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9 Tokyo Maze

「今回の派遣もなんとか無事に乗り切ることができた。諸君らの奮戦には大いに感謝している」

 最後の出撃のデブリーフィングが終わったあとで、留守番だったダリルとアリサを加えた六人に向かって、アークライト中将がそう切り出した。

「本来ならば、明後日にフェリーを行い、メイス・ベースに帰還する予定だが、急遽HQからの命令でこれを取りやめることとなった」

「‥‥派遣延長ですか? サー」

 怪訝そうな表情で、スーリィが問う。アークライトが、微笑んだ。

「いやいや。フェリーが中止になっただけだ。NT兵器のパレット輸送のテストを行うようにと、HQから要請されたのだ。よって、各NT兵器は明日の整備を終えたのち、一部を分解してパレットに搭載。明後日飛来する合衆国空軍機によりメイス・ベースへと空輸されることになる。したがって、しばらく君たちの出番はないわけだ」

「くしゅん」

 瑞樹の押し殺したくしゃみが、アークライトの話を遮る。

「お大事に」

 すかさず、サンディ。

「‥‥そこでだ。奮戦の褒美も兼ねて、君たちに丸二日の休暇を与えようと思う」

 六人全員の顔が、一斉に輝いた。ダリルが胸の前でサムアップをする。

「明日は今次派遣の最終報告書の取りまとめに当たってもらう。その後、午後の最終点検にも立ち会ってもらうが、夕方までには終わるだろう。そのあとは、自由にしていい。三日後の日本時間2100までに、メイス・ベースに出頭すること。時差もあるから‥‥正味六十五時間といったところかな。まあ、好きに楽しんでくれ」


「うわぁ。こんなに長いお休み、初めてだよね」

 瑞樹は先頭を切って、娯楽室に入った。あとの五人が、ぞろぞろと続く。

「さあ、どうしようか。久しぶりに、フェニックスに帰るかな。ここからなら、近いし」

 椅子に腰掛けながら、ダリルが言う。

「いいわね、近い人は。わたしの家族なんてウェスタン・オーストラリアに避難しているのよ」

 カードテーブルに座ったサンディが、ため息をつく。向かい合わせで座った瑞樹は、小首をかしげた。

「六十時間あれば、行けるんじゃないの?」

「シアトルからホノルル。ホノルルからシドニー。シドニーからパース。このパースから先が長いのよ。帰りはパースからシドニー。シドニーから東京。東京からメイス・ベース。まあ、両親とランチするくらいしか時間は取れないでしょうね」

 サンディが、肩をすくめる。

「わたしは帰省させてもらう。エルメンドルフまで行けば、韓国空軍がスーウォン基地への直行便を出している。悪いが、さっそく手続きしてくる」

 ミギョンが言い、そそくさと部屋を出てゆく。

「羨ましい」

 ぼそりと、スーリィ。

「スーリィも、実家へ帰れないのか?」

 ダリルが、訊く。スーリィが、うなずいた。

「うん。ランチョウまでは空路で行けるんだけど、その後がね。ユーメンチェンへの便は、週に一本しかないから、アンシーまで鉄道を使わなきゃならないんだけど、これがのろいんだ。下手をすると、長距離バスの方が早いくらい。まず、時間通りには帰って来れないね」

「アリサは、帰れるでしょ? ノブゴロドだっけ?」

 瑞樹はそう訊いた。

「ええ。アラスカまで行って、空軍のモスクワ連絡便に乗せてもらえば、問題ないわ。わたしも手続きしてきましょう」

 アリサが立ち上がった。

「瑞樹は当然実家だな」

 ダリルが、言う。

「うん。浜松は名古屋まで列車ですぐだし、そこから宮崎へは航空便があるからね」

 瑞樹は微笑んだ。

「ふーん。サンディとスーリィは帰れないのか。休みのあいだ、何をするつもりだ?」

 ダリルが、帰省できないふたりに水を向ける。

「‥‥そうね。のんびりしようかしら」

「もう一度、シアトル見物しようかな」

 サンディとスーリィが、気乗りしない風に答える。

「スーリィはともかく、サンディはまずいでしょ」

 瑞樹はそう指摘した。

「‥‥そうだったわね」

 サンディが、げんなりとした顔で応じる。

 かなり下火になったとはいえ、いまだサンディは合衆国ではかなりの有名人である。シアトルなんぞにのこのこと出かけていったら、メディアの餌食にされるおそれが強い。

「ふむ。ふたりとも暇なのか。‥‥どうせなら、日本見物でもしないか?」

 いきなり、ダリルがそう提案した。

「ダリル。あなた、実家に帰るんじゃなかったの?」

 サンディが、眉をひそめる。

「‥‥実は帰ってもあまり面白いことがないからな」

「あきれた‥‥」

 サンディが、肩をすくめる。

「日本見物か。面白そうだな」

 スーリィが、身を乗り出す。

「‥‥で、日本のどこを見物するつもり?」

 ちょっと興味が沸いたのか、サンディが訊く。

「決まってるだろ。東京だ」

「あの〜」

 瑞樹は思わず口を挟んだ。

「‥‥どうせ行くんなら、京都とか奈良とかの方が面白いと思うんだけど」

「甘い! まず首都を攻略するのが、戦略の常道だ」

 瑞樹に人差し指を突きつけたダリルが、力説した。

「甘いのはあんたよ。無計画に東京に行っても、楽しめないでしょう。時間とお金の無駄よ」

 サンディが、指摘する。

「ふはは。こんなこともあろうかと、実はあたしは数週間前からガイドブックを読み込んでいたのだよ」

 ダリルが、無意味に威張る。

「‥‥あんたの案内じゃ、不安いっぱいだわね」

 サンディが、言う。

「うん。否定はできないな」

「あら、認めたわよ、この娘」

 サンディが、呆れる。

「そこでだ。瑞樹」

 ダリルが、瑞樹を見据えた。

「すまないが、ガイド役を頼まれてくれ」

「おいおい。瑞樹は実家に帰るんだよ」

 サンディが、たしなめる。

「そこをなんとか‥‥」

 どこで覚えたのか、ダリルが両手を合わせて、瑞樹を拝んだ。

「ん〜。サンディも、スーリィも、東京見物したいの?」

「どうせ暇だし、したいことはしたいけど‥‥無理しなくていいよ、瑞樹。メイスにいれば、東京なんて近いんだし。見物はまたの機会にすればいい」

 スーリィが、そう言ってくれる。

 まあ、浜松なら丸一日休みが取れればいつでも帰ることができる。それに、今帰っても家には母親しかいないことも確かである。父親は北海道を離れられないし、妹も大阪の大学に行ったままだ。

「わかった。みんなで、東京見物しましょう」

「ありがとう、瑞樹」

 ダリルが瑞樹の手をぐっと握った。

「ほんとに無理しなくていいのよ、瑞樹」

 サンディが、気遣わしげに言う。

「無理はしてないよ。みんなと旅行なんて、面白そうだし。それに、前々からみんなに日本のいいところを見てもらいたいと思ってたんだよね」

 瑞樹は微笑んだ。

「よし。そうと決まれば早速航空便と宿の手配をしてこよう」

 ダリルが言い、立ち上がる。

「あ、手伝うわ」

 瑞樹も立ち上がったが、ダリルがそれを手で押し留める。

「任せてくれ。ガイドブックで充分に研究したからな。瑞樹は、当日現地の案内をするだけでいい。面白そうなところを、ピックアップしておいてくれ」

 そう言い置いて、ダリルが出てゆく。

「大丈夫かな。あの娘に任せておいて」

 うしろ姿を見送りながら、サンディ。

「まあ、気合は入っているみたい‥‥くしゅ」

 瑞樹は慌てて口元を押さえた。‥‥どうも今日は鼻がむずむずする。

「体調悪いのか? 今日は早く寝た方がいいな」

 スーリィが言う。

「そうね。そうするわ」


「はくしゅ」

 瑞樹の盛大なくしゃみに、全員が固まる。

 六人は会議室にこもって報告書作成に当たっていた。

「風邪?」

 アリサが言って、瑞樹の額に手を当てた。

「熱はないみたいね」

「気分は?」

 スーリィが、問う。

「‥‥べつに普通なんだけど‥‥なんか鼻がむずむずするのよね」

 瑞樹は照れたように微笑んだ。‥‥すこし身体がだるいような気がするが、これは疲労だろう。休みを挟んだとはいえ、十ソーティ以上をこなしたのだ。疲れが溜まって当然である。

「昨日から、くしゃみしていたからね。風邪のひき始めかもしれない。チキンスープでも飲んで、寝ていたらどう?」

 サンディが、気遣わしげに言う。

「はははは。今時チキンスープなんて、古いやり方は効かないぞ。いい方法を教えてやろう。ドクター・ペッパーを半ダース一気に飲むと、治るぞ」

 得意げに指を振りたてながら、ダリル。

「‥‥かえって身体に悪そう」

「風邪には生姜よ。スープでもお茶でも何でもいいから、下ろした生姜をたっぷり入れて飲むの。効くわよ」

 スーリィが、言う。

「いや。生姜より唐辛子だ。粉末をモヤシと若布のスープに大量に入れて飲むと、治る」

 ミギョンが生真面目な顔で言う。

「何言ってるの、みんな。風邪の特効薬といったらウォッカでしょ。胡椒を入れて、大蒜をかじりながら飲めば、すっきりと治るわよ」

 アリサがそう主張する。

「みんなの提案をすべて実行したら、たぶん急性胃腸炎で倒れるわね」

 瑞樹は苦笑した。

「一応、アリスンに見てもらいなさい」

 サンディが、そう勧めた。

「そうね。もし風邪だったら、みんなにうつすわけにもいかないしね」


「うーん。風邪のひき始めですね」

 アリスンが言って、茶色の細い眉をしかめた。今次派遣要員唯一の看護士である。

「まいったなぁ。今日の夕方から休暇なのに」

 瑞樹は壁の時計を見た。まだ午前十時前だ。

「お薬出しますから、宿舎で寝ていたらどうですか? うまく行けば、夕方までに症状が治まるかもしれません」

 アリスンが言う。

「そうね。司令に許可貰って、大人しく寝ることにするわ」

 アリスンが、巨大なタブレットを大きなグラスに落とし込むと、水を注いだ。しゅわしゅわと泡が立ち、水が黄色っぽいオレンジ色に染まる。

 瑞樹はそれをごくごくと飲んだ。オレンジとグレープフルーツとレモンを混ぜて甘味料を加えたような、むちゃくちゃ人工果汁っぽい味だ。

「ありがとう、アリスン」

 瑞樹はグラスを返した。

「お大事に、サワモト大尉」


 七時間後。

 瑞樹の体温は、38度を突破していた。

「ごめん、ダリル。東京案内できないわ」

 宿舎のベッドの中の瑞樹が、熱でやや赤らんだ顔で謝る。

「いやいや気にするな。それよりゆっくり寝て、風邪を治せ」

「うん。ありがとう」

 ダリルは静かにドアを閉めた。

「まずいわね。東京見物は中止しましょうか」

 サンディが、言う。

「いや。すでに宿もとってあるんだ。いまさら中止はできない」

 きっぱりと、ダリル。

「でも、案内人なしじゃねえ」

 サンディが、首をかしげる。

「安心しろ! あたしとこいつが付いている!」

 ダリルが、ぽーんと音高く、ロンリー・プラネットのガイドブックを叩いた。

「‥‥当てになるのかしら」

 サンディが、ため息をつく。

「お前、ロンリー・プラネットを信用していないのか? さてはベデカー派だな?」

「ちがう! 信用していないのはあんたの方だ!」

「まあまあ。病人がいる部屋の前で諍うのはやめなさいよ」

 スーリィが、割って入る。

「まあとにかく、東京は治安もいいし交通機関も発達している。日本人は礼儀正しいし外国人にも親切だ。水道の水だって、そのまま飲める。英語は通じないが‥‥まあ、問題はない」

 ダリルが、サンディを説得にかかる。

「それくらいは、メイス・ベースにいればわかるよ」

 スーリィが、苦笑する。

「言っときますけど、東京は大きいわよ。本当に、あなたの案内で大丈夫なの?」

 サンディが、小首を傾げて尋ねる。

「安心しろ。あたしはフェニックス育ちだ。タコ・ベルとマクドナルドしかなかったどこかの田舎育ちのお嬢さんとは違う」

「バーガーキングもあったわよ‥‥って言ってて空しくなるわね」

 サンディが、うなだれた。


 太平洋標準時午後六時にマッコードを離陸した合衆国空軍のセスナ・サイテーションに便乗し、エルメンドルフ空軍基地へ。そこで一泊し、翌朝物資輸送の戻りであるC−17に便乗して横田空軍基地へ。

「ここが東京だ!」

 ダリルが叫ぶ。

「‥‥思ったより田舎ね」

 サンディが、感想を述べる。

「まあ、東京といってもかなり西の郊外だからな。本物の東京へは東へ10nmばかり行かねばならん」

 第8ゲートから出たダリルら三人は拝島駅から青梅線快速東京行きに乗り込んだ。大勢の日本人に混じって、電車に揺られる。窓外は、見渡す限りの人家だ。半時間ばかり走ると、新宿の高層ビル群が見え出した。

「‥‥大きいね、東京って」

 ぼそりと、スーリィが漏らす。

 ダリルの指示で、御茶ノ水駅で総武線に乗り換える。着いた先は‥‥。

「ここが秋葉原だ!」

 JRの駅前で、ダリルが叫ぶ。

「‥‥なんか、ごみごみした街ね」

 サンディが、感想を述べる。派手な原色を使った大きな看板がやたらと目に付く。人通りもかなり多い。

「何を言うか。秋葉原こそ、日本の最先端をゆく街だぞ。ハイテクと萌えと汚穢が一緒くたになったカオス・タウンだ。見ろ! あれが本物のオタクだ!」

 サンディが、二十代後半くらいに見える日本人青年の群れを指差す。

「平日の昼間だというのにアキバに集って萌えを追求する。彼らこそ、本場のオタクなのよ。うわ〜、サインしてもらおうかな」

「‥‥ついていけない」

「同じく」

 サンディとスーリィがため息をつき、顔を見合わせる。

 意気上がるダリルのあとに、サンディとスーリィは肩を寄せ合うようにして付いていった。

「なんだか、外国人が多いわね‥‥って、わたしたちもそうなんだけど」

 サンディはそう言った。ヨーロッパ系の白人、アフリカ系、東南アジア系、西アジア系などの人々が、ひとりで、あるいは連れ立って歩いているのが目に付く。英語でも日本語でもない言葉で会話したり、携帯電話に向かって喋っている声も頻繁に聞こえる。

「中国人も多いね」

 スーリィが、言った。

「見た目でわかるの?」

「なんとなく、ね。顔そのものより、服装と目つきかな」

「ふうん」

 サンディは周囲を見回した。彼女の眼には、東洋人はみんな同じように見えた。


「どうやら最先端はお二人のお気に召さないようなので‥‥次は浅草だ!」

 雷門の前で、ダリルが絶叫する。

「ここは‥‥いいわね。でかした、ダリル」

 サンディが、褒める。スーリィが、秋葉原では出番がなかったカメラを取り出すと、シャッターを押し始める。

 三人は仲見世通りをぶらぶらと歩いた。土産物屋、伝統的な菓子を売る店、和服用の小物を売る店、靴屋、サムライ映画に出てきそうな民芸品や玩具を商う店などが、通りの両側にひしめいている。試供品のライスケーキや煎り豆をつまみながら、三人はいかにも日本的な店の数々を見物した。途中で新仲見世通りに入り、見つけた蕎麦屋で腹ごしらえをしてから、突き当たりにある浅草寺を見学する。

「これは凄いわね」

 サンディが、五重塔を見上げて感心する。早速、スーリィがカメラを構えた。

「どのくらい古いものなの?」

「ははは。これは実は偽物だ。なにしろ、鉄筋コンクリートだからな」

 ガイドブックを参照しながら、ダリルが言う。

「なんだ。由緒ある建物じゃないのね」

「初代の塔は千年以上前に造られたと言われている。何度か焼失と再建を繰り返し、三百六十数年前に建てられたものは何回かの大地震にも耐え抜いたが、あんたの先輩方のせいで焼失したそうだ」

「わたしの先輩‥‥ああ、そういうことね」

 サンディが、納得する。

 浅草寺を堪能した三人は再び仲見世通りへと戻った。土産物屋を冷やかしながら、南へと歩く。

「で、次はどこ?」

「船だ」

「船?」

 スーリィが、怪訝な顔をする。

「ははは。ついて来い」

 三人は、浅草通りを東へと歩いた。

「これだ!」

 ダリルが、隅田川に浮かぶ水上バスを指差す。

「へえ。東京にもこんな交通機関があるのね」

 サンディが、感心する。

 浜離宮までのチケットを購入した三人は、水上バスに乗り込んだ。ほどなく、船は乗り場を離れると隅田川を下り始めた。大きな橋の下を何本も潜り抜ける。三十分ほどで、水上バスは緑の多い公園の発着所に着いた。

「我々はここで途中下船だ」

 ダリルが言う。

「ほう。日本庭園ね」

 スーリィが、早速写真を撮り始める。

 抹茶と和菓子による休憩を含め、三人は一時間半ほど浜離宮での散策を楽しんだ。

「よし、そろそろホテルに行こう」

「え〜。まだ早いんじゃない?」

 サンディが、異議を唱える。

「いや、先にチェックインしてから、東京のナイトライフを楽しむというのが正解だ」

 ダリルが断言する。

 三人は汐留駅まで歩くと、大江戸線−山手線と乗り継いで品川駅に降り立った。駅から程近い、予約してあったホテルにチェックインする。

「問題は部屋割りだが‥‥」

 ダリルは腕を組んだ。瑞樹を含め四人旅のつもりだったので、ツインルームをふたつ予約してある。

「あんたに一部屋提供するわよ。わたしとスーリィが、相部屋になるわ」

 サンディが、言う。

「嬉しいような、拒絶されたような複雑な気分だが‥‥」

「気にしない気にしない」

 部屋はツインにしてはいささか狭かったが、きれいで快適であった。シャワーを使って一休みした三人は、着替えてからふたたび東京の街に繰り出した。

「さて、どこへ行く」

 意気揚々と、ダリルが問う。

「任せるわ。どうせ、お酒の飲めるところでしょうけど」

 諦め顔で、サンディが言う。



「参ったよ、今回は」

 アークライト中将が、矢野准将にカピィが仕掛けた「罠」について話す。むろん、矢野は詳細な報告書を読んでいたが、注意深くアークライトの話に耳を傾けた。硬い文章で綴られた報告書には込めようがない「現場の雰囲気」が、当事者の口からは伝わってくるものだ。

「問題は、あの罠の目的だ」

 アークライトが言って、矢野が手ずから淹れた煎茶をすすった。

「‥‥目的。では、単なるNT兵器の撃破ではないとお考えですか?」

「ファイアドッグの動きを時系列で分析したところ、むしろフレイルを囲い込むように機動していることが見て取れる。西への退路を遮断し、東へと押し付ける作戦に思えるのだよ。撃破したとしても、その残骸がカピィ支配地域に近い位置に墜ちるように配慮していた形跡がある」

 アークライトが、手振りを交えて説明する。

「では、真の目的は、NT兵器の調査にあったとお考えですか」

「‥‥推測だがね」

 アークライトが、言い切った。

 矢野は一声唸るとソファにもたれた。カピィの思考方法はいまだ解明されていないが、軍事行動の様子から判断すると、人類のそれと大きく異なるものではないという説が有力だ。それならば、突如出現したNT兵器に脅威を感じたカピィの上層部が、その捕獲を望んだ可能性は高い。

「となると、今後のNT兵器の運用に制約が加わりますな」

 矢野は座り直すと、湯飲みを手にした。

「ああ。量産型完成前にNT兵器がカピィの手に渡ることは避けたい。実戦テストの基本方針を変更するようにチェン大将に上申するつもりだ。賛成してくれるか?」

 アークライトが、訊く。矢野は、うなずいた。

「もちろんです」



「今日も現れなかったか」

 ティクバ船長の鼻が、ぴくぴくと動く。

「前回も、ほぼ同じ期間だけ活動が観測されました。今回も同じと見て差し支えないと思われます」

 研究員レーカが、そう推測を述べる。

「東の新兵器も同様なのだな?」

「はい」

 ヴィド副長の質問を、レーカが肯定した。

「なぜ短期間しか活動しないのか。兵器自体が未完成なのか、操る戦士に問題があるのか、それとも人類特有の理由があるのか」

 ティクバが、考え込む。

「基地が遠隔地にあると、わたしは推測しています」

 レーカが、発言した。

「おそらくは、最大大陸のどこかでしょう。第三大陸には、前進基地があるだけで、定期的に進出して戦闘を行っているのだと思われます」

「それにしても、活動期間が短すぎる。あれでは、戦力になりません」

 ヴィドが、指摘した。

「同意する。数も増えていない。‥‥量産型の兵器ではないのか。ますます気になるな。同じペースで現れるとすると‥‥次の出現は、後続艦隊到着後になるな」

 ティクバが、耳を揺らす。

「‥‥何とかして捕らえたいものだ」



「やだ! もっと飲む!」

「お酒なんていつでも飲めるでしょ! 明日のこと考えて早く寝ましょう」

 抵抗するダリルを、サンディが説得する。

 三人はホテルからほど近い炉端焼きのカウンターに陣取っていた。ダリルが冷の日本酒を、スーリィが生ビールをすでに数回お代わりしている。

「うーん。サンディの言うことも一理あるわね」

 焼き蛤をつつきながら、スーリィが言う。

「明日の予定はどうなってるのよ。飛行機に乗り遅れたら、最低よ」

 憤然として、サンディ。

「大丈夫だよ。夕方の便を予約してあるから、午後の半ばまでくらいなら遊んでいられる。一応明日の予定としては、博物館見学して、それから渋谷で食事と買い物してから空港、という段取りだね」

 シシャモを頭からかじりつつ、ダリルが説明する。

「博物館? 面白いの?」

 スーリィが、訊く。

「徳川時代の物とかいっぱい収蔵してあるらしい。着物とか、浮世絵とか、日本刀とか。今日見られれば都合がよかったんだけど、休館日だったから。たぶん、面白いと思うよ」

「じゃあ、あんまり時間の余裕ないじゃない。早く寝なきゃ」

 サンディが、言う。

「でもねえ‥‥。お酒がおいしいのよね。あ、これ焼いて」

 ダリルが、車海老を指差す。炉端焼きのカウンター席のいいところは、言葉が通じなくても指差せば注文ができるという点だ。鉢巻姿の料理人が日本語で威勢のいい返事をして、早速車海老を焙りだす。

「もう」

 呆れ顔で、サンディが自分の焼き帆立にかぶりついた。



「熱は下がったみたいですね。これなら、最終便に乗れますよ」

 体温計を手にしたアリスンが言った。

「ありがとう。だいぶ、気分もいいわ」

 瑞樹は着替えると、私物をまとめに掛かった。NT兵器を搭載したパレットは、すでに昨日マッコードを飛び立っている。今日の正午に、残務整理の人員と警備隊数名を乗せた航空自衛隊のU−4が、最終便として飛び立つ。これを逃すと、自力でメイス・ベースまで帰る羽目になる。もちろん自腹を切って民間機に乗ったりすることはないが、直通便がないので何度も乗り換える必要があるうえに接続も悪いはずなので、下手をすると丸一日かけてもメイス・ベースにたどり着けない可能性すらある。

「大丈夫だったかな、ダリルたちは‥‥」

 着替えをバッグに押し込みながら、瑞樹は東京旅行中の三人に思いを馳せた。日本時間はまだ夜明け前だから、たぶんまだホテルで寝ていることだろう。

「何事もなけれればいいけど‥‥」


「ぶわっしゅ」

 派手なくしゃみとともに、ダリルは目覚めた。

 寝ぼけ眼で、ベッドサイドに置いてあるティッシュボックスを探る。

 探る‥‥。

 ない。

 ‥‥そうか。メイス・ベースのいつもの部屋じゃないんだ。

 ダリルはむくりと起き上がると、サイドテーブルのティッシュペーパーを一枚取って、音高く鼻をかんだ。

 ‥‥瑞樹の風邪をうつされたかな?

 時計を見る。まだ、午前五時だ。

 ‥‥もう一眠り、しよ。

 ダリルは横になると、上掛けを引っ被った。






 翌朝。

 ホテルで朝食を済ませたダリル、サンディ、スーリィの三人は、品川駅からJRで両国へと向かった。

「ここが江戸東京博物館だ。ちなみに隣の変な建物は、スモーを行うスタジアムだ」

 なぜか偉そうに、ダリルが解説する。

 博物館は想像していたよりも規模が大きかった。展示してあるものをざっと見ただけだが、正午までかかってもすべての展示室を廻りきれなかった。

「仕方がない。ここは切り上げて、予定通り渋谷に向かうぞ」

 ダリルらは博物館を出ると、両国の駅に向かった。

 トラブルが起きたのは、改札口を入ってすぐのところであった。

「すみません」

 訛りの強い英語で、三人は呼び止められた。

「は?」

「すみません。あなた、ミス・サンディ・ローガンじゃありませんか?」

 声を掛けてきたのは、スーツ姿の日本人男性だった。右手にブリーフケース。左手には、雑誌を持っている。

「え」

 サンディが、固まる。

「ほら、本人でしょう」

 日本人が言って、手にした雑誌を開いてみせる。‥‥不鮮明な白黒だが、サンディの顔写真が載っていた。

「いえ、人違いですよ。はは」

 サンディが、笑ってごまかす。

「そっくりじゃないですか。それに、こちらの方が、さきほどあなたのことをサンディと呼んでいましたよ」

 日本人が食い下がる。

「えーと、あの〜」

 サンディが、詰まる。

 ‥‥まずい。

 やり取りを聞いて、なにごとかと足を止める人がちらほら出始めていた。‥‥日本人のことだ、すぐに写真やビデオを撮り始める奴が出てくるだろう。それが新聞社やテレビ局や雑誌社の手に渡り、調査が行われれば、ダリルの身元までばれてしまう。

「失礼。急いでますので」

 ダリルはサンディの手をとると、ホームへの階段を駆け上がった。スーリィが、慌てて付いてくる。タイミングよく滑り込んできた電車に、ダリルらは駆け込んだ。ドアが閉まり、電車が動き出す。

「危なかった」

 空いているシートに座りながら、ダリルは安堵の息をついた。

「‥‥日本の雑誌にまで写真が載ってるとはね」

 サンディが、あきれたように天井を仰ぐ。

「サングラスでも買ったら?」

 スーリィが、提案する。

「そうね。考えとくわ」

 電車は順調に走り続けた。大勢の乗客が降り、また乗ってくる。

「で、どこで乗り換えるの?」

「新宿で乗り換えだ。大きい駅だからな。すぐわかるよ」

 電車は何本かの鉄橋を渡った。

「しかし‥‥大きいわねえ、東京は」

 しみじみと、サンディが言う。

「そりゃまあ、ニューロンドンに比べれば都会だよな」

「いいかげん田舎者扱いやめないと、いつか絞め殺すわよ」

「ミシガン湖に沈める、の間違いじゃないのか?」

 ダリルが、茶化す。

「あ、大きい駅だよ。ここじゃないの?」

 列車が減速する。ダリルは駅名表示を見た。

「ちがう。降りる駅は新宿だ。ニシ・フナバシじゃない」

 大勢の乗客が降りた。入れ違いに、数名の客が乗り込んでくる。

 電車はさらに走り続ける。

「ねえ、ダリル。なんか、畑とか見えてきたんだけど‥‥」

 しばらくして、スーリィがそう言って、窓外を指差した。

「そうね。なんか、郊外へ向かっているみたいだけど、いいの?」

 サンディも外の景色をみて、眉をしかめた。ビニールの温室の列が、後ろへと流れてゆく。

「いや、おかしいな‥‥」

 ダリルが、ガイドブックを取り出した。

「すまん、次の駅名を教えてくれ」

「アナウンスはイナゲとか言ってるよ」

 サンディが、教える。

「そんな地名、東京にはないぞ。イナギ、じゃないのか? おかしいな」

「ニシチバとか言ってる。‥‥チバという地名には、聞き覚えがあるんだけど」

 スーリィが、首をかしげる。

 ダリルが、ガイドブックをぱたんと閉じた。

「すまん。反対方向の電車に乗ってしまったらしい」

「‥‥やっちゃった」

 サンディが、ため息をついて視線を逸らす。

「次の千葉駅で降りよう」


「うわ。ずいぶん遠くまで来ちゃったわね」

 駅備え付けの地図を見て、サンディがあきれる。

「時間は大丈夫なの?」

 スーリィが、訊く。

「飛行機の時間は大丈夫。だけど、渋谷行きは諦めなきゃならないね」

「それよりおなか空いたわ。どこかでお昼食べましょうよ。大きな街みたいだから、なにかおいしいものがあるでしょう」

 サンディが提案する。

「いい考えだ。だが、昨夜の炉端焼きで金を使いすぎたからな。昼飯は安く上げたい」

「お金ないの? 奢ってあげようか?」

 スーリィが、言う。

「ありがとう、スーリィ」

 ダリルが抱きつく。

「ついでだから、サンディにも奢ってあげましょう」

 鷹揚に、スーリィが言う。


「‥‥で、こうなるわけだ」

 五目ラーメンをすすりながら、サンディ。

 乗り越し清算を済ませて千葉駅を後にした三人は、スーリィの選んだ中華料理屋に入った。スーリィの奢りなので、当然の選択である。

「で、これからどうするの?」

 タンメンを食べつつ、スーリィが問う。

「ここから空港まで、一時間以上かかるだろう。食後にそのあたりをぶらついてから電車に乗れば‥‥ちょうどいいんじゃないか?」

 ダリルが答える。

「なんか、損した気分になるわね」

 サンディは、言った。

「まあ、そう言うな。旅行にトラブルは付き物だ。それを楽しむのも、旅の醍醐味だぞ」

「‥‥まあね」

「お、珍しく反論しないな」

 ダリルが、驚きの表情を見せる。



 サンディ、スーリィ、ダリルの三人が千葉の中華料理店でちょっと遅めの昼食を摂っている頃‥‥。

 北京市。ペニンシュラ・パレス・ホテルの一室に、三人の男性が集っていた。

 ひとりは政治家。あとの二人は軍人である。

 三人は、すでに気心の通じ合った者同士特有の無言の握手を交わした。ホストである政治家の秘書が中国茶を淹れ、すぐに下がる。

「戦況は、よろしくないようですな」

 政治家が、まず口を開いた。ほとんど訛りのない、きれいなロシア語だ。

 中国共産党中央政治局常務委員、ヤン・チャンイー。七十年代入党の若手である。

「左様ですな。ついにアトランタ放棄が決定したようですし」

 文法的には正確だが、いささか訛ったロシア語で、浅黒い肌の初老の軍人が応じる。

 ヴィクラム・スィン大将。インド海軍参謀総長兼UN海軍参謀長である。

「良い報せがないわけではありませんぞ」

 非の打ち所のない発音で‥‥母国語なのだから当然だが‥‥ダークブロンドの長身の男性が言う。

 ゲンナディー・ルシコフ大将。ロシア陸軍出身で、現在はUN地上軍副司令官の地位にある。

 ルシコフ大将が、北米におけるフレイルおよびダガー・スコードロンの活躍を詳しく物語る。

「‥‥最近騒がれている新兵器ですな。何度か空軍に照会したが、詳細は教えてもらえませんでしたぞ」

 スィン大将が、顔をしかめる。

「UNUFHQの極秘プロジェクトですからな。海軍はもちろん、地上軍でも全貌は知らされていないのです。わたしも‥‥まあ、UNUFAFに個人的な伝があったから知ったくらいですからな」

 ルシコフ大将が、苦笑する。

「で、その新兵器を大量投入すれば、戦況は変わりますかな?」

 ヤン常務委員が、聞いた。

「無理ですな。残念ながら」

 ルシコフ大将が、断言する。


 三人が出合ったのは、八十年代前半の北京であった。そのころ、ヤンは北京市党委員会副組織部長。スィンとルシコフは、北京駐在武官の職にあった。語学の達人であり、ヒンディー語とロシア語を自在に操れたヤンは、スィンとルシコフとそれぞれ親交を結ぶことに成功し‥‥やがてヤンの計らいでスィンとルシコフも友人となる。軍務の経験はないが戦史に通じ、近代戦略にも詳しいヤン。海洋戦略に関する論客で、ソビエト連邦製艦載兵器の専門家でもあり、ロシア語の会話に不自由しないスィン。代々歩兵の家系で、実父はソ連邦将軍であり、すでに出世コースに乗っていたルシコフ。

 当時中国とインドの関係は悪化しており、中国とソビエト連邦の関係も決して良好ではなかったが、きわめて開明的なヤンの性格‥‥スィンに言わせると「はなはだ共産党員らしからぬ」‥‥もあり、三人は篤い友情を育むことになる。

 スィンとルシコフがニューデリーとモスクワに帰ったのちも、親交は続いた。ヤンは北京市党委員会の中で頭角を現し始め、スィンは海軍本部勤務ののちフリゲート艦長へと転出。ルシコフもフルンゼ軍事アカデミーを経て自動車化歩兵連隊参謀長、さらに連隊長へと順調に出世を遂げる。

 そして、世界は1991年を迎える。


 1991年。ソビエト連邦解体。

 ゲンナディー・ルシコフの所属していた世界は、崩壊した。

 二百個師団以上の戦力を誇っていた陸軍では、いくつもの師団が続々と廃止された。新兵器開発プロジェクトも片端から放棄され、保有兵器の更新もままならなくなった。それどころか、兵士への給与さえ遅配となる始末。

 多くの軍人が軍を放逐された。ルシコフは父親の影響力と自身の能力とで陸軍参謀部内に留まれたが、多くの同僚や元部下が優秀であるにも関わらず陸軍を去ることとなった。

 陸軍だけではない。海軍も旧型艦を中心に多数の艦艇が退役させられた。弾道ミサイル潜水艦さえ、多数がお払い箱となった。空軍も数多の航空連隊が解隊し、古いがまだまだ使える戦闘機や爆撃機がスクラップとなった。

 遠隔地への展開能力と海軍力では劣るが、合衆国軍を上回る総合戦力を誇っていた世界最強の軍隊が、あっけなくその地位を失ったのである。‥‥金が足りなかったがために。

 ソビエト連邦経済の最盛期は、七十年代の半ばであった。この時点で、ソビエトの経済規模はアメリカ合衆国のほぼ四十五パーセントの水準まで達したと言われている。八十年代後半にはGDPが二兆ドルを突破し、日本やドイツをはるかに見下ろす世界第二位の経済規模を誇っていた。それがソビエト崩壊とそれに伴う混乱、そして連邦内各国家の独立によって空恐ろしいほどまでに目減りし、ソビエト連邦の後継国家となったロシア共和国の経済力はヨーロッパの中堅国家と大して変わらぬ水準にまで落ち込んだのである。


 ヤン・チャンイーも、ソビエト連邦の崩壊を慄きをもって見つめていた。

 すでに中国は、改革開放路線‥‥社会主義の枠組みを保ったまま、市場経済を導入する方向へと舵を切りつつあった。有名なドン・シャオピンの「南巡講話」が行われるのは、この翌年のことである。

 ソビエト連邦と中華人民共和国の政治構造は酷似している。元々中国共産党はコミンテルンの主導によって組織されたものだし、長年ソビエト連邦共産党をお手本にして伸張してきた。文革の混乱を経て自主独立路線を歩んだものの、その基本的な部分はソビエト連邦共産党と大同小異であり、党を基盤とする国家のありさまも相似形である。

 そのソビエト連邦が、消滅した。

 最大の原因は、経済にあることは明白だった。経済力でアメリカ合衆国に劣るソビエトが、あらゆる分野で‥‥軍事、先端技術、宇宙開発、文化発信、海外援助等々‥‥西側と張り合おうとした結果、経済の破綻を招き、自滅したのだ。

 同じ轍を踏まぬためには、西側諸国との交流を深め、経済発展を遂げるしかない。ドン・シャオピンを始めとする中国要人はそう考え、市場経済の導入という賭けに踏み切り、そして成功した。二十世紀の末までに、中国のGDPはイタリアを抜いた。いずれ、フランスやイギリス、ドイツ、そして日本を追い越すだろう。数十年後には、アメリカ合衆国すら抜くだろう。‥‥それまで、中華人民共和国が存続すればの話だが。

 もちろん、中華人民共和国はソビエト連邦と同じ過ちは繰り返さない。アメリカ合衆国と軍拡競争を繰り広げることはないし、周辺諸国との摩擦も最小限に留めるつもりである。国民の生活レベル向上にも、充分配慮する。しかし、不安定要因は、少なくない。

 中華人民共和国の最大の弱点は、国土が広いにも関わらずエネルギーの自給が不可能なことである。あのソビエトでさえ、石油や天然ガスに関しては自給自足できたのだ。だが、中国は違う。このまま経済発展を続け、エネルギー需要が増大すれば、石油はもちろん石炭すら輸入に頼らねば生きてゆけなくなる。

 最も重要なエネルギー資源である石油の供給先は、中東諸国以外に考えられない。しかしそこにはアメリカ合衆国の軍事力が居座っている。先の湾岸戦争で、合衆国に逆らう者は容赦なく叩かれるということを、全世界が思い知らされた。

 中国が合衆国に逆らえば、石油の供給を絶たれる。

 石油を絶たれれば、経済が立ち行かなくなる。そうなれば、民衆は共産党を見限る。当然、中華人民共和国は終焉を迎える。ソビエト連邦のように。チワン人、満州人、ウイグル人、チベット人、モンゴル人などは独立するだろう。共和国崩壊。漢族だけの中国は、その人口を考慮するならば決して広いとは言えぬ国土に十億を超える民を押し込めた貧しい農業国家に逆戻りする。それどころか、内戦状態に突入する可能性すら大きい。歴史を紐解けば、広大な中国大陸を単独の国家が統治していた時期は、驚くほど短いのだ。群雄割拠こそが、中国のありのままの姿なのである。それを防ぐには、強力な中央集権国家を維持する以外に方法はない。

 独自のエネルギー資源の確保と、アメリカ合衆国の干渉を受けないだけの力をどうやって手に入れるか‥‥。それには、現在および近い将来の中華人民共和国の力だけでは不足である。強力な友人が、必要だ。

 ‥‥ユーラシア連邦。

 ロシアとインドに盟友を持つヤンがたどり着いた案が、これであった。中国を中核に、ロシア、インド、旧ソビエトの中央アジア諸国を糾合した、政治、経済、軍事面で緊密に結びついた共同体。

 天然ガスを主体とするエネルギーをロシアから供給してもらい、見返りに中国はシベリア開発の労働力と資本を提供する。インドはインド洋を押さえ、中東に睨みを効かせ、石油の安定供給に尽力する。

 三カ国の軍事力を合わせればアメリカ合衆国と対抗できる。将来的には東南アジア諸国、朝鮮半島、パキスタン、西アジアの一部を加え、さらに強固なものとする。条件が合致すれば、日本やオーストラリア、東欧諸国などとも協力関係を結んでもよい。中東諸国を抱合できれば、怖いものはない。

 ヤンはその構想を、スィンとルシコフに披瀝した。祖国はスーパーパワーの座から滑り落ちたものの、いまだ合衆国に敵愾心を持ち続けているルシコフ。経済成長は著しいが、中国と同様様々な国内問題を抱えている祖国を憂えているスィン。ふたりとも、同様の構想を思い描いたことはあった。もし三カ国が、それぞれの国家間に抱える諸問題を解決できれば、ユーラシア連邦の結成は決して不可能な夢物語ではない。

 ただひとつの点を除けば。

 アメリカ合衆国の存在。

 アメリカ合衆国にとって、最大の悪夢はユーラシアに巨大な反米勢力が生まれることである。かつて、そのような危機が三回あった。

 第一回目は、ドイツ帝国とその同盟国によるヨーロッパ征服の企てである。これが成功していれば、ロシアおよびヨーロッパのみならず中東およびアフリカ諸国の大半が、中央同盟国の版図に組み入れられ、強力な反米勢力に伸張したであろう。だが、これはモンロー主義を捨てたアメリカ合衆国が連合国に参加したことによって防がれることとなる。

 二回目は、ドイツ、イタリア、日本などの枢軸国家群によるヨーロッパおよびアジア制覇の目論見であった。これも、アメリカ合衆国による経済的、のちには真珠湾攻撃を契機とする軍事的介入によって頓挫する。

 三回目は、ソビエト連邦による共産化である。合衆国とソビエトが直接戦火を交えることはなかったが、長年にわたって経済および思想闘争、軍拡競争、代理戦争などを通じ両者は激しく競り合いを続け、ついにソビエト連邦が力尽き、ユーラシアに覇を唱えることはできなかった。

 第四回目の事例となるであろう中国主導による経済共同体の成立を、アメリカ合衆国が歓迎するとは思えない。もしユーラシア連邦が成立すれば、その経済力は最盛期のソビエト連邦を上回るのは確実である。軍事力は合衆国に匹敵する。そして、その経済的、文化的成長の可能性は合衆国をはるかに凌駕するだろう。

 唯一のスーパーパワーとして君臨する合衆国が、黙って見ているはずがない。


 だが、その状態が激変する時がやってきた。

 カピィの侵略である。

 すべての諸問題が棚上げになり、中国、ロシア、インドの三カ国は一致協力してカピィへの対抗手段を探ることとなった。ヨーロッパ諸国や日本なども、三カ国の軍事力や兵器生産能力を頼りにしている。

 合衆国も、その力を失いつつある。

 ヤンら三人にとって、夢のような世界が形成されつつあった。‥‥カピィに人類が滅ぼされなければ、という但し書きがつくが。


 UNUFが組織されると、ルシコフがUN地上軍副司令官、スィンは海軍参謀長の地位を得た。

 ふたりはUNUFHQが設置されたブリュッセルで、額を付き合わせるようにして情勢を検討し、ひとつの結論を得た。

 このままでは、人類に勝ち目はない。人類が滅べば、当然ユーラシア連邦への夢は潰える。

 唯一の希望は、カピィ着陸船に対する核攻撃。そうルシコフとスィンは結論付けた。

 この結論に基づき、二人は様々な工作を開始した。姑息な手段も厭わなかった。手を拱いていれば、人類は滅亡してしまうのだ。手段を選んでいる場合ではない。論理的帰結から同様の結論に達していた者も多く、同調者は次第に増えていった。

 盟友であるヤンにも連絡を取り、協力を求める。ヤンは二つ返事で承諾した。実はヤンも同じ結論に達しており、すでに中国国内で他の有力者と組んで核兵器使用反対派の追い落としに掛かっていたのだ。‥‥核兵器を使用すれば、カピィを殲滅できるうえに合衆国の国力も削ぐことができる、という目論みも当然あった。

 数ヶ月に及ぶ地道な活動の結果、三人の目的はほぼ達成された。中国、ロシア、インド国内の核兵器使用反対論者はいずれも引退、失脚、左遷、降格などの憂き目に会った。UNUF内部でも、核兵器使用論者が多勢を占めるようになる。

「あと二ヶ月もすれば、オハイオ核攻撃計画は正式に承認されるでしょう」

 自信ありげに、ルシコフ大将が言う。

 核攻撃でカピィを一挙に葬り去り、同時にアメリカ合衆国にも大きな被害を与える。そして、対カピィ戦争の団結気運がしぼまぬうちに中国、ロシア、インド三カ国の経済共同体を、戦後復興を名目にして立ち上げる。その後、周辺諸国を共同体に加えながら、政治同盟、さらには軍事同盟に格上げしてゆく。最終的には、ひとつの巨大な連邦国家を目指す。

 それが、三人の思い描く究極のプランであった。

「‥‥こちらに余裕があれば、もう少し待ってみてもいいのですがね」

 ヤン常務委員が、済ました顔でお茶をすする。

 カピィによる占領が長引けば長引くほど、アメリカ合衆国の国力は弱まる。だが、UNUFの中核国家として戦い続ける三カ国の経済的、人的損失もすでにかなりの規模に達している。このまま行けば、合衆国と同様、大きく国力を損ねて再起不能になりかねない。

「それで、具体的な攻撃プランの目処は立ったのですかな?」

 ヤンが、訊く。

「先ほどお話した、鹵獲したNTを使用した飛行隊にミサイルを撃ち込ませるという案が浮上しています」

 ルシコフが、答える。

「ダガーとフレイルか。面白いですな。女性ばかりの飛行隊とは」

 ヤンが、煙草に火を点けた。ルシコフはロシア人だが非喫煙者で、スィンも煙草は吸わない。この三人の中で、紫煙を好むのはヤンだけだった。ちなみに、愛用の銘柄は「紅双喜」。きわめて庶民的な安価な煙草だ。

「弾道ミサイルの飽和攻撃よりも、成功率は高いでしょう。戦後のことを考えると、ある程度ミサイルは取っておきたいですし」

「合衆国海軍のSLBMは吐き出させたいですな」

 スィン大将が、口を挟む。

「もちろんですな」

 紫煙を吐き出しつつ、ヤンが同意した。

「最初に合衆国海軍にSLBM攻撃を行わせる。彼らも、我々のミサイルが自分たちの国土に降り注ぐのは気が進まないでしょうからね。成功すれば、カピィも葬れるし合衆国の核兵器運搬手段を削ぐことができる。失敗すれば、NT兵器を投入すればいい。二段構えでいきましょう」

 ルシコフが、提案した。

 ヤンとスィンが、同意する。



 瑞樹はU−4の機内で、ほとんどの時間をうつらうつらと寝て過ごした。

「サワモト大尉。そろそろ着陸ですよ。起きてください」

 アリスンにやさしく揺さぶられて、やっと眼を開ける。

「うん」

「どうですか、気分は」

「‥‥いいみたい。やっぱり、睡眠は風邪の特効薬ね」

 瑞樹はシートの上で伸びをした。

「念のため、基地に戻ったら森先生の診察を受けて下さい」

 アリスンが言う。

「わかったわ。ありがとう」

 瑞樹は緩めていたシートベルトをきつめに締めなおすと、着陸に備えた。


「なんか‥‥疲れた」

 千葉駅から総武線快速に乗り込むと、サンディはそう言ってシートにもたれた。

 電車はそれほど混みあってはいなかった。サンディは車内を見渡した。様々な人々がいる。シートで眠りこけているスーツ姿の中年男性。一心不乱に携帯電話をいじくっている青年。ドアの脇に立ってなにやら話し込んでいる制服姿のカップル。東南アジア系らしい、ミニスカートの若い女性。三歳くらいの可愛らしい女の子を隣に座らせている若い母親。背筋をぴんと伸ばしてペーパーバックを読んでいる白髪の老人。眼鏡姿の妊婦。窓外を眺めている小学生の男の子。

「平和だねえ」

 ダリルが、つぶやくように言う。

「結局、わたしたちって、こういう普通の人たちのために戦ってるんだよね」

 しみじみと、サンディは言った。

 やや傾きかけてきた日差しが、車内の人々にやさしげに降り注いでいる。

「早いとこ、占領地域の連中にもこんな普通の暮らしをさせてやりたいねえ」

 ダリルが、言う。

「そう‥‥ね」



「あら、早かったのね」

 瑞樹がリビングに顔を出すと、すでにアリサが帰ってきていた。

「うん。モスクワから東京へ向かう便が一本しかなくてね。午前中に、日本に着いちゃったのよ。すこし東京で時間を潰したんだけど、結局午後の早い便で帰ってきちゃった」

 アリサが言って、はにかむように微笑む。瑞樹はソファに腰を下ろした。

「帰省は楽しめた?」

「まあまあね。とりあえず一泊できたし、モスクワで父親にも会えたし。ところで、風邪の具合はどうなの?」

「大体治ったわ。帰りの飛行機でずっと寝ていたし」

「そうそう、お土産持ってきたのよ‥‥」

 アリサが、床に置いてあったショッピングバッグの中をごそごそと探った。

「そんな。気を遣わなくていいのに‥‥」

「はい」

 アリサが、透明な液体が入った壜を瑞樹に渡した。ラベルには、キリル文字とロシア貴族のような男性の肖像が見える。

「あの〜。どう見ても、ウォッカなんですけど」

「ごめんごめん。ツァールスカヤは、ダリルへのお土産だった」

 棒読み口調で、アリサ。

「瑞樹はチョコレートとクッキーと、どっちが好き?」

 そう問われて、瑞樹は頬を掻いた。

「うーん。どっちも好きだなぁ」

「悪いけど、どちらか選んで欲しいの」

 アリサが、ふたつ箱を取り出した。平べったい小さな箱と、それより少し大きな長方形の箱だ。

「こっちがチョコレート。こっちが、プリャニキ」

 アリサが、説明する。

「プリャニキって、なに?」

「蜂蜜風味の固焼きクッキーってとこかな。ロシアの伝統的なお菓子よ」

「へえ。おいしそう」

「じゃ、プリャニキあげるね」

 アリサが、長方形の箱を瑞樹の手に押し付けた。

「ありがとう、アリサ」

 アリサが自室に引き上げると、瑞樹は早速プリャニキの箱を開けてみた。中に入っていたパッケージをひとつ出して、剥いてみる。‥‥なんだが、巨大な乾パンに糖蜜を塗りつけたような感じだ。手で割ってみると、中は以外にやわらかく、しっとりとしている。

 ‥‥味は。

 甘い。

 あえて例えるなら、かりんとうの味わいだろうか。蜂蜜の強い甘みに、シナモンの香りが混じっている。‥‥強烈に甘くて硬い甘食、と言ってもいいか。いかにもロシア的な、焼いた小麦の味わいとしっかりとした甘みが合わさった、素朴なお菓子だ。

「これは熱い紅茶が欲しくなるわね」

 瑞樹は一階の自販機へと急いだ。


 ミギョンが帰ってきたのは、八時近かった。

「お帰り」

「ああ‥‥ただいま。その‥‥風邪はいいのか?」

「うん。もう平気だよ」

 瑞樹は微笑んだ。

「それは良かった」

「結構長く家に居られたんじゃないの? 帰りは福岡経由?」

「ああ。三時過ぎにソウルを発つ便に乗った。福岡で食事したりして二時間ばかり潰して、宮崎行きの便に乗った」

 ミギョンが、座った。

「ええと‥‥他のみんなは?」

「アリサはもう帰ってきたわ。例の三人はまだ。空港で、会わなかった?」

「いや」

「ちょっと心配になってきたわね」

 瑞樹は壁の時計を見上げた。そろそろ八時だ。九時までに当直士官に申告しないと、まずいことになる。

「ええと。お土産を、買ってきた」

 ミギョンが、平べったい箱を差し出した。

「あらミギョンまで。気を遣わなくていいのに」

「いや、安物のお菓子だから」

「開けていい?」

「どうぞ」

 瑞樹はハングルの描かれた箱を開け、中のプラスチックのトレイを引き出した。

「あ、これ知ってる。クルタレでしょ?」

「‥‥そうだ」

 トレイには、細く白い糸のようなものにくるまれたひと口サイズのお菓子が十個、収められていた。

「うわ〜。ずっと前に、韓国旅行のお土産をもらった友達から、おすそ分けで一個もらって食べたんだよ。とっても、おいしかったんだ。ありがとう。ミギョン」

「好物だったようで、なによりだ。それじゃ」

 ミギョンが言って、そそくさと立ち上がる。

「あ、良かったら、お茶でも買ってきて一緒に食べない?」

「いや、せっかくだが、アリサにも土産を渡さなければならない。すまん」

 早口で言って、ミギョンがリビングを出てゆく。

「‥‥なに遠慮してんだか」

 瑞樹は微笑みながら呟くと、早速クルタレを一個つまんだ。まわりの糸のようなものは、練った蜂蜜を細く引き伸ばしたもので、中にあるナッツ類がたっぷりと入った餡をふんわりと包み込んでいる。口の中で蜂蜜の糸がとろけ、胡麻や松の実まで入った香ばしい餡が、適度な甘さを舌に伝える。

「‥‥うーん。これもお茶が欲しくなるわね」

 瑞樹は一階の自動販売機へと急いだ。


 ダリル、サンディ、スーリィがリビングルームに入ってきたのは、九時十五分前だった。

「いやー、参った参った。やっぱり、東京は大きいな」

 ダリルが、どすんとソファに腰掛ける。

「‥‥疲れた。でも、おもしろかったね」

 スーリィが、言う。

「‥‥二度とダリルの案内で旅行はしたくないけどね」

 言葉とは裏腹に、嬉しそうにサンディが言う。

「まあ、楽しんだようでなによりね」

 瑞樹は笑顔で三人を迎えた。

「瑞樹。風邪はいいのか?」

 スーリィが、訊く。

「うん。ほとんど治ったよ」

「それは良かった。‥‥そうそう、土産を買ってきたぞ」

 ダリルが、紙袋の中を探る。

「‥‥あなたたちまで。もう、気を遣わなくていいのに」

「お菓子だが、構わないだろ」

 ダリルが、取り出した箱を瑞樹に差し出した。

 瑞樹はおもわずテーブルに突っ伏した。おでこが天板にぶつかり、ごちんという音がする。

 ‥‥春華堂謹製〈夜のお菓子〉「うなぎパイ」

「東京の空港に試食コーナーがあって、食べ比べたらこれが一番旨かったんだ‥‥って、どうした、瑞樹。風邪がぶり返したのか?」

 ダリルが、心配そうに覗き込む。

「‥‥あの〜。わたし、生まれも育ちも浜松なんだけど‥‥って、言っても無駄か」

 ようやく顔をあげた瑞樹は、弱々しくそう言った。

「まあ、とにかく、ありがとう」

「はは。いいってことよ。アリサとミギョンにも買ってあるんだ。配ってくる」

 意気揚々と、ダリルが去る。


第九話簡易用語集/チキンスープ〜 以下五人が述べた風邪に対する民間療法はすべて実在する。しかし作者としてはスーリィの生姜療法以外お勧めしない。

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