何でもない幸せな日々
近付いてくるのは、いつもの良い匂いだ。
軽く鼻を鳴らすと、わたしは寝そべっていた床から頭を起こした。
すぐ隣の机では親友が忙しくペンを走らせている。
「これとそこの登録リストはチェック済みだ。修正はないと侍従長に伝えてくれ」
「かしこまりました」
訪問を教えてやるべきか……
補佐役の侍従達と短いやり取りを交わしながら、出来る親友は黙々と仕事をこなしている。このところ公務に力が入っているのは、プライベートが充実しているからだろう。
アレクはじきに一国を背負って立つ身だ。幼い頃から周囲の期待に応えられるだけの器量と才覚を持ち合わせた、自慢の親友である。
だがどうにも自戒が過ぎるところがあって、己をないがしろにしがちな困ったヤツでもあった。
王としては正しい姿勢なのかもしれないが、常に周りを優先するばかりの行動に、こいつは本当に幸せになれるのだろうかと、わたしの心配は絶えなかったものだ。
だが今は、そんな心配もなくなった。
大好きな匂いがそこまで迫っている。
あと50メートル。
20メートル。
10……5……
「ワン!」
「なんだい? インターセプター」
わたしが前脚でアレクの靴をひっかくのと、扉がノックされるのは同時だった。
「飛那姫様がお見えです」
応答した侍従がそう告げると、アレクはわたしから扉へと視線を移した。
「仕事中に来るのは珍しいな。通してくれ」
特に感情のこもらないトーンでそう言った親友だったが、少しほころんだ口元をわたしは見逃さない。
そんなにうれしいか? ……うれしいのだな。
「アレク。お仕事中にごめんなさい。少しだけよろしいかしら?」
華やいだ声が侍女を3人従えて部屋に入ってくる。この秋にアレクとつがいになったばかりの女性だ。
人間が言うところの美男美女はわたしには理解しにくいが、彼女がその中でも特別に光った存在だということは分かる。そこにいるだけで場が明るくなる、美しい女性だ。
そして、この魔力の匂いがなんとも良い。
「かまわないよ飛那姫、ちょうど休憩しようかと思っていたところだ」
アレクのその言葉で、侍従達が仕事の手を止めてお茶の用意をはじめた。
わたしはうれしそうな横顔をちらと見た。休憩しようなんてタイミングでなかったのは言うまでもない。
2人がソファーに腰を下ろすと、侍女が運んできた銀のお盆をうやうやしくテーブルに置いた。
陶製の鍋にはどうやら食べ物が入っているようだ。匂いからしてお茶の時間に合うようなお菓子、ではないだろう。
「これは?」
「ふふふ、なんだと思います?」
わたしがドレスの膝元に擦り寄ると、白い綺麗な指が伸びてきた。
撫でられた手にうっとりと目を細める。
ああ、本当にこの人の魔力はいつも良い匂いだ。
忘れもしない、あれはまだアレクが11歳だった頃。
父王とともに他国の視察に出かけた彼は、疲れ果てた顔で帰国した。
ひとり剣を見てはため息をもらすアレクの姿は、とても珍しかった。そしてわたしはその剣に、見知らぬ魔力の香りが残っているのを発見したのだ。
甘い花のような、清々しい森の落ち葉のような、五感に訴えかけてくる良い匂い。今までに嗅いだことのないものだった。
こんな魔力を持つ人間がいるのかと、不思議に思った。
程なくしてその匂いは薄れ消えてしまったけれど。いつまでも嗅いでいたいと思うほど、良い匂いだったのだ。
その後すっかりそのことを記憶の奥にしまいこんでいたわたしだったが、大分経ったある時、アレクが旅先からその匂いをくっつけて帰ってきた。
「これの持ち主の匂いを覚えておいてくれるか? いずれ、追いたい」
そう言って見せられたのは、女性用の髪飾り。
間違いなくあの時の匂いだった。親友は「追いたい」と言った。ということは、わたしもこの魔力の持ち主に会うことが出来るのだろうか。
首輪につけてもらった髪飾りからは、酔ってしまいそうなほど良い匂いが漂っていた。
いいだろう、これでもう忘れることはない。
世界のどこにいても、この魔力の持ち主を追ってみせる。
わたしは自分の嗅覚に誓った。
……あれから、色々あった。
一時期は離れてしまったり、飛那姫が死にかけたり、紆余曲折を経た2人だったが……こうしてつがいになれて良かったと、心から思う。
「スコッチエッグ?」
「昨日のフウセンキツツキの卵ですわ。イーラスには喜んでもらえたようなので、アレクにも召し上がっていただきたくて」
「ああ、そう言えば……イーラスに礼がしたいと好物を聞いていたあれは、本気だったのか……」
「ええ、もちろんですわ」
「そうか、イーラスのために……」
親友が少し落ち込んだ雰囲気を醸し出しているのは気のせいじゃないな。
嫉妬というヤツか? こと飛那姫に関しては懐の狭い男だ。
アレクは侍女が蓋を取って、皿に料理を取り分けるのをじっと見ていた。
「美味しそうだ」
「でしょう? 昼食のあと、厨房を借りて作りましたの」
「……料理長が?」
「え? 私がですよ。いやですわ」
お礼の気持ちを人に作らせてどうするのですか、とわたしの頭から手を離さずに飛那姫が言う。
いやな、わたしでも分かるぞ。普通、王族は厨房で料理をしないだろう。
まあ、この姫は普通でないから今更だが。
「飛那姫が……??」
アレクはお皿の上の料理をまじまじと眺めた。
そして飛那姫の後ろの方、扉の側に立ったひょろっとした侍従に視線を向けた。
「イーラスは、これを食べたのかい?」
「はっ……恐れながら、大変美味でございました。光栄の極みでございます」
「……そう、か」
アレク、アレク落ち着け。
あれはお前の侍従だぞ。自分に忠誠を誓った家臣にモヤモヤしてどうする。
テーブルにお茶が並んで、カトラリーがセットされると、アレクは軽くため息を吐いた。
「少しの間、人払いを」
短くそれだけ言うと、侍従や侍女達は一礼してさわさわと扉から出て行った。
パタン、と閉まった扉に飛那姫がきょとんとした顔で「人払い、別に良かったのに」と呟く。
「君が作った料理は、食べたことがないからな」
「え? そりゃそうだろ? こっち来てはじめて作ったもん」
「だから、特別だと言っているんだ」
「そんな大したことじゃないのに……」
人がいなくなった途端に、飛那姫の言葉遣いが乱れる。
これが素の彼女だから、わたしもアレクも気にはしない。
「とにかくさ、食べてみてよ。まだ温かいから」
飛那姫はテーブルの上のフォークを取り上げると、お皿の上の料理を器用に小さく切り分けた。
ソースをからめた一口をフォークに刺して、アレクの前に差し出す。
「はい、どうぞ」
「……」
目の前に出て来た料理に、アレクはかすかに目を丸くして固まった。
そうだな、子供に食べさせるわけじゃなし。そんなことされてもな。
少し考えたあと、アレクはおとなしくぱくりと口に入れた。
「……美味しい。料理人でもないのに、こんなものが作れる飛那姫はすごいよ」
「へへー。そう? おだてても、もうこれだけしかないからなー」
得意そうに胸を張る飛那姫に笑って返すと、アレクはソファーを立って彼女の隣に座り直した。
「まだ食べたいな」
「こっちにあと一個あるよ。食べて食べて」
はい、と飛那姫が皿とフォークを渡そうとしたら、アレクはわずかに首を傾げた。
いたずらっぽい目になっているのに飛那姫も気付いたようだ。
「食べさせてくれるのだろう?」
「え?」
「他の男のために作った料理なのだから、それくらいしてくれてもバチは当たらないのじゃないか?」
「ええ? ……何言って……いや、アレク、もしかして怒ってる?」
「まさか」
アレクは綺麗な笑顔で答えたが、明らかに虫の居所が悪いとわたしも思う。
飛那姫はちょっと面倒臭そうな顔になると、一口大にした料理を再びフォークに刺した。
「ドウゾ」
「何だか投げやりじゃないか?」
「そんなことありませんわー」
親友よ、何を考えてる? 悪い笑顔になっているぞ。
アレクは「美味しいよ」と言いながら、飛那姫の差し出す料理を全部平らげた。
「ご馳走様」
「はいはい、おそまつさま」
「飛那姫は他にも何か作れるのかい?」
「うん。卵料理は他にいくつか作れるよ。お菓子はちょっと難しいけど」
「甘いものは得意じゃないから、私はこういった料理の方が好ましいかな」
空になった鍋を示すと、アレクは艶のある薄茶の髪に手を伸ばした。
遊ぶように一房、指にからめとる。
「今日の夕食は部屋でとろう。食事をしながらゆっくり好物の話でもしようじゃないか」
「別にいいけど……気のせいか、言葉にトゲがないか? やっぱり怒ってるだろ」
まだ不機嫌なのは確かだな。認めないだろうが。
お前がこんなに面倒臭い男だとは知らなかった。
「話の続きはまた後ほど、ということで。私は仕事に戻ろう」
「ちょい待ち。釈然としないぞ。質問に答え……」
言い返そうとした飛那姫の言葉が、変なところで途切れた。わたしからは死角になって見えないが、理由は予想が付く。
人目はともかくとして、獣目も少しは気にして欲しいのだが。
……まあいいか。それでお前が幸せなら。
「……トマト」
ぽつりと、飛那姫が言った。
「うん。出来れば今度は、私のために作って欲しいな」
微笑みながらソファーを立ったアレクは、仕事机に向かうとベルを鳴らした。
侍従と侍女達が静かに入室してくる。
飛那姫はかすかに赤い頬で、アレクを睨んでいた。
私はもう一度その膝元に擦り寄ると、甘い魔力の香りを堪能する。
アレクからも最近この良い匂いがするし、飛那姫からもアレクの匂いがするようになった。
人間はつがいになると互いの匂いが移るらしい。両方とも大好きな匂いだから、わたしにとっては喜ばしいことなのだが。
アレクが「夕食は2人でとりたいから、部屋に用意してくれ」とさわやかな笑顔でイーラスに伝えている。
イーラスは困惑した表情のあと、必要以上に頭を垂れて「かしこまりました」と言った。
相変わらず気苦労の耐えない侍従だ。
「……あいつ、たまに意地悪いよな」
わたしを見下ろす綺麗な薄茶の瞳が、こそっと呟く。
「ワン(そうだな)」
その言葉に、わたしも大いに同意しておいた。
久しぶりのSSを、アレクが飼っている聖獣視点でお届けしました。
飛那姫もアレクも、おおむね幸せそうです。
余裕があったらそのうちにドタバタも書きたいですねー。
(プロットはあるんですけどねー……短編ではすまなさそうなボリュームなので)
読了、ありがとうございました!