空を失った日本
第1章 少女との再会
夢を忘れ希望を失い、高賃金だけが救いの職場からの帰り道。足元の長い影法師から夕日に染まる飛行機雲を見上げても、国産ジェット機はどこにも無かった。何かを生み出す苦しみを忘れ、喜びを分かち合う相手もおらず、誰かが設計した製品を製造する毎日。想いを叫ぶほど若くもなく、諦めるほど年老いてはいなかった。闇夜が迫る河川敷には街灯がなく人々は沈む太陽に追われるように足早に通り過ぎていく。遠い昔の戦争で墜落した戦闘機は錆つき河川を汚染していた。幾度か引き上げを試みたが、失敗に終わり、ついには諦め、放置された。終戦間近には真の意味で総力戦となり優秀な女学生をパイロットとして徴集したらしく、識別番号のない機体の操縦士は女性だと誰からか教えてもらった。
「彼女達は空への憧れと引き換えに何を失ったのだろう?」
「空を知らないあなたに、何が分かるの?」
独り言を呟く俺の進行を妨害する少女。独白に割り込まれ思考が停止してしまう。かろうじて相手の表情だけは読み取れ、旧制女学校の制服のスカートは長く上着は冬用だった。髪は短く清楚で、ぐっと唇を噛み締め不快感を露わにしても、元は華族の家系だろうか、どことなく上品さが漂う。戦後、何年目すら曖昧な俺でも実在した女性操縦士が高齢どころか存命すら怪しいことは理解できた。
「ねぇ? 質問しているのだけど?」
「お前は戦闘機乗りの亡霊か? それとも、過激派か?」
「亡霊ではあるかもね」
「……人殺しの道具を積んだ飛行機で空を荒らし回った君の気持ちを理解することはできない」
「そう。私たちは、ただ、空を飛びたかった、だけよ」
戦う理由を雄弁に語ることなく、空の憧れを淡々と意思の籠った言葉にしていた。瞳に焼きつくは一瞬の煌めき。沈む太陽に染められた夏特有の分厚い雲は、暗い歴史さえ覆い隠していく。かすれた犬の遠吠え。戦闘機乗りの亡霊は怠惰な俺を責めるように、蛇のような鋭く大きな瞳で凝視している。影法師が闇に呑み込まれ満点の星空に切り替わる瞬間を少女と無言で対峙した。
「成仏してください!」
「ちょ、ちょっと!!」
かき消した記憶の中から現れた少女を拝むと、話を切り上げ早歩きで逃げ出す。夕飯のメニューに頭を悩ませながら歩いていると、相当面倒な子で徒歩十分の道のりを、横顔を睨みながら歩調を合わせていた。近所のスーパーで目当てのお惣菜を選んでいると、無許可で買い物かごに冷凍パスタを放り込んでいた。米でなくパスタと海外経験が長いらしい。レジへ向かう途中で冷凍ケースに戻したが、何度か無意味な攻防を繰り返し根負けし渋々、高価な冷凍パスタを購入することとなる。値段と味が比例していな商品で悲しい。
「君は家まで付いてくる気か?」
「もちろん。急いでいるようだったから、あなたの家でならゆっくりと話をできるでしょう」
「なあ……君はあの機体の操縦者だったのか?」
「うん」
河川沿いの道を歩きながら口にした俺の疑問に少女は淡々と頷く。月光に撃ち抜かれた少女の愛機は零戦、国産戦闘機の傑作。誇らしい戦闘機とは対照的に哀しそうな表情で短い髪は風に揺れている。スカートを強く握りしめ、ほんのりと艶めかしく上気した頬。何かを期待しているような薄幸そうな潤んだ瞳で凝視されると心が揺らぐ。
「君の名前は?」
「分からないの」
「梅子?」
「違うと思うわ」
「未婚なのか?」
「うん。勘当されたもの」
「奇遇だな、俺も親から勘当された」
河川敷を抜け歩道橋の階段を登り終えると、俺と少女は欄干に身を預け闇夜に溶け込む。直近で見る信号機は巨大で、ただ点滅しているだけだった。長い幹線道路は通りが少なくトラックが轟音をあげ、その振動が伝わってくる。背中は剥がれた塗装が刺さり、生暖かな風は少々不快で、喉の渇きを満たそうと、エコバックから缶ビールを取り出す。幸い冷凍パスタの横にあり、まだ冷えていた。少女のためミルクティーを欄干に供える。プルタブに指をかける様を少女は凝視していたが、気にせず間抜けな発泡が溢れ落ちないように飲み干していく。当人は汗ばむ缶の冷たさを指先で楽しむと、飲み口を袖で拭いてから開封していた。
「ねえ、ミルクティは贅沢な飲み物よ」
「作るには茶葉が大量に必要だからか?」
「そう、戦争で奪い取るほど貴重なはず」
「茶葉より、今貴重なのは珈琲だろうな」
茶葉が貴重な時代は百年以上も前ではなかったかと、サボっていた歴史の授業を掘り起こしていくが、結局思い出すことは出来なかった。空き缶で欄干を叩き、不快な金属音が闇夜に響く。
「泥水が貴重ですって? 最低の時代ね」
「それは、同感だ」
「同感って、苦いビールを美味しそうに一気飲みした貴方に分かるの?」
「珈琲とビールは別だからな」
「意味分かんない」
軽くため息をつくと、少女は欄干から身を乗り出し、巨大な信号機に触れようとしている。落ちないように支えてやると、少女の体温が急上昇したのか、熱いほどだった。
「ここは、軍の施設が集中していた場所だったらしい」
「らしいって、随分と曖昧な言い方ね」
「当時を生き抜いた人間にだけにしか真の歴史を語れないからな」
「ふふっ、それでも、日本男児ですか! とでも言いましょうか?」
「君の時代の日本男児は絶滅したと思うよ」
「そう? 勇猛果敢な人なんて居なかったわ。誰もが、死に怯えていた」
「なら今も昔も一緒だな。この国の住人は、死の苦痛が嫌で渋々、生活費を稼いでいる」
「死に怯えながらも生の苦しみに耐えきれず、死に場所を求めているのは皮肉よね」
「だな」
アルコールで鈍った思考は愚痴を吐き出すだけだった。二日酔いの後悔とは、また別の後悔が襲うことを知っていても、止まることは出来ない。柿ピーを齧りながら少女を盗み見ると、身体の線は細く、華奢で、同世代と比較すれば平均以下に思えた。夜が深まるにつれ風が冷たく感じられ、飲み干した空の缶を握りつぶす。少女は真下の道路を覗き込み、身震いしていた。
「君の行き場はどこにも無いのか?」
「わたしには死に場所すら無いもの」
「亡霊標本か……。行き場が無いなら、ウチへ来ないか?」
「いいの?」
「ああ、死に場所は与えてやれないけど、生きたいと願うなら来てもいい」
「うん。不束者ですが、どうぞ、宜しくお願いします」
「……こちらこそ」
少女の輿入れする花嫁のように丁寧な挨拶に困惑する他なかった。動揺を悟られぬように、少女の一歩先を歩き始める。一歩後ろの少女は俯き表情は読み取れない。誰かと一緒の帰り道はいつ以来だろうか。薄暗い複雑な小道は慣れてしまって何も感じなくなっていた。元は城下町で迷路のような構造をそのまま舗装してあり、こっちに来た時の俺と同じように少女は同じように戸惑っていて、地理には詳しくないらしい。
「なあ、パスタが好きなのか?」
「えっ? えっと、一緒にいた人が、良く食べてたの。ただ、それだけ。食べたこと無かったけど」
語尾に近づくほど小さくなる声には出会った頃の凜とした音色は消えていた。
「そっか、なら、パスタの美味しい店があるから行こう」
「うん」
照明に照らされた看板だけが目印の客席数の少ない個人店。戸を開けると鈴の音色が心地良く響くと、同時にガラスの割れる音がした。一同が俺たちを凝視すると、馴染みだと思っていた店員からの冷たい視線に淡い期待は脆くも打ち砕かれる。馴染みの店員が古い二つ折りの携帯電話を片手で開くと、どこかへ電話をしていた。俺は強盗か何かだろうか。
「安心して通報しておいたから。こんなに細い子見たことないわ、監禁していたでしょ? いつかやらかすと思っていたわ。栄養失調みたいじゃない。名前は何て言うの? 親御さん心配してるよ?」
早口でまくしたてる店員に、少女は状況を掴むと浪人生で受験勉強のために都会へ出てきたと出鱈目な説明をしていた。疑い深い店員には俺が人攫いでないことを強調し、遠い親戚の梅子だと自己紹介をしている。駆けつけた警察官は民事不介入らしく特に調べることなく署へ帰っていく。誰かが税金泥棒と小声で罵倒しても気にする様子はない。古風な名前と容姿に違和感がなかったらしく、体重は親からの期待と周囲の重圧で食が細ったと口にすると、その場全員が納得する他なかった。
「歓迎するわ。ゆっくりしていって」
店員はセルフサービスの水をわざわざ梅子の為に運び、ニコニコと機嫌よく口にした。もちろん俺の分はない。渋々、席を立ち給水機へ向かう。業務放棄した店員は俺の席を陣取り梅子と談笑していた。なかなか終わる様子はなかったのが、途切れを狙い席へ戻ると俺を冷たく一瞥し厨房へ消えていく。梅子の視線は右へ左へメニュー表を凝視し色とりどりのパスタの中から、お気に入りの一皿を探している。俺がここで食べるのは決まってミートスパゲティだった。ページを行ったり来たりさせていた梅子の動きが静止し顔を上げると、店員を呼ぶ。
「なに?」
「俺はいつものを頼む」
「何それ? どれよ?」
高圧的な態度の店員は目の前にメニュー表を叩きつけたので、渋々指差す。
「これだよ。杏子」
「馴れ馴れしく呼ばないでよね、瑛士」
「知り合いなんですか?」
「腐れ縁よ。梅子ちゃんは何にするの?」
「わたしも同じのをお願いします」
「そう、待ってて、すぐに作るから」
梅子の注文が終わると杏子はサラサラと注文票に記入し終えると厨房へ消えていく。梅子はじっとりとした視線を俺に向けたが無視した。連れてきたのは失敗だったか、思考が巡り、梅子は窓の外を興味津々の様子で眺めている。冷えたコップが汗をかき始める頃に前菜のコーンスープが運ばれてくる。極端に量の違うスープに戸惑ったが、どうやら、俺の分が梅子に注がれているらしい。
「なあ、杏子。カリカリしたのが俺の分に乗ってないんだけど?」
「梅子ちゃん、たっぷり食べてね。この人の分はどうでも良いから」
「え、ええっと、ありがとうございます」
「おーい、杏子」
「では、ごゆっくりー」
俺は杏子に存在を消され徹底的に無視され幽霊の気分を味わった。梅子は湯気のあがるお皿を手前に寄せるとスープにスプーンを浸す。みるみる内に沈んでいき、底を突くとすくいあげ、小さな吐息で冷ましながら口に運んでいく、その上品な梅子に俺は見惚れてしまった。
「食べないんですか? 冷めてしまうよ?」
「え、ああ、食べるよ」
杏子は俺と梅子の交差する視線を苛立ち、厨房へ消えていったが、しばらくすると料理を盆に載せてやってきた。遠目でも俺の思い浮かべるいつものではなく、数々の挑戦者たちの屍を積み上げた悪魔的なメニューだったが、見なかったことにする。心の中で、念仏を唱えながら、やっぱこっちに来ますよね、と諦めた。
「はい、梅子ちゃん、ミートスパゲティよ。召し上がれ。下心に染まるあなたは、はい、これ」
「杏子、俺が頼んだのとは違うぞ。禍々しく赤に染まるパスタなんて食えるかよ」
「お客様、文句があるなら、お代は結構ですので、帰ってくださいまし」
「何、怒ってんだよ」
「別に、ただ、なんとなく腹が立つだけよ」
俺が何か言い返す前に杏子はスカートをひらりと揺らす。梅子は俺と杏子のやり取りをムスッとした顔で見ていた。俺は梅子にスパゲティが冷める前に食べるよう勧めると、頷きフォークを手に取る。洗練された動きはやはり上品だった。俺は激辛パスタに大量のチーズをふりかけ味を中和する。杏子は何食わぬ顔で給水機に故障中の張り紙をしていた。きっと1本の瓶コーラを一万円で売る気に違いない。
「帰りにショッピングセンターに寄って買い揃えよう」
「うん」
味は良かったらしくご満悦の梅子は年相応の少女だった。
「お客様、申し訳ございません。只今、給水機が故障中です」
「聞いてもいないのに割り込むなよ、杏子」
「有料の水かお飲み物の注文をお願いします」
「分かった、分かった、決まったら呼ぶよ」
「残すと三倍料金だからね」
店の決まりを吐き捨てるように口にすると杏子は、レモン水の入ったポットをテーブルに二個置いていく。俺は激辛パスタを咳き込みながら胃袋に押し込むと、会計のためレジへ向かう。悪魔のような杏子が待ち構えていたが、一歩後ろの梅子が視界に入ると、やる気を削がれたのか特別料金を請求されることはなかった。
「どうして、いつも、私をおいていくの? 瑛士」
ベルに掻き消された杏子の小さな呟きは建物の中に閉じ込められた。ひんやりとした夜の匂い。すっかり闇夜に染まる世界を俺と梅子は同じ歩みで進んで行く。活気を失い静寂が支配する商店街は不気味で、中央広場の絡繰時計は沈黙していた。ハイエナのように、まとわり付く鳩も巣へ帰り、打ち上がる噴水もただの水たまりになっている。ここには俺たちだけしかいなかった。
「静かね」
「営業時間を過ぎたからな」
「昼間は人が多いの?」
「ああ、雑誌やテレビで紹介されるような有名店が並んでいる」
「あれは、外来の甘味?」
「そうだ。気になるなら休日に来ようか」
「楽しみにしています」
スマホのライトで照らし出された見本展示はジョッキサイズのパフェで、甘いものが苦手な俺は苦笑いを浮かべるしかなかった。梅子は当時高価だったはずの冷凍いちごが好きらしく、戸惑う。商店街のアーケード前の大きな通りを渡り、小さな橋を越えると、夜間営業のショッピングセンター街があった。敷地は多くの自動車が止まっていて活気で溢れている。案内図に現在地から女性用のカジュアルファッションを取り扱う店舗を選び梅子と見て回ることにした。夜分に学生服は目立たないだろうかと、冷や汗が流れ落ちる。
「ねえ、どうして夏なのに涼しいの?」
「冷房だよ。詳しい仕組みは分からないから説明できないけど、これがないともう生きられないな」
「冷凍庫ってこと?」
「あ、ああ、その理解でいいと思うぞ」
「もう、しっかりしてよ」
熱交換だったか、フロンで冷やすのだったか、世の中には仕組みを知らない文明の利器が溢れ生活に馴染んでいる。人類の叡智を結集したテクノロジーは個人の理解できない領域にまで踏み込み、凡人の俺は梅子を納得させることができなかった。
「ねぇ? この大きな建物は百貨店なの?」
「そうだな……同じ小売業だけど、商店街の店を一箇所にまとめた場所だと思う」
「便利ね」
「雨風に晒されず、同一規格の吹き抜けの場で、人を寄せ付けない店や頑固親父もいないからな」
「あれって映画館?」
険しい表情の梅子はナイト上映が終了して消灯した映画館の前で立ち止まる。ポップコーンの独特の匂いと薄暗い空間には上映中の作品ポスターが張り出されていて、不気味だった。
「そうだけど、映画が好きなのか?」
「嫌いよ! ……あ、……ごめんなさい」
「いいよ、大丈夫」
ハッとしたような表情の梅子と聞いたことのない大声に驚いた。映画を嫌う理由を直接聞き出す勇気はなく、俯く少女の肩を叩き励ます。梅子が生きた戦争一色の時代を鑑みれば、プロパガンダに利用されていたことは、容易に想像できた。もし仮に興味を持っていても、時代の流れから恋愛映画を見た日には「破廉恥です」と言い残し梅子は倒れてしまうかもしれない。
「閉店時間が近いから、急ごう」
「う、うん」
洋服を取り扱う店舗へ行く予定だったが、梅子は化粧品売り場で立ち止まる。催促しても頑としてその場から動こうとせず悠長にコスメカウンターでメイク指導を熱心に受けていた。化粧品の魔力には亡霊でも抗えないらしい。キラキラと輝く瞳を向け、俺でも聞いたことのあるブランドで少々値が張ったが、貯まるばかりの給料なのだからと自分に言い訳をして梅子に一通り買い与えた。
「瑛士さんは何色が好きなの?」
「うーん、青系が好きだな」
「そっか、うんうん。これとか、どう、似合うかな?」
冷えた指先で火照る頬を覆い、気恥ずかしさを隠す梅子は人形のようだった。店員は魔道書のような分厚いファッション誌をパラパラとめくり、試着室へ服を放り込む。時折、「肌の露出が多すぎます」だとか「派手すぎます」と若干の抵抗をしていたが俺は愛想笑いで乗り切った。
「瑛士さん、重いでしょ、少し持ちましょうか?」
住居へは城下町の入り組んだ細い路地を通らなくてはならない。梅子は大事そうに化粧道具を抱え、俺は新生活に必要な道具を一式担いでいた。重力、重量、期待、地球上のあらゆる重圧に押しつぶされても、これだけは一人で運ぶべきだと己を奮い立たせる。痴漢注意の看板を照らす街灯はちらつき、月光の届かない場所へ進むにつれ梅子の表情は曇っていく。年中無休24時間営業のコンビニエンスストアで甘いドーナッツを買い、半分にすると梅子に手渡し頬張りながら住宅地を歩いていくと、今日のメニューはカレーだとか、唐揚げだとか、予測し合う。この寂しい路地にも誰かの生活があって、安心したのか梅子の笑顔が戻った。
「本当にいいの?」
「独身寮扱いだから就業規則的にはダメかもな」
「だったら……」
「親戚の子と自己紹介したからには、相応の立ち振る舞いと勉学に励むことだ」
「えぇ、ぇ、う、うん……」
角を曲がると目の前には目的地があって梅子は躊躇したが俺は覚悟を決めている。会社から与えられた木造二階建ての住居は俺一人では広すぎた。4部屋もあれば部屋も散らかる。整理のため梅子にはしばらく外で待ってもらうと、カーテンの隙間からポストに寄りかかり満月を見上げる可憐な少女が見えた。まとめたゴミをベランダに出すと、梅子の部屋(仮)と扉に直接テプラを貼り付けると、一式を部屋の隅へまとめ、亡霊を招き入れる。梅子は「ただいま」と言い、俺は「おかえり」と返す。すべての部屋の案内と同時に三種の神器の扱い方を理解してもらったが、そう時間は必要ない様子だった。客人用の今治のバスタオルを梅子に渡すと入浴の準備をするためか自室へ戻っていく。
「瑛士さん、覗いちゃダメだよ?」
解凍寸前の冷凍パスタを冷凍庫に押し込んでいると、浴室の扉の隙間から頬を朱色に染めた梅子が顔を出していた。その表情は誰からも向けられたことのないもので、バスタオルを抱きしめた少女の瞳は期待と不安の入り混じった複雑で難解な迷宮のように引き込まれてしまう。
「あ、……ああ、分かった」
「絶対よ?」
「大丈夫、分かった」
「あ、っそ……」
やっとのことで絞り出した俺の言葉に失望したのか冷たく吐き捨て浴室へ消えていく。ムッとした俺が戸を叩きドアノブを捻っても無抵抗で、ただ目の前にはバスタオルを身に纏った少女が現れた。タオルを抱きしめていたはずだったが、ハンドタオルの間違いだったのか、思考は巡る。透き通るような肌が洗面鏡に映し出され、首筋や背中が丸見えで、肉つきは悪くない。無言で見つめ合う梅子の瞳は潤みタオルを胸元で強く握りしめながら必死で恥辱に耐えていた。
「もう、お嫁にいけない、責任とって、絶対だから。分かった? 瑛士さん」
静寂を破る蚊の鳴くような声は力強く古風な表現だった。何故被害者面しているのか理解できず呆然としていると梅子は俺を追い出す。モヤモヤしながらソファーで撮りためたドラマの死闘を上の空で見ていると、風呂上がりの梅子は俺に丁寧な挨拶をしてから寝室へ入っていく。別段変わった様子もなく、俺を困らせ、疑問が渦巻き、居ても立っても居られず、寝室をためらいがちにノックしても反応はなかった。隙間から覗くと、ただ、啜り泣く、嗚咽が聞こえるだけ。そっと立ち去ろうとすると「一緒に、いて」と梅子の小さく短い言葉。布団に包まる梅子は俺に抱きつくと、ただ、ただ、泣いていた。涙の意味を知らない俺は困惑しするしかない。小さな吐息が漏れるには少し時間がかかった。乱れた寝具を直し梅子に布団をかぶせると、俺は痛む鼻を押さえながら部屋を後にする。
「おやすみ、梅子」
ため息混じりにソファーに体を沈めると、脈略の掴めないドラマの続きを見る気にもない。モソモソと這い上がり机のリモコンで電源を落とす。ペタペタと寝室へ向かい、デスクのノートパソコンに積もる埃を払いのける。ハードディスクがガリガリと刻まれ、カラースキャンされた資料がのんびりと画面に描写されていく。スクロールしていくと血の付いた戦闘機の設計図、基地の分布図、不鮮明な白黒写真が順に並ぶ。一枚一枚精査しても梅子の写真はなく、長い安堵の息を吐き出した。俺は軽く笑い飛ばすと、パソコンの電源を落とす。ベッドに身を預けると意識は薄れていった。
***
土曜日の朝は決まって、平日の時間と同じ目覚めになってしまう。二度目の朝を迎えると居間で梅子は食パンを頬張り、不機嫌そうに新聞を読む振りをしていた。制服ではなく買い与えた洋服で、薄く化粧をしていて驚く。明るい配色だが派手ではない。欧米のパン食だと不憫だと思い、朝早くから米を炊き、日本の伝統的な朝食を用意していたが無駄な配慮だった。焼き鮭をほぐしながら異常気象を伝えるテレビを眺め、味噌汁をズズズッと飲みながら梅子を窺い見ると、難しい顔で旅行のチラシを凝視し、水族館の割引券に目を輝かさせる。俺の視線に気がつくと、はっとして不機嫌な顔に戻った。食べ終えた食器を律儀に重ね台所へ運んでいくと、泡立つスポンジで丁寧に洗っている。少し遅れて食べ終えた食器を台所に運んでいく。
「瑛士さん、台所に立たれては困ります」
「え?」
「え? ではありません。困ります」
「俺、何か悪いことした?」
「もう、居間でゆっくりしていてよ」
泡のついた手で背中をグイグイ押され、渋々、ソファーに身を預ける。
「英二さん、明日以降、食事は、わたしが作りますから、安心して、ゆっくりしていてください」
「一人だと負担が大きいし食事は当番制にしないか?」
「ダメです!」
少々時代錯誤ではあったが仁王立ちした梅子の有無を言わせぬ言葉に逆らえず、頷く他なかった。食事の準備をしたことが不満だったらしい。苛立つ梅子は洗い物を再開していた。ソファーに沈みながら、財布の中身を確認すると十分な金額が押し込まれてある。とにかく、梅子の機嫌が悪い。背中からイライラが伝わるほどだ。現代人に与えられた週休二日制度を、誰のために行使するべきか考えを巡らし、吐き出す言葉は決まっていた。
「洗い物が終わったら、水族館へ行かないか?」
「うん、いいよ」
意外と現金な梅子が鼻歌交じりに洗い物をしているうちに、俺は戸締りをしていく。優しい風に吹かれ揺れるカーテンを掻き分け錠をした。薄い壁の向こうには誰かが暮らしていても、関係が希薄で興味すらない。互いに出会わないようにしているかのように。居間に戻ると梅子は濡れた手をタオルで拭っているところだった。
「行きましょう」
「ああ」
薄汚れディスプレイに縦筋が入った券売機で切符を購入すると、改札を抜け、駅のホームに出る。電光掲示板と腕時計を交互に見比べ、ソワソワ落ち着かない梅子は少し可笑しい。定刻通り停車位置へ減速していく電車を流し見ると人はまばらで、座席に空きがあり安心した。俺が座席に着くと律儀な梅子は手提げ鞄を爪先と背筋を伸ばし隙のない上品さで、網棚に載せている。華奢な身体のラインが強調されドキリとしたが平素を装った。
「涼しくて、煤で汚れなくて快適ね」
「だな。梅子は水族館に行ったことあるのか?」
「上野動物園に一度だけ、よ」
首都圏行きの新快速との接続で電車には二人だけが残され、緊張が解けたのか梅子は家から出て初めて口を開いた。
「どんな魚が泳いでいた?」
「水槽だったけど、あまり覚えてないの、ただゾウの散歩は好きだったな」
思い出を語る少女に戦時猛獣処分の暗い歴史を告げる気にはなれず、ただ黙って耳を傾けた。接続を終えた緊急行直通便は乗り換えなく海辺の駅へ一直線に向かい、田園と住宅地が交互に車窓に映し出し、俺たちは一緒に眺め、車窓が青に塗りつぶされると海辺の水族館が現れた。国内最大級の名に恥じぬ壮大な面持ちが遠くからでも確認できる。
「ここからは、タクシーを拾って行くぞ」
「はい」
短距離は嫌がられるかと思ったが愛想が良く、水族館の割引入場券を勧められ購入した。年間パスは正規価格の当日入場券から差し引いた金額で発行できると教えてもらう。ノルマがあるのか、歩合制なのか、好意だと受け取ることにした。十五分程度の道のりの対価をタクシーチケットで支払い、降り立つ。シートベルトの付け方が分からない梅子だったが、あえて何もせず緊張の面持ちでいたので、今回は甘えさせることにしたのは秘密である。
「国内最大級で魚の種類も多いらしいよ。この時間だとイルカのショーに間に合うから、会場へ行こうか」
水飛沫注意の座席をわざわざ選び、水を防ぐためのシート販売に手を挙げ、万全の状況の俺たち。朝一は誰だって元気が良い。それは、俺も、梅子も同じで、飛び跳ねるイルカを一緒に楽しんだ。
「せっかくだし年間パスにしようか」
「うん、また来よ」
写真付きのパスで梅子の写りは完璧に美しかった。ペンギンのお散歩会のアナウンスで人々は別館に移動していく。だが、梅子は動こうとはしない。日本海で捕獲された希少な種類でライトに照らされて七色に光り輝いくクラゲは、ただ漂っているだけだった。小さな水槽で複雑に触手が絡み合い、解けそうにない。
「……ねえ、瑛士さん?」
「ん?」
「どうして、……してくれなかったの?」
梅子の表情を読み解くことができず、ただ、光の届かない薄暗い深海の闇のように暗く棘のある言葉だった。昨晩の出来事を思い出しながら言葉を探していく。
「接吻が何の証明になる?」
「わたしじゃダメなの?」
質問に問いをぶつけられてしまう。
「あの日、梅子に生きるための場所を与えたが、伴侶になって欲しいとは頼んでいないからな」
「わたしはそのつもりだったけど?」
「勘違いさせてしまって、悪かった」
「……わたしのこと、嫌い?」
あれこれ梅子は外堀を埋め立てていくつもりなのだろうか。自由恋愛の時代にキスが何の証明になるのか俺には分からない。五分、十分、それっきり黙り込んだ梅子に俺は困り果ててしまう。根負けした俺は上下左右確認すると畏怖の念を持ちながら優しく背中から抱きしめると、艶のある髪は甘い匂いがして、僅かな灯りで天使の輪ができていた。梅子は無抵抗で、僅かな罪悪感が残り、理性が歯止めをかけている。
「……いいよ」
どのような表情で、その言葉を発したのか、俺には見えなかった。ただ、梅子ははにかみながら振り返り、静かに瞼を閉じる。永遠とも思える時間のなかで善悪を決めるのは誰だろうか。軽い口づけだったが、梅子は泣いていて驚いた。二、三回、苦悶の表情で繰り返すと、呼吸を整え、軽く口元をハンカチで拭い化粧室へ消えていく。注射を嫌がる子どものように痛みに耐える梅子を俺は見ていた。見ていて、やめなかった。とんでもない過ちを犯してしまったのだろうか。刹那の快楽に身を滅ぼしたのかもしれないと後悔した。
「ごめんなさい、お待たせ。ねえ、英二さん、お昼は何にしましょうか?」
ブサイクなマンボーと睨めっこをしていると化粧室から梅子が戻ってきた。
「フードコートがあるから、そこにしよう」
回転式のゲートを抜けると、土産物屋と併設された飲食街があった。最初はせっかくの海の町なのだから寿司にしようかと思ったが梅子に「お魚を見にきて、寿司はありえません」と反対された。
「何も聞かない優しさは嬉しいけど、わたしが何者かを知りたくはないの?」
「きっと、いつかは、教えてくれると思っているからな」
「……でも、わたしは何も語らないよ」
欧米文化に馴染む梅子は戦前を生きたようには思えない。
「亡霊なら、恨みごとぐらい言っても誰も咎めやしないさ」
自分で口にしていて、ふと我に返ることがあった。今この瞬間、蓋をした記憶が暴れ出し、ガンガンと頭痛がするほど警鐘が頭の中で鳴り響く。これ以上は、いけない。この、戦闘機乗りの少女を俺は知っていた。
「……どうして、」
冷ややかな瞳は考える素振りを見せ、一瞬、俺に神に祈る時間を与えた。
「わたしの零戦を直してくれないの?」
嫌な予感と同時に言葉の矢が俺を貫く。ここで黙り込んではいけないと、思考は止まらず言葉のパズルを組み立て、模範解答を吐き出そうともがいた。もがいて、もがいて、ありきたりな言い訳に落ち着いたとき自画自賛してしまう。これで、誰からも文句が出ないだろうと、自分に非がないだろうと考えてしまった。
「……設計図も部品も揃っているけど、……引き上げの許可が下りないんだ」
「帰りましょう」
俺の模範解答を聴き終える前に梅子は立ち上がるとトレーを重ねゴミを捨てに行ってしまう。慌てて追いかけても、歩む速度を上げても追いつくことができず、どこか遠くへ行ってしまうのではないかと不安で、情けなく泣いてしまいそうになってしまった。先を行く梅子の表情は計り知れない。梅子は海辺へ続く階段を下っていき、俺は駆け足で追いかけていく。足元には流れ着いた海藻や貝殻が散乱していて、靴には砂が入ってくる。それでも、追いかけないと、どこか、遠くへ行ってしまうようで、嫌だった。視線を前に向けると、海と陸の境界線に梅子はいて、その先の、海と空の境界線へ消えてしまうのではないかと、不安でたまらない。何かを言わなくてはならない、けれど、何かが邪魔をして、言葉が吐き出せないでいた。
「ごめん! あの零戦はもう飛べない、俺の技量じゃ修理できないんだ!!」
それでもありったけの勇気を持って想いを叫ぶと梅子は歩みを緩め振り返る。ただただ悲しそうに笑った。
「……素直な瑛士は嫌いじゃないよ」
あと一歩で波にさらわれていたかもしれない。生唾を飲み込み、一呼吸ついてから梅子を引き寄せる。
「どれだけ空を眺めても、国産飛行機はどこにもないね」
「空は誰の物でもないはずなのにな」
「……そうね」
梅子は恐ろしいほど淡々としていて、あの河川敷でどのような気持ちでいたのか知った。俺は失望させてしまったのかもしれない。
「俺だって、修理したかった、取り戻したかった……」
「うん」
吐き出す言葉は止まらない。
「でも、どれだけ、努力しても届かないことがあるんだ」
「分かった、大丈夫だよ、頑張ったね」
「ごめんな……」
俺は嗚咽を漏らしながら梅子に謝った。
「戦後何年経っても、この国はまだ全てを取り戻せていない。航空事業の意義を理解してもらえなかった。俺は、俺は、間違っていたのか? ……なぜだ、誰もがそっぽを向いた、責任は俺が取った、飛ばされて、ただ毎日、誰かが設計した製品を作っているだけだ! 世界での日本そのものじゃないか!! これでいいのか、ダメだろ、……取り返した全てを、また、失ってしまうことになる、俺は……」
「……もうやめよ。この国は負けたの、理屈じゃないよ」
狼狽する俺とただ静かに涙を流す梅子。砂浜の砂は暖かく海風は生暖かい。落ち着きを取り戻すと海を眺めた。静かで、何ものにも染まらない青。穏やかで、優しく包み込んでくれた。
「……零戦を撃ち抜いたのは地上からの対空砲だったわ」
「地上? それは味方からの攻撃か?」
「分からない。けど、地上からだったのは確かよ」
誰もいない遊泳禁止の浜辺で梅子はただ遥か彼方を眺めているだけだった。吹き込む風は急激に冷えていき、雲行きが怪しくなっていく。俺は、梅子の手が血で染まっていないか怖いとは口にすることはできなかった。水飛沫とは違う天の涙は海を灰色に染めていく。
「雨ね、帰りましょう」
「ああ、そうだな」
梅子は立ち上がると俺の手を引き駅へ向かっていく。痛い程強かったが、振りほどくことはできなかった。
第2章 幻の飛行場
空への憧れを追わなければ、幸せな家庭を築いただろうか。空襲に怯える梅子を想像することはできない。食べ終えた食器を丁寧に洗うと、手早く出立の準備をしていき、戸締りの確認をしていくと。梅子の部屋の前で立ち止まる。そして、躊躇することなく中に入ると窓の錠を確認した。曇り空が心配だったが、玄関の戸を施錠した。治安が悪い地域なので厳重に確認を怠らない。市の予算不足で路面の状態は悪く激しく揺れても、誰もよろけない。俺は目的の停車場所まで老人の井戸場会議に耳を傾けた。知らない人、知らない職場、世界から取り残されていくような感覚に襲われ気分が悪くなる。大人と呼ばれる年齢になっても何も変わらない。市立図書館前の停留所で下車すると、横断歩道を渡り立派な図書館に到着した。駐車場はすでに多くの車が止まっている。自習室のブースが空いているか心配だったが何とか確保できた。冷房の温度は抑えられていて、少し暑い。無闇矢鱈に書物を漁ってもたどり着くことはできない。カウンターで司書に相談することにした。
「戦中、この地域のことについて知りたいのですが、資料はありますか?」
「そうですね、このあたりは本土決戦のためにたくさんの飛行場が作られましたから、絞らないと大変ですよ。概要が知りたいなら、これと、これですね」
司書はプリントアウトした紙を手渡す。自習室の硬い椅子で郷土の歴史を読み漁っていく。女性操縦士に関する項目は少なく、出版年数が新しくなるにつれ、匂わす程度の情報が記載されてあり、要約すると、本土防衛戦のため、著しく不足した兵士数を補うため女性操縦士を徴収した。正規軍隊とは別に専用の滑走路を有した精鋭部隊。特に高学歴の女性は覚えが早く至極の存在で重宝された。目をこすり大きな伸びをする。
「目当ての資料は見つかりましたか?」
今朝の司書はニコニコ笑顔で問いかけ、複雑な表情で曖昧な返事を返した。
「女性操縦士ですか……。存在を公には公認していないですが、地方の資料に散見されるので、個人所有のものだとあるかもしれませんね」
「そうですか。なら、お手上げですね」
司書はちらりとまとめた資料に視線を落とす。
「専用の滑走路を有したことの調べがついているなら、どこにあったか探してみてはどうでしょうか。あと、当時の高等学校への進学率をご存知ですか」
「今よりは低いぐらいの認識です」
司書の言葉からこれからの予定を組み立て始める。スラスラと口にして不気味であったが、同様の疑問を持つ輩は多いのかもしれない。
「大変参考になりました。まずは、滑走路を探してみます」
「お役に立てて何よりです」
腑に落ちない司書の態度は気になったが、答えは教えてくれそうにない。ただ、梅子の日記が仮に存在するならば黒歴史として目の前で朗読してやろうと悪巧みをした。
***
帰宅するとなぜか梅子はぐったりとしていたが、俺が帰ってきたからか、表面的にはシャッキリとしていた。夕飯は過不足なく準備されていて少し悪い気がしたが、表には出さない。だらしなくはだけた服を梅子はただし食卓に着いた。
「浮気はダメです」
「俺たち結婚どころか付き合ってもいないだろ」
「ダメったらダメ、他の女と一緒なんて絶対にダメです」
梅子の態度がいつもと違い困惑したが、適当に頷いて安心させることにした。心配なことは明日が平日だということだ。
「杏子さんが盆休みいつから? って聞いてたわ」
頭から抜け落ちていたが、確かにそんな休みがあった気がした。意識から消していた。
「明日からだ」
梅子はスマートホンを取り出しおそらく杏子に文面を送っていた。
「明日からはわたしと一緒だから、わかった?」
「話が違わないか」
「心配です」
「あ、そう」
梅子は司書のことが気に入っていなかったらしく、同行を申し出てきた。面倒なことにならないといいと思った。
第3章 帰省なんてしません。勝つまでは。
世界が完結しているようで不気味だった。毎日繰り返してきたように英二の朝食を準備し、夢の中の英二に接吻をする。昨日は司書とデレデレしていたなんて許せない。本当に許せない。わたしの世界との接点を無くしたくないの。どうか、どうか、どうかお願い。まだ、夢を見させて。テレビで、原爆投下だとか、終戦だとか、何年目だとかキャスターが口にしていた。うそ。ではない。らしい。敗戦は、目に見えていたけれど、遠い昔にはして欲しくない。わたしの生きた証拠はどこにも無くなってしまっていた。どうして、同情されるの。どうして戦禍だと口にするの。にくい。敗戦が。
「梅子は、どこか行きたいところあるか?」
「英二の実家に挨拶に行きたいな」
一瞬英二は困った顔をしたがはぐらかさされてしまった。わたしの世界は何も見えてはいない。ただ精神世界だけが照らしている。英二の視点だけがわたしの人生のようにさえ思えた。テーブルにはわたしの作った朝食。少し豪華に作ってみた。喜ぶかと思って。少しはにかんでしまうわたしは。何者だ。
「実家は何年も帰ってない。前に言っただろ、勘当されたって」
「ごめんなさい、わたし……」
「いいよ、大丈夫、気にしてない」
浅はかな自分は何様だ。気持ちが落ち込んでしまう。訳は知らないけれど、勘当されたと確かに聞いた。嫌になってしまう。せめて、平素でいよう。英二に嫌われたくない。どうしよう。癪に触ったりしたら。どうしよう。どうしよう。困ってしまった。こういう時にはどうすればいいのかしら。わからない。わからない。だから、話題を変える。変える。でも、ここで目を背けていいのかと別のわたしが口にしようとする。待って、待って、待って。
「英二はどうして勘当されたの?」
「会社に大損失を与えたからだ」
大空を前にして英二は、何の失敗をしたのだろう。わからない。知りたい。知りたいけど、英二を昨日のように傷つけてしまう。歴史は調べることはできる、でも現代を生きる個人を調べる方法手段はあるのか。とわたしは疑問に思い始めた。しまったな。わたしには不利な条件だったのかもしれない。
「大空のへの憧れで全てを失ったんだ俺は」
「そう。わたしと一緒だね。でも唯一違うのは、英二はまだ生きていて、企業が残したってこと。まだ役に立つって思われているのよ」
「なら梅子もまた、神様が現代に残したんだな」
「お互いに辛い立場ね」
「まったくだ」
目の前には英二。そして、食べ終えた食器。わたしは英二が勝手に台所へ運ばないように手早く片付ける。台所は女の戦場だと誰かが教えてくれた。大丈夫。立派な、花嫁になるもん。滑るお皿。何かと一緒に滑り落ちていく。途端に嫌な音がした。指が切れた。痛い。痛い。流れる鮮血。英二は後ろから抱きしめてくれた。涙がこぼれた。痛みを思い出した。いやだ、また、死ぬのは、苦しいのは、嫌だ。呼吸が荒れていく。英二はただ抱きしめてくれた。落ち着いていく。何者にも染められないと思っていた。のに、世界は彼だけが染めてくれた。ただ、それだけ、ああ、何も見えない。目の前には割れた皿。英二の暖かなうで。わたしは自分の視点でしてか物を語ることができない。手の届く範囲でしか愛せない。
「梅子、大丈夫か」
「うん」
指にはばんそうこ。英二が巻いてくれた。嬉しい。嬉しい。どうかこのままでいて欲しいと願う。叶わぬ夢でも。ただ、それだけを祈る。思考は止まらない。どこへ向かうのかは予測不明だ。誰も知らない、誰にもわからない。狂気のように止まらない。止まらない。止まって。止まらない。誰が止めるのか。わからない。わからない。あと少しで答えを吐き出すことができる。思考がフル回転している。全てを理解するには時間がかかりすぎる。落ちつくこともできないでいる。どうしよう。どうする。わからない。息を吐くように自然に受け取ることはできるのでしょうか。目の前にはテーブル。テーブルには透明な液体の入ったコップが置かれている。救急箱は遠ざけられていた。わたしの役割を失ってはどうしようもない。だから守りたい。だから奪わせない。
「英二、お皿を割ってしまってごめんなさい」
「いいよ、大丈夫。疲れが残ってそうだから今日は休んだ方がいいんじゃないか」
長期連休の初日が過ぎ去っていく。ものスゴイ速さで。ああ、わたしの世界は操縦席の小さな世界。今は、英二の小さな社宅の家事手伝い。
「声なき声がわたしを苦しめ、歴史は語りたがる」
第4章
たった数日で現代社会を生き抜く基礎を覚えたものの、心がついていかないのか梅子は取り乱していた。図書館に行く予定もなくなったので、今日は、梅子と一緒に飛行場を探しに行くことにした。だいたいの目星はついていたので現地に足を運ぶ。幹線道路などの基礎を変えることは容易ではなかったのか、すぐにわかった。驚いたことに、自分の職場も含まれていた。そして残りは学校とショッピングセンターになっていた。こんなにも近いなんて思いもしなかった。特に手がかりはない。
「英二の知り合いに会いたいわ」
「ダメだ、変な噂になったら困る」
「いいじゃない。別に。わたしは覚悟決めてるよ」
梅子はグイグイと感情をぶつけてくる。俺は受け止められるだろうか。相手がいないならありなのかもしれないなと思い始めた。
「もう見つけたんですか?」
今日はやけに人に出会う。梅子は目を見開いていた。
「え、ああ、まあ、ここだったんですね、飛行場」
「恵子?」
「え? 恵子は私の祖母です。よく若い頃に似てるって言われますけど」
「ねえ、恵子は存命?」
「ええ、まだ生きてます」
「そう、英二、彼女の祖母は元女性操縦士だから話しを聞きに行くわよ」
「え? ご存知ですか。あーあ、もう少し、楽しみたかったなー」
司書は一瞬驚いたが肯定した。そして、梅子に何か言いたげだったが、それ以上特に何も口にしなかった。急にお邪魔するのは気が引けたので、後日ということでその場は解散した。
恵子結婚してたんだ。あれほど、男はケダモノ、クソとか言ってたくせに。自分だけいい人見つけたんだ。軽く嫉妬してしまう。孫も恵子に似ていたずらっ子でイライラした。あの戦争の生き残りか。わたしは生き残ることができなかった。ため息が出てしまう。どんな顔をして恵子に会えばいいのか、困った。切実に。超常現象を信じない子だったから、わたしも孫の設定でいいかな。お気に入りのセーラー服で会いに生きたいけど、コスプレって思われたらいやだし。そういうところは気にするの。わたし。はぁ。困ったわ。恵子ヨボヨボおおばあちゃんになってるだろうなって思うと、会いたくない。気がしてくる。恵子おばーちゃんとか呼ばれて、年はとりたくないものね。今日で英二のことはなんとなくわかった。堅実で全く面白くもない男って感じかしら。それがいいのだけどね。
「連絡先は聞いたけど司書の名前を聞くのを忘れていた」
「大丈夫よ。梅子の孫って言えば今日死んでも生き返るわ」
「梅子って偽名じゃなかったのか?」
「本名よ」
「親に勘当されたのは本当か?」
「本当よ。志願するときに勘当されたわ」
「疑問がスルスル解けて面白みがないな」
「謎解きが好きならミステリーでも読んだらいいわ」
「梅子、少しイライライしてないか」
「当然よ、恵子ったら結婚してたのよ。しかもわたしより先に!」
「恵子さんってもしかして、一緒にいた、パスタ好きのか?」
「そうよ。乾麺だったからパスタかうどんかそばかもうわからないけどね」
「楽しみか?」
「複雑ね」
「俺だけが会いに言ってもいいぞ」
「一案だけど、あって聞きたいことがあるの」
「恵子さん、もしかしたら、墓まで持っていく気かもしれないぞ」
「ふーん、墓まで一緒に連れて行って欲しいわ」
「落ち着けって」
「落ち着いているわ」
英二はただただ心配そうにしていた。大丈夫。気持ちの整理はつけていくつもりだから。撃ち落としたのが誰でも受け止めるつもり。恵子でもね。
第5章
恵子の孫が指定した日は翌々日だった。病状の悪化ではなく、梅子と聞いて驚いたそうだ。ほらみなさい、恵子。あなたのために亡霊となって現れたわ。ホラーじみた台詞を頭に思い浮かべながら支度をしている。英二はスーツなんてきちゃって、かっこいい。どうしてわたしはベタ惚れしてしまったのか、わからない。けど、好き。になってしまったの。どうする。どうしよう。わからない。気持ちを伝える前に恵子に会わなきゃ。
「その、セーラー服でいいのか?」
「礼服はこれだけよ」
「だがな」
「翌々日で礼服を揃えられるわけないじゃない。一人だけ、洋服も変でしょ?」
なんとなく納得した様子の英二。バスと電車を乗り継いた先に病院はあった。当時は野戦病院として機能していたように思う。そこで恵子は最後の時をすごしている。わたしも順当に年齢を重ねればこうなっていたのかしら。わからない。人生は一度。だけど、わたしは二度目。羨む人もいるだろう。
「来てくれてありがとう」
「こちらこそ、辛い体験を聞くことになるかもしれないのに、ありがとうございます」
「場を用意してくれてありがとう」
お互いに挨拶を終えると、正面ではなく裏から入った。今日は休日だった。
「恵子さんは何階ですか?」
「最上階です」
「病状はあまりよろしくないんですね」
「基本的に高層階は病状の重い人が入院していますが、祖母の意向で高い場所に。元、操縦士の何か思うところがあったのかもしれません」
エレベーターは最上階に到着した。真っ白な空間はあまり好きではなかった。暗く、うめき声だけが聞こえる空間でしか記憶になかった。軽いノックで病室に入ると、恵子は窓の外をみていた。表情は伺うことはできない。
「初めまして、おはようございます」
「初めまして、よくいらっしゃいました。英二さんと梅子の孫……そっくりね。もっと近くで顔を見せてちょうだい」
恵子は目を見開く。わたしは当時と同じようにスカートの裾をつまみ挨拶をした。近くによると恵子の名残はあった。あのまま年をとったらこうなるだろうって顔をしていた。時が止まったわたしとは違う。生きた証拠。
「生きていたのね、嬉しいわ」
「はい、祖母の梅子は生前よく言っていました。地上からの砲撃で墜落したけど、恵子の操縦席にあったパラシュートで脱出できたって。それ以外は何も語りませんでした」
「え? ……そう、よかったわ。本当に、よかった」
涙を浮かべる恵子は当時の面影が重なった。
「さて、何から話そうかしら」
「女性操縦士として志願した話からお願いします」
「そうね、それがいいわ」
司書は丸椅子を進めそれぞれ座った。
「あれは今から七十四年前の話……」
編隊を組む零戦は世界で活躍を続けた。だけど、敵国の戦闘機は次第に零戦の性能を上回っていく。最終兵器の大和の優位性は薄れ戦艦の時代ではなく、戦闘機の時代に突入して行った。新聞やラジオでは優勢を伝えるけれど、嘘だと誰もが理解し始めていた。
「操縦士募集ですって」
女学生の誰かが口にすると場が華やぐ。でも、少なくとも私は、この募集の意図を読み取っていた。本土決戦。地理的に首都圏攻撃のときには、この、上空を敵機が通過するはず。そのための募集だと確信した。
「恵子は地獄への片道切符で空へ行かないの?」
「梅子と違って憧れはないから遠慮します」
「一度っきりの人生よ?」
「死んだらそれっきりじゃない」
「敗戦国で生きたって辛いだけよ」
「こら、梅子、声が大きいわ」
「誰も聞いてはいないわよ」
女学生は募集の話で盛り上がり、私たちの会話は耳に入ってはいなさそうだった。チャイムの鐘が響くと安堵のため息を吐くと教室に戻っていく。この件はこれっきりだと思っていた。数日後に梅子が話しかけてくるまでは。
「恵子、わたし、志願することにしたから」
「え? 梅子は婚約者がいたでしょ? 家はどうするの?」
「勘当されましたー」
ぺろっと舌を出した表情は暗く、目は腫れていた。地獄への片道切符と自分で表現したのに、乗り込もうとする酔狂な梅子を止めなくては。
「今からでも、間に合うから、取り下げた方がいいよ」
「もう、遅いよ」
「梅子は死が怖くないの?」
「怖いよ、でも、きっと、この街は焼け野原になる。空襲から逃げ惑うぐらいなら、武器を持って対抗したと思ったの」
「無謀よ」
「わたしたちが選ぶことのできる瞬間って数えるほどしかないわ。結婚も進学も就職も全部、ぜーんぶ、お父様やお母様の意識で社会の意図で決まる」
「それでも、地獄行きは選ばない」
「空に憧れているの。だから地獄へ行くの」
「操縦士になりたいのだったら、終戦を待てばいいじゃない!」
「ダメ、この国は終戦と共に空を失うもの。待っていたらおばあちゃんになってしまうわ」
「生きてよ、たったそれだけのことで命を投げ出さないで、ね、諦めて」
「この世で命の価値を決めるのは国だよ。だから安売りはしたくないの」
「な、なら、……私も一緒に志願する。親友をおいてはいけないわ」
梅子は決意が揺らいだのか一瞬困惑の表情を浮かべたが、もう止まることは許されなかった。配属先は正規軍隊とは別で専用の滑走路を使用するらしい。どこで訓練したのか講師は女性で、幸い梅子とペアを組めた。月月火水木金金ではなく、適度な休日を挟みながらの訓練で落第はいない。いや、ここに集まった生徒は全員高学歴で落ちこぼれはいなかった。零戦の操縦は複雑で部品不足でトラブルも多い。一ヶ月で一人前となり、私たちは練習機を改造した二人乗りの零戦を与えられた。
「ねえ、恵子、通信機は切った?」
「ええ、配線ぶち抜いてやったわ」
「戦況は悪化の一途。地獄行きも近いわね」
私は梅子の言葉に何も答えることができなかった。空は想像以上に綺麗で、飛行が楽しくて仕方がなかった。誰にも襲われることのない空。きっと、鷹や鷲の気持ちと同じだろう。これから、敵国の戦闘機を追い払わなくてはならない。
「不安?」
「ええ、零戦って想像以上に耐久性が低くて、すぐ墜落しそう」
「実戦だと、掠っただけで、墜落するそうよ」
「遺書必要かな」
「渡す相手はいるの?」
言葉を失う。誰も私の死を悲しんではくれない。ただその現実が悲しかった。
「そろそろ時間だわ、戻りましょう」
「配線がぐちゃぐちゃで治せるかなぁー」
「適当でいいのよ。断末魔は聞かれたくないから」
梅子の不吉な言葉。宿舎に戻ると講師が真剣な顔をしていて、いやな予感がした。その日、第一飛行隊が編成された。学年が上の者から選ばれるらしい。きっと、帰還しないだろうと誰もが思った。目を逸らす。歴史を紐解けば、この日、本土攻撃の射程圏の小さな島が敵に落とされた。
「逝ってきます!」
空元気を集めたような空虚な言葉で彼女たちは空へ繰り出していく。一体何割が帰還するのかと、重苦しい気持ちとなった。
「後になるほど、辛いわね、これって」
「うん。梅子は全員、戻ってくると思う?」
「全滅したら上空を通過されるから、数機は残るんじゃない? あと、抵抗は予想してないかもしれない。燃料と弾薬数を見たでしょ?」
「あれじゃ、先に弾切れだよ……」
「正規部隊の護衛か囮で、わたしたち期待されてないのかもね」
「犬死か……いやだよ」
夕方になると、出席の名前札が何枚か消えていることに気がつく。二十機出撃して三機。どこからか煙が空へ昇っていく。何を燃やしているのかを考えるのは止めた。夕飯後に第一飛行隊を吸収した第二飛行隊が編成されることとなる。また、以下全員が飛行隊に組み込まれた。
「休息無しの飛行は危険じゃない? 恵子はどう思う?」
「多分、もう、すぐそばまで、敵が来てるんだよ」
「好転は絶対にしない。終戦手続きの時間稼ぎね」
「死ぬまで、戦うなんていやだよ」
サイレンは突然のようで予想されていた。全部隊投入するらしい。故障機の零戦含め滑走路から次々と離陸していく。
「私たちの番だよ」
「恵子、降りるなら、今しかない」
「……いいえ、一緒に行きます」
「ふふっ、しっかりつかまっていて!!」
静かな夜空は綺麗で美しい満月だった。雲も少なく視界良好。
「恵子、いま、何か見えなかった?」
零戦とは異なる戦闘機が薄い雲に消えていったのを一瞬確認できた。敵は三機一組で行動していると聞いたが、単独の様子。梅子は高高度まで上昇できる敵機を嫌い、上を抑えることに決めたらしい。月光は眩しいぐらいだったが、敵機はまだ姿を現さない。しばらく注意を払うと雲の隙間から羽が少し出ていた。梅子は弾丸の引き金に指をかけ、機を狙っている。周囲の警戒を怠らず見回すと視界の端に影が映った。
「しまった、囮よ、梅子! 右に旋回!!」
相手はやはり定石通りの機体数だった。やや、緊迫に欠けるのは、実戦経験のなさだろうか。軋む機体。敵機の弾丸は空へ吸い込まれていく。速さで劣る零戦では対抗できない、戦闘領域からの離脱が先決だった。操縦は梅子に任せ、敵機の動きを伝え続ける。「掠ったら死ぬ、掠ったら死ぬ、掠ったら死ぬ」念仏のように心の中で唱え、必死でもがくなか、僚機が墜落していくのを、見てしまった。梅子も見ていたはずだったが、仇討ちに参加せず、回避行動を続ける。右へ左へ、急上昇、急下降。燃料切れが近いのか敵機は追跡を諦めた。
「生きて帰れそうね」
「仇討ちに参加しなくて怒られないかな?」
「参加者は全員墜落」
地上には墜落した戦闘機の残骸が燃えていた。初陣は逃げ切ることができたが、帰還してもすぐに出撃することとなる。そんな毎日が続き、八月十四日深夜。私は、体調不良で出撃できず、梅子一人で逝かせることとなった。
「戦闘は思い出したくないから、端折ったけど、だいたいこの流れよ」
「滑走路は終戦時には更地となっていたのですか?」
「ええ、軍総出で更地にしましたの」
「河川の零戦はエンジンを撃ち抜かれていますが、誰だと思いますか?」
「あれは……」
「いいよ、もう、祖母は味方から攻撃なんて受けてない。そうでしょ?」
「……隠滅のため、だったそうよ」
「隠滅?」
「八月十五日終戦。数ヶ月後に開かれる軍事裁判で糾弾されたくなかった。ただ、それだけのために、味方を撃ち落としたの」
恵子は泣いていた。
「梅子が生きていたと知って、肩の荷が下りた。ありがとうね」
「わたしもありがとう、祖母の疑念が間違いだったって報告するわ」
しばらく会話をしていると、あの頃のことを思い出している様子だった。「また来てね」と恵子は言った。「もちろん」とわたしは返す。後悔や悩みが消えることはない。でも、新しい、人生を生きてくださいと、願う。
恵子の孫の司書に見送られ、俺は梅子と一緒に自宅を目指していた。当時の謎が解けても梅子の本質を理解することはできない。
「英二は価値観って誰が作り出すと思う?」
「時代を作り出すのは人だ。だから、国の中枢だろうな」
「それは、わたしの時代の話よ。今は、違う」
考え込んでしまう。
「答えは急いでないわ。さあ帰りましょう」
先を歩く少女の表情は見えなかった。
第6章
夕日に染まる河川敷は、いつもと変わらず、急かされるように人々が行き交う。零戦は何も語らず、ただ、沈んでいた。勘違いから親友を恨んでしまったわたしに、恵子の親友を語る資格はないのではないかと思う。英二は、修理不可だと言った。なら引き上げぐらいはできないかとさえ思えてくる。
「ねえ、英二、零戦の引き上げは、しないの?」
「戦争遺物としての撤去は公的には、もうされないと思う。河川は国の所有だから個人での作業は相当困難がつきまとう」
「また、この先も、ここから、見守るのかな?」
「それは……、ないと思う。河川敷の整備計画があるそうだから、数年以内には、工事がされると思うよ。当時よりも工事の技術は格段に上がっているはずだから、多分、取り除かれるだろう」
「そう、なら、安心だわ」
恵子も苦しんだのだと思う。なぜ一緒でなかったのかと。亡霊標本はいつまでも、苦しめる。役割は終えたのだと、そう、わたしは思いたい。
「恵子は苦しんだと思う?」
「当事者ではないけど、苦しまなかった人はいなかったんじゃないか。戦没者は死の苦しみ、生き残った者は後悔や死者を背負う苦しみを抱いている」
「まあ、英二も真面目なことを言えるのね」
「茶化すようなことではないからな」
「戦争って何だと思う?」
「さあ、主張のぶつかり合い、権利のため、争いの理由はどこにでもある。どうして、何故では答えは出ないと思う。だから、個人で語るときは、大空への片道切符を手にしたのはどうして? ってことだ」
「空に憧れていたから」
「なら、それだけで十分じゃないか」
「そうね」
英二は茜色の空を見上げていた。
「彼女達は空への憧れと引き換えに何を失ったのだろう?」
出会った時と同じセリフを英二は呟く。
「空への憧れと引き換えたものなんてないよ。英二は何を失ったの」
「特にないな。昨日、本社に引き戻されることになった」
「そう。やっぱり必要とされていたのよ」
「どうだろう。ストップしていた、国産ジェット機の開発が再開されるそうで、俺はリーダーだそうだ」
「自慢?」
「責任の取り方を知っている上長は喜ばない。開発の困難を知っている技術屋は身震いするだけだ」
「そう。完成したら乗せてよ」
「特等席で案内してやるよ」
「英二の世界は職場と住居の周りだけで完結しているのね」
「それだけで、幸せだ。それに……、伴侶も道中にいたからな」
「まあ、嬉しい。でも、亡霊だよ?」
「戸籍は海外で取引されているから、好きなのを取り寄せよう」
「まるで成金みたいね」
「あ、でも、先進国の戸籍は高いから、勘弁してくれよ」
「日本の国籍はあるの?」
「あるけど、数ができない。気長に待つのもいいけど、生活ができないぞ」
「そうね、なら、アメリカにします」
「どうしてアメリカなんだ?」
「両親が亡命した先ですもの
「そうか、早速依頼してみるよ」
あの時、志願せずに両親と一緒に亡命していたら、生活は変わったのかしら。世界を知らないわたしには、わからない。
「英二の世界が広がるね」
「どうだろう」
英二は手の届く範囲でしか、生きていない。どれだけ、場所を変えても、生活は変わらない。彼の世界にわたしを加えても、きっと、変わらない。わたしの世界に彼を加えるとどうなるのだろう。かつての人々は高齢となり、もういない。わたしの世界は一度しぼみ消えそうになった。誰かの接点を得てやっと何かを手に入れた。
「帰ろうか」
「うん」
英二と手をつなぎ、歩き始める。
「休みは始まったばかりだから、明日どこかへ行こう」
「実家へ帰省はしないの?」
「勘当されたと言っただろ?」
「プロジェクトに復帰するんでしょ?」
「そうだったな」
河川敷を赤く染めた太陽は沈んでいき、一瞬の暗闇が広がる。
「わたしって幽霊や亡霊だと思う」
「さあ、死者は蘇らない。目の前の少女は俺の妄想なのかもしれない」
「まあ、失礼ね」
「俺の存在すら曖昧で梅子の妄想なのかもしれない」
「世界が狭すぎて、誰も英二を認識できていないだけよ」
「存在の証明はどうすればいいんだろうな」
「戸籍があれば十分よ」
「そこは、もっとドラマチックに、人々の記憶にあるとか言ってくれよ」
「曖昧なものに頼るのは失敗の元よ」
「もう、この国の住民は皆、曖昧なんだな」
「かもね」
この街にはたくさんの人々が住んでいる。それは理解できた。毎年、人口が公表されている。その中で、関わりのある人は一握りだった。疎遠になれば関係は消えていく。自分たちの世界を広げるとは、なんだろう。
「わたしは交友関係を広げてもいいの?」
「俺の許可なんていらないだろ?」
「そう? 英二の世界は狭すぎて、わたしの世界が広がると共に、きっと嫉妬してしまうわ」
「大切な人と一緒にいれるだけで幸せだから、それはないと思いたい」
「きっと、それだけじゃ壁にぶつかってしまう」
「リーダー論を教えてくれているのか?」
「まあ、頭がいいのね」
「航空工学は国内にはなくて海外でしか学べなかったからな」
「聞いてもいないことを話し始めるのは自慢?」
「自慢ではなく、梅子に俺のことを知ってもらいたいだけだ」
「その気持ちが大事だと思うわ。自慢にならない程度に知ってもらって、そして相手を知りなさい。英二って葛西さんの時も思っていたけれど、すべて肯定しているつもりでも、ただ興味がないのよ」
「相手に興味がなくても仕事はできるからな」
「それが、あなたの、失敗」
「すみませんでした」
「素直な英二は、二度目の失敗はしないでね」
「ああ、そうする」
握る手に力がこもる。
「結局、パスタが好きな理由は分からなかったな」
「英二ったら他人に興味を持つことができるようになったのね」
「え? 気になるだろ。他の疑問かさっさと解決したのに、これだけが謎って」
「英二を恵子に取られたくないから、これ以上はダメ」
「相手の年齢考えろよ」
「恵子、パラシュートで脱出なんて絶対に信じてないわ。亡霊が迎えに来たとでも思っていたのかしら」
「さあ、当人にしか分からないことだ」
「恵子って謎が多い子だったの」
「謎?」
「恵子に興味持っちゃったダメ」
「俺の世界が狭いだとか、相手に興味を持たないとだとか、言ってたじゃないか」
「恵子はやめときなさい」
「だから年齢考えろよ」
「あの子がそう簡単にヨボヨボのババアになるはずないもの」
「もしかして、スパイか何かだったのか?」
「諜報は得意だったみたい」
英二の視線がどこに向いているのか分かった。
「次は恵子さんのことを調べようか?」
「身辺調査は嫌いじゃなかったの?」
「好奇心が湧いたのさ」
「ダメです」
きつく言いつけると、英二は何も言わなかった。
「執着が消えたら成仏するんじゃないか?」
「さあ?」
今、わたしが、執着しているのは英二。
「拝んでいい?」
「ダメです」
恵子の孫はきっと知ってもらいたかったのだ。かつて存在した女性操縦士のことを。歴史の闇に葬られた彼女たちのことを。わたしは何も語らない。でも、歴史は語りたがる。年齢を重ね、死の直前になれば、重い口を開くだろうか。
「梅子は当時のことを語りたくないのか?」
「わたしの戦争はまだ終わってないもの」
「戦争?」
「英二の実家に挨拶に行って、そのまま、婚姻届を出すまではね」
「急すぎるだろ」
「急じゃありません。ダメです」
それから何を話したのか覚えてはいない。ただ、無意識に相手を想い言葉にした。それはありふれたものだったのかもしれないが、わたしたちにとってはかけがいのないものだった。はず。
「げぇ……新幹線のチケットが取れない」
「まあ、グリーン席っていうのが余ってるじゃない」
「いや、これは、少し高くて……」
「いいじゃない。何これ、乗車率百六十パーセントって、疎開の汽車より人が多くないかしら?」
「はぁ、分かったよ。奮発してグリーン車で行こう」
「英二の実家はどこなの?」
「関西だな」
「なんでやねん」
「脈略おかしいから」
「関西人のくせに関西弁は話さないの?」
「ここは関東だからな、偽物の関西弁で真似してくるのはイライラする」
「いてこますぞってこと」
「いや、違うから」
英二のスマートホンの画面を覗き込み、座席を決めた。
「わたし、何を着ていきましょうか」
「礼服でいいだろ」
「セーラー服だよ」
「あ……梅子って何歳だっけ?」
「十六歳」
「犯罪じゃないか……」
「嘘よ、十八歳」
「年齢は嘘つかないでくれよ」
「なら九十二歳」
「やめてくれ」
「ふふっ、年齢なんてどうでもいいでしょ。ヨボヨボのババアでもなければ」
「恵子さんに対抗心を燃やしているのか?」
「当然でしょ、あの子ったら、昔……」
こうして、わたしたちの、小さな、世界は、広がっていく。




