#1 出会い
バーミンガム警察の地下には死体置き場がある。
正確には半地下で、明かり取りの窓が地上すれすれの高さにあたる。夜勤のジャック・サリヴァン巡査長は一階の廊下から外を眺めて、死体置き場の窓から光が漏れていることに気がついた。光を反射して地面がかすかに明かるくなっている。とっさに浮かんだ感情は「めんどくせーな」だ。
死体置き場には大型の排気設備を備えてある。瘴気は溜まらないはずで、動く屍が発生する可能性は極めて低い。だからその明かりは、居てはいけない何かが点けたものではなく、遺体の安置の際に照明を消し忘れたとかそんなところなのだろう。見なかったことにしようかとも思ったが、万が一何かあれば後でもっと面倒な羽目になるのは確実である。しかしおそらく何でもないものを確認するのに、人を呼んでくるのも手間だ。自分一人でさくっと見てくるか。ジャックは念のため壁の銃架から非常用の拳銃を外した。英国の警官は犯罪者の武装化が進むこの1906年においてもまだ警棒一つを武器としている。この拳銃も、万が一のアンデッド対策として設置されているだけ。その重さを頼もしく感じながらジャックは内階段から地下に降りて行った。
警察署の建物は石造りだが、内階段は壁もステップも上下のドアも木造だ。ジャックは詳しく知らないが後からの工事で付け足したものらしい。通るとき古い木と埃の匂いが少しだけする。なお、死体を運び込むのにはもっと広い外階段を使う。
折り曲がった狭い階段室を下って地階のドアを開けると異様な光景が目に入った。全身を悪寒が走りぬける。
水銀ランプの青白い明かりの下、解剖台に横たわる死体の髪を若い女がすすいでいた。優しげな手つきで洗面器から髪を引き上げタオルでそっとぬぐう。生きた人間がここにいるはずがない。ジャックはためらわず銃の安全装置を外し銃口を向けた。
「手を挙げろ、動くな」
相手がアンデッドなら警告に意味がないのは分かっていた。知能のある状態の、いわゆるヴァンパイアになるような死体は少ない。知能のないアンデッドなら呼びかけを理解出来ずすぐにも飛びかかってくるだろう。引き金を引く用意はあった。しかし、特製の銃弾が充填されているとはいえ、一発で相手が倒れるはずはない。撃ったらすぐ階段室へ飛び込んでカギをかけるべきか。
そうやって考えている間に女はおとなしく両手を挙げて、身体をひねってこちらを振り向いた。ゆっくりした動きだった。ジャックを刺激しないようにという判断だろう、人間にせよヴァンパイアにせよ知能はあるようだ。
若い女だ。身長は平均より低めの痩せ形、髪色は淡い金、短髪でゆるい巻き毛。ジャックは職業的な習慣で女の外見を頭のなかで箇条書きする。服装は灰色のセーターに作業用の黒っぽいズボン、ゴム引きの前掛け。体の線のでない服装だ。小柄な男ではなく女だという確認のためにジャックは相手の手を見た。華奢な骨格はやはり女のもので、爪が銀色に光っていた。
銀の爪……アンデッドハンターか?
「あのー、」
女が困ったように口を開いた。柔らかいメゾアルトの声。こうしてじっくり見ると少女と言ってもいいくらいの、ずいぶん若い女だった。
「今度こちらの警察署で仕事することになっていて、アンデッドハンターのギルドから派遣されてきたんですけど……ご存じなかったですか?」
ジャックは銃口をまだ逸らさずに近づいて行く。
知っているどころかハンターと組んで任務に当たるべく白羽の矢をたてられたのが自分だった。すでに到着したとは知らされていない。
「着任は月曜からなんですけど、今日着いて。たまたま献体が届いていたので、前倒しで作業場使わせていただいてます。総務の許可はもらいました」
この時間は総務の人間は残っていないし、確認しようがない。
……まあ多分本当なのだろう。話の内容に納得したというより、女の口調や表情がごく普通の、生きている人間にしか見えないのでジャックはひとまず銃をおろしロックをかけた。
「動いても?」
女が遠慮がちに奧の、半分開いた扉に視線を向けながらたずねた。
「お湯が沸いたみたいで」
「ああ」
ジャックはホルスターに銃を戻し、誘われたわけではないが、歩き出した女の後について隣室に移動した。まだ半信半疑だった。どう考えても若すぎる。助手の類いだろうか。たぶんそうだろう、ギルドというからには師弟制度があるのだろうし。
「いま準備してたんですけど、作業に入る前に眠気覚ましのお茶を飲んでおこうと思って」
消毒液らしいもので手を拭いてから女が紅茶を淹れ始めた。注がれる熱湯から湯気が昇る。
「ご一緒にどうですか」
「どうも」
「魔法瓶が欲しいんですよねえ。この辺お店ありますか?」
「……前の通りに金物屋はある。でも明日は日曜で休みかもな」
ジャックは立ったまま周囲を見回した。ここは死体置き場の一部だったはずだが、控え室のようなものに改修されている。数週間かけて工事をしていたのは知っていた。ごく小さなシンクには一応蛇口がある。同じく小さい窯からブリキの煙突が窓までのばしてある。暖炉は見当たらず窯は暖房兼用だと思うがまだ火が入っていない。今お湯を沸かしているのはアルコールランプで、それを載せたベニヤ貼りの小さなテーブルと椅子が一脚。部屋の奥にさらに仕切り壁があり、用途はわからないが小さなスペースになっている。仮眠用にでも囲ってあるのかもしれない。中に本職のアンデッドハンターがいるのだろうか。
「良かったら座ってくださいね。砂糖そちらです。どうぞ」
紅茶のカップが差し出された。受け取りながら女の顔を見下ろして人相を確認する。長身のジャックに比べると女は小柄で、眼を覗き込む形になった。瞳の色は明るい灰色、肌はかなり白い。ついでに言うならジャック本人はダークブロンドの髪に、狼の眼と表現されることも多い琥珀の光彩を持っている。
椅子を勧められたが一脚しかないので立ったまま飲んだ。そんなに美味い紅茶ではなかった。眠気覚ましにしても濃すぎる。カップもひとつしかなかったらしく、女自身はガラスのビーカーで飲んでいる。そういえば死体を触っていた人間の淹れた茶を飲んでいると思い至るが、もう口をつけた後だったので気にしないことにした。
「えーと、名前は?俺はジャック・サリヴァン」
「レイチェル・テイラーです、よろしくお願いしますね」
テイラーは邪気のなさそうな笑みを見せた。若すぎるのを通り越して子どもみたいなこの女が自分の仕事相手なのかもしれない。だとしたらそれは今知りたくない。なけなしのやる気がそがれる。または彼女の師匠か誰かがどこかその辺にいるとしても、出て来ないということは今は挨拶するタイミングではないということだろう。気難しい爺さんか婆さんかもしれない。着任前なのにやいやい言ってきたとへそを曲げられることもありうる。どうせ月曜にはわかることだ。
詳しい自己紹介を先延ばしするための口実を、十分すぎるほど思いついたジャックは、そのまま地上へ戻ることにした。最後にひとつだけ確認したうえで。
ジャックは内ポケットから銀の十字架のペンダントを取り出した。テイラーの顔の前に垂らす。
「悪いんだがちょっと握ってもらえないか?」
気分を害した様子は見せず、テイラーは小さな十字架の下の端を握った。
俗信がどうあれ、この形状には意味はない。十字架でも指輪でもスプーンでも実際には同じ効果しかない。ただアンデッドたちが銀製品に触れれば短い時間で酸化して黒ずんでしまうのは本当だ。またアンデッドが草花を萎れさせるのも事実だが、持ち歩くには銀の方が簡単である。
ジャックは十字架を見下ろし、テイラーもつられたように手元を見つめ、数十秒の沈黙がおとずれた。十字架はなんの変化も見せず柔らかく光っている。
「ごちそうさん。邪魔して悪かった」
ジャックがペンダントを引き上げてそう言うと、テイラーは微笑んで、なんでもないというように手を振った。