パティスリー コリン・ヴェールの本日開店
小鳥の囀ずりに混じって聞こえて来た物音に翠は目を覚ました。部屋を出るとリビングのテーブルは昨日の夕食は綺麗に片付いていた。そして代わりにスライスされたバゲットと淹れたてのカフェ・オ・レが置かれていた。
「えっと… 私の分… で、いいのかな? 」
と小首を傾げてみても返事をする人は居ない。
「これ、食べちゃっていいのぉ? 」
仕方がないので階段から下に向かって叫んでみた。
「うん、食べちゃってぇ。店は午後からだから、ゆっくりでいいよぉ。」
と返ってきた。それでは、お言葉に甘えて… とはいかない。階下からは忙しそうに鉄板同士が当たる音、オーブンを開閉する音、ミキサーの回る音、銅鍋を木製のスパチュラで掻き混ぜる音などが絶え間なく聞こえてくる。翠は手早く食事を済ませるとカフェオレボルを洗って下に降りた。この国の平日の食事は洗い物が少なくて助かる。と、翠はいつもながら思った。店の厨房ではガトーが所狭しと駆け回っていた。下手に入ると邪魔になるかとも思ったが、そこは店の主人。そうもいかない。
「何かお手伝い出来る事は? 」
「えっと… じゃあ、フィナンシエが冷めてるから袋詰めお願い。」
とるに足りない簡単な作業ではあるが、たった二人で切り盛りするには重要な作業である。作業用の手袋を手にはめて詰め始めると、心地好い香りがたまらない。翠の表情に気付いたガトーが声をかけた。
「翠、味見してもらえる? 」
「えっ、いいの!? 」
思わず、翠は声が上擦ってしまった。だがガトーは、そんな事を気にする事もなく小さく頷いた。目を輝かせて一つを口に入れると焦がしバターとアーモンドの豊かで芳ばしい香りが口に広がっていく。
(これよ、私の目指すお菓子はこれなのよ。物珍しくまなく、写真映えるでもなく、普通でいて美味しいお菓子なのよっ!)
まだ、焼き菓子一つ口にしただけだが翠は幸せな気持ちになっていた。
「先生、師匠っ! 私も、こんなお菓子が作れるようになれるでしょうか? 」
あらたまった態度の翠を見てガトーはクスッと笑った。
「僕は従業員で、翠のお店なんだから。堅苦しいのは無しにするんでしょ? 」
「そ、そうだけどぉ~。」
そんな翠の様子にもガトーの手は止まらない。オーブンに手を入れスポンジケーキの表面に触れると軽く頷いて次々と出しては型から抜いてクーラーに並べていく。その様子に翠は自分の手が止まっていた事に気付いて慌てて袋詰めを再開した。もはや、感心、感嘆するしかない。午後の開店までに品揃えをするのだから進みとしては、こんなものなのかもしれない。だが、この時間にここまで一人で、この量をこなしている。そしてわざわざ途中、手を止めて翠の朝食の支度をしてくれた事はカフェ・オ・レが飲み頃だった事が物語っていた。この国のパティシエは皆、こんなに手際がいいのだろうか? それともガトーが特別なのだろうか? 聞いてはみたいが今はそれどころではない。翠はフィナンシエの袋詰めを終えると型を片付けてマドレーヌを詰め始める。型を洗うかフィナンシエを並べる事も考えたが、効率的な気がしたからだ。それでもマドレーヌも詰め終えると店頭に並べ、戻ると洗い物を始めた。忙しく手を動かしているガトーだったが要所要所、翠の様子を見ていた。