パティスリー コリン・ヴェールの開店前日
「えっと、あの、その… 」
「どうしました? この国でパティスリーを開くなら最低でも職業適性証はお持ちなのでしょう? 」
翠が対応に困り途方に暮れていると、後ろからガトーがやって来た。
「すいません。うちのオーナー、まだこの国に慣れてなくて。はい、僕の資格証。」
「はい、拝見しますよ。… Brevet de maîtrise 《ブルベ・ド・マイトリス》。なら、何の問題もありませんね。衛生士もお持ちと。BMとは、いいパティシエをスカウトしましたね。それじゃ、何かありましたら町役場までお越しください。では。」
一礼をすると役場の二人はニコやかに去っていった。
「あのぉ、『うちのオーナー』って何? 」
「遠慮しなくていいから。」
「いや、遠慮とかじゃなくて。うちは誰か雇うような余裕は無いんですけど。」
「部屋と食事があれば、お給料は安くていいから。」
そう言ってガトーはウィンクして見せた。
「な、な、何言ってんですかっ! 」
顔を真っ赤にして怒る翠の様子をガトーは頬杖をついて、にこやかに見ている。
「別に一緒に寝ようって言ってる訳じゃない。部屋は別々でいいからさ。」
「いい訳ないでしょっ! 」
「じゃ一緒の部屋? 」
「そこじゃなくて。見ず知らずの貴方と同棲なんてできる訳ないでしょっ! 」
するとガトーは少し困り顔で首を傾げた。
「同棲? シェアハウスと思ってたんだけど? それに悪い条件じゃないと思うんだけどな。僕は寝床と食事が確保できる。君は開店に必要な資格を持った人材を格安で確保できる。」
「資格なら自分で取りますっ! 」
「試験は年一回。もうすぐだ。試験内容は筆記、実技、面接。悪いけど、今の君の状況じゃ、今年の試験には間に合わない。それとも君は無職で一年間、勉強に費やす余裕があるのかな? 」
すぐに店が開けるものと考えていた翠にとって、ガトーに突きつけられた現実は厳しいものがあった。
「なんなら、BMの僕が専任の家庭教師をしてもいいよ? しかも別料金無しだ。」
「あ、当ったり前でしょ。部屋代も食費も要らない代わりに、ちゃんと教えてよねっ! 」
それは翠にとって、この国でパティスリーを開く為に一番現実的な選択であった。それを聞いたガトーは片膝を突いた。
「Oui,propriétaire. 《はい、ご主人。》」
「店の従業員だけど、パティシエの先生なんたから、プロプリエテールはやめてちょうだい。翠でいいわ。それから、お互いの部屋に許可なく入らない。それから、お風呂は決して覗かない事っ! 」
「わかったよ、翠。」
そう言ってプラチナブロンドの髪を掻き挙げながら爽やかに微笑まれると、何故か照れ臭くもあった。
「それじゃ、僕は仕入れに行ってくるね。」
「何それ? 気が早すぎよ。」
「この国には『朝出来る善い事は夕方を待つな。』『今日出来る事を明日に延ばすな。』って言葉があってね。だから明日の午後には開店するよ。じゃ、行って来るネ。」
ガトーは慌ただしく出掛けて行った。
「でぇ~っ!? 明日の午後って明日よねえ!? 」
あまりにも、当たり前の事を言ったと後で思った。そのくらい翠は動揺していた。