第一計画【1999春Ⅶ】
「それでは彼女は一切傷が無いのですか? 先生」
「そのようです」
帝都東京大学付属病院。
日本最高の医療を受けられる場所という触れ込みが事実であるという以外は真面目な医者と看護婦達が立ち働く一角。
少女は友の訃報を前にして憔悴しながらも、そう彼が遺した妹の容態を聞く事になっていた。
「全て正常です。ただ……」
「ただ?」
「認識に一部齟齬があるらしく。兄君の事は慎重にお伝えしたのですが、担ぎ込まれてから最初に話した青年が待っているようにと言っていたらしく。兄が迎えに来ると信じている様子で……」
「そう、ですか」
「はい。宮角家から幾らか貰っていますし、数日の入院は問題ありませんが……」
「分かりました。後はこちらでどうにか」
「はい。申し訳ありません。さすがに精神医療の方面はこの短期間ではどうにも……」
医者からの説明を受けた彼女宮角結は思う。
とても、受け入れられる事ではない。
というのは誰にもある事だと分かっていたからだ。
「お嬢様」
「ああ、大佐……今から彼女に話してくる」
「……こちらで精神科医をお連れする事も出来ますが」
「ありがとう。でも、これは自分でやりたい事なんだ」
「……分かりました。学校側にはしばらく気分が優れないとの名目でお休みを取っておきます」
「悪いけど、お願いするよ」
背後に護衛者を付けたまま。
彼女が歩き出す。
(………)
何も考えられないというのが事実かもしれない。
そして、襲われた理由が単純に自分と間違えられたというのもこぶしを痛めてしまいそうな程に握りしめるしかなかった。
それでも彼女は彼女の寄って立つ場所の上で正しく振舞わねばならない。
人の上に立つ人間が取り乱していてはならない。
それは帝王学以前、人に傅かれる家に生まれた者の本能とすら呼べるだろう自戒であった。
「………」
無言のままに彼女がどんな顔で少年の妹に合えばいいのかという顔になって、近付いてくる病室前の通路にやってきた時。
病室が開いている事に気付いた。
「にーちゃん!? もぉ~~~遅いよぉ~~」
「ッ」
思わず彼女が固まっている合間にもすぐに偽物でも出たかと大佐が彼女の前に出ていつでも拳銃を抜けるように腰に手を掛けた。
「悪い。体をちょっと弄ってた」
「もぉ~~」
自分の知っている妹の兄とは違う声。
しかし、少女はまるで本当の兄が返ってきたかのように振舞う。
そして、彼女が中に入ると―――。
本当に彼女が知っている人物がいた。
「―――お嬢様!? 気を確かにお持ち下さい!! 彼はもう死んでいます」
さすがの大佐も驚いた様子になりながらも、偽物と断定した相手に拳銃を向ける。
「酷いですね。今度はちゃんとした珈琲を出す店に連れて行って欲しかったんですが……」
「ッ、貴様は一体……」
「な、何してるのおじさん!? にーちゃんだよ!! にーちゃん!!」
「悪いが君の兄は死んだ!! 死体を確認し、今もこの病院の地下冷暗室に保管されている!!」
「ああ、それは出来れば、後で返して貰えれば助かります。とても大事な体なので」
「大佐。少しだけ会話を……」
「お嬢様!? 死者は―――」
「不思議な事は世の中一杯あるさ」
「ッ……分かりました」
彼女は前に出て自分の知っている少年に見える相手を見据える。
「佐高君、なんだよね?」
「その問いには幾つか普通ではない常識を付け加える必要があるんですが、聞きたいですか?」
「うん……スゴク、聞きたいな」
「まず、今の肉体は前の肉体とは別のものを使ってます。神医と呼ばれてる医療を施す方法で変化させてますが、本来の顔はこっちです」
「「ッ」」
少年が自分の首に手で掴むと顔が変貌する。
「医療をしている力で肉体を変化させていると考えて下されば」
「君の治療の力は知ってるつもりだ。でも、そこまで変えられるものなのかい?」
「対外的には言ってませんから。ただ、体積は変わらないので極端に年齢や体格が違う相手には成れませんが」
「でも、君の体は……」
「ええ、あの体は死にました。元々、自分の体では無かったのですが、常に体は予備を置いてます」
「予備?」
「……今回の事件で人を怪物にする宗教団体がいた。そして、僕は彼らとはまた違った意味の怪物という事になります」
「違った意味の?」
「例えば、大佐と体を入れ替えられるとしたらどうでしょうか?」
「え?」
言ってる傍から彼女が見ていた少年が狼狽えた様子になり、彼女の横の大佐がポンと彼女の肩に手を置く。
それに彼女が驚いたのは必然。
何故なら、彼女の体に触れるなんて事は今まで一度も無かったし、これからも気を使ってくれるに違いないと思っていたからだ。
「こういう事です」
再び少年が何でもなさそうな顔になり、大佐が愕然として、慌てて彼女の肩から手を放す。
「も、申し訳ありません!?」
「……入れ替わった? 魂、みたいなものが?」
「少し違います」
「?」
「肉体は唯物論で出来ています。ですが、人格や精神を生み出す脳という常識とは別に魂や精神が肉体を操っているという系統の概念で成立するような生物がこの宇宙には存在するんです」
「つまり、精神が肉体を自由にするって事かな?」
「はい。嘗て、僕の祖父はそういう生物によって精神を交換されていたと推測しています。そして、その生物が精神を肉体に作用させるという技能を持ち、それは同時に情報として血統に受け継がれていた、というのはどうでしょう?」
「つまり、君はその精神存在の子孫としての力がある?」
「ええ、精神に宿る情報を用いて、こちらで言う呪文と呼ばれるような魔法みたいな技術を使う事が出来ます。殆ど自己流に改造していますけど」
「……ええと、それでその体は予備って言ってたけど、どういう?」
少年が妹に持ってきたクロタカ・サブレを一枚齧る。
「僕の能力的な方の祖父、つまり怪物は……僕の予測では時間を超えて、あらゆる世界に跳ぶ事が可能な存在です。が、僕は違います。この時間に縛られていて、過去や未来には跳べない」
「……跳べる肉体が現在にあるのが前提なのかな?」
「はい。ただ、脳に縛られない精神体としての僕は肉体に入れば、もちろん脳による活動に縛られるわけで、同時に魂を失った肉体には入り込む際には置換ではなく移動という形になります」
「つまり、魂を失った肉体があれば? 佐高君はそれに入って復活出来るのかい?」
「ええ、まぁ、色々と条件はありますが、僕が闇医者をしているのはそのせいでもある」
「君のお仕事の事はうん。知ってるけど、君の力が理由なのかな?」
「開業当初、僕はあの団地で同年代の男も見ていました。それは一つの契約を行う為のものです」
「契約?」
「死んだら、その体を受け取る権利。つまり、予備の肉体を確保する為の契約です」
「予備の……」
「この力による治療は精神の力で肉体を変質させる技です。ただし、唯物論的な概念ではなく。僕のような存在の常識。概念論的な力によって。そうすると、常識的な範疇を超えて肉体を変質させられるわけです」
「それで佐高君は顔を変えている、と」
「はい。ただ、この能力ならば、死者を蘇らせる事が出来ますが、それはあくまで僕の側の存在としてです」
「そちら側のってどういう事?」
「脳が動き出せば、魂は戻ってくると思いますか?」
「……どう、かな?」
さすがに彼女も悩むところだった。
頭は人格の発生機関であるというのは科学的な現代の知見では明白な事実だ。
しかし、それが破壊された後に再生されたとして、そこに再び人格が宿るかどうかというのはまったく未知の領域の出来事に違いなかった。
「今まで試した事はありますが、僕の力では肉体を再生し、活動を再開させる事は出来ますが、魂は戻ってきません。それは脳の中身が壊れているからとか。人格を司る脳の機能が初期化されているから、というような物理的な理由ではなく。単純に僕が治療したからです」
「ええと、どういう事?」
「つまり、肉体によって精神が発生するという科学的な法則に寄らない力で再生させた事で肉体から精神が発生しなくなります」
「それってつまり……」
「ええ、僕は精神生命体のようなものです。そして、僕の側の理は“精神が肉体を優越する”わけです」
「精神が死んだら、肉体は入れ物に過ぎないって事?」
「はい。死人の体を蘇らせる事は出来ますが、当人の魂は蘇らせられない。結果として僕の治療を受けた人間は死んでも肉体以外は蘇れない。人格は僕の種族にとって肉体以上に代えが効かないわけです」
「蘇るってのも普通じゃないけど、常識的には肉体だけでも随分とスゴイんじゃないかな?」
「恐らく、この世界の法則に依る“再生”ならば、脳の細胞構造が壊れ切る前ならば、記憶や人格に意識障害はあっても不完全だとしても人格込みで蘇生可能です。でも、僕の力ではそうならない」
「君の力は完全な死者蘇生じゃないって事でいいのかな?」
「はい。貴女と出会った僕の最初の肉体は友人として治療を施し、蘇って欲しいと願いながら死体を蘇生した……嘗ての親友のものです」
「ッ―――」
何処かシュンとした様子でエスが視線を俯け、少年が頭にポンポンと手を置く。
「エスの本当の家族。いえ、兄として育てていたのは本当は彼だったんですよ」
「そう、なの?」
彼女の言葉にコクンとエスが頷きが返った。
「その頃、僕は父に捨てられ、とても病弱な肉体で過ごしていました。でも、10歳の誕生日にこの力に目覚めて、多くの同年代を治療し、自分もまた治療する事が出来るようになった。でも、あの団地の子供の寿命は左程変わらない」
「……そっか。外的要因で?」
「あの地域の多くの組織や集団が子供を食い物にしている。だから、ケガでは済まない場合、命を落とした場合はどうにもならない」
「それで親友の人も……」
「組織間の抗争の流れ弾で頭部を損傷し、見つけた時にはもう……」
「………」
エスが「えぐ……」と涙ぐむ。
「その時が初めての死者蘇生でした。ですが、肉体は蘇っても精神は戻ってこなかった。そして、僕の力を聞き付けた組織が僕を確保しにやって来た」
「確保……」
「僕は浚われ、拷問に掛けられ、医術の秘密を吐けと強要された。その時、拷問に幼い体が耐え切れず死亡し、僕はあの体に転移していた」
「……佐高君」
何処か堪えるように少年を見やる白髪の乙女は何処までもお人よしに見える。
「そして、今に至るわけです。僕の体は実験材料にされたかもしれませんが、中身はこうして今も存在する」
「だから、君はあの場所で秘密裏に……」
「ええ、有名ではあっても、その居場所や様々な噂を同時に患者達から流してもらう事で有耶無耶にしています。きっと知ってると思いますが、僕の治療の契約内容は二つ」
少年は少女の背後の大佐がきっと調べていたし、内容は聞いていると思っていたが、どうやら当たっていたらしいと背後の何とも言えない表情の大佐に肩を竦める。
「君の情報を誰にも話さない事。死んだら君の医学的な技術向上の為の検体として死後、肉体を提供する事、だっけ?」
「あくまで闇医者としてのルールですが」
「そして、君は予備の体を手に入れて、死んだり、狙われて殺されても、新しい体で復活するわけかい?」
「はい。医者として医術の発展の為にというのは表向きの建前です」
「建前、か」
「これが佐高理人という存在の秘密です」
しばらく、自称妹の頭を撫でておく。
「ふふ、君は本当に面白いというか。何と言うか」
「?」
大きく息が吐かれた。
「大佐。君の負けだ」
そう言われて、罰が悪そうに大佐が拳銃を懐に仕舞い込む。
「目の前の君が私の佐高君だってだけで十分さ。君が人間なのかどうかは置いておくとしても、私の友人はこうして此処にちゃんといる」
「……宮角さん」
「違うよ。ゆう、ゆう、だよ?」
悪戯っぽく微笑んで彼女はそう傍に寄って少年の隣に座った。
そして、薄く微笑んで告げる。
「大佐。これは次期当主としての命令だ。この話を墓の下まで持っていけ。君の古巣、友人、上司に話す事を禁じる。いいね?」
それは正しく宮角を裏切れという言葉に等しい。
しかし、その初めて彼女が使う命令という言葉に何処か大佐当人は……感慨深いとも言いたげな顔で何かを諦めたように頷いた。
「………分かりました。どの道、無限に復活する人間に敵意を向けても良い事は無いでしょう」
「人間扱いしてくれるんですか?」
少年は思わず訪ねていた。
それに溜息がちに大佐から答えが返される。
「無力な小僧ではなく。お嬢様を誑かす厄介な小僧になっただけだ。我が使命はお嬢様に命を懸けてお仕えする事。お前がお嬢様の敵にならない限りは“ふざけた力を持つご学友”として遇そう」
そうして、彼女はエスの頭を撫でる。
「ごめんね。怖い思いさせちゃって」
「ううん。いいの……だって、にーちゃんの事、ちゃんと分かってくれた人、初めてだもの……」
「あはは。そりゃね。僕の大切な人だもの。そして、君もね。エスちゃん」
「え?」
「佐高君の妹なら私の妹も同然!!」
そう言っておりゃーと抱き締めに掛かる白髪の乙女を前にして恥ずかしそうにポツリと「おねーちゃん?」と言う自称妹には先日までの『お嬢様なんて信じられない』という類の本音は見えず。
きっと、今後はスケとすら呼ばないに違いない。
「私も今回の事で考えさせられたよ。だって、君が……私の代わりに襲われたんだ。私の代わりに死んで、妹さんも瀕死の重傷を君に治してもらって何とか無事なだけで。それってさ……」
少年が今まで頼もしそうとは思ってもかよわいとは思えなかった肩が震えていた。
「私は小娘にしか過ぎなくて……どんな家柄のどんな地位にいても、大切な人一人守れないって事、なんだ……」
「ゆう……」
「父はいつも言ってる。裕福で地位のある人間は誰かの屍の上に立って歩いている。だから、謙虚であれ。だから、常に誰よりも前を歩け。人に妬まれるよりも、人に憎まれるよりも、人に祝福される人間になれって……でも、今までは家訓くらいに思ってた………」
一雫。
ポタリと白いリネンの上に染みが出来る。
「君が死体を見て、この子が気を失っているのを見て、『ああ、私は何をしてたんだろう』って……君と出会った時、私は君に命を救われた。だから、君は死んだりしないと思ってた。でも、そうじゃない。君は確かに今此処にいるけれど、それは君の力が特別だっただけ……もしも、君にそんな力が無ければ、私は君に何一つお別れも言えないまま……」
震える唇は言葉を紡ぐ。
しかし、俯いた瞳は年相応に潤んで、鼻まで赤い彼女の下には幾つも染みが出来てしまっていて。
『この世界の理不尽を私は黙って見ているだけだった。そして、今大切なものが戻ってきたのはただ君の努力と君の力で……私はただの女の子みたいにしか出来なくて……それってさ……それって……カッコワルイ……っ」
思わずエスがその肩に手で触れる。
「家柄じゃなくて、地位じゃなくて。君みたいな心が欲しい。何があっても後悔しないように生きられるような……君達を失わなくて良いくらいの自分が……」
「ゆう……」
涙を彼女は自分で拭う。
それはきっと強いからなのだと少年は思う。
涙を拭われているだけではダメなのだと決意したから。
手の甲で涙の拭い方も知らない彼女はそのグシャグシャな顔を拭い前を向いた。
「私、強くなるから……だから……これからも……君の……君達の傍に……いていいかな? 佐高君」
少年の口から思わずため息が零れた。
その懇願は、その問い掛けは、いつも誰かの胸にあるモノだ。
多くの死に別れた者達は願った。
幾ら救っても明日に死んだ子供達は願った。
きっと、親友も妹に願った。
それが彼にも分かっていた。
「もしも、こんな恐ろしい怪物と自称妹一人の傍で良ければ、いつでも席は空いてます。何せ、そんな事を言う人は……世界にたった一人くらいしかいませんので……」
「ッ~~~ぅ、ぅう……ぅ~~~~っ」
ボスッと少年の胸に顔が埋められる。
「別人の体で済みません」
「っ……いいよ。そんなの……佐高君の顔以外、体の事なんて知らないもん」
「しばらくしたら、顔を上げてくれると助かります。物凄い顔で今、こっちは睨まれてるので」
その言葉に僅か顔を優しくしていた大佐が正しく物凄い渋い顔になって、悪ガキに悪戯をされても怒れないという様子で沈黙を保つ。
「ぷ……ふふ……ああ、そうだね。目に浮かぶようだ」
「お嬢様……」
「ごめん。大佐……でも、もうちょっとだけ、このままで……」
「近頃、歳のせいか。遠視気味でして。近くは見えておりません」
「……ぅん」
安らかな笑顔が戻るまでもう少し。
もう少しだけ、そのままでいようと少年は思った。
その日、退院した自称妹と“生きている親友”を車椅子に乗せ、少年は家に帰る事が出来た……が、それは日常というには少し変わった明日への道程。
一人の乙女と一人の怪物と一人の妹が向かうオカシな毎日への誘い。
翌日にはきっとケロリとした彼女は言うのだ。
また突拍子も無い事を。
そして、自分はそうですかと巻き込まれるに違いない。
そう、ありたいと彼もまた願った。
―――佐高君!!
―――もし、良ければ、新しい部活に入らないかい?
―――君みたいな怪物と私みたいな女の子が安心して暮らせるように。
―――どんな闇も敵も壁も打ち払って一緒にクロタカ・サブレを齧れるように。
―――怪しいものを片っ端から解決しない?
―――そうだな……うん……こういうのはどうだろう?
大佐の持ってきた大きな縦長の木版に空き教室で彼女は書いて見せる。
第七古瓦中学【探偵部】と。
それが始まり。
終わりゆく黄昏の千年紀最後の年に生まれた物語の……始まりだった……。