現実と正しさ
ヨーリヒア王国西部。
そこにマウリッツ子爵領がある。
その領とは、そのままマウリッツ半島を意味していると言っても間違いは無いだろう。
半島を丸ごと領地としてはいるが、伯爵領に比べれば大きくない。
さらに、耕作に適した風土でも無く、そういう意味では頭打ちの領土でもあるのだ。
もちろん、それだけで魅力の無い領土と考えるのは早計で、小麦は収穫できなくとも葡萄、それに海産物にはその地形もあって“豊か”と呼称されるに相応しいだけの産業もある。
だが――
やはり他領地との交易が無ければ経営が成り立たないこともまた事実。
それはマウリッツ半島が戦略的に価値を見出されなかったことが幸いしたのか――あるいは不幸だったのか――大規模な戦乱に巻き込まれることもなかった事が理由だ。
つまり交易は滞ること無く、数百年と続けられており、それが為に“小麦に窮する”という事態に直面することが無かった、というわけである。
そして時を経れば、必然的に産物に偏りが発生してしまった。
さらに嗜好品の生産はそのまま収益の増加に繋がる。
苦心するなら、より実りが大きい方を選んでしまうのもまた必然であろう。
――いくら金貨を貯め込んでも、金貨は食べることがでいない。
こんな当たり前の事実に気付かずに――あるいは目を反らし続けた結果、現在の危機を迎えている。
□
現・マウリッツ子爵フェルディナンド。
とうの昔に、職務を預かっていた典儀卿からは追われている。
だが、未だ爵位は手放してはいない。
爵位を返上し、継承者に譲るように言われているが、それを命じる次期国王の使者に会わぬまま、そのための手続きに移らないように踏ん張っている。
率直に言えば、往生際が悪い、ということになるがそれに対してフェルディナンドに強く言えるだけの根拠がない。
ましてや、フェルディナンドは長らく典儀卿として、理屈をこね回してきた人物である。
実力行使に及ばなければ、もはやフェルディナンドを諫めることは能わないだろう。
そのフェルディナンドとは壮年の男性である。
あるいは初老か。
半白の頭髪だが、元より灰色の髪の持ち主だ。
そして切れ長の目に鳶色の瞳。
頰はいささか痩け、見た目だけであれば怜悧な文官という印象になるだろう。
髭を綺麗にあたり、身だしなみにも隙が無い。
ローカラーのベージュ色のシャツ。その上から緋色のフロックコートにも似た長衣。
中途半端な状態にありながら、毎日その出で立ちに乱れは見られない。
あるいは中途半端であるからなのか、それとも当人の意地であるのか。
しかし、名目上は“病気のため”と称して、使者との面会を拒んでいるのだ。
やはり、いささかこじれた性質の持ち主である事が、その振る舞いからも察せられる。
そして、その“こじれ”が自らの領に災いをもたらしていた。
フェルディナンドが、今王宮を実質的に支配している権力者の不興を買っていることはすでに知れ渡っている。
しかも、その権力者は領を丸ごと平らげると発言した、とも伝えられた。
最悪なのは、その権力者にかかれば、本当に実行されかねないということ。
それも気概だけでは無く、物理的に実行されかねない。
ここまで情報が流れてしまえば、好き好んでマウリッツ領に赴く商人は少なくなる。
支払いが滞る可能性がある領との取引は自殺に等しいし、為替などもってのほか。
現金でニコニコ払いにこだわったとしても、直接戦禍に巻き込まれる可能性すらある。
早い話が、マウリッツ領は孤立させられてしまっているのだ。
戦には至ってないものの、実質的には兵糧攻めをされているも同然。
その上で、王宮からの使いも派遣されることが無くなってしまった。
日々、少なくなっていく糧秣の倉庫を眺めながら「見捨てられた」と領民達が騒ぎ初めても仕方の無いところだろう。
「――父上。速やかにご決断を」
そう領土の屋敷で告げるのは、子爵位の後嗣たるアーチボルトだ。
フェルディナンドの長子である。
この領の風土に合わせたと言うべきか、その辺りは不可分であるが実に似てない親子ではあった。
焦げ茶色で、いささか長めの髪は巻き毛であり、そこに野卑さ似たものを感じさせてしまう。
目は大きく、彫りは深く。
藍色の瞳は、感情を映すようにざわめいていた。
木綿製で、大きな襟を備えた真白なシャツ。
その上から革製のベスト。
長衣は纏わず、髪色に合わせたようなズボン。そしてブーツと、これまた野卑た出で立ちだ。
あるいは、こういった出で立ちであるから巻き毛にも野卑さを感じてしまうのかも知れない。
貴族の後嗣とはいえ、普段の生活では屋内よりも屋外の活動が主になるアーチボルトだ。
この出で立ちも、無意味に無頼を気取っているわけでは無いらしい。
むしろ現実に合わせた結果、こういった出で立ちを選択しているのだろう。
だからこそ、現実を見据えずに自らの理屈で自家中毒を起こしている父親が煩わしくて仕方が無い。
「アーチボルト。お主には正しさがわからぬ」
この父親とのやり取りも何度目になった事か。
もはやアーチボルトには、つくべきため息の備蓄も無い。
「私は長らく典儀卿を勤め、その正しさで領を導いてきた。これこそ私の正しさを証明するもの――何度言えばわかるのか」
まさに主客を入れ替えて、送りつけたい言葉であるが、それだけに深刻だ。
議論をしようにも、ここまで認識が違ってしまえば、それさえも不可能。
厄介なのはフェルディナンドの主張に正しさが“あった”という事実だ。
確かにフェルディナンドは王宮において典儀卿として長らく重鎮として名を轟かせてきた。
子爵という、ある意味では不相応な爵位でありながら、重要な役職である典儀卿の地位にあったのは、間違いなくフェルディナンドの努力の賜であろう。
また、その影響も大きい。
王宮で重要な地位にある事が、何よりの保証であり、また権威でもあったのだ。
だからこそ子爵領を訪れるものは多かったし、取引も盛んに行われる。
フェルディナンドがもたらしたものは確かに大きかっ“た”。
――そう、それはすでに過去の話でもあるのだ。
それをアーチボルトは実感している。
現状の子爵領を見渡してみれば、将来性がまったく望めないことは明らか。
「正しい、正しい」
と、お題目のように唱え続けても、それで現実が変わるはずもない。
いや、アーチボルトにとっては“正しさ”とは移ろいゆくもの、という認識の方が実感出来る。
去年と同じように葡萄畑に手を入れても、同じような収穫に結びつくわけでは無い。
その年その年の気候に合わせて、収穫量は増減する。
そこで正しさを追求することの何と虚しいことか。
聞き及ぶ限り、王宮での“気候”は大荒れの模様だ。
そんな中で、今まで通用した“正しさ”だけをよすがに立ち回れば、全滅の可能性すらある。
幸いなことに次期国王はマウリッツ領に対しては同情的であるらしい。
その、癒やしの雨が止まぬ内に、何としても収穫に結びつけなければならない。
これは正しい正しくないよりも重要視しなければならない、生き残る為の道だ。
こんな簡単な事なのに父親は何故、それが理解できないのか。
あるいはそれは典儀卿であったからか。
――そんな風にアーチボルトは思う。
典儀卿となって“正しさ”を創る立場になったとき、父は“正しさ”を無くしてしまったのではないか、と。
“正しさ”を創る立場になったとき、自らを正しいものだと決めつけてしまった。
その結果として今日がある。
もはや、父には自分が“正しくない”と仮定することも出来ないのであろう。
僅かに訪れる領の外からやって来る者たち。
今では、やって来ることも無くなってしまった王宮よりの使者。
そういった者たちに話を聞けば、フェルディナンドが次期国王に向けた解釈とは、正しくない、どころか、間違っている、と判断するしか無い。
そう判断してしまった方が、現状を的確に説明出来る。
となれば、この父親は排除した方が“正しい”のであろう。
子供としては正しくないのかも知れないが、子爵位を継ぐ立場として――何よりも領民のために。
やはり正しさは、二の次だ。
こうまで話の通じない人間を相手に、言葉を弄ぶ猶予はもう残されてはいないのだ。
「――もはや何も申しません、父上。下手にうち捨てては、恩を感じている年寄り共が騒ぎだしてしまうでしょう。ですから屋敷において、大人しくあれ。今までと同じように。ただ喚くだけの生活を、お続け下さい」
アーチボルトはついに言ってのけた。
過去の事例にあたれば、これによって罪に問われる可能性もあるだろう。
だが、未来において罪に問われるからといって、現在を捨ててしまうことは後嗣としての自分が、それを許すことが出来ない。
「な、何! 貴様、アーチボルト!!」
フェルディナンドが叫ぶ。
だが父親は捨てても、現実を捨てることは難しい。
何しろ今は、海にすら怪物が出現するという現実が襲いかかってきているのだ。
「父上はどうぞ今までと同じように言葉の世界でご健勝であれ。そして自分の身もそれによって護りたまえ」
「ぬ! ぐ! 何と情けない息子か!!」
白皙のフェルディナンドの面に朱が浮かぶ。
そんな姿を見て、アーチボルトは清々しい笑顔を浮かべていた。
あるいはそれが、全てをうち捨てたが故に形作る事が出来る笑みだったとしても――
――アーチボルトは今、“正しさ”を実感していた。




