雌に幸あれ
十
はて、わたしは俗に言うレズビアンなのでしょうか?
他人に聞くなって話ですよね。
ヒミコさんはその点、間違いないそうです。
「小さい時からずっとそう。親にも友達にも言ってない。バレると変な目で見られそうで恐いから」
女は男を愛して当たり前とされる社会からすれば、それは異常と見なされてしまうことなのかもしれません。残念ながら。
特にヒミコさんのご両親は、古くからの常識に頑なにしがみつく人達らしいので、なおのこと隠すのは大変だったでしょう。その割、ヒミコさんが親元を離れて美術大学に入ることを許した当たり、手綱を締め付け過ぎているわけでもなさそうです。
「チンコって前向きじゃない」
「はあ……」
「あれって威圧感があって嫌いなの。後ろ向きについてたら、また違ってたかもしれないわ」
だ、そうです。よくわかりませんが。
ヒミコさんは、小中高と共学の学校に通い、これまで三人のパートナーと巡り会いましたが、長いおつき合いはできませんでした。最長で一ヶ月と十六日だそうです。
「はっきりわかんない娘も多いのよ。バイだったりね」
「バイ?」
「男も女もオッケーって奴」
わたしは、どれでしょうか。白? 黒? グレー?
「今すぐ決めつけなくてもいいのよ。じっくり時間をかけて見極めていけば」
月明かりの差すベッドで、ヒミコさんはわたしの手を握っていました。自信がないのはお互い様です。
ヒミコさんが店員さんを怒鳴ったの周知の通りですが、他にもコンビニで目当てのお菓子がないことに腹を立てたりしました。
何度か繰り返して彼女の機嫌が悪くなるのは、わたしが適当に相手をしたり、会うのに日が開いた時だったと気づきました。
頃合いを見計らい、それとなくスキンシップを増やせば、ヒミコさんの機嫌はすぐ直ります。ちょろい、年上。
一番困ったのは、わたしの記録を残そうと躍起になってたことですかね。身長、体重は二、三日置きにチェックされますし、スリーサイズもパソコンに記録として残そうとするのです。
わたしの体にペイントを施しそれを写真で撮影したり、クリップで挟むのは学校の課題だそうで。本当かしら。
「美嘉ちゃんの裸、みんなに見てもらおうね」
バストアップや、背後からのものが多いのでわたしだとわからないと思いますが、芸術と一体化するとは思いも寄りませんでした。
疲れたら二人でベットでごろごろ。ソファーでごろごろ。楽しいな?
母の監視の目もありますから、入り浸りというわけには行きません。ヒミコさんが不安にならないように気を配るのは大変です。
最初は充実していたのですが、さすがに疲れました。肉体的にも精神的にも。
なので夏休みが終わり、学校に時間を割くことにほっとしていた面もあります。
LINEで最低限の情報交換はしていましたが、ヒミコさんも卒業制作が忙しいらしく、会うのは日曜日の数時間ほどに限られています。
九月の中頃、二人で映画に行きました。
ハリウッド超大作は超退屈でした。ヒミコさんは心ここにあらずといった風で、わたしは途中で眠ってしまいました。
「うち来る?」
味気ないデートに気を遣ったのか、ヒミコさんが訊ねてきました。義務感を滲ませているのがわかり、ムカつきます。でも言いません。
わたしも気を遣い、断ります。もう一回誘われたら行ってたと思うのですが、お誘いはありませんでした。
うんざりするほどわたしに構ってきたヒミコさんの姿はそこにはなく、わたしもまたこのまま別れても
か、ま、わ、ね、え!
と、歌舞伎みたいな見えを切りたくなります。
紛れもない倦怠期、でした。
「竜ちゃんなら、こういう時どうする」
体育の授業では、校庭で走り幅跳びをします。私見ですが、砂場にうまく飛び込めない奴はきっと人生で挫折する気がします。
踏切場所でまごついたり、両足で跳んだり、失敗例は多々ありますけど、この際、比距離はどうでもいいのです。
砂場は人生です。踏み込みは態度です。何が言いたいのかというと、迷いなく跳べる人は強いのです。
その点、竜ちゃんは及第点と呼べるでしょう。ほら、赤いニューバランスのスニーカーに砂をふんだんにふりかけてわたしの元に駆け寄ってきます。
「美嘉、何か言った?」
わたしは、無言で竜ちゃんの膝小僧についた砂をせっせと払います。
「竜ちゃん、テニス部楽しい?」
「うん!」
良い返事です。無邪気に答えてくれました。
「わたしは最近あんまり楽しくないんだ」
「何で?」
ヒミコさんの疲れた顔が頭によぎります。
「竜ちゃんはわたしのこと好き?」
「うん! 好き」
いいなあ、この娘は。きっと何も考えていないのでしょうね。さっきも砂場に猫みたいに突っ込んでいきましたし。
「美嘉も私のこと好きになってくれたらいいのにな……」
おっ!
嬉しいこと言ってくれるじゃないの。
でも瞳を伏せ、深窓の令嬢のように振る舞うのが気がかりでした。
「美嘉が、竜胆を泣かした!」
急にうるさい小蠅がたかってきました。自称竜ちゃんの友達です。
体育の時間中、不当な尋問を受けました。竜ちゃんはかように周りから愛されているのです。
「ねえ、前から気になってんだけどさ、竜ちゃんの本名は何て言うの」
昼休み、トイレの個室で通話中。ヒミコさんからかかってくることはこれまでなかっただけに焦って駆け込みました。
「佐々木竜胆ですよ。竜たんから変化して竜ちゃん」
「へー、可愛い女の子だって聞いたから、名字かと思った。ずいぶん珍しいわね」
「会わせませんよ」
駄目絶対。
それだけは譲れません。
竜ちゃんは清純の振りをしていますが、とても好奇心旺盛です。ヒミコさんのようなアバンギャルドと出会って影響されたら、竜ちゃんの親御さんに顔向けできないですよ。
「疑問が解けてすっきりしたわ。ありがと」
ヒミコさんは何のために電話してきたのか、今をもって不明でした。時間は有限です。焦れったくなります。
「美嘉ちゃん、あのね」
ヒミコさんの息を吸い込む音がいつもより、緊迫しています。
わたしは、その流れを断ち切らずにはいられませんでした。
「あ、すみません。そろそろ教室に戻らないと」
「そう、ごめんね。また連絡する」
通話終了ボタンを押すわたしの手は震えています。
その時、ある予感があったのです。
十一
おや? ヒミコさんが歌わなくなったのはいつからだろう。
少なくとも部屋にいる時はあまり演奏したくなさそうでした。騒音トラブルが恐いからと。
思えば、あの人はひっそりとした生活がしたかったのかもしれません。
矛盾するようですが、わたしがいることでたが外れて、横暴になったり、アバンギャルドになっていたというのは、自惚れでしょうか。無理させてたのかな。
「どうして美大に入ろうと思ったんですか?」
わたしが何げなしに訊ねたことがあります。
「君みたいな子に出会うためよ」
ヒミコさんは、無頓着に答えてくれました。
アーティスト活動にはそれほど興味ないらしいです。なんだかもったいない。
「普通に就職して安泰な暮らしがしたいの。その傍らで、美少女をつまみぐい」
そう言って、わたしの小指に歯型が残るくらい強く噛みつきます。
「わたしは、ついでなんですか? スイーツ的な扱いなんですか?」
わたしは、けっこう真剣に訊ねたと思います。将来に対する漠然とした不安からそうしたんですね。
それについては結局、お答え頂けまけん。神秘を匂わすふりをして笑っておられましたが、おもしろくもなんともありませんでした。
十月に入り、ヒミコさんと一ヶ月近く肌を合わせていないことにすら気づかずにいると、連絡が入りました。
「友達のライブに遊びに来ない?」
音楽に地味に興味のあったわたしです。二つ返事で了承します。でも心の狭い母は許さないだろうと確信していました。十月の始めにあった中間試験の成績が思わしくなかったことも足かせになっていました。
なので、ちょうど塾のある日と重なることを利用し、代弁を頼みました。タイムカードで管理されていることを逆手に取るのです。社会の歯車に禍あれ。
まるでわたしの方がアバンギャルドになった気分でした。
吉祥寺の半地下にあるライブハウスは薄暗く、天井が低いです。観客はギュウギュウに押し込められ、隣合った太った雌の肘が当たりましたが、謝りもしない。心の中で舌打ちしました。
ヒミコさんを探しますが、身動きできないほどの混雑で探そうにも見つかりません。
そのうち、バンドメンバーらしき若い雌雄たちがステージ上に現れました。
その中の馬面でハットを被ったロン毛の雄が、マイクを握っています。ボーカルなのでしょう。
軽快なポップスが始まっても、わたしはさして盛り上がりません。
愛だの恋だの、偽りの希望で若者をたぶらかそうとするアバンギャルドの企みが見え透いていたからです。
唯一の驚きは、リードギターを担当していたヒミコさんでした。長い髪を振り乱し、演奏する姿に見惚れてしまいます。涎も出ちゃった。
ライブハウスに籠もった観客の汗臭さを忘れ、わたしは熱狂しました。
「おつかれさまー」
バンドメンバーはヒミコさんの部屋で打ち上げを敢行しました。わたしは、借りてきた猫のように部屋の隅でペコちゃん人形と並んで座っていました。
彼らは皆、学生だったり、フリーターだったり、公務員だったり、所属はバラバラでした。音楽に対する情熱で団結したいわば同好の志です。
どうやらヒミコさんは、彼らにわたしのことを制作助手として説明していたようです。後ろめたいのは分かりますが、少し心外でした。ライブに出演することも秘密だったし、それはサプライズだったみたいですからいいですけど。
悶々と端に居たわたしですが、皆さん気さくに迎え入れてくれました。
馬面のボーカルはわたしとモンストをして遊んでくださいましたし、ジミヘンドリクスに似た公務員は、わたしのスケッチブックを広げてほめてくださいました。ドラム担当のピンクゴスロリ衣装のショップ店員さんは、桐谷美玲に似て可愛かったし、おいしいパエリアをご馳走してくださいました。ヒミコさんは輪を離れ、一人ベランダでテキーラをちびちびやっています。
時間を忘れて彼らに混じり、帰るタイミングを失くしていました。くつろいだ雰囲気の元、眠気を負け、ソファで寝入ってしまいました。
気づくと夜更けで、電気は消えていました。目が慣れてくると、状況確認。
ソファの下でゴスロリさんが寝返りを打っています。他の人の姿は見えません。
寝室から物音がしました。衣擦れとか、ため息が生々しく感じます。
わたしは、身じろぎすることなく聞き耳を立てていました。
だめ、とか
いいだろ、とか
美佳がいるから帰って
雌雄がくだらない押し問答をしてるんです。父と母の寝室からも似たような話が聞こえてきたことがあるんですけど、あれってあれですか。我慢できないんですか。嫌だ。耳を塞ぎたいけど聞こえてくるのです。
その時、床に寝ていたゴスロリさんが香ばしい音を立ててオナラをしたんです。
「うわ、くっせ!」
わたしは、つい大声で非難していました。
寝室からの物音はそれきり途絶えました。ゴスロリさんは、わたしに気を遣ってオナラをしたんだと思います。感謝しました。
明くる日、半裸のヒミコさんだけが部屋に残っており、洗い物の放置されたキッチンで、スコッチウイスキーを飲んでいました。
わたしは、ヒミコさんが出て行くまでソファで寝た振りを続け、頃合いを見計らって中学に赴きました。
それから数日間、ヒミコさんからLINEを通じて弁明のような言葉が送られてきましたが全力で無視です。
二十九日から行われる予定の大学の芸術祭にも顔を出しませんでした。だいぶ前から約束して楽しみにしてたんですけどね。
やっぱり傍観者でいればよかった。そんな感じです。
十二
秋も深まりますとね、何だかしんみりしちゃって。わがまま言って竜ちゃんを困らせてばかりいました。駄々っ子みたいになっていたと思います。
これじゃいけないなと一人になると考えるのですが、踏ん切りがつかないでいる時でした。
「最後だから会わない?」
ヒミコさんに電話で呼び出されると、彼女の部屋は段ボールが二個あるばかりで、生活感がなくなっていました。
「引っ越すから」
説明はそれだけで足ります。
いらないオブジェはヤフオクで、それなりの値段がついたため処分したそうです。
ヒミコさんは出会った当初のように髪をショートにしていました。
「進路が決まったから、美嘉ちゃんにまず教えたくてさ」
謝罪が先に来ると思ったわたしは、機嫌を損ねます。
「地元の中学の美術の先生になるの、私」
ヒミコさんが、さらに遠くに行ってしまったようで目の前が白くなります。怒りが声に裏返ってしまいそうでした。
「何のために美大に行ったんですか?」
「前にも言ったでしょ。無難な生き方がしたいって。私の才能なんてたかが知れてるのよ。それが東京に来てよくわかった。もう十分」
わたしの中で音を立てて崩れていくものがありました。
「そうですよね。ヒミコさんは、何もかも中途半端で投げ出す人ですもんね」
さすがにこれには腹に据えかねたのか、反論が早かったです。
「含みのある言い方やめなよ。君のことは本気だったから。それだけは信じて欲しいな」
ヒミコさんはベランダにわたしを連れだしました。駐車場と、狭い土地にビルが乱立しています。
「ヒミコさんが、普通の人になっちゃうの何か嫌だ」
精一杯の抵抗でした。無駄だとわかってましたけど。
「私は元々普通の人だよ。同姓愛者で少女崇拝者」
わたしの肩を抱き寄せ、キスしてきました。唇かっさかっさしてんなーヒミコさん。ちゃんと食べてんのかしら。
「美嘉ちゃん、私がファッションレズだと思ってるでしょ。ねーから。男興味ねーから」
もうどっちでもいいんですよ、そんなこと。今はどうやったらこの人を引き留められるかそれだけに集中しなくてはなりません。
「アバンギャルドじゃないヒミコさんなんか好きじゃありません」
ヒミコさんの表情が映像の一時停止のように、凍り付きます。失言だと気づくにはわたしは幼すぎました。
「あ、はは……、そうだよね。美嘉ちゃんからしたら、私はもうただの学校の先生だもんね。何処にでもいる……」
傷つけたいわけじゃないのに。ただまたわたしのために歌って欲しいだけなのに。
「これ、新しい住所。地元に帰るんだ。東京から離れちゃうけど」
俯きがちに住所の書かれた紙を押しつけ、ヒミコさんは部屋に引っ込みます。
「私、これから出かけるから、悪いけどこれきりね。さよなら、美嘉ちゃん。竜ちゃんによろしく」
ヒミコさんの声はかすかに震えていました。
謝ればよかったでしょうか。でも何に対して。わたしは彼女に特別な者であって欲しかったし、スターであって欲しかった。教師になるって聞いてがっかりしたし、まるで梯子を外されたように感じました。わたしは彼女のアイドル性に惚れ込んでいただけなのかもしれません。
やっぱりわたしが悪いのです。ヒミコさんを傷つけたのは事実ですから。
何も言わずに部屋を出ました。もうこのマンションに来ることはないでしょう。
連絡先を開くとヒミコさんの転居先は、広島市でした。何て遠い距離。まるで異国の人になってしまった。
雌に禍あれ。特にわたしに。
消えてしまいたいと、電話越しに竜ちゃんに伝えると、すぐ出てこいと言う。マックで一時間半のお説教を受けました。
「美嘉はいつも勝手だよ。私の気も知らないで、一人で行動しようとするし。私のこと嫌いかもしれないけど……」
竜ちゃんは、わたしが嫌々付き合っていると思っていたらしいです。誤解を解くのにさらに三十分かかりました。
「何が不満なの? 言ってくんなきゃわかんない」
「竜ちゃんのことが不満なんじゃないよ。実は……」
もはやこれまで。ヒミコさんのことを包み隠さず話すと、竜ちゃんは冷ややかに笑いました。きれいな子が侮蔑を顕すと堪えます。こえー。
「私が部活頑張ってる時に、年上の女の人と遊んでたの。テニスやめたのもその人のせい?」
「それは全く関係ない」
ああ、ただならぬ秘密の関係を知られてしまった。やはり竜ちゃんはわたしを軽蔑しているのでしょうか。
「美嘉は構ってちゃんのくせに、殻に篭もるからね。その人ともうまくいかなくなっちゃったんだ」
「うん……」
「自業自得だよ。美嘉がひどいこと言ったんだから」
膝の上で拳を握りしめましたけど、涙を堪え切れません。母と衝突しても軽くあしらってきたわたしでも、竜ちゃんには敵わないのです。
「良い機会だよ。だって広島だっけ。帰っちゃうんでしょ」
「……うん」
良い機会という言葉を、竜ちゃんはためらいなく使いました。わたしの知らない残酷な一面をのぞかせます。
「向こうも美嘉のことは遊びだったのかも。もう忘れちゃえ」
竜ちゃんは、わたしを励まそうと小旅行のプランをつらつらまくしたてました。気晴らしに、これからカラオケに行くことになりましたけど、めんどくさかったです。
竜ちゃんが、テイラースイフトとか歌ってても、ヒミコさんと比べちゃうんですよ。竜ちゃんが、頑張って歌おうとしてるのはわかるんですけど、発音クソだな。
「すっげー、うまいよ。マジ感動した!」
でも竜ちゃんには逆らえません。褒めちぎって機嫌を取っておきます。
「ほら、また無理した。美嘉の悪い癖」
竜ちゃんが隣に座ってグラスを取りました。
「もういい加減正直になれば。美嘉はどうしたいの?」
竜ちゃんは、何もかもお見通しでした。
「ごめん」
わたしは、カラオケボックスからヒミコさんのマンションまで走りました。電車使う方が早いけど、何かそうしたかったから。
施錠がしてあって、出かけると言ったのは嘘ではなかったようです。
LINEも電話も応答がなく、部屋の前で座って待ちましたがお尻が痛くなり、七時半で撤退しました。
雌に禍……、ありましたね。
それからことあるごとにヒミコさんの自宅を突撃訪問しましたけど、一度も会うことはできませんでした。
それから年が明けるまで音信不通でしたが、さる一月一通の封筒がわたし宛に届きます。
それは武蔵野美術大学の卒業制作展の案内でした。造形学科の卒業生の作品を展示するということは、おそらく彼女の差し金に違いありません。
「どうしよう。行った方がいい?」
唯一の相談役、竜ちゃんに打ち明けると、彼女は急によそよそしくなりました。
「行けば」
「いや、本人に会ったらどうしよう」
そういえば、竜ちゃんにヒミコさんの話をすると露骨に機嫌が悪くなるのです。すっかり忘れていました。
「しーらない。私も部活で忙しいからぁ。あー、忙し忙し」
必死に頼み込んで一緒に行ってもらうことになりました。不安ですもの。
いざキャンパス。
白を基調とした大学のオシャレ空間に恐々と足を踏み入れるわたしたち。奇しくもテニス部に入るときを思いだし、二人で笑いました。
どんな奇抜なオブジェにもわたしの注意を引くことはありませんでした。ヒミコさんを探すのに夢中になっていたからです。
「美嘉、美嘉、こっち来て!」
静寂を破るように、興奮した雌が喚き出します。ちっ、誰だ? ああ、竜ちゃんか、じゃあ仕方ないや。
一階中央右よりのスペースに、何か見覚えのあるものがあったのです。百均で売ってそうな安ぽっくて、カラフルなクリップが山と積み上げられていて、それが人型になっているんです。それがやせっぽっちの女の子が座っているオブジェに見えてくるのが不思議ですね。モデルは誰なんだろう。タイトルは、Mに幸あれ。
「美嘉だよ、これ、絶対そうだよ!」
「うるさいなあ、わかってんよ」
置いていかれた。
もうわたしのために歌ってはくれないんですね。わかってましたよ、そのくらい。
でもわたしが、ヒミコさんのために歌うのは有りですよね。聞いてくれますか? 逃げても無駄ですから。だってわたしは、本気だから。貴女にこう言いたいんです。
雌に、幸あれ。




