その名はカケフ
ルコーンは手早く法衣を脱ぐ。
そのままドレス、下着もまとめて畳んで説明されていた容器に並べる。
この容器も随分不思議な材質のようだ。
見た目は網状ではあるが随分しっかりしている。藤で編まれたかごによく似ているが。
そして言われたとおりに、取っ手をひねると先ほどと同じようにいくつも穿たれた細かい穴から水が流れ始める。
その感触を掌で感じるだけで、充分心地よかったが、それがお湯に変わった瞬間、ルコーンの感情はあふれ出した。
カーテンを慌てたように締めると、全身に熱い湯を浴びる。
その心地よさに、ルコーンは気を失いそうになった。
最初の内は、これだけの水や湯が用意されていることや、この不思議な設備に不審感さえ抱いていたが、もうそんなことはどうでも良い。
ルコーンの目が、不思議な材質で形成された傍らの桶を見つめる。
(ここにお湯を溜めて……)
あの男性もそう言っていたではないか。
ゴクリとルコーンの喉が鳴る。
もしかしたら、自分は死ぬ直前の幻覚を見続けているのでは?
僅かに残された彼女の理性がそう囁くが、浴びているお湯とともにそれも流れ出してしまったようだ。
ルコーンはもはや警戒心も遠慮も、なにもかも喪失し“お風呂”を堪能した。
□
――果たして1時間経ったのか否か。
すっかり入浴に夢中になっていたルコーンが正気を取り戻した時、彼女は用意されていた毛織物と、分厚い生地のズボンを身につけ、王宮で給仕されるような豪華な食事を前にしていた。
男性は未だ台所とおぼしき場所――風呂場の向かい側――に向かい合ったまま声を掛けてくる。
「あなたは神官職ですよね。食事に関しての戒律のようなものは無かったと記憶してますが、何かありましたら、先にお願いします」
「滅相もないです。これだけの食事に不満など……」
まず目を奪われるのが、分厚く切り分けられた肉。
そして芳醇な香りが漂う、温かいスープ。
最後に男性は、実に柔らかそうなパンを運んできた。
そして後退しながらこう言った。
「それでは出てきますから、ごゆっくりどうぞ」
「ちょ、ちょっとお待ち下さい」
入浴時のように再び出ていこうとする男性を、ルコーンは慌てて止めた。
「どうしてです? 人が見ていては食べにくいでしょ?」
さも不思議そうに男性が応じるが、色々と問題がありすぎる。
ルコーンは、その問題の中で一番優先すべき問題を確認することにした。
「ここは“大密林”。ヨーリヒア王国南部に広がる、未開地ということであってます……よね?」
言葉が途中で力なく失速したのは、ルコーン自身がそれに確証が持てなくなったからだ。
確かに自分は大密林の中で謎の住居を前に気を失い、そして今、確かに家の中にいる。
しかし今でも“大密林”にいるという保証は無い。
魔法の中には『瞬間移動』が存在している。
何処か安全な場所に運ばれている可能性は、充分にある――いや、その方が常識的にあり得る。
実際、男性は先ほども外出していたではないか。
改めて考えてみると、男性はろくろく武装も、それに防具さえも身につけず確かに、この家から出て行ったのである。
やはり、ここは……
「ああ、確かにそのような名称らしいですね。王国の南部に位置してるのも間違いないです」
しかし男性は、常識に着地しようとしていたルコーンの推測を呆気なくひっくり返してしまった。
ルコーンは慌てて、
「だ、ダメですよ! 今さら言っても遅いのはわかってますが、到底1人で外に出て良い場所ではないんです! ましてや、そんな軽装では……」
と、男性を止める。
遅きに失したとは、まさにこのことだが、だからといって止めないわけにもいかない。
そんなルコーンを見ていた男性は難しい顔をして、
「危険……ここがですか?」
と、意外そうに応じる。
ルコーンは必死になって、ここはほとんど人類未到の地である。その上、ここはその大密林の中でも、もっとも深い場所で、口幅ったいが自分と、それとパーティーを組んでいる上級クラスの冒険者だからこそ、ここまで至ることが出来た。
だから……
「……だから、安易に外に出るなどとは言わないでください」
何だかひどく遠回りしてしまったが、訴えたい内容はこれだったはずだ。
男性はしばらく考え込んでいた様子だったが、やがて小さく頷く。
「では、外に出るのは止めておきましょう。その代わり、いくつか確認したいことがあるので、お食事のついでに付き合ってくだされば幸いです」
それはルコーンにとっても有り難い申し出だった。
勢い込んでルコーンが頷くと、
「では……」
と立ったまま男性は始めようとする。
ルコーンは、もうどうしようもないと諦めて、男性を無理にでも座るように促すことから始めなければならなかった。
男性がルコーンの前では無く、その斜め前、それも部屋の隅にようやく腰を下ろしたところで、ようやく場が整う。
(――まずここから仕切り直さなくては)
ルコーンは心の中で気合いを入れると、
「本当に遅くなりましたが、私はルコーン・アーラバイアと申します。アティール女神にお仕えする、お察しの通り神官職です」
と、自己紹介から始めた。
「これも先ほど申し上げましたが、現在は冒険者でもあります。仲間共に、ここまでやって参りましたが……」
仲間たちのことは、自分に余裕が出来た今、当然のように気になるところだ。
しかし、それを男性に言い募っても仕方の無いこと。
ルコーンはぎゅっと拳を握って、男性へと真っ直ぐに視線を向けた。
「あの……お名前を伺ってもよろしいですか?」
男性は、表情を変えぬまま軽く頷き、
「名前ですか……」
と、少し間を置いて短くこう告げた。
「――俺はカケフと言います。カケフ・フジムラ」
「フジムラ様……不思議な響きです」
「ああ、それはこれをご覧になればおわかりでしょう」
男性――フジムラは自分の髪を掴んでみせた。
漆黒と言う名称にふさわしい鮮やかな黒髪。
それに加えて、黒い瞳。
「“異邦人”……ですか。もしかして、この家も?」
“異邦人”と呼ばれる人たちは、計り知れないスキルを保有しているといわれている。
であれば、異常としか言いようが無いこの住居に関しても、とりあえずの納得は出来た。
「そうですね」
ルコーンの問いかけに、フジムラはあっさりとそれを肯定した。
だが、それ以上に具体的なスキルの効果を説明するつもりはないらしい。
間が持たなくなったルコーンは、思い切ってスープに口を付けた。
その瞬間、ルコーンの目が大きく見開かれる。
それはあまりにも美味しすぎた。
風味からしてシーフードであろうと思われるが、ここしばらく口にしていなかったことも助けとなったのだろう。
この大密林に入り込んで後、凝った食事にはありついていないのだ。
途端にルコーンの食欲が強烈に刺激される。
「先にどうぞ。冷めてしまいますし」
タイミング良く、フジムラから声が掛けられた。
こうなっては如何ともしがたい。
ルコーンは、覚悟を決めて食事に取りかかった。
それでも下品にならないように、懸命にこらえながら。
そんなルコーンへと、僅かな笑みと共にフジムラが話しかけた。
「――先ほど、上位の冒険者であると仰っておられましたが、籍を置かれているギルドは王都バーンデン?」
「ええ」
「ここを訪れたのは、何か必要があったから? それともどなたかの護衛?」
「護衛で」
「その方は王都でも有力な方の関係者ですか? 例えば大商人、あるいはもっと単純に貴族であるとか」
「サリツァー男爵のご子息です」
ルコーンが食べ始めたのを見計らったように、一気に質問を開始するフジムラ。
しかも短くルコーンが答えることが出来るように、的確な条件を付随させていた。
そこまでのやり取りが終わったところで、フジムラは再び黙り込む。
聞くことがなくなったわけでは無く、フジムラは何事か思案にふけっているようだ。
ルコーンも無理に話しかけたりせずに、黙って食事に取りかかる。
そうして、ルコーンが満たされ皿がほとんど空になったところで、再びフジムラが口を開く。
「アーラバイアさん」
「はい」
充分に余裕をもってルコーンは返事をする。
フジムラはゆっくりと立ち上がり、台所へと向かうと小さな扉から何事かとりだすと、こう告げた。
「俺の頼みを一つ聞いてもらえませんか?」




