偽名、お気に召すまま
ノラ――
シンプルなのは結構だが、ちょっと困るな。
二つ名的の意味合いでの自己紹介なのか――例えば“木の洞”的な“野良”とか。
それとも端的に一般的な女性名としての「ノラ」なのか。
呼びかけるにしてもニュアンスが。
そもそも、異世界の名前はあちこちの国が混ざり合っていて、判断が難しいんだよ。
この辺もな……
「――君の名前を聞いてはいけないのかな?」
ノラさんから声がかかった。
焦れているわけではなく、フリーズした俺を面白がって見ている感じがする。
だが、この問いかけは俺を少しいらつかせた。
「名前? 俺の名前を知らないって……」
――ん?
そうだ。
そんなバカな事があるはずが無い。
ここが絶対の基準だと設定してしまうと、見えてくるものがある。
俺がおだてられているという事に。
この人物が使っている交渉はこういったやり方らしい。
気を引き締めろ。
異世界人を僅かばかり知っただけで、全て知ったつもりになるな。
SFじみた武器が使えても、化け物じみた力を持とうとも。
――智恵の前では全て無力。
調子に乗れば、死に勝る恥辱に塗れるぞ。
俺は脳内の甘々なプランに喝を入れた。
異世界に来てから、初めて真っ当に交渉で遊べる相手だ。
「……仰る。これは意外なお言葉ですが自己紹介は大事ですね。俺は“エガワ”と言います」
カケフの対義語となれば、やはりエガワだろう。
名前の付け方としては間違っているが、異世界でそのようなニュアンスにこだわっても仕方がない。
問題は俺が覚えやすい事。
――そして、楽しい事。
俺のそんな自己紹介にノラさんも小首を傾げる。
「そうだね。確かに自己紹介は大事だ……だから君の名前は知っていてもお願いしたんだ」
「なるほど」
「先ほどの名前は、聞いている名前とは違うみたいだね」
「そういうこともあるでしょう」
「あるって……」
ノラさんが、笑みを浮かべる。
「それは僕の知っている“自己紹介”じゃないよ」
「ですが、それが俺の知っている“自己紹介”なので。お互いが不都合が無いように使うべき名を交換する。それで十分じゃないですか――別に友達になりたいわけでもありませんし」
ここは本音で良いだろう。
ノラさんは困ったように眉を潜めた。
「つれない事を言うね。ただこれだと僕だけが名前を晒してて、ちょっと困った事になる」
“ノラ”が本名だと?
もちろんそんな証明できるはずもない。
こういう風に、自らを低い位置に置くのがやり口なのだろう。
俺がノラさんを助けている、という関係性を描くつもり――と、取りあえず仮定しておこう。
実際、こういう「神輿に乗せる」操縦方法は、一度嵌めるとやりやすい事、この上ないしな。
――さて取りあえずは、一度折れるか。
「仕方ありません。俺の名前はカケフです。カケフ・ムラヤマ」
そっちがファミリーネームを晒していない以上、こっちがより譲歩……にはならないが、建前上はこれで言い張ってみるか。
「おや? 先ほどの名前は?」
「良い名前でしょう? ちょっと気に入っていたのに残念です」
嘘。
本当はカケフさんの方が好きだ。
江川は投球フォームが気に入らなかったしな。
同時代なら西本さんの方が好きです。
「なるほど名前については一家言お持ちなんだ」
「そうなりますね」
「ここで余談なんだが、一つ評価して欲しい名前があるんだ」
「俺にですか? あくまで好悪の判断でしかありませんが」
「もちろんだよ。“異邦人”の名はどうも響きが独特でね」
カケフは馴染んでないかな?
「――“イチロー”という名前なんだ」
「ふむ。確かに馴染みのある名前ですね」
俺は応じながら、ノラさんの柔軟さへの警戒を強める。
「ただ元の世界では、取り立てて特徴のある名前ではありません。水に対して好きも嫌いもないでしょう? そのためか、評価は難しいですね――こういった名前の“異邦人”がいるんですか?」
今度はお前のことは知っているぞ、系でマウントを取りに来たか。
常套手段ではあるな。
だが俺はマジで係累が無いからな。
“イチロー”だったと判明したところで、どうという事は……ない。
それにここから先の交渉は、多分、相手の意表を突けるはずだ。
効果的にカウンターを取るために、もう少し誘い込むか。
俺はノラさんの反応を待つことにした。
「“異邦人”は居たらしいんだ。今はどうもハッキリしないんだけどね」
「そいつを、お探しなんですか?」
「うん……ああ、何も出してなかったね。酒は嫌いなんだろ? かと言って食事は……」
「結構ですよ。こちらをヤらせてもらえれば」
俺はポケットからタバコを取り出してみせる。
ノラさんは、微笑んだ。
細かく、こちらの事を“調べている”アピールしてくるな。
そろそろ次の手に移って欲しいところだが。
俺は1本咥えると、ジッポーで点火。
酒瓶を取りに行ったノラさんは、ついでにパイプ用だったが灰皿を持ってきてくれた。
ノラさんが持ってきたのは、琥珀色の蒸留酒。
貧民街では、あまり見ないタイプだ。
コッコッコッと硬質の音を響かせて、グラスに注いでゆく。
氷はいらないのかな? とも思ったがそもそもチェイサーが無い。
冷やすのも魔法で簡単に出来そうだしな。あの指にはまっている指輪が護身も兼ねた道具である可能性もある。
「――“異邦人”の行方はわからないけど、影響が大きくてね」
唐突に会話が再開された。
こちらも備えていたので焦ることは無い。
「ノラさんはそいつを探してるんですか?」
ノラさんはグラスを傾けながら、首を振った。
「いや、これはあくまで話のついでさ。本命はこれじゃない」
「それでは……」
「君を連れて行く。これが本命。だけど僕たちは君に大人しくして貰う事は出来なかった」
「次善の策はありますか?」
「ないこともない。だけど“次”善のという事になると、1度は君の話も聞かなくちゃいけない」
随分、明け透けに来たな。
ここで打ち明けるべきか。
ああ、クソ。
“イチロー”で話を引っ張った方が楽だった。
「――どうして俺の話に価値を見出したんです?」
こちらも明け透けに尋ねてみる。
「そんな事決まってるじゃないか」
ノラさんは自分の髪をつまんでみせた。
「これだよ」
その宣言に少し考え込む。
“異邦人”だけというなら、もっと前からわかっていたはずだ。
それがここに来て、価値が上昇したという事は……
「――俺のスキルにアテがあるんですか?」
あまり感情を出さないように。
だが、あまり知ってる風も危険に思われる。
なにせ相手は……
「逆だよ。アテがまったく付かない」
しかしノラさんお言葉は、俺の意表を突いてきた。
わかりやすく目を剥いてしまう。
だがノラさんは俺に構わず話し続けた。
「これはね。多分“異邦人”の血が何処かで混ざったんだと思う。それでちょっと伝手が出来てね。“異邦人”が持っているスキルも適当に知ってはいる。だけど――」
ノラさんは蒸留酒で、唇を湿らせた。
「――だけど、君のはまるで無茶苦茶だ。何と言うかなぁ、桁が違う」
桁が違う?
もしかしたら俺のスキルに見当が付いてるのか?
この人と早くに接触出来ていれば――いや、今さらそれを悔やんでも仕方ないな。
それに現状がこうなったのは、偶然の要素が強すぎる。
だが相手は親切なだけの人物では無い。その辺りを聞き出すにしても、慎重に行かなければ。
そのノラさんは笑いながら首を横に振った。
「だけど、君はそのスキルより問題があるね。その破格のスキルに溺れる事無く、やっている事もよくわからない。それが、ここに来て積極的に動き出した」
ノラさんはグラスの縁をチンと弾いた。
「君は丸め込むのも難しそうだしね」
「これは……見込まれたものです」
辛うじてそれだけ告げると俺はセブンスターを深々と吸い込んだ。
ノラさんも、静かにグラスを傾ける。
ここはカウンターを狙うより先に進んでみるか。
謂わばそう――クリンチ?
あまりの格好の悪い結論に、おもわず笑い出してしまうところだった。
いかんいかん。
本気で笑ったら、タバコで咳き込むところだ。
俺は灰皿で遠慮無くタバコをもみ消すと、居住まいを正してノラさんにこう告げる。
「――ノラさん。俺と組みますか?」