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「ご苦労だった、諸君。オペレーション・オーヴァーヘッドの準備は順調に進んでいる。打ち上げは予定通り、一週間後だ。明日から四日間、予告どおり休暇を与える。自由に過ごしたまえ。もちろん、本作戦は極秘である。それだけは、忘れないでくれ。いいな」
アークライト中将が、七人のパイロットを解散させた。
「いや〜、UNUFもたまには気を遣ってくれるんだね」
スーリィが、嬉しそうに両手をこすり合わせた。
決死の任務に挑む前とあって、HQの方で手を回し、各自の帰省には特別の配慮が払われていた。出発は翌朝になるが、スーリィはヘリで福岡空港に送ってもらった上に民間機で上海−シーアンと飛び、そこから中国空軍の連絡機で直接アンシーまで運んでもらえる手筈になっている。帰りも、同様である。
家族がウェスタン・オーストラリアに避難しているサンディと、ニュージーランドに避難しているヘザーは、UNUFのVIP機に乗り、グアム経由で直接シドニーへ向かう。そこでヘザーは民間機に乗り換えてクライストチャーチへと飛ぶ。サンディはそのまま避難者キャンプ付近に最近作られた飛行場まで送ってもらう。
瑞樹とアリサとエルサは、成田へ飛ぶ航空自衛隊のU−125に乗り込むことになっている。瑞樹は途中の浜松基地で降ろしてもらう。アリサとエルサはモスクワ行きの民間機に乗り込み、アリサは列車でノブゴロドへ、エルサはロシア空軍の連絡機でキルナまで送られる。
「‥‥フィリーネ。お前はどうする?」
ヘザーが、訊いた。
フィリーネの両親は、あえて占領地区に残ったのだ。当然、帰省はできない。
「ここで大人しくしていますわ」
無理に微笑を浮かべて、フィリーネ。
「‥‥良かったら、うちに来る?」
瑞樹はそう言った。
「まあ、このなかじゃ一番近いし。それに、今母さんしかいないから、部屋空いてるし‥‥」
「いいんですか、瑞樹」
「いいのよいいのよ。いらっしゃいな」
瑞樹は小さく手招いた。
「まあ、瑞樹の家なら安心だろうな」
ヘザーが、言う。
翌朝。
それぞれが、様々な思いを抱いて、家族のもとを目指した。いそいそとS−70に乗り込むスーリィ。土産を山ほど抱えてファルコン900に乗り込むサンディとヘザー。そして、U−125の機内に収まる、瑞樹とアリサとエルサ、それにフィリーネ。
宮崎は晴天だったが、浜松はどんよりと曇っていた。雲高は低く、視程も良くはなかったが、離着陸には支障がない。U−125は難なく滑走路に降り立った。瑞樹とフィリーネが荷物をまとめて降りると、U−125はすぐに離陸して行った。
北門からタクシーに乗った瑞樹とフィリーネは、助信町にある瑞樹の実家へと向かった。静かな路地に建つ、ごくありふれた木造平屋建ての日本家屋の前で、タクシーが停まる。
「さあ、遠慮しないで入って」
瑞樹が玄関の引き戸を開け、フィリーネを招じ入れる。奥から、中年女性が現れた。瑞樹とよく似た丸顔の、小柄なひとだった。若く見えたが、瑞樹の母親ならば少なくとも四十代後半だろう。フィリーネは、日本風に頭を下げ、昨夜瑞樹に教えてもらった日本語で挨拶の言葉を述べた。女性が微笑んで日本語で何か言い、奥の方を指し示す。
フィリーネが案内された部屋は、畳敷きの六畳間だった。押入れがあり、隅に古びた箪笥が置かれているだけで、あとはがらんとしている。
「あはは。狭くてごめんね。でも、好きに使っていいから」
瑞樹が、頬を掻く。
「いいえ。とっても日本らしくて、素敵ですわ」
「なんか、楽なものに着替えて。冷たいものでも、飲みましょう」
「はい」
フィリーネは、荷物を開いて夏向きのワンピースを出した。作業服を脱ぎ、下着姿になる。
押入れの奥で、物音がした。
フィリーネは身を硬くした。思わず、手にしていたワンピースを胸元に押し付ける。
押入れの引き戸は、通気を確保するためだろうか、十数センチほど開いている。そこから、ごそごそという音が、確かに聞こえる。
‥‥鼠?
フィリーネは眉をひそめつつ、押入れの引き手に指を掛けた。そっと引き開ける。
「にゃ?」
真っ白な猫が、積み重ねられた座布団の上に鎮座していた。
「あら」
白猫があくびをひとつすると、不思議そうにフィリーネを眺めた。しぐさや顔立ちからして、かなり高齢のようだ。フィリーネは、指を突き出してみた。白猫が首を伸ばし、フィリーネの指先の匂いを確かめる。
フィリーネは手を伸ばし、白猫の首筋に触れた。嫌がるそぶりはない。ちょっと太くて硬い感触の毛だった。首を愛撫してやる。白猫は首を傾け、気持ち良さそうに眼を閉じた。
「また、あとでね」
しばらく白猫と戯れたフィリーネは、着替えを再開した。ワンピースを着て、髪にブラシを掛けると、和室を出る。白猫が室外へと出たくなったときのことを考えて、出入り口の襖は少し開けておく。
廊下の先には、人の気配があった。フィリーネは、開け放したままの引き戸の内側を覗き込んだ。板張りの、リビングルームのようだ。大きなテーブルについた瑞樹と母親が、なにか飲んでいる。
「おいでよ、フィリーネ」
シャツとスカート姿に着替えた瑞樹が、手招く。
フィリーネは促されるままテーブルにつき、出された冷たい緑茶を味わった。ほとんど苦味がない、甘さすら感じるお茶だった。
「おいしいです、これ」
「ははは。とりあえず静岡人のウェルカム・ドリンクは緑茶だからね」
瑞樹が言う。
「うにゃん」
足元から、猫の啼き声が聞こえた。
フィリーネは、テーブルの下を覗いた。先程の白猫とは違う猫‥‥白地に薄茶色のぶち猫が、瑞樹の脚に擦り寄っていた。
「おお、さかえ。久しぶり」
瑞樹が、猫を抱き上げる。
「フィリーネ、猫好き?」
「好きです。先程、白い猫と遊びましたわ」
「ああ、あさひのことね。もう一匹、ひかりって雄猫がいたんだけど、去年死んじゃったんだよね」
瑞樹が、膝に乗せたさかえの背中を撫でながら言う。
「猫、飼いたかったんですけど、父が犬好きで‥‥」
「じゃあ、犬飼ってたんだ」
「はい。ルビィっていうバセットハウンドの女の子を飼ってました。五年ほど前に、死んじゃいましたけど」
「ああ、あの脚の短いかわいい犬種ね」
フィリーネは、手を伸ばして瑞樹の膝の上にいるさかえの短いが太い尻尾をつついた。茶色い濃淡の縞々尻尾がぴくんぴくんと反応する様が、面白い。
瑞樹の母親が、日本語で何か言って、壁のカレンダーを指差す。瑞樹が嬉しそうに手を叩き、何か言った。母親が返し、微笑む。‥‥笑うと瑞樹そっくりだ。
「ついてるよ、フィリーネ。明日土曜日だ」
「土曜日が、どうかしましたの?」
「七月の第一土曜日は、花火の日なんだよ。弁天島の、花火大会。明日、見に行こう」
「面白そうですわ。連れていってください」
「そうだ」
瑞樹が、母親に日本語で何か訊いた。母親が答える。
「フィリーネ、ごめん。ちょっと立ってくれる?」
不意に、瑞樹がそう言って、膝の上のさかえを床に下ろすと、自分も立ち上がった。
「はい」
素直にフィリーネは立ち上がった。瑞樹の母親も立って、フィリーネをしげしげと眺める。頭のてっぺんを見上げ、瑞樹と比べているようだ。
瑞樹と母親が早口の日本語で会話し始める。時折、フィリーネの腰や脚を指差す。‥‥意味がわからない。
「よし、決めた。フィリーネ、ちょっと出かけよう。そろそろお昼だし、うなぎでも食べに行こうか」
瑞樹が言った。
「うなぎですか?」
「そう。浜松名物といったら、うなぎ」
瑞樹が、母親に何か言う。返ってきた一言を聞いた瑞樹が、フィリーネに謝った。
「ごめん、フィリーネ。うなぎはまた別な時にしよう。夕食に母さんが天ぷら揚げてくれるって。もっとあっさりしたもの食べに行こう」
「天ぷらって、家庭でも出来るのですか?」
フィリーネは、驚いて瑞樹の母親を見つめた。もちろん天ぷらが何かは知っていたし、何度か食べたこともあるが、あれが家庭料理とは思わなかった。
「普通にできるよ。まあ、ちゃんとしたお店の味には敵わないけどね」
近くの鉄道駅まで歩き、電車に乗る。
赤い車体に白いストライプが入った、二両編成のかわいい列車だった。わずか六分ほどで終点に到着する。
瑞樹が、駅からさほど離れていないラーメン屋にフィリーネを連れ込む。出てきたラーメンは、具の少ないシンプルな醤油ラーメンだったが、味はフィリーネがメイス・ベースで食べたことのあるラーメンと比べると格段においしかった。
瑞樹が日本語で「懐かしい」を連発しながら、ラーメンを平らげる。
「昔よく来てたんだよね、ここ。作ってるの別のおじさんになっちゃったけど、味は昔のままなんだよね」
嬉しそうに、瑞樹が言う。
食事を終えたふたりは、浜松の繁華街をぶらぶらと歩いた。瑞樹に誘われるままに、一軒の呉服屋へと足を踏み入れる。
「わあ。きれいですわね」
展示されている艶やかな振袖に、フィリーネは眼を見張った。
「ところで。フィリーネの足のサイズは?」
「‥‥37ですけど」
「‥‥37センチ、ってことはないよね」
モーブスのスニーカーに包まれたフィリーネの足を見下ろしながら、瑞樹が言う。
「日本の靴のサイズって、どうやって測るんですか?」
「つま先から踵までをセンチメートルで。わたしの場合、23.5になるわ」
「足を測るのですか? それとも、靴を?」
「もちろん、足のサイズだよ」
フィリーネは頭の中で素早く計算した。1が三分の二センチだから、1.5で割って、つま先と踵部分を引くと‥‥。
「24センチくらいですか。でも、どうして?」
「‥‥足袋でも買ってあげようかな、と思って」
瑞樹が、曖昧な笑みを見せた。
「タビって、なんですか?」
「着物を着るときに履くソックスね。こんなのよ」
瑞樹が売り物の白足袋を手にとって、見せてくれる。
「買っていただいても‥‥わたし、着物なんて持ってませんし」
「まあ、お土産よお土産。こんなの、かわいくない?」
瑞樹が、紅い小花模様の柄足袋を手にする。
「瑞樹。ひょっとして、わたしに着物を着せようと企んでいるのでは?」
フィリーネは、瑞樹の横顔を見据えた。
「‥‥ばれたか。まあいいわ。直前に教えて驚かせようと思ったけど」
あっさりと、瑞樹が企みを暴露する。
「若い女の子が夏の花火を見に行く時は、浴衣という簡易な着物を着ていくのがおしゃれなの。妹のがあるから、それを着てもらおうかな、と思って。あの娘、あたしよりも背が高いから、たぶんフィリーネにぴったり合うと思うよ。足のサイズは違うから、草履はともかく足袋は買わなきゃならないけどね」
「だから、お母様と一緒に、わたしの体のサイズを調べたんですね」
「そう。ごめんね」
「いいえ。着物を着られるなんて、嬉しいですわ」
フィリーネは、自分の財布から現金を出して、柄足袋を買った。
海老。鱚。烏賊。色とりどりの野菜。
「どんどん食べてね」
瑞樹が、押し付けるようにしてフィリーネに天ぷらを勧める。
「おいしいですわ」
フィリーネは勧められるままに天ぷらを平らげていった。どれもからりと揚がっていて、油っぽくない。瑞樹の母親は、そんなフィリーネの姿を眼を細めて眺めている。
「で、これが自慢の掻き揚げ」
瑞樹が、別皿に山盛りになっている掻き揚げを示した。フィリーネはひとつ取って天つゆに浸し、ひとくちかじった。
「おいしいです。なにか‥‥不思議な香りがありますね」
フィリーネは、かじりかけの掻き揚げをしげしげと眺めた。あまり馴染みのない香ばしい香りがする。
「たぶんこれね。野菜の中に、ピンク色の小さなシュリンプが見えるでしょ」
瑞樹が、言う。
「あ、ほんとだ。なんですの、これ?」
「桜海老っていうの。これは干し海老だけどね。もう少し時期が早ければ、釜揚げのやつを食べてもらえたんだけどね」
フィリーネは、ふたたび掻き揚げをかじった。言われてみると、確かにシュリンプの香りと味わいがある。
「では最後の締めを」
一通り食べ終わったあとで、瑞樹が茶碗を持ち出した。白いご飯を少しだけ盛り、野菜と桜海老の掻き揚げを乗せ、熱いだし汁を小鍋からお玉ですくって掛ける。
「はいどうぞ。天茶、って食べ方よ。掻き揚げを少しずつ崩して、ご飯と一緒に食べるの」
フィリーネは言われた通りに食べてみた。
「‥‥おいしい」
さっぱりとしたかつお風味の出汁と、淡白な米。それに掻き揚げの香ばしさと適度な油がない交ぜになって、するすると口の中に入ってくる。
「あの、瑞樹」
「なあに?」
「もう一杯、いただけます?」
「もちろん。掻き揚げまだまだあるからね」
にこにこと笑いながら、瑞樹がしゃもじを手に取った。
がりがりと、襖をひっかく音がする。
フィリーネは、襖を開けた。
「みゃう」
あさひが、一声啼いて入ってきた。フィリーネを無視して、長い尻尾をゆらゆらと揺らしながら歩み、押入れの中に消える。
「そこが君のお家なのね」
フィリーネは微笑むと、明かりを消して布団に潜り込んだ。もともと寝つきのいい方ではなく、何度か寝返りを打って楽になるポジションを探す。
暗がりの中で、こそりと音がする。やがて、畳の上を猫が歩くぺりぺりという音が聞こえ出した。足音はだんだんと遠ざかってゆき、しばらくしてフィリーネのふくらはぎの辺りに重みが生じた。
「そんなとこで寝ると、蹴飛ばしちゃうかもよ」
フィリーネはドイツ語で警告を発した。だが、あさひは動こうとしない。今夜の寝床は、そこに定めたようだ。
‥‥ま、いいか。
やがてフィリーネにも眠気が訪れた。
鯵の開きと味噌汁、漬物に甘い卵焼き、白いご飯という純和風の朝食を平らげたフィリーネは、午前中を猫と遊んだり瑞樹の子供の頃のアルバムを見せてもらったりして、のんびりと過ごした。お昼近くになると、昼食も兼ねた散歩に連れ出される。
「まあ、何にもないとこなんだけどね」
瑞樹が、頬を掻く。それでも、近所の神社や公園を巡るだけで、フィリーネは結構楽しめた。
「じゃあ、浜松名物うなぎを味わってもらうわよ‥‥って、ふつーのうなぎ屋さんなんだけどね」
苦笑しながら、瑞樹が一軒のうなぎ屋の暖簾をくぐる。
「まあ養殖だけど地物だし、炭も備長炭使ってるし、たれもおいしいから」
瑞樹が注文したのはごく平凡なうな重だった。フィリーネは、箸で切り取った一片のうなぎをたれの浸み込んだご飯とともに口に運んだ。
「‥‥おいしい」
ドイツにもうなぎの料理はあるが、フィリーネはあまり好きではなかった。シチューなどの煮込み料理は独特の臭みを消すために香辛料を効かせすぎているし、燻製は油が強くてあまりおいしいものではない。だが、このうなぎは臭みもなく油も適度で、甘めの味付けと香ばしさ、それに醤油の香りがほどよく、ご飯としっくりと合っている。
「そう。気に入ってもらえてよかった」
微笑みながら、瑞樹がうなぎを頬張る。
「あ〜かわいいかわいい。すっごく似合ってるよ」
「そうですか?」
フィリーネは、瑞樹とその母親二人がかりで着付けてもらった浴衣姿を、姿見に映してみた。浴衣はピンク地のなでしこ柄で、帯は黄色。
母親が、瑞樹の着付けを始める。フィリーネは、手伝うわけにもいかずその様子を興味深く見学した。浴衣は深い青の朝顔柄で、帯は赤紫だ。
「やっぱり着物は日本の方が着ると美しいですわ」
「また。お世辞ばっかり」
瑞樹が、フィリーネの背中をどやしつける。だが、表情からすると満更でもない様子だ。
草履を履くと、ふたりは駅へと向かった。瑞樹は浴衣に不似合いなトートバッグを肩に掛けている。
電車に乗り、浜松駅に出る。まだ五時前だが、東海道線下り電車のホームはすでに混雑していた。各駅停車で三つ目の駅、弁天島で降りる。
早くも営業を始めている屋台でたこ焼きと焼きそばをひとパックずつ買ったふたりは、ぶらぶらと舞阪漁港方面へ向かって歩いた。
「ちょっと会場から離れちゃうけど、いいところがあるのよ」
瑞樹が言う。
橋を渡り、しばらく歩くと、右手に漁港が見えてきた。独特の海の臭いが、フィリーネの鼻腔をくすぐる。黒い猫が、長い尻尾をぴんと立ててのんびりと道路を渡っていった。
「ここにしましょうか」
瑞樹がトートバッグからビニールシートを出して広げた。四隅をガムテープで留める。
座り込んだふたりは、たこ焼きと焼きそばをつまみながら持参の温かい緑茶を飲んだ。
周囲が徐々に暗くなってゆく。見物客の姿も増え始めた。
「そろそろ七時ね。行きましょうか」
「どこへ?」
「トイレ」
瑞樹が立ち上がった。フィリーネも付いてゆく。まだ尿意を催してはいないが、トイレがあるのならば済ませておきたい。
瑞樹が道路を渡り、一軒の家の玄関前に立った。チャイムを鳴らす。
「はーい」
すぐにドアが開き、中年の女性が顔を見せた。瑞樹を見て、ぱっと顔を輝かせる。
瑞樹と中年女性が、親しげに会話を交わす。ほどなく、瑞樹と同年代の女性が現れた。腕に、二歳くらいの子供を抱いている。
瑞樹が何か言い、中年女性と若い女性‥‥おそらく親子だろう‥‥がフィリーネに向かって会釈した。フィリーネは、お辞儀を返した。
「じゃあ、上がらせてもらいましょう」
瑞樹が言い、草履を脱いだ。中年女性が奥へ消え、入れ違うように若い男性が現れて、瑞樹に何か言いつつフィリーネを見て破顔する。
「さあ、この奥よ。お先にどうぞ」
瑞樹が、一枚の扉を指差す。
フィリーネは扉を開けた。ごく普通の洋式便器がある。
用を済ませたフィリーネは、瑞樹と交代した。若い男性は、雰囲気からして女性の夫だろう。女性が抱いていた子供が、短い手をフィリーネの方に伸ばしてくる。フィリーネは、その小さい手にそっと触れてみた。子供の指が、フィリーネの指をぎゅっとつかむ。細くて小さい指だが、力強く、そして温かい。
フィリーネは、子供に微笑みかけた。子供が、笑う。
「お待たせ、フィリーネ」
瑞樹がトイレから出てきた。日本語で何か言ってから、フィリーネを玄関の方へと促す。
草履を履くと、フィリーネは一礼して感謝の意を表した。子供が、手を振る。瑞樹が振り返したので、フィリーネも手を振った。子供が、にんまりと笑う。
「高校のときの友達の家よ。その頃から、花火の度にトイレ貸してもらってるの。昔は一緒に見たりもしたんだけどね。今は子供がいるから、窓から見るだけみたい」
戻りながら、瑞樹が説明する。
やがて、花火が始まった。打ち上げは、かなり間隔を置いたゆったりとしたペースだ。打ち上げの合間になにかアナウンスがあるが、日本語なので当然フィリーネには理解できない。
「ねえ、ドイツにも花火って、あるの?」
合間に瑞樹が訊いた。
「ありますけど、こんなに派手じゃないですわ。それに、大晦日に打ち上げるくらいです。夏に見るなんて、初めてですわ」
様々な色彩が、夜空を彩ってゆく。
「あれ、なんですの?」
妙な花火だった。「星」が妙な画を形作っている。
「型物、ってやつね。角度がいいと、面白いんだけど。あ、あれは鮪ね」
「‥‥ほんとだ。魚の形してますわ」
フィリーネは驚いた。あんな花火、見たことない。
巨大な20号玉が、腹に響く音を轟かせる。
「そろそろ終わりね」
瑞樹が、携帯で時刻を確認した。
やがて、花火大会が終わる。周囲の人々が、一斉に帰り支度を始めた。ざわめきが、満ちる。
「ここで焦っちゃだめよ。どうせ駅周辺は混雑して身動きできないんだから。三十分は、待たないと」
瑞樹が言う。
十分ほどすると、周囲の人影がまばらになった。もう二十分待って、ふたりは帰り支度を始めた。ガムテープをはがし、シートを畳む。
弁天島駅の方へ向かって、ふたりはのんびりと歩き出した。橋の上には、まだかなり人が残っていた。駅周辺も、まだまだ人が多い。
浜松駅で往復乗車券を購入していたので、ふたりはスムースにホームにたどり着いた。上り臨時電車に乗り込み、浜松駅へ。新浜松駅から、助信駅。家に帰り着いたのは、十時過ぎになった。冷たい麦茶で一息ついてから、浴衣を脱がせてもらう。
翌日は、雨だった。
「出かけられないね、これじゃ」
窓から外を眺めながら、瑞樹が言う。
「構いませんわ。瑞樹とおしゃべりしたり、猫と遊んでいるだけでとっても楽しいです」
フィリーネはそう言った。紛れもない本心だった。
雨は終日降り続いた。フィリーネは、あさひとすっかり仲良くなった。さかえはプライドが高いのか、妙によそよそしい。撫でれば眼を細めて喜ぶし、猫じゃらしにも反応するのだが、あさひのように自ら擦り寄ってきたり、膝の上に乗ってきたりはしない。
雨は、ささやかな庭にも降り注いでいた。白く小さい花をひっそりと咲かせた低いナナカマドの樹や、鮮やかな青紫のアジサイが、透明感のある雨に打たれる様子を眺めながら、フィリーネは瑞樹の隣で緑茶をすすった。
夕食は、瑞樹が自分で作ると言い出した。フィリーネも助力を申し出る。
「‥‥と言うものの、お料理苦手なんですよね」
フィリーネは恥ずかしげに笑った。
「魚、下ろせる?」
瑞樹が訊く。
まな板の上に丸ごと一匹の鯵を載せられ、フィリーネは固まった。
「魚を捌くなんて、生まれて初めてですわ」
「生臭いのとか、平気?」
「それは大丈夫ですが‥‥」
「じゃ、見本見せるから」
包丁を手にした瑞樹が、鯵を捌きはじめる。〈ぜいご〉と頭と尻尾を落とし、腹に切れ目を入れて内臓を出し、水洗い。頭の方から包丁を寝かせて入れて、片身を骨から切り取る。裏返し、もう片方も切り取る。
「これが、三枚下ろし。簡単でしょ?」
「凄いですわ、瑞樹。お魚が、あっというまに刺身になりましたの」
「まだ刺身じゃないよ」
瑞樹が、笑う。
「お刺身にするには‥‥」
瑞樹が片身の皮を剥いた。身に包丁を入れ、中骨を丁寧に取る。薄く切る。皿に盛る。
「はい、これでお刺身」
「すご〜い」
フィリーネは素直に感激した。
「凄くないよ。日本の主婦ならたいていできるよ」
瑞樹が、笑う。
「お母様から教わったんですの?」
「うん、そうだよ」
瑞樹のアドバイスを受けながら、フィリーネも鯵を下ろすことに挑戦した。もともと手先は器用だし、苦手とはいえ料理の経験はそれなりにあったので、すぐにコツを掴む。
「上手上手。フィリーネの下ろしたやつはフライにしようね」
フィリーネはもう二匹鯵を下ろした。瑞樹のアドバイスに従い、半身を三つに切り、軽く塩をまぶす。半身のひとつだけは、そのまま瑞樹が網焼きにする。ドイツと違い、日本の台所の火力はガスが主流のようだ。
「それは、どんなお料理ですの?」
「ははは。鯵の素焼き。猫の分よ」
瑞樹が、笑う。
焼き魚の臭いを嗅ぎつけたらしく、さかえとあさひが台所に入ってきた。あさひは戸口のところで大人しく座っているが、さかえの方は魚を焼く瑞樹の足元にまとわりつき、身体を足首の上あたりに盛んにすり寄せている。
「はいはい。あとであげるからね、あとで」
フィリーネは、包丁を替えるとキャベツの千切りに挑戦した。瑞樹は、冷ました鯵を適当に千切り、猫用の皿に盛っている。
「ほーら、冷めたよ〜」
瑞樹が台所の隅に皿を置くと、あさひとさかえが飛びついた。お互いの頭をくっつけ、ものすごい勢いで食べ始める。
「日本の猫は、魚が好きなんですね」
「ドイツの猫は、やっぱりお肉が好きなの?」
「そうですね。ドライフードも、ビーフやチキン主体ですし‥‥」
「まあ、ペットフードなんてものができたのは最近だしね。それまでは、猫は人の食事の余り物食べてたんだから、その国や地域の食事に嗜好を合わせちゃったんでしょうね」
瑞樹が言う。
「おっと、お米研がなきゃ。やったことある?」
「ありません」
瑞樹に教わりつつ、フィリーネは三合ばかりの米を研いだ。手に当たる米の感触と冷たい水が、なかなか心地良い。だんだんと米がきれいになり、水が白く濁らなくなる過程も、面白かった。水加減は、瑞樹に任せる。
「じゃ、お味噌汁作りましょうか。冷蔵庫から茄子出してくれる?」
フィリーネは、ドイツのものに比べるとずいぶんと小さい茄子を瑞樹に渡した。瑞樹が、それをスライスし、水に放った。
鯵の切り身に小麦粉をはたき、溶き卵にくぐらせ、パン粉をまぶす。
フィリーネは、それらを中温の油に次々と入れた。揚げるのは、瑞樹の役目だ。
「日本人って、揚げ物好きなんですね」
「‥‥そうでもないよ。揚げ物が流行り始めたのは江戸時代に入ってから‥‥今から三百数十年前くらいからだって言うし。だいたい、それまでの日本は結構貧しくて、食用油の大量生産ができなかったんだから」
「お詳しいですね」
「‥‥妹が教えてくれたのよ。あの娘、歴史学専攻だから。料理史に詳しくてね」
フライが色付いてくる。天ぷら鍋から、いい匂いが漂う。
炊飯器が、白い蒸気を吹き上げている。
瑞樹の母親が、テーブルに食器を並べ始めた。陶器が触れるかちゃかちゃという音が聞こえる。
瑞樹が、長い箸でフライを器用にひっくり返してゆく。ぱちぱちと爆ぜる、油の音。
不意に、フィリーネは家のことを、両親のことを思い出した。音と匂いが引き金となって、フィリーネの意識が生まれ育った家に飛ばされる。
なんでもない日常の風景。ありふれた一齣が、鮮やかに脳裏に蘇る。
立ち昇るグーラッシュの香り。甘えて鼻を鳴らす、ルビィ。父の愛用していた柑橘系のアフターシェーブ・ローションの匂い。かすかに聞こえる、ナハティガルの啼き声。フロッシュの、オレンジオイルの匂い。母の‥‥笑顔。
「‥‥フィリーネ?」
瑞樹が、心配そうに顔を覗き込んでいる。
フィリーネは、湧き上がってきた涙を振り払うと、無理に笑顔を浮かべた。
「ごめんなさい。ちょっと、いろいろ思い出しちゃって‥‥」
「フィリーネ‥‥」
瑞樹が、ぎゅっと手を握ってくれる。暖かい手が、心地よい。
涙はすぐに引っ込んだ。少なくとも今は、こうして暖かい家庭で歓待してもらえる。それだけで、フィリーネは幸せだった。
「瑞樹。そろそろ、いいんじゃありません?」
「‥‥あ」
瑞樹が慌ててフライを引き上げた。
「うわ。ちょっと揚げすぎちゃったね、これは」
いささか濃い狐色に揚がったフライを見て、瑞樹が苦笑する。
フィリーネも、笑った。
「わたしだって大いに不満だよ、中将」
チェン・ガン大将が言って、中国緑茶をひと口飲んだ。
「だが、改造資金提供はUNUFAF。帰りの足もロシアのソユーズだ。無理は言えぬ」
「結局、フレイル・スコードロンを差し出す形になってしまいましたね」
アークライト中将も、渋面で茶を飲んだ。メイス・ベースの食堂で飲める日本の緑茶に比べ甘味はないが、独特の深い香りがする。
ランス・ベースにおけるNT兵器の改造は、90%以上が終わっていた。
もはや各機とも原型を留めていないほどの、改造振りだった。元から太かった胴体は、コンフォーマルタンクのおかげでさらに太り、醜くなっている。主翼もより大面積のものに換装され、上面や胴体上面に増設されたドロップタンクはさらに大容量となった。ただでさえ僅少だった優美さは欠片も無くなり、見た目のバランスも悪化している。補助推力用のブースターロケットを尾部にぶら下げたその姿は、とても航空機には見えない。
幸いなことに、スフィアにいまだ目立った動きはない。
「このままスフィアが大人しくしていてくれればいいのだがな」
「そうですね」
アークライトは同意し、窓外の青い空を見た。打ち上げまで、あと四日。
「ところで中将。君は、着陸船に対する核兵器の使用に対してどう考えているのかね?」
チェン大将が、訊いた。
「現状では、反対です。あまりにも多くの市民が巻き添えになりますから。もはや他に打つ手が無ければ、核攻撃を選択すること自体はやぶさかではありませんが」
「そうか。どうやら君は味方のようだな」
チェン大将が、探るような眼つきで言う。
「たしか閣下は、限定的使用ならば賛成なさっていたはずでは?」
「そうだ。だが、わしのような考えを持つ者はいまや使用反対論者とひと括りにされている状況なのだよ」
「‥‥とおっしゃいますと?」
「すでに、HQでは核攻撃やむなし、という考え方が主流だ。スフィア攻撃が成功したら、引き続き着陸船も破壊せよとの意見が出ている。まあ、三軍司令官が慎重派なので、今のところそれらの意見は押さえられてはいるが」
チェン大将が、ひと口茶を飲んだ。
「ポーター大将はやはりアメリカ人なので一番の慎重派だ。デミン大将も、消極的だ。ウェイ大将も消極的だったが、最近圧力が掛かっているらしく、やや推進派寄りの発言が多くなっている」
「圧力‥‥ですか」
「そう、圧力だ」
そう言いながら、チェン大将が指で煙草を吸う真似をした。
アークライトはどこからの圧力か察した。‥‥中国の煙草に、中南海というブランドがある。
「アメリカ人の君の前でする話ではないかもしれないが、いくつかの国家の一部の実力者は、カピィの攻撃を自国の国際政治力強化の好機と捉えている節がある。正確に言えば、とある国家の弱体化を歓迎していると言うべきかな。唾棄すべき連中だよ。人類存亡の危機に打算に走るとは‥‥」
苦々しげに、チェン大将が言う。
雨が上がると、急に蒸し暑くなった。
「散歩、付き合ってくれる?」
朝食を終えると、瑞樹が、そう言った。
「はい、喜んで」
結構歩くと言われたので、フィリーネはデニムパンツを着込んだ。かなり気温が高いので、トップスは薄手のTシャツだけだ。
家を出て、駅とは反対方向へ歩みだす。瑞樹は、手に小さな紙袋を下げていた。
ごく普通の、住宅街を抜けてゆく。伝統的な瓦屋根の家。狭そうだが、小奇麗なアパートメント。食肉や魚を商う商店。金網フェンスに囲まれた学校。大きな木製の表札が掛かった公民館。だれも遊んでいない小さな児童遊園。派手な看板のクリーニングの店。住宅の庭からはみ出している庭木。犬小屋の前でのんびりと昼寝している日本犬。小さなプランターから伸び放題に溢れ出し、小さなピンクと黄色の花をつけているポーチュラカ。淡い緑色の葉を茂らせた街路樹。小さな子供を乗せ、自転車で颯爽と追い抜いてゆく若い母親。
「日本って、かわいいですね」
フィリーネはそう言った。
「かわいい?」
瑞樹が、怪訝そうな顔をする。
「ええ。なにかこう‥‥造りが全体として小さくて、繊細で、纏まっていて。かわいいですわ」
フィリーネは、くすくすと笑った。‥‥なんだか、瑞樹みたいです、という言葉を心の中で繰り返しながら。
街中を抜け、やや緑の多い地区を通り、なおも歩む。
「到着〜ぅ」
瑞樹が宣言した。
「お寺ですか」
フィリーネは山門を見上げた。掲げられた額に漢字で寺の名が書いてあるようだが、もちろんフィリーネには読めなかった。
「用事があるのはこっちね」
瑞樹が、寺の裏手へとフィリーネを導く。
コンクリートの塀に囲まれるようにして、たくさんの石の柱と細長い木の板が突っ立っていた。初めて見る光景だったが、漂う厳粛さと静寂、それにそこはかとなく感じられる陰気さから、フィリーネにもそこがなんであるかは瞬時に理解できた。‥‥日本の、墓地だ。
「お墓参りですか」
「そう。先祖代々の、お墓があるの」
瑞樹が、墓石のあいだの通路に足を踏み入れる。フィリーネは、歩みながら墓石の列を興味深く眺めた。多くはいくつかの角ばった石を組み合わせたつくりで、正面に日本語を刻み付けてある。ほとんど黒に見える石もあれば、白っぽいものもあるが、表面は滑らかに磨き上げてあるようだ。中には、そのまま日本庭園の中に置いても違和感がないような装飾的なものもあった。
「ここが、沢本家のお墓」
瑞樹が、黒光りする墓石を指し示す。
「どなたが、埋葬されているんですの?」
「おじいちゃんとおばあちゃん。父さん、結婚するの遅かったから、おじいちゃんは小学生の頃に死んじゃったし、おばあちゃんも高校生の時に逝っちゃったんだよね。可愛いひとだったけど」
瑞樹が、紙袋から紙筒のようなものを取り出し、表面の紙を破って中に入っていた緑色の細い棒を十数本手にした。東洋的な香の一種だろう。
マッチを擦り、瑞樹が香の棒に火を点けた。手で仰いで炎を消すと、墓石の前にある台のようなものに置く。白い煙が細く立ち昇り、その匂いがフィリーネの鼻にも届いた。いかにもアジアっぽい香りだ。以前にも嗅いだことがある。‥‥そう、白檀の香りだ。
瑞樹が、墓石に向かって合掌し、頭を垂れた。フィリーネも、釣られるように合掌する。カトリックなので、ごく自然な祈りのポーズだ。
「もしわたしが死んだら、ここに入るんだよね」
祈りを終えた瑞樹が、ぼそりと言う。
「何十年も先の話ですわ」
フィリーネはそう言った。瑞樹が振り向き、笑顔を見せる。
「そうだよね。ずっと先の、話。‥‥ねえ、ドイツのお墓って、どんなの?」
フィリーネは説明した。昔は土葬が当たり前だったが、近年では火葬が増えていること。特に東西ドイツ統合後は、火葬が主流だった東ドイツの影響で火葬の割合が急増したこと‥‥。
「わが家はカトリックですから、祖父は土葬でした。たぶん、わたしが死んだら‥‥火葬になると思いますわ」
「お互い、死体が残るような死に方したいよね」
苦笑しながら、瑞樹が言う。
「ちょっと、登るわよ」
瑞樹が、階段を指し示した。丸石と押し固めた土だけでできた、粗末なものだった。
六段ほど登ると、墓地の風景ががらりと変わった。
今まで見てきた墓石はいずれもきれいで、美しいとさえ言えたが、この一角にある墓石はいずれも古び、表面も荒れていた。角が欠けたり、ひびが入っているものも多い。
「これは‥‥」
瑞樹はすたすたと奥の方へと歩んでゆく。フィリーネはあとを追いながら、左右の墓石を眺めた。よく見ると、墓石自体はみすぼらしく思えるが、手入れはきちんとなされているようだ。まだしおれていない花を手向けられている墓石もあったし、菓子のようなものを供えてある墓もあった。‥‥どうやら、かなり古いものが集まる一郭らしい。
「ここが、沢本家のご先祖様のお墓」
瑞樹が、墓石の前で立ち止まった。
いかにも古そうな墓石だった。丸石で補強された土の塚の上に、大きな楕円形の平べったい石が突き刺さっている。墓というより、古代人の祭祀跡でも見るかのようだ。
「古そうですね。いつごろのものなんですか?」
「一応、沢本家は安土桃山まで遡れるから‥‥ざっと四百年かな」
「そんなに昔なのですか!」
フィリーネは、眼を見張った。
「お墓はね。石は、江戸時代のものだけど。地震で割れちゃったんで、取り替えたらしいの」
「よく判らないけれど、凄いですわね」
フィリーネは、石を見つめた。四百年前の、瑞樹の先祖が、ここに眠っているのだ。‥‥どんな人だろうか。
「ご先祖様って、どのような方だったんですか?」
「一応、サムライだったそうだけど、その前の出自がはっきりしないんだよね」
瑞樹が、頬を掻いた。
「そのころ、日本は百年以上続く内戦の時代だったんだよ。だから、おそらくはその混乱に乗じて平民から成り上がった俄かサムライじゃないかな」
「でも、四百年も続くサムライの家系だなんて、素晴らしいですわ」
「まあ、うちなんてたいしたことないよ。一番奥にある、あのお墓なんて‥‥」
瑞樹が、丸石を積み上げただけのシンプルな墓を指差す。
「鎌倉時代からあるんだよ。ざっと、七百年前かな」
「‥‥文化遺産級ですわね」
「たいして昔じゃないでしょう。ドイツには、四世紀とか五世紀に建てられた教会があるって聞くけど‥‥」
瑞樹が、言う。
「たしかに古い教会はあります。でも、それは特殊なものです。一般のひとのお墓を立てたりはしませんわ。それに、七百年も前のお墓が残っているなんて‥‥。有名な人のお墓なのですか?」
「ぜんぜん。まあ、それなりに名のあるサムライの一族なんだろうけどね。詳しくは、知らない」
瑞樹が言う。
「宗教観の違いですわね」
フィリーネは、ドイツの埋葬について簡単に説明した。ドイツの公営墓地の役割は、土葬にしろ火葬にしろ、死者の肉体を大地に還すことにある。だから、一定の年月が過ぎれば墓地は掘り起こされ、残っている‥‥つまりいまだに大地に還っていない骨や骨壷はより深く埋められ、浅いところには再び墓穴が掘られ、新たな死者を迎え入れる準備が整えられる。伝統的な地方の教会などでは、何世代も前から続く家族墓地を維持しているところも多いが、全体から見れば少数派だ。だから、何百年も前の墓などよほどの有名人でもない限り、残らない。
「ふうん。キリスト教は祖先崇拝を否定するからねえ。日本人って、昔からいろんなものを拝んできたしね」
瑞樹が頬を掻きながら苦笑した。
「ご先祖様を拝み、自然を拝み、神木や神獣を拝み、太古からの神々を拝み‥‥。仏教が入ってくれば仏様拝んじゃうし、神様ならインドや中国の出身でも拝んじゃうし。あはは。カトリックのフィリーネから見れば、馬鹿みたいでしょ」
「そんなことありませんわ。わたしもローマン・カトリックとはいえ名ばかりで‥‥。むしろ、東洋の哲学的宗教観に共鳴するものがありますから」
「とりあえず、ご先祖様に挨拶させてもらうよ」
瑞樹が香に火を点け、塚に突き刺した。合掌し、頭を垂れる。フィリーネも、両手を合わせた。瑞樹の先祖に、オペレーション・オーヴァーヘッドの成功を祈る。四百年前のサムライに。
「しかし、あなたは戦士ではないですか」
レーカの副触腕が、だらりと下がる。当惑を示すしぐさだ。
「じゃあ、地球の市民だったら、あんた方の市民に会わせてくれるっていうの?」
「そういうわけにも行きませんが‥‥」
レーカの副触腕が、さらに下がる。
「だめだこりゃ」
ダリルは匙を投げた。胡坐をかいて座り込み、冷めてしまったコーヒーをごくごくと飲み干す。
カピィの戦士階層は、市民階層の決定する戦略方針に基づいて行動する、いわばロボットである。
二週間を超える監禁生活によって、ダリルがたどり着いた結論のひとつが、これであった。
したがって、何度戦士階層と和平や停戦に関する事柄を話し合っても無駄である。直接市民と会わない限り、事態の進展は期待できない。
だが、レーカもティクバも、ダリルが市民階層と会うことを認めようとしなかった。
ダリルの監禁は、市民が定めた戦略方針に反しているからだ。市民に会わせれば、当然監禁がばれる。そうすれば、ティクバはただでは済まない。譴責され、その地位を追われる可能性すらある。
ダリルとしては、それなりに意思の疎通が図れるようになったティクバが失脚する事態はなんとしても避けたいところだった。だが、市民階層を説得しない限り、地球とカピィの停戦はまずありえない。
ジレンマである。
「う〜」
ダリルは唸った。
彼女はすでに人類とカピィの共存は充分に可能だと判断していた。ダリルが出合ったカピィはいまだレーカとティクバしかいなかったが、いずれも話のわかる上に充分に知的かつ論理的である。彼らが人類に対し戦いを継続しているのはそれが戦略方針であり、市民を守るためだと信じているからであり、決して人類を憎んだりしているわけではない。人類と和解し、協力し合うことが市民にとって利益であることを知れば、戦いをやめるはずである。
なんとかして、カピィの市民と人類の政治指導者が会う機会を設けなければならない。
帰り支度をするために、フィリーネは部屋へと引き上げた。
窓を開ける。古びて黒ずんだ板塀の上から隣戸の瓦屋根が見えるだけの殺風景な眺めだが、すでに懐かしささえ覚えるほどなじんでしまった。
衣類や小物を纏める。ふといたずら心を起こしたフィリーネは、半袖Tシャツ一枚だけ、わざと箪笥の引き出しに残しておいた。いつの日か、ふたたびここを訪れることができるようにとの、ささやかなおまじないだ。
支度を終えたフィリーネは、押入れを開けた。座布団の山の上で寝ていたあさひが、目を覚まして首をもたげる。
フィリーネは、心ゆくまであさひを愛撫した。
「いつか、また来るからね。その時まで、長生きするんだよ」
瑞樹とフィリーネは、U−125に乗り込んだ。
「よお、おふたりさん。楽しめたかな?」
エルサが、訊く。
「楽しかったよ。のんびりできたし」
「とっても楽しかったです」
瑞樹とフィリーネは並んで座り、シートベルトを締めた。
「エルサはどうだったの?」
「もちろん、楽しかったよ。久しぶりにミートボール食べたし」
満足げな笑みを見せつつ、エルサが答える。
「アリサはどうだった?」
「‥‥のんびりできたことは良かったけど、色々あって疲れたわ」
うんざり顔で、アリサが言う。
「何かあったんですの?」
フィリーネが、訊く。
「父が、少将になったの」
「それはおめでとう‥‥」
瑞樹の袖を、フィリーネが慌てて引っ張った。
「え?」
「瑞樹!」
フィリーネが、睨む。
‥‥あ。
瑞樹は遅まきながら気付いた。アリサの父親は、たしか大佐だったはずだ。少将ということは二階級特進だから‥‥。
戦死。
「あああの、えーと」
瑞樹は頬を掻いた。その様子を見て、アリサが笑う。
「大丈夫。死んだわけじゃないわ。ロシア空軍に准将の階級はないから、ただ単に昇進しただけよ」
「あ、そうなんだ。ははは」
瑞樹の乾いた笑いが、キャビンに響く。
「でも、昇進なら喜ばしいことではありませんの?」
訝しげに、フィリーネが訊く。
「通常ならね。でもこれは、だいぶ上の方が空いてきたから、せり上がっただけの昇進なの。ここ二ヶ月ほどで、将官クラスが何人も退役させられたのよ」
苦々しげに、アリサ。
「‥‥この人手不足の時期に、なんで?」
瑞樹は首をかしげた。
「まあ、権力闘争ね。ロシア空軍も、ひと皮剥けばツァーリの近衛軍とたいして変わりはないのよ。知ってる? 敵と戦って戦死した将軍の数より、処刑された将軍の数の方が多いくらいだし」
薄笑いを浮かべたアリサが、言う。
「ともかく、座りたまえ、大佐」
アークライトは、ソファを指し示した。
「ありがとうございます、司令」
軽く一礼し、アリサが腰を下ろす。
「で、何かね。重要な用件とは」
向かいに腰掛けながら、アークライトは尋ねた。
「手紙を預かってまいりました」
アリサが胸ポケットから封筒を出して、テーブルに置き、アークライトの方へすっと押しやった。
「ご一読下さい」
アークライトは訝しげに封筒を手にした。何の変哲も無い、白い封筒だ。差出人も書かれていない。真っ赤な封蝋で封がしてあるだけだ。押してある印章は、双頭の鷲らしい。
「どなたからの手紙かな?」
「存じ上げません。わたしは単なるメッセンジャーですわ、司令」
わずかに笑みを湛えたまま、アリサが答える。
アークライトは封蝋を剥がした。手紙は手書きの英文で、それほど長くはなかった。アークライトは五分足らずで読み終えた。
「ふむ。君を疑うわけではないが‥‥この手紙が真正なものであるという証拠はあるのかね?」
「ありません」
アリサが、拍子抜けするほどあっさりと言う。
「ですが、この手紙をわたしに託したのは、国防省に勤務するわたしの父です。娘として、わたしは父を信頼しています。もうひとつ付け加えるならば、わたしはその手紙の内容は存じ上げていません」
「‥‥君に返信を託したら、差出人の元へと届くかな?」
「そのような指示は受けておりませんので、無理でしょう」
「わかった。ありがとう、大佐」
アークライトは、アリサを下がらせた。
アークライトはもう一度じっくりと手紙を読み返した。
差出人、ヴァシリー・グラズノフ空軍大将。むろん、面識は無い。
ロシア国防省内の反米派の動きを、随時伝えたいとの提案だった。一方的な情報提供だから、断るのは難しい。
何が目的なのだろうか?
ロシアの上層部にカピィによる北米攻撃と、それに伴う合衆国の国力および威信の低下を喜ぶ勢力がいることは否定できない。だが、ロシアにもカピィに勝てるだけの力はない。合衆国がカピィの前に屈すれば、当然ロシアも同じ運命を辿るだろう。ロシア人がそれを望むはずがない。
だがもしも、一部のロシア人が核兵器の大量使用でカピィ殲滅が図れると夢想していたら‥‥。
北米と西ヨーロッパが消滅した世界。ある種のロシア人にとっては、夢のような世界だろう。
「とりあえず、貰えるものは貰っておくか」
ロシア国防省上層部の者が、直接合衆国関係者に情報を渡すのは、やはり危険を伴うのだろう。コルシュノワ大佐のような目立たないメッセンジャーを介するほうが、安全だ。手紙を直接手交するというのも原始的で時間が掛かるが、漏洩の危険は少ないうえに、関わる人間も少なくて済む。
‥‥一応、予防措置は講じておくか。
アークライトは、手紙の内容と渡された経緯、それに自分の意図を覚書にすると、コピーを作った。原本を金庫に納め、コピーを合衆国空軍司令部宛に送付し、保管してもらうように依頼する。
保身のための処置である。単にこれがアークライトを陥れる罠であったとしても、こうしておけば後々告発されることもあるまい。ロシア国防省内部の権力闘争に巻き込まれるのも、ごめんである。
翌日、七人のフレイル・パイロットはランス・ベースへとUN機で運ばれた。
「ようこそ、みなさん」
出迎えてくれたのは、なつかしのマーク・フロスト教授だった。
「さっそくですが、愛機とご対面していただきましょう。ですがその前に、ひとつだけ約束していただきたい」
「なんでしょうか?」
サンディが、訝しげに訊く。
「暴力は、禁止です」
真顔で、フロスト教授。
ベローナは、もはや原型を留めていなかった。
ほぼ箱型になった胴体。無骨な円錐形の機首フェアリング。いかにもとってつけたような大きなデルタ翼。胴体上面と主翼上面の巨大な推進剤タンク。機尾のロケット・ブースター。主翼下面に吊り下げられた数本の推進剤タンクとブースター。
「乗りたくない‥‥」
瑞樹は、格納庫の床にへたり込みそうになるのを辛うじて我慢した。
「操縦感覚は、以前とさほど変わらないはずです」
中国系らしい男性技術者が、言い訳がましく言う。
「ベローナはまだいいよ。もともと無骨だったんだから」
近づいてきたスーリィが、言った。
「あたしのかっこ良かったヴァジェットなんて‥‥後退翼機にされちゃったんだから」
「それはお気の毒に」
瑞樹は頬を掻いた。たしかに、比較的スマートで前進翼だったヴァジェットは、NT兵器の中では一番クールな機体だった。
「これは、教授を殴りたくなるわね」
アリサがからからと笑った。
CNSA(中国国家航天局)とロシア連邦宇宙局の合同チームに、健康診断と簡単なレクチャーを受ける。全員現役の戦術機パイロットだから、肉体的に問題はなかった。対G特性も、良好だ。
ロシア製圧力服の試着。宇宙酔い対策。その他、細々した注意事項。
「結局あたしは留守番なのね」
エルサが愚痴る。
「宇宙か。死ぬまでには行けると思ってたけど、こんなにも早く行けるとはねえ」
感慨深げに、ヘザーが言う。
「へえ。あれが市民船ねぇ」
白く輝く月の脇に、ぽつんと輝く光点。
あそこに、十三万余のカピィ市民がいるのだ。
「もういいでしょう」
レーカが、主触腕で支えた銀色の箱を、副触腕でさっと撫でる。ディスプレイが消え、壁に戻った。
「ダリル、あなたは上官であるヴィンス・アークライト中将よりも高位の人物に知り合いはいないのですか?」
「う〜ん。いないねえ」
海軍時代の将官はみな雲の上の存在だったし、空母に乗り組んでいた時のウェスト艦長とは気さくな付き合いをさせてもらったが、階級は大佐に過ぎない。
「そうですか」
レーカの副触腕の先が、くいっと曲がる。‥‥落胆を意味するボディランゲージである。人間で言えば、肩を落とすといったところだろうか。
「どうしたの? 何か企んでるの?」
「‥‥これはわたし個人の考えですが、ダリルと話し合った結果、我々と人類は対等に交渉しあえるはずだ、という結論に達したのです。失礼ながらダリル、あなたは戦士としてはたいへん優秀で、尊敬すべき存在ですが、序列はそれほど高くない。やはり交渉には、高位の人類と接触する必要があります。そしてもちろん、その戦士は信頼の置ける人物でなければならない」
「偉い! でも、交渉を行うのは市民なんでしょ? 人類でも、外交交渉は市民の代表が行うんだよ」
「それは承知しています。ですが、いまのところわが方の市民には交渉する気はないようですから。わたしはこう見えても戦士です。人類の戦士とは解り合えても、人類の市民を理解するのは難しいでしょう」
「‥‥ってことは、あたしとは解り合えた、ってこと?」
「わたしはそう考えていますが‥‥違うのですか?」
レーカの副触腕が、わずかに下がる。
「そんなことないよ。あんたとは、解り合えたと思ってる」
ダリルは腕を伸ばし、レーカの太い首を掻き抱いた。
「‥‥これは、どのような意味合いの接触行為ですか?」
主触腕と副触腕をゆっくりとこすり合わせながら、レーカが訊く。
「こういうことよ」
ダリルは舌を見せた。
レーカも舌を出した。頭を左右に振ろうとしたが、ダリルがしがみ付いているのでうまくいかない。
ダリルはくすくすと笑いながら腕を解いた。レーカが、頭を左右に振り始める。
ダリルも頭を振った。満面の笑みで。
眠れない。
フィリーネは、上掛けを跳ね除けると起き上がった。クローゼットの中から、薄手のガウンを取り出して着込む。ランス・ベースのゲスト用宿舎の中でも最高ランクの部屋を与えられているから、備品は高級ホテル並みだ。もちろん、個室である。
そっと部屋を出る。みんなは、もう寝ただろうか。
瑞樹の部屋の前で、聞き耳を立てる。‥‥かすかに、声が聞こえる。
フィリーネは、ドアをそっとノックした。数秒後に、ゆっくりとドアが開く。
「あら」
フィリーネはちょっと驚いた。開けたのが、ヘザーだったからだ。
「フィリーネも、眠れないのかい?」
「ええ。それで‥‥」
「入んなよ」
ヘザーが、手招きする。
フィリーネは、遠慮がちに部屋に入った。ベッドに、瑞樹が腰掛けていた。フィリーネを見て、わずかに微笑む。
「フィリーネも、眠れないんだ。わたしも寝れなくて‥‥ヘザーとおしゃべりしていたところ」
「他の皆さんは、もう寝たのでしょうか?」
「スーリィは、ぐっすり寝入ってるよ。豪胆だねぇ。サンディは、さっき見たら聖書読んでた。アリサも、読書中。邪魔しちゃ悪いから、誘わなかった。エルサは、不貞寝状態だ」
椅子に腰掛けながら、ヘザーが答える。
「なにしろ明日になったら宇宙に飛び出すんだものね。あっさり眠れる方が、おかしいよ」
瑞樹が、笑う。
フィリーネは、瑞樹の隣に腰を下ろした。
「‥‥おふたりだからあえて訊きますけど‥‥わたしたち、本当に帰ってこれるんでしょうか?」
「ある程度は覚悟していた方がいいわね。だけど、スフィアを倒さない限り人類に明日はない、というのも事実だろうから‥‥」
瑞樹が言って、わずかに顔をしかめる。
「まあ、死ぬときはみんな一緒だ、とでも思っていれば、気が楽だね」
ヘザーが、不敵に微笑む。
「‥‥なんだか、いやな予感がするんです、わたし」
フィリーネは、無意識のうちにガウンの胸元をかき寄せた。
「この作戦、やらない方がいいような気がしているんです」
「おや、あたしと逆だね。あたしは、なんだかこの作戦すごく楽にこなせそうな予感がしているんだ」
ヘザーが、言う。
「ほんとに?」
「マジだよ」
瑞樹の問いに、ヘザーが真顔で答える。
「瑞樹は、どうですか?」
フィリーネは、年上の友人にそう問うた。
「あ、わたしは予感とかそういうの、ぜんぜんしない性質だから」
瑞樹が、手をぱたぱたと振りながら答える。
「でも、勘を否定するわけじゃないよ。むしろ、鋭い人の予感は頼りにするくらい」
「‥‥ヘザーとわたしの予感は矛盾してますけど」
「うーん。楽にこなせるけどやめた方がいい作戦ねえ。矛盾といえば矛盾だけど」
瑞樹が考え込む。
「はずれ、ってこともあるね。囮に引っ掛かるとか」
ヘザーが、指摘する。
「スフィアが、囮ですの?」
「中身、がらんどうだったりして」
「風船かよ」
ヘザーが、突っ込む。
第十六話簡易用語集/あさひ 「朝日」ではなく「旭」である。/中南海 北京の官庁街。