妹
この作品は、第2回Reライフ文学賞応募作品です。
ある日の午後、彼は自宅のソファに座って本を読んでいた。すると携帯電話が鳴った。見ると妹からである。彼はちょっと迷ったが、仕方なく電話に出た。
「兄さん、わたし。久しぶりね。」
「ああ、何か用か。」
「別に急ぎの用じゃないんだけど、兄さんこんど定年になったんでしょ。それで色々相談しときたいことがあって、近くまで来てるんだけど、これから寄ってもいい?」
「これからか。そりゃダメだ。俺もこれから出かけるんだ。」
「嘘ばっかり。兄さんほんとに人間嫌いなんだから。もう何日も人と口をきいてないんじゃないの?」
「そうでもないけど。まあ、またこっちから電話するから。じゃあな。」
そう言って彼は逃げるように電話を切った。
彼は妹が好きではなかった。自分とは正反対の性格で、勝ち気で押しが強い。子供の頃はそれが可愛くもあったのだが、歳を重ねるにつれて段々手に負えなくなってきた。それで彼は、仕事が忙しいのを口実に、なるべく妹を避けてきた。
<しかし、二三日内には電話してやらんといかんな。でないとまた電話がかかってくる。いきなり押しかけてくるかも知れん。この散らかりようを見たら何て言うだろう。それにしても相談しときたいことって何かな。まあ、いずれにしてもまだ時間はある。>
彼はそう考えてまた読みかけの本を手に取った。
その夜、彼は夜中に目が覚めた。一度目が覚めるとなかなか寝付かれない。思いはやがて自分の来し方行く末に落ちて行く。
<俺はこれからどうなるんだろう。今までは仕事に追われ、仕事から逃れることばかり考えてきた。上の奴らは無理難題を押し付けて来るし、下の連中は自分の都合しか考えない。俺はいつも間に挟まれて無理のし通しだった。それでも追いつかず、上から大目玉を食らったり、下から突き上げられたり、そんなことの連続だった。
今やっと仕事から解放されたが、後は死ぬのを待つだけか。一日一日と日が経って、やがて最後の日が来る。それは五年先か、十年先か。それまでは死ぬために生きるのか。だとすれば十年先に死ぬのも明日死ぬのも同じことだ。おそらく俺はこのベッドで一人で死ぬんだろう。>
そんなことを考えながら何度も寝がえりを打った。やがて少しウトウトしたと思ったら、もう日は高くなっていた。
その日の夜、彼は妹に電話した。
「ああ兄さん、何か用?」
「えっ、用があるのはそっちだろ。」
「あっ、そうそう。で、いつ行ったらいいの?」
「別に来なくてもいいよ。電話で済まないのか。」
「うーん、じゃあ、ちょっと待ってよ。」
後ではテレビの音や赤ん坊の泣き声、女の笑い声がしている。娘が孫を連れて遊びに来ているのだろう。やがて妹は別の部屋に移動したらしい。
「ごめんなさい。話っていうのはね、この間テレビで見たんだけど、孤独死っていうのがあるじゃない。あれね、兄さんぴったりなのよ、一人暮らしで、家に引きこもってて、人づきあいが悪くって。ねえ、兄さん、大丈夫?」
「何だそんなことか。大丈夫だよ、少なくともあと何年かはね。」
「そりゃそうでしょうけど、時間なんてすぐ経つわよ。で、そのテレビが言ってたんだけど、まず物を片づけるんだってよ。要るものと要らないものを分けて、それから・・・」
妹の話が延々と続く。彼は黙って聞いていた。口を挟むとなお長くなるのは分かっていた。
「ちょっと、聞いてるの。せっかく教えてあげてるのに。」
「ああ。」
彼は素気なく答えた。それが妹の癇に障ったらしい。声がにわかに険しくなった。
「あのね、ちゃんとやってよ、終活ってやつ。ちゃんとやっといてくれないと、わたしが困るんだからね。後片付けとかすごく大変なのよ。お葬式とか、家とか、ローンとか、保険とか、そんな面倒なことわたし大嫌いなんだから。少しは人の迷惑も考えてよ。」
「分かった、分かった。じゃあ、もう切るよ。」
「待ってよ。兄さんいつもそうなんだから。大体兄さん自分のことしか考えてないのよ。私のこと馬鹿にして。」
「分かったよ。ごめんごめん。じゃあ切るよ。」
彼は無理に電話を切った。妹のムキになった赤ら顔が目に浮かんだ。妹との話はいつもこんな風になってしまう。
<これが俺のたった一人の肉親か。俺が死ぬのを悲しいとも思わずに、自分の迷惑だけを考えている。こんな肉親ならない方がましだ。
終活ぐらい俺にだってできるだろうけど、あいつに言われてやるのは何ともやり切れない。それに少々精出して終活したって、あいつは納得しやしないんだ。あれはどうなの、これはどうするの、何だかんだと切りがない。そして結局全部俺が悪いことになるんだ。会社にもそんな上司がいたなあ。やっと仕事から逃げ切ったと思ったら、今度はこれか。
一人で死ぬということだけでも悲しいことの筈なのに、俺にはそれさえ許されないのか。>
そんなことを考えながら彼は長い間ソファに座っていた。
やがて彼は大きなため息を一つついて、ふと壁に懸った鏡を見た。自分の顔が映っている。白髪交じりの髪は額が禿げあがり、頬はこけ、顔中に深い皺が刻まれている。その上、先程からの心の乱れが顔を醜く歪めている。
<これが俺か・・・随分老けこんだもんだ。年を取ったんだから老けるのは当たり前だが、それにしても知性のかけらもない。
そうか、こんな奴がどうなろうとどうだっていいのか。明日死のうが、十年先に死のうが、一人で死のうが、誰かに看取られて死のうが、妹に弄られようがどうしようが、どっちにしても大したことじゃないんだ。>
そう考えると彼は急に何もかも馬鹿らしくなった。
もう深夜に近い。辺りは物音一つしない。聞こえるのはただ数年前からひどくなった耳鳴りだけである。
彼はゆっくりとソファから立ち上がり、死の床となるであろうベッドにもぐりこんだ。