたわよ」
明美「やっぱり」
主人「でもね、私も明美ちゃんには迷惑をかけたこといっぱいある。助けて貰ったこともいっぱいある」
明美「そんな私の方が助けて貰ってばっかりで・・・」
主人「そんなことないわよ、急遽お店手伝って貰ったこともあるし、お店にこうして来てくれるだけで嬉しいし、顔を見るだけで力が貰える。明美ちゃんの歌に何度も勇気貰った。」
明美「このタイミングでそんなこと言わないで下さいよ、お店の手伝いも生活の足しになってありがたかったし、私だって女将さんに会うとパワー貰えるんです。毎回女将さんがライブに来てくれるから頑張って歌を歌えた、こちらこそ感謝しかなくて」
主人「だからお互い様。助けて、助けられて、迷惑かけて、かけられてそうやってありがとうとごめんなさいを交換してるうちに明美ちゃんは私にとって大切な人になった。そしてあなたにとっての大切の一つに私がいて欲しいと願ってる」
明美「せっかくさっきこらえたのに、勿論、女将さんは私に取って大切ですよ。」
主人「ありがとう・・・どう?私の恋愛の始め方講座」
明美「・・・もしかして、からかってました?」
主人「まさか。本気8割よ」
明美「2割は!?」
主人「さぁね」
明美「もう、でも為になりました。恋愛もチャレンジしてみます」
主人「変な男には引っかからないようにね。」
明美「大丈夫ですよ。私、見る目はありますから」
主人「不安がってくれた方が安心出来るのに」
明美「どういうこと!?」
主人「そういうこと、とにかく出来たら私に紹介すること」
明美「お父さんに紹介するより怖い」
主人「そう?」
明美「そうですよ。女将さんのせいで婚期が遅れそう」
主人「嘘っ!それは良くないわ、冗談だから、教えてくれるだけでいいから」
明美「そこは聞くんだ」
主人「心配だもん・・・」
明美「ちゃんと紹介しますって、さっきのは仕返しです」
主人「あら、一本取られたわね」
明美「はは、それで、ママって?」
主人「そうそう、知り合いって言うかうちのお客さんでね、お店を持ってるんだけど、そこのママが年齢もあって引退を考えてるそうでね。誰か代わりになる人を探しててね」
明美「それで私?私飲み屋の経験とかないよ?」
主人「大丈夫よ、全てに言える事だけど、大切なのは気配りだから、その点、明美ちゃんなら太鼓判押せる」
明美「なんかのせられそう」
主人「別に無理にって訳じゃないのよ、オーナーが趣味でやってる店だし、別にやりたいことが見つかるまでの繋ぎになればと思って」
明美「やってみたい気持ちはあるけど、務まるかな私に」
主人「大丈夫よ、そこのママも直ぐに引退って訳じゃないし、オーナーもママもすっごくいい人だから。代わりのママは探してるけど絶対にって訳じゃない。今は手伝ってくれる人が欲しいんだって」
明美「うん、それならやってみようかな。生活もあるし」
主人「本当?じゃ連絡しとく」
明美「ありがとうございます。私がスナックかーイメージ湧かないな」
主人「そう?イメージしか湧かないけど」
明美「嘘!?」
主人「本当、なんならもうカウンターに立ってる」
明美「勝手に立たせないで下さい。」
主人「芋、水割りで」
明美「続けないで下さい・・・イメージしたら不安になってきた」
主人「なんでよ、ここの手伝いと変わらないわよ」
明美「だって、お酒強くないし、男性に慣れてないし、口下手だし」
主人「何言ってるの?それ全部武器よ」
明美「えー嘘!?」
主人「考え過ぎよ、そんなに考えたいならポジティブに考えなさい」
明美「そういう質なんです」
主人「それが悪いところとは思わないけど、せっかくやるなら楽しんだ方が勝ちよ。不安に思うってことはそれだけ期待してるってことなんだから」
明美「そっか私、期待してるのか」
主人「新しいスタートは全力で楽しむ、一生懸命が幸せの近道、やってやれないことはないんだから」
明美「いつも言ってますねそれ、完全にのせられました。楽しみます」
主人「よろしい、やってみたら案外楽しくてあなたも私みたいにお店したくなっちゃうかもよ」
明美「そうですかね?でもそれもいいかもね、女将さんのようにはなれないと思うけど」
主人「なれるわよ、未来のあなたが見える」
明美「本当に見えてそうで怖い・・・」
主人「フフフフ、あら出来たみたい、はいお待たせ味噌カツ定食」
明美「ありがとうございます。はーもう匂いが美味しい」
主人「嬉しいこと言ってくれるね」
明美「この匂いだけで幸せ感じます」
主人「本当?私はね、明美ちゃんがそう言ってくれることに幸せを感じる。これが私の幸せだって思うのよ、来てくれた人が美味しいって言ってくれる。また来るよって言ってくれる。もうそれだけで胸がいっぱいよ」
明美「これも交換なんですね・・・私、どんなことがあってもこの店に来て、女将さんと話して、味噌カツ食べれば幸せになれるから」
主人「もういっぱいだって言ったじゃない」
明美「本当のことを言ったまでです。それでは頂きまーす!」