神道あやめの悩みの種
「なぁなぁ。タグって絶対に裸見せないよな」
「はぁ?」と怪訝な顔を見せるタグ。「お前、いつから変態に目覚めたの? キモチワルイ」
「変態とは失敬な。体育がある日は必ず、あらかじめ着込んでいるし、先週大雨にあっても、上からジャージを着るだけで決して人前で着替えようとしないよな。何故?」
「お前みたいな変態に目をつけられないようにするためだよ」
「若い子は鎖骨を見せなきゃいけないんですよ、特に女子は」
「残念ながら、自分の鎖骨はとてもエロいので、見せたくとも見せられないんです。ま、それ抜きでも、自分は十分可愛いからいいけど」
「否定どころか自慢しやがった、このカマ野郎」
「だって事実そうだし」
「女装していない状態で言われてもなぁ……。しかし、そこまで言うならば、糸音ちゃんを呼ぶから、俺らが確かめてあげよう。逃げるなよ、絶対逃げるなよ」
「逃げるなと言われると、逃げたくなるのが自分なんだよ、バーカ!」
「あっ、てめぇ!! 逃げるなと言っただろうが!」
隙あり、と走り出すタグを追いかける紅厨――を神道あやめは遠くから眺めていた。
「はぁ……やっぱり残っているんだ……」
――十年前に彼女が付けてしまったあの傷が。
「見た感じ、生活に支障はないっぽいけど、だからと言って跡形も残っていない訳じゃないよなぁ」
むしろ、無事である方が奇跡なのに、何を欲張っているんだろう。
そもそも私は何を思ってそれを望んでいるんだ?
必死に傷を隠し続ける彼?
それとも、罪悪感から逃げ出そうとしている私?
「誰から見ても、後者に決まっているよねぇ……うあぁー、もう自分が嫌いになりそう」
「後者って何のことですか、神道さん?」
「ふぇっ!? あ、あわわわっっ!! し、糸音ちゃん!?」
「うちゃーす」
あやめが顔を上げると、そこには玉響糸音が同じようにしゃがみこんで顔をのぞき込んでいた。
しかし、その右手には普段しているパペットが存在していなかった。
「わ、わわ、私に何か用かな!?」
「悩み多き神道さんが普段に増して悩んでいる――むしろ、塞ぎ込んでいる様子でしたので『よっしゃ! これはからかいに行けねば』と参上した次第でりますが、いかかでしょうか?」
「恐ろしいまでに正直に語るんだねぇ」
「もしかしたら、最近、私と紅厨さんが、タグさんとよく吊るんでいることが不服でいらっしゃるのではないかと。まさかまさかで、私がタグさんのお隣を奪っているではないかと。不倫関係を結んではいるのでないかと戦かれているかと思われましたが――事実、お隣は奪って、三人マフラーをトライした身ではありますけれども――どうやら原因は別にあるようで」
「その身長差でよくできたね」
紅厨もタグも身長は百七十センチ前後だ。に対して、糸音はそれを二十センチ以上下回っていたはず。仮にできたとしても、もはやマフラーとしての役割を失っているのでは?
「はっはっは。ご心配なく。御二方に肩をお借りしましたが、おかげで足が攣りました」
「攣っちゃったのかぁ」
「ついでなんでブランコもしていただきました」
「楽しそうだねぇ」
「えぇ。その時、ちらっと制服の中が見えちゃいましたが、きれいなまでに紫色していましたよ」
「…………っっ!!」
「冗談ですよ。試しに鎌をかけてみましたが、やっぱりそちらが原因でしたか。別に気にしなくてもいいと思いますけどなー」
でも、気にしちゃうんだよなぁー、と歌うように言う糸音。
口を開いて軽やかに、あの少年の前では決して聞かせない鈴の音のような声で――どこか悲しげに、
「――ホント、気にするぐらいならぶちまけたらいいのに」
誰にも聞こえないほど小さな声で。
でも確かに彼女はそう呟いた。
「何か言った?」
「いえいえ。ただ、お互い大変ですね、ってしみじみと思っただけです。あぁ、そうだ。私でよければ、相談に乗りますよ? 仲拗れ経験なら豊富ですから」
「自慢していいことではないと思うんだけどなぁ」
糸音からの誘いを笑ってかわそうとしたが、あやめの顔を見た途端、彼女は「ぷふっ。なんすか、その顔」と吹きだした。一応、あやめが年上なのだが、敬わられていない感はなんだろうか。
まさに慇懃無礼。
これは玉響糸音のみならず、諜報班全員にも言えることだが、ただ単に敬語慣れしていないこちらの問題だろうか?
「ま、老い先ならぬ、老い後短い未熟者が人生の先達者に言えることなんて何一つありゃあしませんけど。いやだからこそ言えることかもしれませんけど、ここはあえて切腹覚悟で申しあげますが」
「切腹覚悟なんて大仰な」
「おっと、これは失敬。先輩に合わせて言うなら、爆死――いや、磔刑ですかね――とりあえず、決死の覚悟でぶっちゃけちゃいましょう」
右手の親指と、薬指をわずかに動かす。普段の癖でつい、手元にないものを操ろうとしていたみたいだ。現に、右手の状態に気付いた糸音は、すぐさま隠した。
「えぇっと、なんでしたっけ? そう。つまりはですね、はい――気になることはさっさと訊くに限りますよ」
「いや、それは流石にぃ……突然すぎない?」
「甘ったれたことを言っていると、いつまでたっても訊けやしませんって。その代表者たりえる人物を私は知っていますもん。滑稽と言うか哀れと言うか、見てて楽しいものではないですよ。自分のみならず、他者にも迷惑がかかりますってば。それこそ、自由論が覆るほどに」
「じ、自由論?――ってなんだっけ?」
「ミル著書のとりあえずすごい奴です。オンリバティー。少年よ、束縛からの自由を手に入れろ」
「うん、最後のは絶対に違うね」
「いやいや、ところがどっこい真実なんですよ。江戸時代末期、仕事関係で出島に訪れたミルがちゃんぽんを食したそうです。ラーメンともうどんとも言える、何ともどっちつかずな、けれどもとてもおいしい。このコラボレーションは異国の文化に触れることが極めて多い出島でしかなし得ない。まだ、鎖国中だった日本にある唯一の異国文化。これこそが真の自由ではないかと。何者からの束縛から抜け出すのではなく、それらを繋げていくことで、新たな道を生み出す――あぁ、なんと素晴らしきかな、ちゃんぽん。インスピレーションを受けたミルは、帰国後にこの『自由論』を書きあげたわけです。一見、馬鹿げた法螺話のようにも聞こえますが、それを言い出したらニュートンだって、お風呂場で『我、発見したり』と叫んだあの人だって十分馬鹿げているじゃあないですか」
要は、科学者や哲学者は、箸が落ちるだけで大笑いする女子高校生みたいなものなんですよ、と締めくくる。ここまでの長文を一息で言い切るとは。いったい何が、普段は糸で縫われているかのように動かない彼女の口を、そうさせたのだろうか。
「これだけ言えば、私は嘘をついていないとお判りでしょう?」
「う、うん。疑っちゃってごめんね」
「分かっていただけただけで十二分です」満足げに頷く糸音。「欲を言えば、ちゃんぽなーの一員になってほしいものですが」
「そんなことを企んでいたんだぁ……」
「えぇ。一世界ちゃんぽん連盟――略して、IOT会員としての責務を果たすべきか悩んでおります。時に、あやめさん。あなたは麺類がお好きですか?」
「わ、私? 私はそこまで好きじゃないなぁ」
「ありゃ、それは残念。ではでは、私はそろそろ紅厨さんを止めに行かなければなりませんし。久々の合同任務なのに、完全に忘れてやがりますね。あの人ったら、合同任務がある日は必ず仕事を入れるんですよ。ねぇ、あやめさん。紅厨さんは落神祈さんのような方がタイプなんですか」
だとしたら、あなたとは比にならないほどの大問題ですよね。
さらりと残酷なことを言う糸音。今更だが、いつの間にかあやめのことを「神道さん」から「あやめさん」と呼ぶようになっていた。
とっつきにくそうなイメージがあったが、実際は人懐っこいのかもしれない。悪く言えば、ぎりぎり馴れ馴れしい寄り。
彼女に接すれば接するほど、紅厨に似ているような気がする。
「あぁ、えっと……それは違うよ。仕事の時は息が合っているけど、普段はよく喧嘩しているし。前に、付き合うなら糸音ちゃんみたいな子がいいって言っていたから、自信持っていいよ」
「糸音ちゃんみたいな子、ですか……。本人とみたいなこの間にはどんな違いがあるのでしょうかねぇ」
「それは……」
言いよどむあやめ。答えを知らない訳ではない。だが、そんな情報を与えて良いものだろうか。殺戮班内ですら、ごく僅かな人間しか知らないのだ。それだけ、公に知られるのはまずいということだ。個人で済むものではない――場合によっては、貴重な戦力が削られてしまう。
「――やっぱり、お兄ちゃんが理由じゃないかな? なんやかんやでお兄ちゃんっ子だし」
「でも、予算会議の時、依頼とは言え、殺そうとしましたよね?」
「身内殺しは許可されているから。たまにそういう訓練もしているんだよ。一週間以内にこいつを病院送りにしろー、みたいな感じで。ランダムだから結構怖い、怖い」
「はぁ。流石は実力主義者ですね。でもやっぱり、怖くはないんですか? うっかり殺しちゃったらどうしようって」
「あまり気にしていなかったけど、やっぱり、この程度なら死なないだろうって信頼かな。何かあっても医療班が助けてくれるっていうのもあるけど」
「ふぅん。じゃ、そんな風にタグさんを信頼すればいいじゃないですか」
「え?」
「おっと、これは流石に時間が押してきていますね。では、あやめさん。お先に失礼します」
好き放題言いたいだけ言って糸音は消えていく。取り残されたあやめはただ茫然と、糸音が言った言葉をひたすら反芻していた。
「信頼……信頼……信頼、か。それができたら、楽だよぉ」
気にしていないのではなく、無理やり忘れようとしていたとしたら、訊ねるのは非常に悪い。ただでさえ、十年ぶりにあったのにいきなり恋人だ。自分はタグのことが好きでも、相手は勢いに流されただけかもしれない。
そもそも、自分は彼のことを何一つ知らない。
「うわぁあああ、どうしようぅ。こっちの我儘につき合わせているってことだよね。次からどんな顔して会えばいいんだろう……」
「どうして?」
「糸音ちゃんの所為に決まっているで――うわわあああああ!!」
糸音が戻ってきたのかと思いきや。後ろにいたのは悩みの根源であるタグだった。
「あれ? えっ? どうしてここに? 紅厨君と一緒にいたはずじゃ……」
「ん。お義兄さんにセクハラされたと訴えた」
「あぁ、なるほど……」
そこまで言われたら、そのあと紅厨がどうなったのかは想像に難くない。さすがに、任務に支障が出ない程度に抑えるだろうが、怪我人と一緒に仕事と言うのはなかなか気分の良いものではないだろう。
まぁ、紅厨の負傷率の高さを鑑みれば、やはり気にするほどではない。
「なんにせよ、お疲れ様。あの紅厨君から逃げるのは大変だったでしょ」
「…………足の傷がまた開くかと思った」
「なんで、途中で降参しなかったの!?」
「あいつに負けるのだけは嫌だ」
「気持ちはわかるけど、紅厨君と張り合っちゃだめだよ。日頃の態度によらず、結構強いんだよぉ。一応ダブルエースコンビなんだからぁ」
しかも、おそらく紅厨は本気で走っていない。走れない。
普段から七キロ、プラス任務用に三キロ分の銃火器が積まれている。十キロ違いは結構大きい。それでも、殺戮班の誰とでも渡り合えるのは流石かもしれない。
「突然変なことを言い出しやがって。見たって得しないのに。そう思わない?」
「……じゃあ、見たら損するの?」
「は?」
「え? ――あ」
うっかり、口走ってしまったあやめ。それを聞いたタグは思案顔になっていた。
「き、気にしないで! ちょっと、軽い気持ちで言っちゃっただけだから。すぐに忘れて!」
「まだ十年前のことを気にしているのか?」
「っっ!? ……えっと、それはそのぉ」
「ぷふっ。くくくっ。あはははははははっっ」
大声をあげて笑い出すタグ。それは数十秒に亘って続き、そのあとは笑い疲れたのか、しゃがみこんだまま動かなくなった。
「タ、タグ……?」
「馬鹿だな。お前、最高に馬鹿だよ。紅厨以上に馬鹿だ」
「た、確かに成績は紅厨君には劣るけど……」
「気にしているよ」
「え?」
「怪我のこと気にしているよ」
「…………あ」
「昔ほどじゃないけど、かなり痕が残っているし、たまに痛くなるし……正直つらい」
「……ごめん。私の所為で――」
「でも、気にし出したのは最近なんだよな」
あやめの言葉を遮る。
顔を隠れているため、タグが何を考えているのかわからなかった。
「つい一、二年前までは、その日を生きていくのがやっとで、気にする暇なんてなかったからな。それが原因かと思ったけど、違ったんだよ。単純に、一番気にしていたものがなくなって、心に余裕ができたからだった」
「それって、どういう――」
「なぁ、あやめ。この前、お前の名前の由来を聞いたんだけどさ――」
突然、立ち上がると、あやめの頭の上に手を置き、思い切り動かした。
「――いい名前じゃん」
「…………うん」
それは小さい頃の思い出。
「あ。泣き虫が珍しく本読んでいる」
「ひどい。私だって、本ぐらい読むもん」
「ふぅん。で、なんて書いてあるんだ?」
「これはね、いろんな花について書いてあるんだよ。ねぇねぇ、これ可愛いでしょ」
「あ、アイ……アイリス? これ、可愛いのか?」
「当たり前じゃん。馬鹿なふたぼくろには分からないのね。でね、アイリスの花言葉が素敵なんだよ。『あなたを大切にします』なんだよ! 憧れるよねぇ」
「何? お前、この花好きなの?」
「うん!」
「…………これにするか」
「ん? 何か言った?」
「別に。お前みたいな馬鹿にはわからない話だよ」
「教えてよー」
「内緒っつってんだろ。いつか、教えてやるよ」
「えぇー」
結局、それを教えてもらうことは一生ないだろうけども、今となってやっと、その意味が分かったような気がする。
私も。
あなたを一生大切にします。