“ある”はずが無い
ヨーリヒア王国南部――
王国の版図と整理されているが、その支配権が及んでいるとは言い難いであろう。
鬱蒼と茂る大密林。噴煙たなびかせる多くの火山。そのような過酷な環境で、繰り広げられるモンスター達の弱肉強食。
到底、人の手の及ぶところでは無い。
しかしこの未開の地には、人間生活を豊かにするための特殊な植生がある。
稀少という言葉でもまだ過剰とも言える鉱物を産出する。
そして、この厳しい環境下で尚、生き抜いてきたモンスターそれ自体が、貴重でもあるのだ。
一方で人の手を拒み、一方で人がそれを欲する。
この二律背反を成立させるためには、如何にすべきなのか?
答えは一つしか無かった。
強く。
強くなるしか無かった。
剣を振るう。魔法を唱える。神に祈りを捧げる。知識を集め、危険を回避し、スキルを多く保持し、あるいは磨き上げ、困難を打ち砕く。
それらを繰り返す事によって、さらに技量は高みに達し、人でありながら人を超えた存在へと昇華する。
人々は彼らをこう呼んだ。
――冒険者
と。
例え、その領域に手が届くのが、ほんの一握りであったとしても。
□
ルコーンはそれを自分の見間違いだと思った。
ここに人の営みなどあるはずが無いのだから。
大密林の中でも、ここは現在の最深部と言っても良いだろう。こんなところにそれがあるはずが無い。
彼女は女神アティールに仕える神官であり――最高ランクの冒険者だ。
銀とも見間違える淡い金色の長い髪。ほっそりとした長身ながら妖艶な曲線を描く肢体。
各種状態異常を防ぐ加護が付与された緋色のドレス。
その上に、白金で精緻な刺繍が施されながらも『防御』を最高レベルで顕現せしめる法衣を纏っている。
そして手に持つのは彼女の身長と変わらない、神聖術を唱える際に助けとなる錫杖。
武器として使用しても、彼女の身体能力も併せて破格の攻撃力を誇る。
だが今は――
乱れた長い髪、装備は破損はしていないものの泥と汗に汚れ、高く掲げられていた錫杖は疲れ切った体を支えるだけ。
青紫の瞳は、力なく、そして光無く、失意の底に沈むかに見えた。
そんな彼女の前に、それがある。
街中で見るような、普通の住居が。
だがここは確認するまでも無く大密林だ。こんな場所に存在して良い住居ではない。
ましてや余人がいるはずもない。
モンスターの急襲によって、パーティーとはぐれた自分の精神の弱さが見せる幻だ。
そう考えたルコーンは『精神沈静』の神聖術を唱える。
しかし、それは言葉が空しく響いただけ。ルコーンの精神力は枯渇寸前であるのだ。
数多く保持しているスキルも、ここまで疲労してしまえば有効に働くとも考えづらい。
仲間と、そして自分自身の負傷を癒やすので精一杯で、精神力の運用に考えを巡らせることが出来なかった。
こういう時、頼りになるポーションはすでに使い切っており、それを補充しようにもパーティーからもはぐれている。
つまり彼女は今、大密林に挑む資格を喪失しているのだ。
それが自覚できたとき、彼女の心は絶望に掴まれる。
普通なら忌避する、あからさまな罠に手を伸ばす。
――ほんの少しの間だけで良い。休息を。僅かな睡眠を。
ルコーンの足が動く。
左手が差しのばされる。
ゆっくりとあるはずの無い住居の前まで、身体が運ばれる。
乱れた長い髪は、今のルコーンの精神を彩るかのよう。
ついにルコーンは扉の前にたどり着く。
もう、その瞳にはただ扉だけが映っている。
左腕が振り上げられ、ドンドン、と扉が叩かれ――その勢いのままにルコーンはその場で倒れ伏してしまった。
身体か、あるいは精神か。
それが、ついに限界を迎えたのだろう。
扉に寄りかかるように、ルコーンは気を失った。
――それから状況に変化が訪れるのは十分を越えて後。
ルコーンの身体をずらすように扉が押し開けられた。
とは言っても、目一杯開けられたわけでは無い。
身体が半身になって、ようやく通り抜けられるほどでしかなかった。
その隙間から現れたのは――1人の男。
黒髪黒目で、この世界では“異邦人”と呼ばれる者の特徴を備え、不愉快そうな表情を浮かべていた。
□
――ルコーンの両目が再び開かれた。
さすがに冒険者としての生活が長い彼女は、一瞬で覚醒しきって周囲の状況を確認。
同時に記憶の回復も始まり、
「ここは……?」
と、半身を起こす。
大密林の中にある、謎の住居。
それに向かって……
「――起きましたか」
声がする。
男性の声だ。
ルコーンは反射的に衣服を確認して、胸元をぎゅっと握りしめる。
「お腹は……きっと減っていることでしょう。ですがその前に、お風呂……ああ、多分湯浴みの方がわかりやすいかな」
ルコーンから随分離れた場所に男は立っていた。
男は上下両方とも装飾も何もない、あるいは「粗末な」と言ってしまっても良いのかも知れない衣服。
上がベージュでズボンが黒という配色もこれまた地味だ。ただ、清潔そうではあった。
男は細い廊下の一番奥に佇んでおり、その背後には玄関らしい扉も見える。
それはまるで、ルコーンから逃げたがっているようにさえ見えた。
男の声には、それほど感情が見えない。
「だ、大丈夫です」
ルコーンは男から掛けられる平坦な声――まるで尋問されているような――に、気を強く持って言葉を返す。
だが、おびえに似た感情は段々と薄らいでいった。
記憶と状況の確認が合致していったのだ。
ここは、さほど広くは無いが、何かしらの住居の中。
だとすれば、この男性――黒髪黒目という特徴的な――が、この住居に住んでいた人物なのだろう。
それに何より、自分の衣服に乱れが見られぬ事がルコーンを安堵させていた。
しかも錫杖は枕元に立てかけられており、今現在に置いてさえ、身の危険を感じる要素は無い。
むしろ泥だらけのルコーンが横たえられた、恐らくは男性のシーツの方が悲惨な状況だといえるだろう。
「それは結構。立てますか?」
「は、はい」
ルコーンは、思い切って立ってみる。
かなり寝ていたのか、身体の節々に違和感を感じるものの、すぐにそれも収まった。
ルコーンが男性へと近付いてゆくと、そちらも一歩だけ歩をつめて、
「こちらが、湯浴み用のスペースです」
と狭い廊下の片方を壁をスライドさせる。
ルコーンは、その仕掛けに目を見張って、小走りに近付いていった。
「そうか。まずこれですね。このようにこの扉は移動させます。わかりますか?」
「え、ええ」
この仕掛け自体は、見慣れないもののすぐ理解出来た。
それよりもこの扉の材質がルコーンには見当が付かない。
一見、何かの骨、あるいは巨獣の牙から生成されたかのように見えるが、それよりは幾分か柔らかそうに感じられる。だが強度は充分らしい。
男性の無造作な、言ってみれば乱暴な扱いに傷つく様子もない。
「で、この中に入って、ここのところを上にあげると鍵が掛かります。こうです」
開いたままの扉を前に、今度も男性は手本を見せた。
ルコーンは頷く。
「そして、ここで服を脱いで、こちらで――」
男性は一段高くなっているスライドの向こう側に潜り込む。
「シャワー――これもないか。水浴びが出来ます。これで」
そのまま男性は、管の先の丸くなってる部分から水を出してみせる。
ルコーンは、ただただ目を見張るばかりだった。
不思議な物――上級な冒険者として知られた彼女を以てしても――だらけで息が詰まりそうだ。
男性はそのまま脱いだ衣服を入れるための容器を示し、そして水浴びの際にはカーテンを引くことを注意。さらに不思議なことを説明する。
「やはり、お湯の方が良いでしょう。今、準備します。水を出しておいてしばらく放置すればお湯になりますから。ああと、これをひねればお湯が出てきます。説明が下手ですいません」
「そ、そんな」
説明されることは不思議な事ばかりで、相変わらず感情が見え難いが、随分と良い人らしい。
ルコーンの口元から笑みがこぼれる。
男性も、しっかりと頷いて、
「この桶にお湯を溜めて、浸かることも出来ます。水なりお湯なりを浴びるよりも、こちらの方が心身の疲れを癒やすには良いでしょう」
「……はい、あの」
ルコーンは、もはや言葉を紡ぎ出せない。
男性はそれに構わず、その周りにあるタオル、説明される限りは石鹸についてをさらに説明する。
「じゃあ、俺は出ていきますんで、ごゆっくりどうぞ。先ほどの扉の向こうに乾いたタオル用意してますから。そうですね一時間ほどで」
そして男性はルコーンを突き放すように、一息に言い捨て宣言通り出て行ってしまう。
こうなればルコーンも覚悟を決めるしかない。
教えられた様に扉を閉め、鍵を掛けた。




