雌に禍あれ3
七
次の日の朝、階下から母に怒鳴られてもベッドから出られませんでした。
わたしの部屋は屋根裏にあって、丸い小窓がついています。船の中に似ているのでお気に入りですが、何だか船酔いしちゃった感覚。
最後は叩き起こされましたけど、現実に戻ってこれたので、珍しく母に感謝です。
とりま、人間不信になりそうでした。
ヒミコさんが、どうしてあんなことをしたのかわかりません。
一晩経った今でも舌先に残る、彼女の味が消えてくれないのには参りました。スムージーを飲んでも、タバスコを飲んでも、わたしの舌は録音した彼女の感触を思い出させるのです。
塾に行ってくると母に告げ、いつもと同じ夕方に家を出ました。
その日、塾の講義はありませんでした。帆布のトートバッグには財布だけ。スマホは部屋でお留守番させます。
寄り道をしながら、あのパン屋に進路を取ります。今日も近場で花火を打ち上げるそうです。人々が向かうのは花火大会でしょうか。浴衣の娘は本当に花火だけが目的なのでしょうか。わたしは、流れに逆らうように進みます。
パン屋はその時まだ営業していて、でっぷりしたおばさんがトレイを片づけているのがガラスを透かして見えます。
ヒミコさんの姿はありません。暗くなるまで店先で待ちます。
営業時間が終わりシャッターが下りると、入れ違うようにヒミコさんがやってきました。
スマホに目を落とし、ぶらぶらと無目的な足取りに思えます。オフショルダーに、スキニーパンツ、高めのパンプスで身長を高く見せていました。
「あ」
顔を上げたヒミコさんが固まります。それから、まるで悪事が露見した子供みたいに上の歯だけを覗かせ笑うのです。
「昨日は、ごめんね。もう来ないんじゃないかって心配してたの」
わたしは、ヒミコさんの薄細工でできたガラスのような肩を突き飛ばします。
「痛い、よしてよ」
へらへらと薄笑いを浮かべ、彼女はわたしの背後に回り込み、首に腕を回してきました。じっとりとした汗が全身を伝います。心臓が張り裂けそうな勢いで働くのがわかりました。
「お詫びがしたいんだ。うちにいらっしゃい」
断ることもできたはずでしたが、気がつくと彼女のマンションの暗い玄関で、わたしたちは唇を重ねながらもどかしそうにスカートを脱ぎ、シャツを脱ぎ、点々と衣服がリビングに続いていきました。
その時は暗くてよくわからなかったですが、部屋は雑然としていました。ペコちゃん人形の大きい奴とか、変なオブジェが廊下からリビングを占拠していました。
「さ、おいで」
暗い室内、一糸まとわぬ姿になったヒミコさんが、椅子に座って誘います。彼女の乳房は小さくて少し先がとんがっています。お尻はわたしと同じくらいで、本当に大人の女性というより、同年代の少女のように線が細い。
「あんまり体に自信ないから。見るなって」
わたしは、照れ隠しに笑う彼女の太股の上に向き合うように腰を下ろします。その途端、彼女はわたしの首筋をぺろっと舐めます。
わたしもお返しとばかりに彼女の顔と言わず、首と言わず犬のように舐め回していたように思います。でも彼女のやり方はわたしの不器用なものとは違って、舌で転がしたり吸いついたりして、わたしをひいひい言わせるのは楽勝だったでようです。
他人の汗なんか汚いと考えていたのが嘘みたい。しょっぱい味も、くすぶる体臭もただただ頭を侵していくだけでした。
彼女はテーブルに置いてあった、ウイスキーの小瓶を口に含むと、わたしに口を開けるように手で促しました。
ぼんやり口を開けると、口移しでウイスキーを流し込まれました。ぽたぽたと口に入りきらなかったお酒がへそにまで垂れてきます。
予想はしてましたけど、体はびっくりぽん。喉が焼けるような熱さと、彼女の体温が混じりあって、意識をゆるゆる奪っていきました。
八
目を開けると、フローリングの床にわたしは寝ています。その隣にヒミコさんが口を開けて寝息を立てていました。窓から差し込む朝日が顔に当たって、こそばゆい。
頭を持ち上げようとして、キーンと、かき氷を食べた時のような痛みがします。
肘を起こし立ち上がろうとしてもうまく立てず、目を回したように部屋が揺れています。そしてこみ上げてくる吐き気。こらえきれん。
「うっ……」
ヒミコさんはいつのまにか起き出して、わたしの二日酔いの一部始終をスマホで動画撮影しています。
「み、見ん、な……」
必死に抗議しても、彼女は御構い無しに撮影を続けるのです。
吐瀉物で床を汚したのは悪いと思いましたが、それでも一夜を共にした人間に対する配慮が欠けています。武士の情けもありません。
「はーい、よくできました。すっきりしたね」
明るい声がわたしの真上から降ってきます。頭痛はひどいし、まだ吐き気は残っていましたが、少し落ち着いてきました。
ヒミコさんはわたしをお姫様抱っこでシングルベッドに横たえ、床を苦もなく掃除し終えると、シャワーを浴びに行きました。
わたしは、いつもの癖で自分のスマホを枕元に向けて手探りで探しましたが、家に置いてきたことを思い出します。
ずっと考えていたのは、竜ちゃんのことです。優越感と負い目と、やっぱり竜ちゃんに会いたくなりました。
「美嘉ちゃん、何か食べる?」
「いえ、今はちょっと」
寝室の入り口に立つ下着姿のヒミコさんに、わたしは体を横に倒してめんどくさそうに答えます。
そういえば裸だった、わたし。
「離婚裁判はまだかな」
お昼近くに遅い朝食を取ります。伊万里焼きの皿にコーンフレークを山盛りにして二人でつつきました。
「うちは、家庭円満ですけど何か?」
「あらそう、修復したのね。何だー、つまんねえの」
人の不幸を肴にするつもりだったんです。この人は。
「で、結局夫婦喧嘩の原因は何だったの?」
家庭の恥を話すのはためらいましたが、助けられた手前黙っているわけにもいきません。
母は、パソコンの履歴を見たのです。それだけなら問題なさそうですが、あれは家族共用なのです。つまりわたしが、竜ちゃんのインスタを見た履歴が残っています。父が、わたしの同級生に欲情したと母は早とちりして怒っていたみたいです。
「浅ましい雌ですよ、全く」
呆れたようにわたしが言うと、ヒミコさんはくわえていたスプーンをテーブルに落下させました。木のスプーンだからあまり大きい音はしません。
「美嘉ちゃん、私のことも軽蔑してる?」
不安げに上目遣いする彼女を安心させる言葉をわたしは、知りません。駆け引きとか面倒ですし。
「さあ、どうでしょうね」
「あーん、年下に翻弄されてる私! 好きにして」
ヒミコさんはひどく上機嫌です。歌ってる時のアンニュイさは嘘のよう。
デレたら、正直うっとおしいと感じました。でもまだこの時は序の口だったのです。
九
無断外泊を詫びる必要があります。電話口の母は平静でしたが、苛立っているのがわかりました。竜ちゃんの家に泊まったと嘘をつき、帰ってから詳しい話をすると約束して、そそくさと電話を切りました。
次に竜ちゃんの電話をしようとダイヤルを押して、何度か電話番号を間違えてしまいました。普段スマホに登録していたので覚えが悪いのです。
「あ、美嘉ー」
竜ちゃんのミルクのような甘ったるい声を耳にすると、何故か胸が締め付けられました。
口裏合わせをお願いすると、
「うーん、いいけど。変なことに巻き込まれてない?」
「平気……、うぅんっ!」
会話中に横隔膜から変な声を出してしまいました。ヒミコさんが背後からわたしのシャツの襟の中に手を入れてきたからです。しかも胸を鷲掴み。痛えなクソ。
「竜ちゃんのこと、大好き……、だからね」
吐息混じりになってしまいました。恥ずかしい。
竜ちゃんが生唾飲み込む音が生々しく聞き取れます。引かれちゃったかな。
「私も、美嘉のこと大好きだから。早く家に帰ろ? ね?」
「うん、わかってる。バイバイ」
電話中ずっとヒミコさんは聞き耳を立てていました。受話器を戻すとやっとわたしの襟から腕を引っこ抜いてくれます。
「見せつけてくれちゃって。でも美嘉ちゃんは私のものなの。忘れないで」
独占欲って奴を覗かせます。モテる女つらいです。あはは……
それにしても、ヒミコさんの家から竜ちゃんに電話をかけるのが、こんなにドキドキするとは思いませんでした。何だか癖になりそう。
家に帰ると案の定、母に頬をぶたれました。いやらしい子などと、玄関でひどく罵られました。父はまあまあと役にも立たない仲裁で存在感をアピールしていました。
実際、いやらしいことは散々したんですけどね。キスもそれ以上も、お酒も飲みましたし。母に洗いざらいぶちまけてもよかったですけど、わたしはやさしい娘なので心配かけてごめんなさいと素直に頭を下げました。
部屋に戻ってまず行ったのは、ヒミコさんに電話をかけることでした。
「大人になった気分はどう?」
「頬がじんじんします」
ヒミコさんは、少し間を置いて笑いました。
「美嘉ちゃんが私を誘惑したせいでしょ。本気にさせた責任とってよね」
どこまで本気なんだろう。少なくとも、わたしは年の離れた彼女の気持ちを手探りする他ありませんでした。
夏休みは竜ちゃんと遊びに行くと言っては、ヒミコさんと過ごしました。ヒミコさんも夏休みでしたから二人でクーラーのある部屋にこもり、暑い夏をやり過ごすのです。
時に、ヒミコさんのギターで、わたしが歌ったり、写真を撮られることもありました。絵を描くこともあり、デッサンを教わりました。スケッチブックを一冊塗りつぶす頃には、わたしも画家の端くれ……、になれたらよかったんですが、静物だけはそれなりに人に見せて恥ずかしくないものを作成できた気がします。
出会った当初からヒミコさんは髪を伸ばし初めていたのですが、それは肩口に達しようとしていました。それだけならいいのですが、わたしにも髪型をするように強制してくるようになりました。
わたしは女の子らしいものが好きではありませんので、やんわりお断りします。
「あっそ、じゃあいいよ」
その時は、突き放すように話をやめてしまいました。
それだけではありません。下着や、服まで同じコーディネートにするように指定しきたのです。
「双子コーデって流行ってるじゃない。やりましょうよ」
二人で行ったH&Mで、アースカラーのシャツを見つけたのですが、わたしに合うサイズがありませんでした。店員さんに聞いても品切れだそうでわたしはあきらめましたが、ヒミコさんが引き下がらず、大変なことになりました。
「何でないのよ! 取り寄せなさいよ」
危うく警察沙汰になりそうな気配でした。店内に響く金切り声に、身がすくみました。
一人で逃げ出したくなりましたけど、ヒミコさんを残して行ったら、どんなリベンジがあるかわかりません。恥ずかしい写真をたくさん撮られているのですから。
「私ね、美嘉ちゃんみたいな妹が欲しいと思ってたの」
ヒミコさんの部屋に行くと必ずアールデコ風の装飾のついた三面鏡に座らされ、わたしは髪を梳かれます。
「髪伸ばした方が絶対似合うのに」
切なそうにわたしのつむじの鼻を埋め、呼吸されると、わたしの雌が吸い取られて無くなる気がします。
わたしが雌ではなかったら、こうはならなかったでしょう。ヒミコさんはどうしようもなく女の子が好きな雌なのです。




