パティスリー コリン・ヴェールの好機到来
パティスリー コリン・ヴェールと、コンフィズリー アイリスの新作ケーキの発売は奇しくも同日となった。いや、寧ろお互いに狙ったのかもしれない。無論、それは翠でもイリスでも、ないだろうが。当然のように他の地区では、周囲の洋菓子店を圧倒したアイリスだったが、コリン・ヴェールのある地域だけは違った。
「向こうのも食べて来たってお客さんが、うちの方が美味しいって。」
何故かクレモンティーヌが得意気に言った。
「でも、向こうのも食べたって事は、どっちの売り上げにもなってるんでしょ? 」
「何言ってんの? リピートする時に差が出るんじゃない。」
「ほら、オーナーもクレムも無駄話してる暇ないよぉ。」
楂古聿の声に翠とクレモンティーヌは慌てて店内に戻っていった。
「なんですってっ! 」
この日もコンフィズリー アイリスの会議室にイリス社長の声が響く。役員たちは、またかという顔で聞いている。パティスリー コリン・ヴェールがオープンして以来、日常化していた。ただ、問題も無くはない。CEOアベル・ヴンサン考案のケーキが売り上げだけでなく、評判でも負けている。これは印象としては非常に良くない。昔であれば一地域の出来事。全国区で集計すればアイリスの圧勝である。しかし、今はSNSの口コミも軽視出来なくなっている。だが、CEOアベルにも、COOアーテュにも明確に敗北の原因は見えていた。
「腕の差が出たな、アーテュ。」
「そのようですね、父上。」
二人の意見は一致していた。二人とも洋菓子界の巨匠と恐れられるアベル・ヴンサンのレシピがオンドリュー・ガトーのレシピに引けを取るとは思っていない。ガトー程の斬新性は無くとも、その絶妙なバランスは他の追随を許さない。それが故の敗北。コリン・ヴェールはガトーのレシピをガトーが作っている。しかし、アイリスは違う。アイリスはアベルのレシピを各店舗の職人が作っている。製作と監修の差は単独では分かり難くとも、比べると差が出てしまう。アイリスにはアベルのレシピを100%再現出来る職人がいなかった。ほんの僅かな差が口コミで大きな差となった。
「我々は惜しい人材を手放したようだな。」
「ガトーが居れば、各店舗を廻ってもらい、品質チェックも出来たのでしょうが。」
「我々がそれを行うには、組織が大きくなり過ぎた、という事か。」
このタイミングでアベルの執務室の扉がノックされた。無言でアベルが頷いた。
「入りなさい。」
アーテュに促され、扉を開けてイリスが入ってきた。
「お呼びでしょうか、お祖父様、お父様。」
「イリス、一端、お前の社長の任を解く。」
部屋に入るなり、そう告げられたイリスは固まった。
「私にコリン・ヴェールに敗北した責任を取れと? 」
イリスは震えながら声を絞り出した。
「そうではない。お前には現場の経験が無い。一度、経営から離れて現場を学んで欲しい。聞けばコリン・ヴェールのオーナーもパティシエール見習いだそうじゃないか。それとも、お前には無理か? 」
「あの女に取れて私に取れない事はありません。ですが、向こうはアンディがいます… 」
「なんだ、コンフィズリー アイリスのCEOとCOOが講師では不満か? 」
イリスが二人の間に飛び込むと二人もイリスを受け止めた。それは、今後のアイリスが更に大きくなる事を予感させるに充分な光景であった。
イリスは解任ではなく辞任として発表された。そしてパティシエールを目指す事も併せて発表された。これがアイリスがコリン・ヴェールに敗北を認めたという噂になった。この噂が広まるとコリン・ヴェールの来客が増えた。
「ちょっと拙いかな。」
働きづめのガトーの様子に翠は一つの決断をした。