シリル・カーライルの受難
「なんだと? どういうことだ」
カーライル公爵領で物流が滞るなどという、未だかつて一度もなかったアクシデントにシリルの顔が驚愕に染まる。
公爵代理となってすでに8年。書類仕事にも慣れ、自領を任せている家宰や王都の屋敷の家令ともきちんと意思の疎通を図れるようにもなり、順調満帆とまではいえなくともまずまずの成果が出せていると思っていた。
「なぜこんなに他領へ運ぶ費用が掛かる契約になった? 契約する業者が変わるのはいい。しかし普通ならより経費が安くなるなど条件面での効果が見込める場合以外は変えないものだろう?」
そうでなかったらこれまで継続して契約を続けてきたという安心感を優先するのが当然だ。信頼に勝る商品はないのだから。それなのに違う業者に変えるということは、それを補って上回るだけのプラス要素があってこその筈だ。
それを、こんなにも高い経費が掛かる業者に変えるなど。シリルには癒着以外の理由が思いつけない。
しかし、契約内容の起案書にサインをして提出してきたのは自領で最も信頼している家宰だ。代々カーライル公爵家に仕え誰よりもその事に自負を抱いているあの男が、自らの私腹を肥やす為の行動に走ったりするだろうか。
もしそんなことがあるとしたら…、それはきっと家族になにかあった時だけだろう。
ぞくり。シリルの胸に、得体のしれない何か恐ろしい不安が湧いてきて身体が冷たくなっていくのが判った。
「明日、自領へ行く。家宰には知らせるな。抜き打ちで検める必要があるようだ」
侍従に準備を申し付けると、幾通かの手紙をしたためる。
父である公爵へははっきりとした理由が判ってからでいいが、自領で事に当たる間、諸々の面会予定を延期してもらわねばならない。
事態の収拾がつくまで何日掛かるか判らない今の状態にシリルは暗澹たる思いに塞いだ。
「シリル様、お客様がお見えです」
午後4時。カートライル公爵代理にとって今日5人目、最後の約束は隣国シュトーフェル皇国の皇太子殿下とのものだった。
「ごきげんよう、未来の義兄上ことカートライル公爵代理シリル殿」
シュトーフェル皇国皇族直系の証である金髪金瞳を持ち、まだ少年らしい線の細さが残る隣国の皇太子様は、つい先日、シリルの妹パメラ・カーライルと7年越し初恋を実らせ、正式な婚約者として認められたばかりだ。
7年前、この屋敷へ招待した際に父であるカーライル公爵に代わって、当時まだ皇太子であられた現シュトーフェル皇帝陛下に挨拶に伺った時の事は正直あまり覚えていないが、その頃、あの男勝りの妹がずっと泣いて過ごしていた時期があったことだけは妙に鮮明に覚えている。
食事もほとんどとらず部屋に籠ってばかりいると心配した侍女に相談され、部屋まで様子を見に行くと、パメラが大粒の涙を静かに流していて心底吃驚したものだった。
シリルには、妹が泣いているところなど赤子の時と母を失った時のそれしか記憶になかったからだ。
どう声を掛けていいのか判らずに、ただそっと肩を抱きしめ、頭を撫で続けていると、たった一言だけ理由を教えてくれた。
『クリスに嫌われちゃった』
少し前に、友達の少ないパメラが張り切ってお茶会に誘った相手はティナ嬢というシュトーフェル皇国皇太子殿下がご同行されていたご令嬢のみだった筈で。クリスという名前が誰のものか全く判らず困り果て、結局泣き疲れて眠ってしまうまでそうしていたのだ。
それが。
今、目の前に立っている、シュトーフェル皇国皇太子クリストファー・アップルフェル・シュトゥルーデル殿下のことだとは想定外もいいところだった。
「ようこそおいで下さいました。クリストファー皇太子殿下」
軽く手を胸に当て頭を下げる。さすがに臣下の礼まではしないが、それでも次代の隣国皇帝陛下だ。未来の義兄だからといって横柄に迎える訳にもいかなかった。
「今日の私はシュトーフェル皇国の名前の下に、ここにお伺いした訳ではありません。そのような礼は不要です」
この少年が妹を婚約者として望んでいると挨拶に来てから3か月余りが経つ。
しかし、これまで一度たりとも今のような冷たい声を聞いたことのなかったシリルは訝し気に目を眇めた。
それでも、まずは席を勧め茶を配る。
今日のお茶はウバにした。執務室に詰めている間のシリルは華やかな香りのお茶よりもはっきりとした味の濃いお茶を好んでいた。ミルクは客人の好みに合わせて使えるように後入れ用としてたっぷりとしたミルクポットを添えてある。
「ふふっ」
そのミルクポットを見たクリストファー殿下がふわりと笑顔になった。
まるで男性性を感じさせない柔らかな笑顔のままミルクポットを持ち上げ、自分のカップに注いでいく。
先ほどは見間違いだったかと思う。それほどの楽し気な笑顔だった。
何がそれほど楽しかったのか判らなかったシリルが、少しだけ眉を顰めて考えていると、
「昔、パムに招待されたお茶会の席でミルクは先入れと後入れどちらが美味しいか、という話から、何故かどんな紅茶が一番不味くて飲みたくないかという話に発展したことがあって。それを思い出しました」
そうタネ明かしをしてくれた。
それにしても、この皇太子殿下と妹は、どんな会話をしていたのかと頭が痛くなる。
あの幼い恋が本物の恋まで育つなど、一体だれが考えただろう。
この2人の間には、政略で幼い頃からの取り決めで婚姻を果たした自分達とはまるで違う何かが確かに存在している。お互いがお互いをその熱量を込めて見ているのだということはシリルにも判っていた。
そうして。ゆるりとティースプーンでかき混ぜたそれを口元へと運ぶ所作も美しい目の前の人が、幸せそうな笑顔から一転、その表情だけは笑顔のまま、声だけ底冷えするようなそれに変えて冷たく言い放った。
「それで。如何ですか、パクリム商会の輸送部門と切れたご感想は?」
ぞくり。背筋に這い寄るような悪寒が走る。
「なぜ、それを?」
なぜそれを知っているのか。そう問い質したいのに、まだ線の細い少女のような身体をした少年を前にそれが出来ずにいる不快感に、シリルの身体が勝手に小刻みに震えだす。
「ふふ。なんでそれを知っているのかすら、判りませんか?」
仕立ての良いシングルブレストを着こなしている今ですら、どこか少女めいてみえるこの少年のどこからこのような声が出てくるのか。
煽られているのは判るが、なぜそのような扱いをされているのかシリルにはまるで見当もつかない。
十も下の少年にこのような物言いをされる不快感と手玉に取られている不快感。
どちらがより不快なのか。
思わぬ話の展開にシリルのポーカーフェイスが崩れた。
「…なぜっ」
言葉にしようとした時、ようやくシリルにも、不快感の正体が、怒りではなく恐怖に基づくそれだと気がついた。
目の前にいる存在が発する威圧感に気圧されている。
その事実に、一旦落ち着こうとカップに伸ばした手が恐怖に震え出す。
がくがくと勝手に動き出したそれは中を満たしていた芳しい紅茶が踊り狂い飛び散るほど大きくなって、もう片方の手で押さえようにもどうにもならないほど大きく震え続けていた。
「なっ…なに、がっ、?!」
その無様なシリルの様子に構うことなく、クリストファーが本題を切り出した。
「『女装』と言った真意はどこです?」
シリルには、目の前にいる生きた悪魔の口から問われた言葉の意味が判らなかった。
「え、…あの?」
呆けたような声しか出せない。
そんなシリルに、目の前の悪魔がついに視線を合わせて問い質した。
「パメラのドレス姿を『女装』だと笑った真意をお聞きしております、未来の義兄上」
そこにいたのは、大国シュトーフェル皇国の次代を担う皇太子クリストファー・アップルフェル・シュトゥルーデル殿下、その人である。
皇族直系の証である金色の瞳が妖しく輝く。その強い光は圧倒的な存在感とカリスマ性を表わしている。命を苅り取られる、そんな恐怖すら感じる視線。
「え、いや…、その何のことだか。まったく、身におぼえが。その…」
しどろもどろに否定の言葉を紡ぐ。
婚約式での妹はそれはもう女神のごとき美しさで、あの五月蠅いパトリック殿下ですら「嘘だろ」と呆けたように呟いた後そのまま動けなくなったのだ。
それほど美しい姫として、未来の皇太子妃として立っていた妹に、そんな言葉をいう訳がない。
「な、なにかのお間違えでは、ありません、か?」
伝えるべき言葉を、なんとか最後まで言い切れた達成感で涙が溢れそうだ。
早くこの誤解を解かないと死ぬ。間違いなく自分という存在はこの世から抹殺される。その恐怖にシリルの心は侵されていた。
「そんなはずはありませんね。パメラ自身が言っていたのですから。
『兄やトリッキーリッキー達から、私のドレス姿は散々揶揄われてきたのです。『女装している』と』
パメラは、貴方たちに言われた言葉にいまだに縛られ苦しめられている」
そう金色の瞳で睨みつけられて、椅子に座っているのに膝から下の感覚がなくなるほどの恐怖に震えた。そうして──
「思い出した…」
確かに言った。そうパメラに向かって言った記憶が、シリルの中に噴き出すように思い出された。
その記憶に、立ち向かうための力を貰ったシリルは居住まいを正して話しだした。
「ようやく思い出しました。クリストファー殿下。確かに私はその言葉を幼いパメラに向かって言ったことがあります」
きらりと光った金色の瞳に、背筋が凍る。最後まで伝え終えるまで、自分が生きていられるかどうか。すでに新婚といわれる期間はすぎた妻を一人残してしまうことにならないよう、シリルは覚悟を決めて続きを話しだした。
「クリストファー殿下におかれましては、幼き日のパメラの姿絵を見たことはございますか?」
唐突なシリルの話の転換に、クリストファーの眉が軽く上がる。
「いえ。無いですね」
その返事に、硬い笑顔で応えたシリルが「失礼」と小さく言って席を立つと、袖机の鍵付き抽斗から小さなそれを持って戻ってきた。
それをそっとクリストファーに差し出す。
「秘蔵の細密画です。母が存命の頃に父が家族揃った様子を描かせた物です。
絵は小さくとも幼き日のパメラがどれほどの美少女だったかお分かり戴けるかと存じます」
クリスが初めて見るパメラがそこにいた。
母親の腕に抱かれ、何の憂いもなくあどけない微笑みを浮かべる姿は、天使。
子供特有の柔らかそうな銀色の髪、艶やかに輝く頬、完璧な弧を描く眉、大きな薄水色の瞳とそれを縁どる濃い睫毛、形の良い鼻、小さくて薔薇のつぼみのような紅い唇。
どれをとっても天使という他はない。
シリルはクリスの手から家族の宝物である細密画を取り返すと、そのまま抽斗の中へとしまい込んだ。
母と一緒に家族揃って描かせた絵はこれ一枚きりという。もう10年以上も前の話だと聞いているが、飾るにはまだ心の傷が深いのかもしれない。
「現在、近隣諸国においてなぜか高位貴族で女児が誕生し難い傾向がございます。
そのせいもあるのでしょうが、幼き日のパメラが一体何回誘拐されそうになったか」
シリルは、ため息と共に苦い記憶を吐き出した。
「週に3回ですよ。ひと月ではありません。一週間で3回です」
異様な状況だ。カーライル公爵家が威信を掛けて守ったからこそ、それ等すべてを阻止できたのだろう。ひとつでも成功していたらと思うとクリスは怒りと恐れに気が狂いそうになった。
「だから、言ったのです」
苦し気に告白が続く。きっとそれはカーライル公爵家でも苦肉の策だったに違いない。
「パメラに『女装のようだ』と。そういって男装を、そして護身のための術を教え込みました」
なるほど、とクリスも納得せざるを得ない。
助けがくるまで自力で時間を稼ぐことができれば救助の手が届く可能性はぐっと上がる。反旗を翻すのではなく、ただ逃げ出す隙を作る為でも護身術は重要だ。魔の手に堕ちる可能性がぐっと減る。
「…まぁ、まさかあれほど剣に対して適性というか才能があるとは思いませんでしたが」
兄としてはいささか立場がないとは思うものの、その誉れを誇る気持ちもある。
剣の姫。それはパメラ・カーライルと切っても切れない二つ名だ。
その自由自在で迅い剣筋は、自らも剣を持つ者にとって憧れの領域にある。
美しい見た目に騙されて泣いた腕自慢は数知れず。
侮り負けを受け入れられず、心が折れるまで繰り返した男も数知れない。
まぁ、中にはいまだに受け入れられず心も折れないでいる憐れな者もいるが。
「美しく、剣の誉れも高い。最高の姫君ですね」
先ほどまでの威圧感はどこへ消えたのか。目の前の少年が柔らかく微笑んだ。
「殿下が、妹のすべてを受け入れて下さってなによりです」
深く頭を下げる。家と家との結婚を受け入れるしかない筈の王族同士の婚姻を、ちゃんとした熱を持ったそれで結ぶことのできる妹の幸運に、兄として祝うばかりだ。
「こちらこそ。掌中の珠である妹君を戴けて光栄です」
シリルの言葉に嘘はないと納得したクリスは、落としどころを探すことにした。
「事情をお聞きすると仕方のない事だったかと思うのですが、それでも、パメラは未だに兄上であるシリル殿に言われた言葉に縛られて、ドレスを忌避する気持ちがあるようです。是非、先ほどの説明をして誤解を解いていただけないでしょうか」
勿論、その提案に否がある訳もなく。シリルはそれを受け入れて、必ず説明すると約束をした。
そうして。ふと、疑問に思った。
──そういえば、クリストファー殿下は、この話をしに来たのだろうか? 最初に話し始めた時は、別の事について話していた気がするのだが。なんだったろう、と。
その時、つい、と綺麗なハンカチを差し出されて戸惑う。
「随分と零されましたね。もう手遅れかもしれませんが、よろしければどうぞ」
言われて紅茶を零しまくった自らの失態を思い出し、シリルは赤面した。
ハンカチを受け取り、まだ湿った場所を抑えていく。
「義兄上のお話には納得できましたから、泣かせるのは次の機会に取っておきますね」
にこりと笑ったクリストファーに言われた言葉の意味が、シリルにはまた判らない。
「今回は前提条件が間違っていたということで許すことにしますが、今度、パメラに悲しい顔をさせた時は、本当に泣かしますからね?」
パクリム商会の輸送部門には、契約の継続許可を下ろしておきます、そう笑顔で告げられてようやくシリルにも判った。
”パクリム” それがパムとクリスからきていることに。
ここ数年で突然頭角を現した新興の商会。輸出入に伴う手続きや輸送業務を取り扱い、迅速な作業と適正な価格であっという間に近隣諸国どこに行っても出張所があるほどの店構えになった。そのパクリム商会がクリストファー殿下のものだったなんて。
用件は済んだとばかりに退席の挨拶を済ませると即パメラに会いに行ってしまった未来の義弟の本性を垣間見て、シリルは大きく息を吐いた。
ここにはいない妹に向けて呟く。
「パメラ。お前が捕まえた男は、皇国だけじゃなくて世界経済の皇帝になる男かもしれんぞ」
にいちゃん、それ走馬燈や