ムラタは蚊帳の外
広がる大海原に、浮かび上がる軌跡。
その中心には、飛び出た“何か”が見える。
螺旋状の何か。
その先端は鋭く、有り体に言って“角”に見える。
そう。
海中に居る生物が持つ角。それが海上に現れているのだろう。
それが海面を割って、軌跡を引いているのだ。
方向は東から西へと。
半島の根元からその切っ先向かって、突き出た角は進んでゆく。
その角が海中に引っ込む事無く、やがてその根元までもが姿を海上に現し始めた。
もちろん角が単独で動いていたわけでは無い。
何かの海棲生物。
いや、そのように単純に言い表せるものでは無い。
それでも敢えて単純に言うのなら、
――とてつもなく巨大な海棲生物。
そういうことになるだろう。
突き出た角だけで、人の身長に等しい程の長さがある。
「♪この風の向こうに~」
そんな海の様子を眺めながら、ムラタが鼻歌と大差が無いボリュームで何かしらを口ずさんでいる。
この前の一件から、何やら口ずさむことが多くなったムラタであった。
今は、ここまで乗ってきた馬車の御者台で、悠々とそんな海の様子をご機嫌で眺めている。
無論、その横にはフレッドの姿があるわけだが、こちらはいささか緊張気味だ。
ムラタがどうこうではなくて、単純に海からやって来る巨大生物に戦いているのだろう。
客車の中にはマドーラとキルシュだ。
マドーラは、それでも興味深げに海の様子を見つめていたが、キルシュは完全に置くに引っ込んでしまっている。
それでも時折マドーラの様子を確認するが、マドーラにしても身を乗り出す程、興奮しているわけではない。
窓から覗く程度だ。
この場所にマドーラ達が居るのは、彼女たちの要望に応えた結果では無い。
謂わばやむにやまれぬ事情が、こういう状態を作り出している。
つまり海の怪物退治に、3人娘が狩り出された結果だ。
別に急に決まった事では無くこれも予定の内ではあるから、狩り出された、という言葉は何か違うような気もするが、心情的にはこれが当てはまる。
彼女たちが護衛を勤める事が出来ないから、必然的にムラタがマドーラについているわけだ。
ならば“現場”まで来る必要も無いように思われるかも知れない。
だが、ムラタが近くに居るのと居ないのとでは、随分心理的に違ってくる。
この自分の効果を、ムラタは無視しなかった。
それに加えて次期国王が前線に出た、と言う効果も無視できない。
やはり、この状況になるのは、成り行きのままであるかのようでいて、それであるが故に必然であったのだろう。
海面に変化が現れた。
角の軌跡が変化したわけでは無い。
変化が現れたのはその前方。
突如、流線型の魚影が飛び上がったのだ。
しっかりと確認出来る背びれ。
一見イルカに思えるが、それを追跡する角の大きさと比べると、そんなことはあり得ない事がすぐに理解できるだろう。
あの魚影は、鮫に違いない。
それも破格サイズの。
それが姿を見せただけで、人は恐怖に打ち震えるに違いない。
だが本番はここからだった。
空中に翻る鮫めがけて、角が――その持ち主が海面で身を起こした。
灰銀色とも思える、その巨体。
大きく開かれたその顎。
2本突き出た、鋭角に光る巨大な牙。
どうやら全体的なフォルムとしてはセイウチのそれに酷似している――ムラタの知識の中では。
もちろん、あんな角はムラタの記憶の中には無いし、当たり前にこれほど巨大な個体発見のニュースを見た事も無かった。
流石は異世界。
と、思考停止するのが何よりも精神衛生的には正しいのかも知れない。
ムラタはそれに加えて、理不尽さを感じる部分には、
「はいはい、女神のせい女神のせい」
と、捨て鉢になる能力獲得していた。
現在も、
「これはイッカクの亜種? いやあれは歯が変化したものだから……」
などと、ツッコミを入れる事を止めて、
「♪君の敷地が、君の家庭が狙われてるぞ~」
と、鼻歌をより相応しい曲に変更する作業に専心している。
どうやら巨体が海中から姿を現す光景で、他の記憶が刺激されたらしい。
これ以上無い程の、他人事ムーヴであった。
巨大セイウチは先ほどの鮫の跳躍などあざ笑うかのように、巨体を海上で踊らせる。
海面は大きく波打ち直接は影響が無いはずの馬車までが、揺れを感じてしまう程のスペクタクルな光景だ。
水しぶきが、今にもかかってきそうなほど。
それでいてセイウチは狙いは過たず。
その顎に、鮫をがっしりと捕らえてしまった。
その一瞬は、鮫も身体をくねらせてなんとか逃れようとする。
しかし、セイウチは鮫を胴体ごと噛み砕いてしまった。
完全に餌と捕食者の構図が出来上がっている。
「む、む、ムラタさん……!」
客車の中からキルシュの声が聞こえてきた。
「だ、大丈夫なんですか?!」
「ああ、はい。相手の身体が大きいので、近くに居るように見えますけど、実際は随分離れていますし」
そうキルシュに答えるムラタの言葉に嘘は無い。
海に面している断崖までは、優に100m以上離れているだろう。
その上、馬車が停められている場所は見晴らしの良いように小高い丘の上でもあるのだ。
逃げ出すとしても十分余裕がある。
理屈だけなら、何ら心配する必要は無いだろう。
だが、人間理屈だけで全てを納得出来るわけでも無いし、キルシュが心配していたのは、自分たちの事だけでは無かったようだ。
「メイルさん達……それに近衛騎士団の方々は?」
本当の“前線”に張り付き、怪獣、あるいは海獣たるセイウチを待ち受けているメイルたちの身を案じているらしい。
そんなキルシュに向けて、ムラタは貼り付けた笑みで応じた。
キルシュの立場であれば、まず第一にマドーラの身を案じなければならない。
それ以外の事まで心配するのは、余計な事以上に、思い違いをしている事になる――理屈の上では。
ムラタは、それを知りながら円滑な人間関係を築くため、という別の理屈でキルシュに笑顔を見せたわけだ。
「俺が見る限り十分に安全性に配慮された作戦であると思いますよ」
「そう……なんですか?」
「ええ。それに作戦が上手く行かなくても良いんです。何度か繰り返しても良いですし、その内に改良方法も見つかるでしょう」
「そんな……随分熱心に討議なさったと伺っておりますのに」
どうやらマドーラが、あるいはメイルたちの誰かが世間話のついでにキルシュに話したらしい。
「さて。これが戦なら深刻にもなりますが、これはただの狩りですから。失敗しても良いんですよ。誰かが死ぬわけでも無し」
「あ……そうですね」
ようやくのことでキルシュの心配が収まったようだ。
だが、その時マドーラがぽつりと呟いた。
「……あまり長くかかるのは……」
ムラタはタバコを咥えた。
マドーラの心の内を正確に読み取りながら。
□
半島北部の海岸線は、入り組んだ断崖で構成されている。
謂わばリアス式海岸のような状態だ。
セイウチが登場した事で、フィヨルドの可能性もあるが、そこまで考えて女神がセイウチを登場させたのかは、それこそ神のみぞ知る、である。
巨大なセイウチはモンスターとしての名称も獲得しており、その名も「一角海象」。
滅多に出現せず、それこそ伝承にのみ伝わるモンスターと言っても過言ではあるまい。
このレアモンスターがマウリッツ子爵領に出現しているという情報が王宮にもたらされた事によって、事態は一変した。
いやあるいは、条件が整ったと言うべきか。
情報が入ってきたのは、偏にノラを味方に引き入れた事が大きい。
商人達の情報網に接するにあたって、その親密度が高まった事は確かなのだから。
情報はルシャート経由で王宮にもたらされ、それによって今まで留保を訴えていた次期国王が一転、行幸を訴えたのだ。
それに逆らう者は誰もおらず、御前会議を経ての今日の次第となったわけである。
元々、実力者が賛成していた事も大きいだろう。
近衛騎士――団長ルシャートも準備万端、即座に副団長ハミルトンの派遣を決め、端から見ていると「一角海象」が罠にかかったようにすら見えた。
では実際の罠はどのようなものがあるのか?
現在の騎士団団長は無策で事にあたるような人物では無い。
彼女の高い欲求に団員達が応えようとするのは、無闇に団員の命を消費しない、という信頼があるからだ。
だから、今回もハミルトンに託した策がある。
前よりも精度を増した、現場の地図を元にルシャートがアウトラインを決めた。
それ以上、決めつけてかかるのは危険と判断されたのだ。
そして“現場”に派遣されたハミルトンが、細部を詰める。
ルシャートからの要望で、メイルたちも作戦に加わる事になった。
単純にその狙いは戦力増強というだけでは無い。
それにはアニカの頭脳と、神官職であるクラリッサの働きを期待しての事。
――そう、この作戦にムラタは噛んでいないのだ。