突然
今日は本も四角いまま、箔押しされた表紙が済ました顔をして佇んでいる。
海に面した大きなガラス窓から差し込んでくる光が、本がデスクに生み出した影に変化をもたらすが――それだけだ。
デスクが置かれているのは、この部屋でも窓際にあたる。
出窓のような造りの中、ポツンとおかれているのは、そのデスクと椅子が1脚だけ。
とは言え、この部屋が狭いわけでは無い。
壁には、重厚な本棚がびっしりと設置されているが、それですら人に圧迫感を与えることは叶わなかった。
それほどにこの部屋は広い。そして天井も高い。
その天井からはシャンデリア。
シャンデリアが彩る大理石が敷き詰められた床。その中央には、手足の深いクリーム色の絨毯が敷かれている。
この部屋の用途を問われれば、多くの人が仕方なしに「書庫」と答えるだろう。
少なくともその生活感の無さをよすがとして。
しかし、ここには2人の人物がいる。
2人とも女性だ。
1人はモノトーンのドレスに身を包んだ、白髪交じりのダークブラウンの髪をひっつめた人物。
“ここ”での役職名は女官長、となっている。
彼女は、デスクの脇に無表情なまま畏まっていた。
本と同じように、ただ影だけを変化させて。
もう1人は、パステルカラーのドレスに身を包んだ――少女。
ストロベリーブロンドの背中まで伸ばされた髪は2つにまとめられ、活動的に見えるがそれは微動だにしない。
ただ瞬きだけは繰り返されるが、アッシュブラウンの瞳に揺らぎは見えない。
鼻の頭から頬に向けて、そばかすが浮かんでいる顔は年相応と言うべきだろうが、感情が抜け落ちたような口元からは、それと同時に老成したような印象を与えてしまう。
ここは王宮。
そして少女の住居でもある。
少女の名はマドーラ・レスキンタス・レタングスという。
ヨーリヒア王国の、次期王位継承者。
彼女は12歳にして、すでにフイラシュ子爵夫人でもある。
王位継承者と選定されたことは、自動的に子爵位を継ぐこと意味しているが――有名無実とは、まさにこの現象をさすのだろう。
いや、それを言い出すのならば彼女が王位継承者であることにも、どれほどの“実”が伴っているのか……
そんな彼女の生活も“実”は伴わず、ただ次期王位継承者であるという、その“名”を満たすだけに繰り返されていた。
いつもならば、ここ「勉強室」で教師から何事かの講義を受ける。
そのはずであった。
だが、今日はその教師が現れない。
そうとなればマドーラには――何やることが無くなってしまうし、自分から行動することも出来ない。
それがわかるからこそ、マドーラは閉じられた本の表紙を前にただただ、座っているだけ。
影の動きで時間の経過だけはわかるが、マドーラはその経過にも関心が無い。
例え時間の果てに、変化が訪れたとして……結局は王宮に戻ってくるのだ。
あるいは自分の死が訪れたとしても、それをマドーラには自分がそれを変化として受け取ることが出来るかは、確信が持てない。
今の自分の状況と“死”の違いがマドーラにはよくわからないのだ。
すでに自分が死んでいると指摘されれば、ああ、と深く納得出来るような気がする。
現に教師が現れないという変化があるにもかかわらず――
――カチャ
扉が開けられた。
教師がやって来たのであろう。
マドーラは、顔を動かすこと無く視線を扉へと向ける。
「君がマドーラか」
出し抜けに。
そう、姿も、声も、言葉遣いも、まったく唐突に“それ”は現れた。
男性ではあるらしい。
そして、ある意味では「普通」を適当に固めた様な人物である。
“異邦人”であるという最大の特徴を受け入れてしまえば。
漆黒の髪は無造作に。それを除けば人目を惹くほど優れた容姿ではない。
出で立ちは青から群青に見える丈の短い上着。太めのベルト。そして少し変わった緑色のズボン。
しかしながら特に奇異では無い。街に出てしまえば似たような格好をしている、男性はごまんと居るだろう。
だがそうやって興味を失ってしまえば、その服の奇異な部分に気付かない。
異常なほど膨らんだ左脇には何が収められているのか。太いベルトは何を吊しているのか。太ももの部分にまでポケットが付いている。
それに、その足下。
まったく見たことが無い靴だ。
そこで改めて観察してみると、一体男の服はいかなる素材のものなのかよくわからなくなってくる。
本当に、この男は普通なのか? と疑問を抱いた所に追い打ちを掛けてくるのが、男の目――いや瞳だ。
髪と同じ漆黒。
何者にも染められない、という言葉を思い出してしまうほどに、その瞳は不羈の輝きを放っていた。
「状況は掴めてるな。勉強するなとは言わんが、しばらくは俺に――」
男はそこでピタリと口を噤んだ。
そして心底、意地の悪そうな笑みを浮かべた後、顔一杯の笑顔を浮かべて、
「その格好は、侍女ですな。マドーラに――あなた方が“大事だ”と崇め奉っている次期国王に、説明は為されているのでしょうな?」
と尋ねる。
男の出現からここまで、まったく反応出来なかった女官長ではあるが、ようやくのことで金縛りが解けたらしい。
「お主は――」
「王宮に勤めて、俺の存在もその危険度も何もご存じないのであれば、貴女にここの務めを全う出来るとはとても考えられない」
自分で尋ねておいて男は、勝手に答え始める。
「知っていても尚、それを主に伝えていないということでも同じこと。危険に対して、その危険度を知らしめないというのは見殺しにするのと変わらない。要するに貴女は職を全うするに能わない――何という俺に都合の良い人物がマドーラの側にいることか」
男は朗々と、女官長を論っていた。
実に晴れやかな笑顔のまま。
「そういうわけだマドーラ。お前を利用する権利は俺に移った。立ってこっちに来い」
「何を勝手な――」
女官長が抵抗を試みるが、男は笑顔を崩さずこう告げた。
「1から説明しなければわからぬほどに愚かですか、貴女は? 王宮に不審人物が紛れ込んだという報せは流石に受けているのでしょう? それでいてその不審人物である俺が、ここまで乗り込んできているのが現状です。それなのに貴女は“ここにまでやって来ることはあるまい”と高をくくって、女の子をここに座らせ、何も説明しないままに放置して自分の役目を放棄したんです――いや、あるいはそれが貴女のお役目ですか?」
完全に女官長を見下しながら、男は告げた。
これでも女官長は、王宮の奥向きを取り仕切ってきたという自負もあり、それが彼女の自尊心を支えていたのだが、男は先ほどから、その彼女の自尊心を無下に扱い、そして笑いものにしている。
女官長が何とか反論を試みようとするが、その糸口が掴めない。
彼女自身が、この次期王位継承者に何ら敬意も持っておらず、王宮内の力関係を考えた結果、現状の自分の立ち振る舞いがある事は歴とした事実であるからだ。
「――愚かな貴女に簡単に保身が出来るような『脅迫』を差し上げましょう」
男は尚も笑いながら続けた。
「“殺すぞ。お前の家族もただで済むと思うな、それがイヤならさっさとここから出ていけ”――こんな感じで如何ですか? ああ、ここから先に身体を痛めて寝っ転がっている人が沢山居ますから、それを助けておけば心証もよろしいでしょう――飼い主のね」
女官長は、それでも有能であるのだろう。
即座に自分の立場とそれによって弾き出された損得勘定を巡らせ、男が扉の前の場所を譲ると、弾かれたように部屋を飛び出していった。
そんな中、マドーラはジッとその様子を眺めていただけだった。
何事が起きても、自分はただ人の言うことを聞き続けるだけだ、と理解していたから。
だから――男から早速言われていたことがあったはず。
そう――立つんだった。
結局開かれることが無かった本のように、ただ四角に整然と。
マドーラは席を離れデスクの側に立つ。
それを見た瞬間、笑顔だった男の表情が歪められた。
そして手招きしてマドーラを呼びつけながら、近付いてくるその様子をジッと観察する。
マドーラはただ言われたままに近付き、そして男のそばに立って、次の命令を待つように男を見上げていた。
男は、そんなマドーラを見下ろしながら、こう告げる。
「――まずは着替えだな」




