肯定の甘い毒
「だが、異常なのはこちらの世界も変わらない。いやだと言っても聞かせてあげましょう。貴方達が暮らすこの世界の歪さを」
ムラタの声からドンドン感情が抜け落ちていく。
「基本的に物事には始まりがある。だがしかし、この世界で“老人を敬う”という道徳が発生するのは不自然極まりない。ある意味で、この世界は俺の理想に近いのに」
「り、理想だと?」
「いや、これは先走りすぎたな。理想の世界になり得る可能性があると言うだけだ。俺の世界は多分もう……いや、生き延びたんだろうな。だから俺がここに“居る”。恐らくは、強引に問題を無かった事にしたんだろう」
「な、何を……」
フェルディナンドはムラタに追いつこうと、何とか言葉を重ねる。
そんな必要は無いのに。
誰もそんな事を望んではいないのに。
学識豊かと謳われた、自分のプライドのためか。
だが、それも無駄な事。
ムラタが語るのは“異世界”風に言うなら――神の話。
「我々の世界で老人が敬われる経緯はお話したはずです。だが神聖術がある世界でこれは不自然に過ぎるんですよ。怪我も、病気も神聖術1つで対処できる。当然、人間は我々の世界とは比べものにならない程早くに平均寿命を伸ばす事に成功したはず――いや、そうでなければおかしい」
フェルディナンドの脳が自然と求められた情報を検索した。
確かにフェルディナンドが覚えている平均寿命は、先ほどムラタが言ったものに比べれば長い。
そして、平均寿命が変化すると言う記録には――心当たりが無い。
この場合、戦乱の時代を混ぜてしまってはいけないことはいやでも理解できる。
「となれば、気付いても良いはずだ。老人という枠組みの中に大人を放り込むことの愚かさ、そして、構造的欠陥を」
完全にムラタは暴走している。
“構造的欠陥”という言葉が通じるかどうかを全く意に介していないのが、その証だ。
「“老人という弱者”の中に何も考えずに大人を放り込んで、庇護すべき対象として分類するのは、もはや罪悪でしか無い。どこまでいっても大人は大人として扱うべきなんですよ。つまり庇護などもっての外。一人前の人間として、最後まで扱う。当然でしょう。何しろ社会の熟成に伴って愚か者でも生き延びてしまうと言う危険性が発生しているのだから」
そこでムラタはフェルディナンドを見つめた。
感情の籠もらない瞳で。
もはや、フェルディナンドを認識しているのが奇跡だと感じられる程に。
「ましてやこちらの世界では“魔法”なるものがある。これに肉体的衰えはさほど関係ない。となれば自然な流れで考えれば、とうの昔に“老人”という区別は廃れていなければおかしい」
「お、おかしい……とは」
「貴方が、その良い例だ。貴方が自分の立場を主張なさるのに、その年齢をよすがとなさいませんでしたか?」
「そ、それは当然であろう! そ、それだけ……」
年齢を重ねて……
……だがそれには意味が無いとムラタは指摘しているのだ。
「貴方は間違っているんですよ」
ムラタは、変わらず感情の籠もらない声で告げた。
現在進行形で。
お前は未だに間違い続けていると。
「マドーラの王権を侵したいがために連綿とした血の流れを、それこそ貴方が大事に為さっているだろう時の積み重ねを、ご自身で台無しなものに為さったのです。貴方の判断の根っ子にはこの判断がある。それなのに、その上にいくら言葉を積み重ねてもただただ歪んでゆくだけ……ああ、この屋敷が良い例ですね。やがて貴方が行ったことが目に見えて理解できることでしょう」
「で、では、人は――」
「1人になることです」
ムラタは即座に応じた。
「人と人とのしがらみは、どうしたって判断を歪ませます。だから判断するときには、1人で行うことが肝要。貴方、マドーラについての判断を行うとき、他者からの意見に耳を貸しませんでしたか? ――いや間違いなく耳を貸されたのでしょう」
フェルディナンドは唇を噛みしめる。
「間違った貴方は“大人”として、間違った責任を取らなければならない。貴方は自分が“老人”という存在である事に寄りかかり、そこから目を反らした。それこそが愚か者を見分ける、一番簡単な方法だというのに」
「わ、私は……」
「もっとも、これに関しては責任の全てが貴方にあるわけでは無い、と俺は考えています」
「それでは……」
フェルディナンドの喉が鳴った。
「世界を歪めた“もの”にも当然責任は発生するでしょう。それが道理というものです」
どういう理由か、ムラタはフェルディナンドの心情を慮ったように、決定的な対象の名前を言及するのを避けた。
――慮った?
――ムラタが?
だが、そこに違和感を感じられる程、もはやフェルディナンドは平静さを保ってはいない。
「俺がこの世界に現れた……呼び出された理由は、あるいは責任をとるためかも知れません」
「せ、責任?」
もう、ムラタの言葉をオウム返しに呟くことしか出来なくなっているフェルディナンド。
その状態に追い込むことこそがムラタの狙いだ。
考えることを放棄させ、ただ今の状況に身を任せるだけ。
あるいは自分の心地よい“理屈”に酔うことに快楽を感じてしまう。
ムラタはさらに背中を押す。
――“狂信”の沼へ踏み出すように。
「ここが歪な世界である事はもうおわかりかと。であるならば、それを修正することこそが意思であると考えるべきでしょう。だから俺のような者が現れた」
「し、しかし……」
「ある意味では貴方は運が良い」
「運……だと?」
まだフェルディナンドは抵抗を続ける。
だがそれもムラタの思惑通り。
いや、その方がさらに都合が良い、と考えるべきか。
元より、ムラタが狙うのは強烈な一撃でフェルディナンドをフォーマットしてしまうことでは無い。
ファイヤーウォールを破壊し、むき出しになった本体に浸食するウイルスを送り込むことこそが本懐。
フェルディナンドという“個性”を生かしたままで、塗り替えてしまえば――何ともムラタの都合の良い「駒」の出来上がりだ。
何しろ“自動的”であることが大きい。
そして今、ムラタは最後のウイルスを送り込む。
精神にそういうものがあればの話だが――それは筋弛緩剤に似たような効果を、心に及ぼすことになるだろう。
「――貴方は歪みに誰よりも早く気付くことが出来た。これは他の者には不可能なことです。貴方だけです。貴方にしか出来ないこと……それは神の御意志に気付くこと」
肯定。
圧倒的な肯定。
それこそが最大の筋弛緩剤だ。
「……私が……私は……」
「どうぞごゆっくり考えて下さい。貴方の新しい使命についてね」
即効性では意味が無い。
遅効性であるからこそ、さらに浸すことが出来る。
――安楽という名の“幻”に。
□
「終わりましたか?」
どうやらムラタの合流を待っていたらしいマドーラが、珍しく自分から声を掛けた。
すでに、かつての城跡は城跡に戻してある。
今は廃棄が決定事項になりつつある子爵邸前だ。
帰り支度を済ませた改良馬車の前で、2人は落ち合う。そのまま立ち話の構えだ。
季節柄のせいなのか気候は穏やか。
天候も良い。
何とも気持ちの良い風が、頬をくすぐる。
「終わった。こっちの人間には始まりになるかも知れないが」
ムラタがタバコを咥えながら応じる。
普段ならば、当たり前にキルシュ達が側に控えているはずが、近くにはいない。
どうやら人払いがされているようだ。
それはもちろん、今この場に現れたムラタの指示では無い。
「……知っておいた方が良いことはありますか?」
「“知らぬふり”をすることだな」
即座にムラタが応じる。
「君は、立派に王として、為政者として理想の姿を演じることが出来た。あとは勝手に、この地の民達が理想の君主の姿を君の名と共に思い出すことになるだろう。下手に関わらない方が無難だ」
「わかりました」
「……そもそも、君がぶれないからこそこういう方法を使えるんだがな」
どこか自嘲気味の笑みをムラタは浮かべる。
その表情のままムラタが続ける。
「だが監視の目は怠るなよ。基本的に領地持ちの貴族は敵だ」
「はい――ハミルトンさんは?」
「わからん」
ムラタは清々しい程、呆気なく答える。
「後ろにゴードンがいるからな。どちらにしろリンカル領に手を出すところまで話が進まないだろう。俺が任せるように、君も適当なところで任せてしまえば良い」
「そうですね」
マドーラもまた、あっさりと賛意を示した。
「どちらにしても、ハミルトン対策は帰ってからでも良いだろう。俺としては君の対策の方が急務だ」
「私の?」
「“風呂”に飢えてるんじゃ無いか?」
紫煙を風に遊ばせながら、ムラタが尋ねる。
途端、マドーラが笑みを浮かべた。
「……私、考えたんです」
「……何を?」
「我慢することも、あのお風呂を楽しむためには大事なことなんじゃ無いかって」
タバコを燻らせるムラタの目が細められる。
そして半ば独り言のよう呟いた。
「……君は本当に、こっちで一番手強い人間だよ」
マドーラは首を傾げる。
かくしてムラタ達は王宮への帰途についた。
おおよそ、20日程の行幸であったと記録には残されるであろう。
――その成果が実感されるのは、ムラタの言うように“これから”であるのかもしれない。