仕方ない★
本日は、それ程の滞りもなく、午前中の業務をこなしていたが、昼前辺りに、月見野部長に誘われて、会社近くの定食屋に昼食に来ていた。なんだか少しベタベタするテーブルに、店員の女性が乱暴にお冷を置き注文を聞いてくる。
「僕は肉野菜炒め定食で、早川君は?」
「じゃあ、アジの開き定食で」
店員の女性はこちらをみることもなく伝票を書き込むと、タバコをふかしている主人の居る厨房の方に向かって行った。こんな様子のためか、同じ会社の人間はおろか他の客は1人も見当たらない。だからこそ、月見野部長はこの店を選んだのだろう。
「それで、お話と言うのは?」
そう聞くと、月見野部長はお冷を一口飲んでから口を開いた。
「ああ、吉田のことで、ちょっとね。早川君から見て、吉田の作る書類ってどう思う?」
「少なくとも、俺が確認する時には、月見野部長のチェックが終わっているので、不備はあまり無いですね……たまに、部門長さんが承認を忘れてたりしますが」
少し意地悪く言ってみると、月見野部長は苦笑しながらポケットからハンカチを取り出して額の汗を拭いた。
「ははは、悪かったって。それは置いておいて、吉田のことに話を戻そうか。吉田が書類を作ったとしたら、最初に承認をするのって、日神君だよね」
「まあ、そうですよね。一応、直属の上司になりますから」
嫌な名前を聞いて、少し無愛想に返事をしてしまった。失礼なことをしてしまったと焦ったが、月見野部長は気にした様子もなく、また一口お冷を飲んだ。
「だから、吉田は真っ先に日神君の所に書類を持っていく。そうすると毎回、怒鳴られはしないけど、他の課の人たちにも聞こえるように、書類のミスを指摘されて、もっとしっかりしろよ、と叱られる。おかげで、ミスの多いヤツというのが部内の共通認識になってしまってね」
日神が薄ら笑いを浮かべながら吉田を叱っている様子が、とても易々と眼に浮かぶ。
「ただ、日神君が一日中不在とかで、僕の所に直接書類を持って来る時は、ミスがあることの方が少ないのだけど、早川君はどう思う?」
精悍な顔が、急に険しくなる。
「ちなみに、日神課長は書類を受け取ったら、その場ですぐに確認をしてるんですか?」
「僕が見てる限りでは、大至急、と言われない限りは、一旦預かってから返却してるね」
確認をするという意味では、それは好ましいことではある。急かされながら確認をすると、見落としが起こりやすいからだ。ただ、日神の場合は……
「つまり、わざわざミスの多い書類を作り直して、他の人にも聞こえるように指摘してる、と言いたいんですか?」
その言葉に、月見野部長が無言で頷く。
「ただ、そんな事をして日神課長にメリットが……」
「無い、とは言えないわね」
聞き覚えのある声に、振り返るとそこには部長と……
「ヤッホー、つきみんに早川ちゃん★相席してもよろしい?」
目のやり場に困る程胸元の開いた紺色のワンピースに、白いカーディガンをはおり、ワインレッドの口紅が印象的な化粧をしたロングヘアーの課長が立っていた。
昨日とは別の方向性で驚いたが、何度か見たことのある姿だ。
「どうぞどうぞ。綺麗どころが来てくれると、どんな食事でも美味しく思えるからね」
月見野部長がそう言いながら席を詰めると、店員が足音を立てながらやって来て、乱暴にしんなりとした野菜炒め定食と、ペラペラのアジの開き定食をテーブルに置いた。おかげで、少なく無い量の味噌汁が、お盆に溢れてしまっている。
「私、冷やしかき揚げ蕎麦ね。つきみん、そういうこと言うと、セクハラになるよー」
「私は衣笠丼をお願いします。アンタの格好も、場合によってはセクハラになるけどね」
店員は伝票を書き込むと、2人に軽く会釈してから厨房へ向かった。店員を見送ると、部長は月見野部長の隣り、課長は俺の隣りに座った。
「それで、それで?なんで、ひがみんの悪口大会が開催されてるの?」
課長が、身を乗り出して質問をする。作り物だろうとは思うが、テーブルに乗る胸の膨らみに、つい目が行ってしまう。月見野部長も、一瞬胸元に目が行っていたが、すぐに気まずそうに目をそらし、課長の問いに答えた。
「いや、悪口大会というわけでは無くて、ちょっと相談に乗ってもらってただけなんだよ」
「まあ、ひがみんも仕事は出来るっぽいけど、何かと問題も多いからねー」
流石の日神も、特殊メイクで出社をする人間に、問題が多い、とは言われたくは無いとは思うが。
「あら、早川ちゃん。何か言いたげね?」
課長がこちらを向き、ニッコリとする。
「いやいやいや、とんでも御座いません!ところで部長、さっきの日神にメリットがあるという話は?」
課長に長く絡まれると面倒なので、早めに話を元に戻すために、部長に話を振った。
「あくまでも、可能性があるという程度の話だけどね。もしも吉田さんが、お客様から大規模な案件の話をいただいたら、最初に相談する相手は日神でしょ?」
そこまで言われて、大体見当はついた。
「ああ、つまりアレですね。いつもミスばかりするようなヤツには安心して任せられない、とか色々難癖つけて、そこから案件を引き継いで下さる感じですか。それで、周りの人間も日頃からミスが多いっていう印象を持ってるから、仕方がない、という空気になると」
新米の頃、俺も直属の先輩が日神だけだったので、よくやられた手段だった。最も俺の場合、新人の頃は本当にひどい書類を作っていたから、ミスの指摘に関してはありがたい部分もありはしたが。
「素直に、横取りするって言っちゃいなよ!」
回想をしていると、課長が陽気に肩を小突いてきた。
「アンタは、茶々を入れないの。まあ、流石に穿った予想だけど、早川の切り返しの速さと、月見野君が心配していることを鑑みると、全くの空想とも言えそうにないわね。それに……」
「お待ちどうさまでした。衣笠丼と、冷やしかき揚げ蕎麦です」
部長が何か言いかけた時、店員が先程とは打って変わって丁寧に、2人が注文した品をテーブルに置いた。
「ありがとうございます」
「ありがとねー」
店員は2人に軽くお辞儀をすると、厨房の側に去って行った。店員の様子からすると、どうも2人は常連のようだ。世の中には、物好きも居るものだ。
「……ここくらいしか、衣笠丼置いてないのよ。それに、そこそこ美味しい割には、人が少なくて良いから」
「あと、定食屋さんを名乗ってるけど、かき揚げ蕎麦が凄く美味しいよー。今度、頼むと良いのねん!」
訝しげな表情をしていた為か、2人がオススメの品を紹介して来た。部長のメニューは謎だが、かき揚げ蕎麦は今度頼んでみよう。
「ともかく、今は色んなことが不確かなのだから、様子を見るしか無いわね」
部長がそう言って、謎の丼モノを頬張る。
「まあ、僕も出来る限りフォローするよ」
月見野部長も、そう言ってしんなりとした野菜炒めに箸を伸ばす。
「でも、流石に吉田が担当してるお客様の案件は、欲しがらないんじゃ無いんですかね?」
薄いアジの開きに、箸を伸ばしながらそう言うと、課長が、頬張っていたかき揚げを飲み込んでから口を開いた。
「あら、そうとも限らないよ?ああいう案件も、案外化けたりするんだからねー」
「そうかもしれませんが、小規模なお客様が多かったですし……しかも、任されてる商品が『フハハハハ!どれが本物かわかるまい!ロシアン醤油さし!』とか、そういう訳の分からない上に単価が安いモノですからね。いや、まあだからこそやりがいもあるし、楽しくはあるんですが」
社長の急な思いつきやら、製品開発部のご乱心やらで出来てしまった訳の分からない品々を必死で売りさばいていた頃を思い返した。大規模な案件を獲得したときの達成感とは、また違った趣きがあり、個人的には好きな部類の仕事だった。もっとも、成績の足しには、あまりならなかったが。
「吉田も、お客様の所に行くときは、物凄くイキイキしてるよ。早川くんの後輩だけあって、ああいう案件が好きみたいだね」
月見野部長が、味噌汁をすすって感慨深そうに頷く。
「確かに、早川ちゃんと吉田ちゃんって、結構似たタイプだよねー。YOU達、付き合っちゃいなよ★」
課長が中学生のように、茶化してくる。
「そういう発言も、セクハラになるわよ。あと、吉田さんこの間結婚したばかりでしょ」
部長が溜息まじりにそう言うと、課長が反省を全くしていない様子で、メンゴメンゴ、と謝って来た……この人は本当に、何歳なのだろう。
午後の業務は、本日も特段事件などはなく平穏無事に終わり、早めに帰宅することが出来た。吉田の件については、月見野部長が引き続きフォローしてくれる、ということになったが、心配になってきたから、今度飲みにでも誘ってみようか……でも、俺と親しくして日神に嫌みを言われたりとか、嫌がらせをされたりしても可哀想か……ただ、既に嫌がらせをされている可能性もあるということを考えると、放って置くわけにもいかないし……
などと考えながら、ビールでも飲もうと冷蔵庫を開けると、彼女と至近距離でバッチリ目があった。
「うわぁ!?」
「きゃあ!?」
思い切り油断していたので、非常に吃驚仰天してしまった。
「ごめん、物凄くビックリした……」
なんとなく失礼なことをしてしまった気がしたので、思わず彼女に謝った。盛大に驚くのは、生首が冷蔵庫に出現した時の、正しい反応ではあるだろうけれども。
「すみません、私もつられてビックリしてしまいました……」
彼女も、申し訳なさそうに目を伏せた。はたして、驚かれるのは、冷蔵庫に生首に出現された時の正しい反応なのだろうか……
「……ところで、どうかされたんですか?今日はちょっと悲しそうな声をしていますが」
下らない事を考えていると、不意を突かれて、またもやビックリした。
「まあ、君にはまだ分からないだろうけど、大人には色々あるんだよ」
「いきなり子ども扱いしないでください!でも、本当に大丈夫ですか?」
茶化して誤魔化そうとしたが、彼女は心底心配そうな表情をしている。仕方がないから、話すことにしよう。
「ちょっと職場のことで悩んでて……以前いた部署の後輩が、何か上司に目をつけられちゃったみたいでさ。本人は、嫌がらせはされていない、と言ってるし、周りも確たる証拠を掴んでる訳じゃないんだけどね。まあ、どうしたもんかなと」
「それは難しいですね……」
「そうなんだよね……今の部署でも、ソイツとはやり取りすることも多いから、近況とか困ってることが無いかとか聞いたりもしてるんだけど……それが上司の癪に触ってたら……とか考えてたんだ」
そう言いながら、自然と大きな溜息が漏れた。彼女は小さく、そうですか、と呟いてから俺の目を真っ直ぐ見て言葉をつづけた。
「でも、早川さんがそうやって気にかけてくれるのは、その後輩さんにとって凄く救いになっていると思います」
「そう……だと良いね」
自信なくそう言うと、彼女は優しく微笑んだ。
「きっと、そうですよ。私も、早川さんが声をかけてくれたおかげで、凄く救われているんですから」
その微笑みに、胸の奥が暖かくなった気がする。
「まあ、ヒヨコとアヒルを間違えたりするので、まだまだな所はあるんですけどね」
そう言うと、彼女は何故か勝ち誇ったような顔をした。折角、良い話になりそうなところを……
「なんだとう!そういうことを言う奴は……こうしてやる!」
俺は、壁に吊るしておいたヒヨコ、もといアヒルの被り物のフードを取り外し、彼女に被せた。
「きゃあ!何するんですか!?早川さんのエッチ!!」
「変な言いがかりしない!……やーい!ア・ヒールちゃん★」
そう言って茶化すと、彼女は恨めしそうに、うぅ、と唸ってこちらを見つめてきた。通常の状態なら、非常に恐ろしい事になるかもしれないが、アヒルのおかげで、むしろ微笑ましい見た目になっている。
その姿に和んでいると、彼女はだんだんとホッとしたような表情になった。
「よかった。少しだけでも、気晴らしになったみたいですね」
確かに、下らないやり取りをしていたおかげで、気持ちが軽くなった気がする。
「……なんか、ありがとうね」
「いえ、私の方こそ、いつも早川さんとのやりとりで、元気をもらってますから。だから、後輩さんのことも考え過ぎずに、いつも通り接してあげて下さい」
「そうしてみるよ。じゃあ、今日はこの辺で」
「はい。お休みなさい」
そして、冷蔵庫のドアを閉める。確認のためにドアを開けると、今日は野菜ジュースとアヒルの被り物が転がっている。
……はずだったのだが、転がって居るのは、野菜ジュースのパックだけだった。どうやらアヒルさんは、彼女と一緒にどこかに存在して居る彼女の家に帰って行ってしまったようだ。
明日、ご家族の方がさぞかし訳の分からない思いをするだろうと思うと、なんだか申し訳ない気分でいっぱいだ……