パティスリー コリン・ヴェールの猪口齢糖
その日のうちに楂古聿は店のすぐ側に空き家を借りた。
「今から仕込んで明日出せるものか… 」
何かを考えながら、持ち込んだペーストを口にした。
「単品で出すなら良いが、このカカオマスじゃアンディのケーキを活かせないか。やっぱりカカオニブから作らないとダメだな。」
「おいおい、この町に一大チョコレート工場でも築くつもりかい? 」
振り返るとガトーが立っていた。
「なんだ、アンディ。俺の事が気になって見に来てくれたのか? 」
「翠に頼まれたの。夕食を作ったから呼んで来て欲しいって。」
ガトーは少し語気を強めて言った。
「おいおい、ホントは二人っきりの方がいいんじゃないのかぁ? 」
「翠の気持ちと手料理を無駄にはさせないよ。」
今度は語気は穏やかだが、一直線に見つめるガトーの視線が楂古聿には痛かった。
「分かった、分かった。あの娘の事になると殺気が漂… じょ、冗談だ。すぐ行く、すぐに。」
「わかった。じゃあ… 待ってるから… ね。」
ガトーは一見笑顔だったが、目が笑っていなかった。
「ふぅ… 。あの菓子作りにしか興味のなかったアンディがねぇ。」
少し呆れたように楂古聿はガトーの後を追った。店の二階に上がると少し手の込んだ料理が並んでいた。
「お、思ったより見栄えがいいねぇ。」
「ガトーと楂古聿さんの歓迎会です。お二人のおかげで今日の売り上げが思った以上に多かったので奮発しちゃいました。」
楂古聿の声に翠が笑顔で答えた。
「僕は明日も売れるとは限らないんだから抑えた方がいいって言ったんだけど。」
少し心配そうにガトーが口を挟んだ。
「最初くらい、いいんじゃない? ずっとだと、どっかみたいに経営怪しくなるけど。」
「どっか? 」
「えっ、いや。」
翠が小首を傾げたのと同時に自分に向けられたガトーの鋭い視線に楂古聿が慌てた。
「旨そうなチキンソテーじゃん。頂きま~す。」
誤魔化すようにチキンソテーを口に頬ばった楂古聿の手が止まった。
「ごめんなさい、お口に合わなかった? 」
すまなそうに翠が表情を伺うと、楂古聿はスプーンでチキンソテーのソースだけを口に運んだ。
「このソースは? 」
「あ、ガトーがオレンジケーキ用に仕入れたやつを分けてもらったの。」
「俺にも分けてくれっ! 」
楂古聿は立ち上がってガトーに迫った。
「いいけど… 僕が、さっき言った事、覚えてる? 」
楂古聿はガトーの『翠の気持ちと手料理を無駄にはさせないよ。』という言葉を思い出した。そして、席に戻ると翠の手料理を旨そうに食べ、楽しそうに会話を楽しんだ。その様子に翠も笑顔だった。そんな翠をガトーは嬉しそうに見ていた。
「それじゃ、オーナー。」
「オーナー? 」
「俺が翠ちゃんって呼ぶと、アンディが妬きもち妬くから。また明日な。」
楂古聿は意気揚々と籠一杯のオレンジを手に帰って行った。
「あ、あんなにあげちゃって大丈夫なの? 」
なんとなく翠は妬きもちという話題を避けた。
「み、翠がオレンジソースを作るって聞いた時から、こうなると思って農家さんには追加をお願いしてあるから大丈夫だよ。」
「さっすが師匠。あ、片付けは私やるから。どうせ明日の仕込み始めるんでしょ? 」
「さっすが翠。」
ガトーは翠の頭を軽く二度ほど叩いて店の厨房に向かった。翠は叩かれた場所を照れ臭そうに触ってから二階へ片付けに上がっていった。
「このくらいのスペースでいいかな。」
仕込みを終えたガトーは冷蔵のショーケースに二品分の場所を作った。一つは生チョコ。もう一つはオランジェット。