エピローグ 盤上遊戯
「チェックメイト。これで5連勝ですね」
パトリックの前に座った悪魔がつまらなそうな顔のまま言った。
「……チェスなんて児戯では本気になれないんだ。ウォーゲームにしよう」
そういって変更するのもすでに3種目だった。
リバーシ、チェッカー、チェス、そして次に指定したのはウォーゲーム、いわゆる戦略シミュレーションだった。
ユニットと呼ばれる駒を使ってマップ上で戦争をするゲームだ。
ユニットには騎兵・重騎兵・弓兵・歩兵・移動式攻城兵器などがあり、それぞれ攻撃力・攻撃範囲・防御力・機動力などのパラメータが設定されている。これを駆使して相手を攻略するのだ。
ターン性で、移動フェイズと戦闘フェイズに分れ、お互いに1ターンで機動力に基づいてマスの上を動かす。次の1ターンで攻撃を行う。攻撃を受けた場合は防御力で防ぎ切れなかった分の数値をダメージとして受ける。そしてまた移動フェイズへと繰り返していく。
フェラン国騎士団内でも戦術訓練として採用されており、貴族のみならず騎士を志すものなら誰もがやったことがある学園でも人気の盤上遊戯だった。
「判りました。次こそパトリック殿下に本気を出して貰えるよう頑張りますね!」
勝ちを譲られるのって悔しいですよねぇ、と少女めいた顔が笑みを形作っている。
しかし、目がまったく笑っていないことに気が付いたのは、いつのことだったろうか。
最初は気のせいだと思った。思ったのに。
『え、ゲーム? 俺ってば強いからなぁ。クリストファー殿下とで楽しめるかなぁ』
暇だから遊ばないかとゲーム盤を手に部屋まで来た相手に口を滑らせたあの日のことをパトリックは後悔していた。
あの日からずっと、クリスはパメラに会いに来る度に、一日はパトリックの前に顔を出し、こうしてゲームに誘ってはパトリックをコテンパンにしていくのだ。
今日だって、5連敗なのはチェスについてだけだ。その前のリバーシも、チェッカーも、5連敗した。し続けている、が正しいのかもしれない。なにしろチェスも含めてどのゲームでも1度たりとも勝てていないのだから。
──そろそろ通算で100敗になる。その前に一度位勝てないと、拙い。
そんなパトリックの緊張を余所に、クリストファーの顔は余裕たっぷりだ。
「どのクラスにしますか?」
どんなゲームでも負けるつもりはないとばかりにパトリックがすべて決めて構わないと言外に言い切る年下の少年に、パトリックのこめかみが痙攣したようにヒクヒクと動いていた。
「…戦術クラスで」
戦術クラスは一回の戦闘で勝敗を決める。それ以外に戦略クラスや戦役クラスがあり、こちらは国や街といった広範囲マップを使う。この時使うマップには『足を取られて移動にマイナス』、『森に弓兵を置くと攻撃力プラス』など、地形効果が割り振られており、これを考慮しないといけなくなる。その為上級者向けとされる。時には数日掛けて戦うこともある。が、パトリックは先のことまで考えて兵を配置しなければならない戦略クラスも戦役クラスも苦手だった。目の前にいる敵を討つ方が楽しいし好きだった。実際に学園で行う対戦ではほぼ負けなしといっていい戦績を残している。
「ふふ。次こそ、パトリック殿下の本気、見せて貰いますからね!」
にっこりと笑う少女の様な笑顔がこれほど怖いと感じたのは、パトリックに取って初めての経験だった。
「もう。パトリック殿下ってば、私には本気を見せて下さらないつもりですね?」
コテンパンとしかいいようのないスコアで負けたパトリックの心を、クリスの可愛らしい拗ねたような声が抉る。
視線を移せば、ぷうと頬を膨らませたその顔はとても愛らしい。
とても16歳という年齢にも、自分より年上の、18歳の婚約者がいる男には見えない。
──パメラ。
パトリックの一つ上の従姉。眉目秀麗文武両道を地で行く、目障りな存在だった。
決してパトリックの出来は悪くない。そう誰もがそういう。しかし、この従姉に対してパトリックが勝てる物は何一つ無かった。
いつだって涼やかな顔で、パメラはパトリックの前を進んでいく。
だから、どんなことでも勝負を吹っ掛けてきた。そしてすべて負けてきた。
そうして、ついにそれすら許されない存在になった。
目の前にいる、この綺麗な顔をした少女の様な少年によって。
──女神みたいだった。あんなに綺麗な女の人だったなんて。思ったことなかった。
少年と正式な婚約を交わす為の式での、美しいパメラの姿が目に浮かんだ。
あんな甘えたような顔も、見たことがなかった。あの顔を見せるのは、この少年の前でだけなんだ。初めてみるパメラの女性としての顔。それを思い出すだけでなんだか無性に胸の奥がもやもやした。
…いや。違う。初めてじゃない。柔らかな笑顔をした女の子の事を、俺は知っている? 銀の髪をした天使みたいな…
「どうしました? 私とでは本気を出す価値はありませんか。
まさか、本当はこれで本気だとかいうことはないですよねぇ?」
ぐっ。パメラへの妄想で頭が一杯になっていた所にクリスの無邪気な言葉が突き刺さった。
「なんて。ありえませんよねぇ。まさかそんな。ねぇ? パトリック殿下」
パメラだけでなく、その夫となる年下の少年にまで勝てないとか。ありえないだろ。
ここで剣を取り出すのは愚策だということくらいは、パトリックにも判る。どう考えても最初から自分が勝てて当然な勝負を押し付けて「勝った」などと勝ち誇るのはこのまま負け続けるより恥だ。それくらいパトリックにも判っていた。
だから。
「ちょっと待っていてくれ」
そう言って、今日は遅番の自分付き近衛のところまで走っていった。
「待たせたな」
そういってクリスの前に置いたのは、基本中の基本といえるボードゲーム。
「すごろく、ですか? すごい。やり方は知ってますけど、私はやったことないです」
嬉しそうにサイコロを振って遊んでいるクリストファーに、パトリックは目を閉じて罪悪感を押し隠した。
「サイコロを振って出た目の数だけ自分の駒を進めて、止まったマス目に書いてある通りにするんだ。ゴールはジャストの数字でしか止まれないぞ。余った数だけ戻る」
いいな? そう確認すると、クリスはサイコロを振って遊ぶのを止めて頷いた。
──今度こそ、勝つ。
知略で勝てない相手なら、運とか、その他の要素に賭けるしかない。
パトリックは最後の勝負に出た。
「わーい! 私の勝ちですね!!」
パトリックの最後の賭けであったすごろく勝負は、戻るマスや借金マスなどすべて避け進むマスや賞金獲得マスだけを踏んでいったクリストファーのぶっちぎり独走ゴールで終わった。
「…運ゲーでまで負けるとか」
パトリックは放心状態でテーブルに突っ伏した。
ゴールに嫌われたパトリックは何度も1個手前にある借金マスを踏むことになった。その金額100万ゴル。ゲームとはいえ切なすぎる終わりである。涙目もいいところだ。というか、本気で泣けてきた。
そんなパトリックの耳元で、クリスの声が優しく囁いた。
「パトリック殿下。このサイコロ、いいですね。
出したい数字が出せるなんて、素敵です」
ガバッ。
パトリックが真っ青になって飛び起きた。ガクガク震えが出てまっすぐ立てない。
視線が泳いで、すぐ横にいるクリスの顔を見ることができない。
「でもこれで狙った数字を出すの、コツが必要というか、結構難しいですよね」
ちょっと手間取りました、とゲーム直前に数回振っただけの少年が言い切る。
そう。このサイコロは、パトリック付きの近衛自慢のイカサマサイコロなのだ。
中には複雑な形の空洞があり、そこには水銀が入っていて、投げる前に出したい数字を下にしてから投げるとその目が出る、筈だった。
しかし、パトリックが教えて貰った通りに何度投げても、まったく違う数字が出てしまい、借金だらけの結果となった。
イカサマをしようとしたことがバレていた。
しかも自分は使いこなせず、相手にいいように使われてしまった。
その結果の、完全なる敗北。
恥ずかしいやら悔しいやら。これほど惨めな思いをしたことはかつて一度もない。
じぃっと見つめられている内に、パトリックは涙が溢れて仕方がなかった。
「…わ、悪…かっ…」
謝罪を口にしようとしたけれど、震えて舌が上手く動かない。
途中まで口にできた謝罪のような言葉にも反応はまったくない。
呆れられたと思うと、更に惨めさが募る。
せめてちゃんと視線を合わせて謝罪するべきだったと思い直し、パトリックはずっと俯いていた顔をそっと上げた。
その視線の先には、もう先ほどまでの少女めいた可愛らしい表情を浮かべた少年はいなかった。
冷たい表情をした、まったく別の何かが其処にいた。
「…知略で勝てないと判るとイカサマに走る。最低ですね」
その通りなので反論できる立場にはないが、それでも口に出して責められると自分の行動が恥ずかしくて仕方がなかった。
「いいですか、もう二度とパメラに私用で近づかないで下さい。フェラン国の公式行事などは仕方がありませんが、それ以外は半径5メル以内に近づくのはご遠慮戴きたい」
いきなりの指示にパトリックの頭の中は真っ白になった。
「な…なんで、なんの権利が…」
ぐっと睨まれる。その威圧感に圧倒されて声が上手く出ない。
「パメラは私の婚約者です。こんな卑怯な真似をする輩に、いきなり後ろから殴り掛かられたりするのは不愉快です」
「なっ。いつそんなことを俺がしたっていうんだ?!」
喧嘩まがいの勝負なら、何度も吹っ掛けた記憶はあっても、後ろからいきなり殴りかかる様な真似をしたことはさすがにない。パトリックの名誉のためにもそれだけは否定しないといけないと言葉を続けようとした。が。
「私は見てましたよ。パメラにいきなり殴りかかって、ローリングソバットという技で蹴り飛ばされていくパトリック殿下の姿をね」
一撃で失神した、その技。遠い昔のことではあったが、確かに記憶にある。
「え、あの…え?」
なぜ知っているのかと混乱しているパトリックの前で、クリスはわざとらしく盛大なため息を吐いた。
「パメラは、過去の貴方に言われた『女装している』という言葉に傷ついて自分がドレスを身に着けることが苦手になりました。その貴方が、パメラに向かって『男装した女』呼ばわりをしていた。それを聞いて、私がどれだけ不快になったか、判りますか?」
貴方は、パメラが何をしていてもいちゃもんをつけるつもりなのです、とそう言い切られてパトリックの身体にはものすごい衝撃が奔った。
「そ、んな、つもり、は…」
いいえ、そうクリスが断じる。
「貴方のようなパメラを傷つけることで視界に入ろうとすることしかできない人に、これ以上、私の愛するパメラを傷つけさせたりしません」
絶対に許しません、と言い切られて、パトリックはもう何も考えられなかった。
「いいですか、絶対にパメラに近づかないで下さいね」
謝りにも来ないでください、と言うと断罪者と化したクリスはその部屋から立ち去って行った。
「お疲れさまでした。ありがとう、クリス」
パトリックの部屋の外では、クリスが出てくるのをパメラがずっと待っていた。
「パメラ。いつからここに?」
気が付かなかったもっと早く終わらせるべきでした、とふわりと笑う。
その少年の、頭をパメラはそっと抱き寄せた。
「嫌な役回りをさせてしまいました。でも、ありがとうございます」
ぎゅっと抱き寄せてくるパメラの温かさと柔らかさに、張りつめていたクリスの身体から力が抜けていく。
「うん、ごめんね。パトリック殿下だって、パメラの大切な従弟なのに。でも、我慢できなくて」
へにょんと、きっとクリスに尻尾がついていたらだらしがなく垂れ下がっているに違いない。それほど萎れた姿で、パメラの腕の中に納まっている姿は、さきほどパトリックの前で見せた断罪者の顔と全くの別人だった。
「いいのです。きっとリッキーのことですから、すぐに忘れて復活することでしょう」
懲りない男ですから、そうパメラが笑うから
「…もっと苛めてやればよかった」
そうクリスが呟いた。それを聞き取ったパメラは笑って
「さぁ、いつまでもリッキーに係ったりしてないで、一緒にお茶でも飲みましょう」
カトリーヌ様からお手紙を戴いたのでしょう? そう自分を守ってくれた優しい婚約者を誘って言った。
読んでいいよと差し出された手紙を読み終えて、パメラは嬉しそうに笑顔になった。
「よかった。カトリーヌ様はあちらで幸せになれたご様子ですね」
そこに書かれていたのは、沢山の愚痴と惚気話だ。
城が汚い、王宮で働く女性が少ない、食事が粗末ではなく雑、知識が足りない、教育が足りない、制度が足りない、無いない尽くしだと嘆きながらも、それを補って余りある幸せそうな日々の様子が目に浮かぶ手紙だ。
『コーザの小麦ではなくフェラン国とシュトーフェル皇国の小麦を求めた理由を聞いて呆れました。コーザの小麦で作るパンなら平パンが最高なのに、ふわふわの白パンにならないと怒ってたんですよ。呆れました。本当は麺を作ると最高なのだと教えたら尊敬されました。氷室の奥でずっと残っていたというコーザの小麦で平パンを焼かせて肉を詰めたものを振舞ったら女神扱いになりました。苦笑しかでません』
『先王が溜め込んでいた武器を盗んで革命に勝利したんですって! すごいなーって思ってたら畑に残骸が今も残っていると農家さん達に嫌われていると嘆くので、磁石を使って細かい破片を取り出す方法を提案したらやっぱり女神だって騒がれて。それしか誉め言葉はないのかと思います』
『子供ばかりの村も多いので教育に励もうと思います。しばらくは誰も働かなくとも食べていけるだけの小麦を買い込んだ人がいるので今がチャンスだと思っています。そういったら「あの小麦を買ったから俺は最高の女性を妻にできた」と開き直られました。この王は馬鹿だと思います』
等々。愚痴で始まって惚気に終わる話のネタは山盛りで、いくら書いても尽きないようだ。
「カトリーヌ姉さまが幸せそうでよかった」
ガイのお墨付きだったから、あまり心配はしてなかったんだけどね、とクリスは少し寂しそうに笑った。
その姿に、パメラはずっと心の奥にしまっておいた言葉を告げる覚悟を決めた。
「…もしかして。カトリーヌ様のこと、お好きだったんですか?」
パメラは決死の覚悟でその言葉を口にした。できるだけさりげなく言葉にしたつもりだったけれど、それでもカップを持つ指が震えてしまうのはどうしようもなかった。なのに。
「うれしい。パメラが嫉妬してる」
その問い詰める者であるはずの言葉を聞いたクリスはとても嬉しそうに微笑んだ。
「……私は、浮気をですね」
問い詰めようとしているんですよ、というパメラの言葉は最後まで言えなかった。
「パメラ、だいすき。愛してる。私の初恋はパメラです。
それからずっと、私の中にはパメラしかいません」
ぎゅっとクリスがパメラを抱き締める。
「そんなの…知ってます、けど。ちょっと不安になってしまったんです。
私もクリスがだいすきです。愛してます」
「ふふ。いいな。パメラが座っていると背伸びしなくてもパメラに届く」
そうして。
そっとクリスの唇が、パメラのそれに重なった。
「……」
すぐに離れたそこを、パメラが震える手で押さえる。
クリスも真っ赤だった。正直、手どころか立っている足も震えている。それでも。
「だいすき、パメラ」
もう一回いい? と、小さな声で聞かれたパメラは
「聞かれても困るのですが」
でも嬉しいです、と恥ずかしそうに目を瞑った。
そうして、二人はさきほどの触れ合うだけのそれよりずっと深く、恋人同士のくちづけを交わした。
「クリス、そういえばまた背が伸びたんじゃないですか?」
長いくちづけが終わった後の話題としてはどうなのだろう、とクリスは思ったが、真っ赤になって視線を下に向けたパメラが可愛らしいので見逃すことにした。
どうやら恥ずかしすぎて話題を逸らしたいようだ。
「そうだと嬉しいですね。早くパメラを抜いて、抱き上げられるようになりたいです」
艶やかな銀色の髪を撫でながらそう言う。
「私は筋肉質なので、…重いですよ?」
パメラが恥じらう姿がいよいよ愛らしい。愛らしすぎてまたくちづけをしたくなってクリスは困った。
──しちゃえばいいか。
そう唆す何かが心の中にいたけれど、クリスはぐっと我慢することにした。
そうしないと、もっとたくさんのパメラを今すぐ手に入れたくなってしまいそうだった。
まだ婚約して半年と経たないのに。パメラに対して失礼だと思う。
だから、我慢する。
「婚姻式が終わったら、花嫁を抱き上げて自室まで向かうのが我が国の風習なのです」
だからその日まで。ちゃんと大切にするし、我慢するし、身体を鍛えなくては。クリスはそう心の中で誓った。
「それは…大変ですね。太らないよう気を付けます。むしろ痩せないといけないかも」
「ううん、パメラはそのままでいいよ。いや、もっと太ったって大丈夫です。
どんなパメラだって大好きだって言ったでしょう?」
ぎゅうっと抱きしめながら、クリスがそう告げる。
「それを言って貰った私が、どれほど嬉しいか、クリスには判らないでしょう」
愛する人の腕の中で、パメラがそっと呟いたその声がクリスに届いたかどうかは判らない。
それでも、二人はずっと一緒にいる。
これからは、ずっと一緒だ。
サブタイ『エピローグはざまぁと共に』ってしたかったん。
お付き合いありがとうございましたv