女神の御心のままに
アティール女神大聖堂――
王都、その貴族街に建立されている女神アティールを讃える神官達の総本山。
様々な施設が内包されているが、最高司祭たるフォーリナが日中過ごす場所は、他の建物と変わりないだろう。
単純に執務のための部屋で有り、そうとなれば仕事の内容は変われど、概ね同じ趣となる。
ただ流石に狭いと言う事は無い。
貧民街の住居ならば1軒、いや2軒まとめて入ってしまいそうな広さがある。
もっともその空間を埋め尽くしているのは、王国全土から集まってくる報告書。
それでも選り分けられているのだが、人に重圧を掛けるのに十分な量だ。
奥の壁には赤地に金糸で聖印を浮き彫りに刺繍されたタペストリー。
それを背負うようにして、最高司祭の執務机はある。
その前には、4つの机が正方形に並べられていた。
一番、簡単にその雰囲気を説明するのなら「職員室」が最も近いだろう。
今日も、その並べられた席が全て埋まる事も無く、事務職を任されている司祭が唸りながら書類と格闘していた。
事務職を任されている司祭が、全員ここに集まる事は希だ。
司祭――つまり神官にとっては、事務職はあくまで“必要があるから”やむなく行うものであり、実践こそが尊ばれているからである。
もっともこれが単なる理想に過ぎない事は言うまでも無い。
時に、貴族の子弟が横車を押してきて聖堂の中での地位を求める事もある。
それどころか、王族を押しつけられることもあった。
だが――
例え地位があってもどうしても突破出来ない壁という物がある。
神聖術だ。
これを高位で施せる腕の持ち主で無ければ、どうあっても聖堂の頂点に立つ事は出来ない。
貴族、あるいは王族がそれを望んだとしても、現実的に力が伴わなければ……その貴種達が困るのである。
高位の神聖術を施せる者を確保する事。
それは王都の――王国の安全保障の裏付けとなったのであるから。
現・最高司祭フォーリナもそれだけの技量の持ち主だ。
若い頃は最高位の冒険者としての名を馳せていた。
例え、執務室で書類に追われる事が日常のほとんどを占める老境にさしかかったとしても、その点では間違いは無い。
しかし今は、書類に目を通す事も無く、何やら深刻な顔で考え込んでいた。
フォーリナの右手側にある大きな窓からは、麗かな午後の日差しが差し込んでいた。
こんな日差しの元では、こっくりと船を漕ぐのが似合いそうなものだが、フォーリナはいかなる思いを抱えて、このような表情を浮かべているのか。
ここ数日――正確に言えば、あの貧民街への来訪以来、彼の表情に変化が現れていた。
最初は何やら充実した表情を。
その後、数回程来訪を行ったのだが、段々その表情が険しい物になっていく。
近侍の中には、その変化に気付く者も当然いたが、フォーリナはその胸の内をさらす事は無かった。
どうやら貧民街を訪れる事については問題は無いらしい。
いや、あれで問題があると考える事は難しいだろう。
何しろ、貧民街の救済という聖堂の急務と言うべき問題に対して、これほど効果的で、しかもその成果がこれほど眼でわかる“お勤め”は他にあるまい。
さらに第2回の移住に際しては、さらなる協力を聖堂は求められた。
それに不満であるというわけでは無い。
むしろ逆だ。
第2回の移住に関しては王宮側が、それほど手を入れているわけでは無いのだ。
うち捨てられた村を再興するという点では同じだが、畑、それに家屋や施設への手の入れようがまったく違った。
確かに何も無いところから村を興す事よりも容易だっただろうが、その苦労は最初の村とは比べものにならない程、難事だった事に間違いは無い。
しかしそれでも――。
しかしそれでも、だ。
きっちりと騎士達が村の警護を滞りなく勤め、補給物資も届けられる。
そして神聖術が仕える神官が村に常駐しているのだ。
もちろん、それは1人の神官に全てを任せきりにするわけではない。
定期的に、騎士も含めて交代していく。
それによって何が起こるか?
立場的に、村人達よりも上位者になる騎士、それに神官はともすれば不正へと走りがちだ。
だが定期的に交代するとなれば、その可能性はグッと減る。
さらに情報から隔絶される事を防ぐ事が出来る。
これに関しては情報の入手だけでなく、情報の発信に関しても含まれる。
むしろ発信の方が重要であったかも知れない。
何か問題があると村人達が感じた場合、即座に訴える事が出来るのであるから。
しかも騎士団と、聖堂を中心とした神官達という別系統の情報を発信するシステムがある事で、さらなる安全性が見込まれる。
これは不正に関する事だけでは無い。
単純に、村々の間で必要な物資を平均化――つまりは効率的な村経営の一助たり得るのである。
だから村の経営のための助力を王宮から求められる事は、聖堂としては願ったり叶ったりであるのだ。
これほど具体的な救済を行えるのだから。
「最高司祭殿!」
執務室に、事務職を仰せつかっている神官の1人が飛び込んできた。
どうやら、フォーリナの険しい表情に気付かなかったのか、それすらも超越した問題でも生じたのか、その表情はフォーリナを上回る程に険しい。
「何かありましたか?」
フォーリナは努めて平静に返事をした。
この辺りは年の功だろう。
焦った様子だった神官が、フォーリナの姿を見て、自分が如何に慌てていたか自然と悟ったらしい。
大袈裟程に深呼吸を繰り返し、自ら居住まいを正した。
「……実は王宮から使いが来まして」
「それは貧民街の件では無く?」
「あ、はい。こちらです」
丸められた書類を差し出す神官。
正式な書類というわけではない。
恐らく王宮から内々に、様子伺い――謂わば書類による先触れのようなものだ。
これが最高司祭の元まで届けられる事は通常あり得ないわけだが……
フォーリナは丸められた書類を広げる。
ザッと目を通した限り、無茶振りの類いでは無い。
そもそも、先にこういう提案がある事を示してくる段階で無茶振りからは正反対の丁寧なやり方だ。
だがこれは、ここ最近フォーリナを悩ませていた事柄に触れる内容でもあった。
「……貴方は何故そんなに慌てていたんですか?」
フォーリナは不思議に感じていた。
自分の“悩み”を他人に漏らした事は無い。
しかも、この連絡自体に慌てるような内容は含まれていない――普通に考えるなら。
だが、その神官はそういうフォーリナの反応に違和感を覚えているらしい。
「……フォーリナ様。これは従来の“やり方”にそぐわないものでは無いですか? これでは支障を来します」
「ふむ……」
言われてみれば確かにその通りだ。
今までのやり方にはそぐわないだろう。
だが、問題点は“そこ”しかない。
――我らは女神の御心に適う行いを実践しているか?
神官たる者、心の内で常に問いかけ成らねばならない。
基本だ。
基本中の基本だ。
「……これは一度話し合わねば成りませんね。」
「フォーリナ様……」
「王宮からの要請にどう応えるべきか。我々はどうすべきか、皆で考える必要があります」
そう言いながらも、フォーリはすでに自分は選択している事に気付いていた。
この王宮の要請には応えるべきだと。
基本に立ち返って、何度も自問してみても――答えはいつも同じ。
いや、今まで考えようとはしてなかっただけかも知れない。
だが、王宮からの提案は至極もっともであり、何より……女神の御心に適うやり方だと感じられて仕方がないのだ。
「すぐに日程の調整を――王宮を必要以上にお待たせするわけにはいきませんからね」
「は、はい!」
フォーリナの声に固い意志が感じられたのだろう。
慌てて飛び込んできた神官は、反対に慌てて飛び出していった。
(我々も変わってゆかねばならないのかもしれません――いや変わるべきなんです)
久しぶりにフォーリナの表情に笑顔が覗いた。
□
その頃、またもやピンチになっている者がいた。
もちろんギンガレー伯である。
『閣下。帰還はいつ頃になりましょうや?』
――彼は煽られていた。




