9 迷いの消えた瞳の見るもの
黒い髪と黒い瞳を持つ美しい少女が、天に向かって叫んでいた。
「私はこんな力を求めていたわけじゃない。あなた方にこんな助力を望んだわけじゃないんだ」
天空は輝きで満たされ、翼人たちが空を埋めつくしていた。
少女の瞳は、はるか遠くの何かに投じられている。
「こんなものが、これが勇者だというのなら、私は――」
少女が絶叫した。
「希望になどならない!」
能動はゆっくりと覚醒した。
隣へ視線をやると、すぐ近くにオフィーリアの顔がある。長い睫毛が、呼吸にあわせて小さく揺れていた。
かすかな寝息が耳に届く。
能動は、側に立てかけられている剣に手を伸ばした。ひんやりとし感触が肌を通して伝わってくる。
鍛えられし希望という名を持つ神剣を手にした時から、さまざまなイメージが彼の中に流れこんでくるようになった。
この剣の本当の持ち主の記憶だろうと、彼は考えている。
そのすべてが、怒り、悲嘆、後悔、というネガティブな物で、勇者という言葉にあまりにそぐわない感情の吐露ばかりであった。
ここ一月二月の間は、特に、非常に強いイメージが、能動の脳に流れてきていた。
その頃から、彼は会議で口数が大幅に減り、具体的な指示を出すこともしなくなった。
迷い――が生じていたのだ。
多くの人間が、彼の言葉を信じて死んでいる。
自分は、その期待に応えられる人間なのか?
自分の言葉は本当に正しいのか?
能動は、常に問いつづけるようになり、その行為が彼から自信を奪っていった。
昨夜、能動は、坂棟と会話を交わした。
彼は、能動にとって、同じ日本人として、ある意味最も壁のない状態で話せる相手だった。
その夜の風は、幾分の冷気を含んでいたが、春の匂いを感じさせた。
二人の知る、日本の桜の季節に似ていた。
「なぜ、力を貸してくれるんだ?」
能動は、坂棟が同郷人であることを知っていた。
だからこそ、余計にこの戦いに参加してくれる理由がわからなかった。危険が大きいばかりで、何の益もないのだ。
「なぜ、能動は彼らのために戦っている?」
「そうか……」
能動は笑った。
やや力感に欠ける笑みだった。
彼自身も利益を求めて戦っているわけではない。
「僕は正しいのだろうか」
「間違っているだろ」
能動は思わず、坂棟の瞳を睨んだ。かすかに敵意がまじったことは、本人も自覚している。
「俺たちのいた日本の常識じゃな。ただ、ここは日本じゃない」
「……そう日本じゃない」
「正しいかどうかの基準は、俺たち自身で一から作るしかない」
「ああ、そうだ。少なくとも、僕はパルロ国の常識は間違っていると考えている。だから戦っている。坂棟も僕の考えに賛成してくれているんだな」
「俺はこの国の王の考えを聞きたいね」
「王の考え?」
「ああ、俺は各地を回っていたから、いくらかパルロ国のことを知っている。基本は能動の言うように、許せないことばかりだが、違うところもあった」
「それは、ごく一部の者たちが頑張っているだけだ」
「いや、そういうことを言っているんじゃない。なぜ、王は例外を認めているのかということだよ。同じ奴隷制度でも、あっちは自由度が高く生活環境もいい、だが、こっちはすべてが最悪となれば、誰だって良い環境を選びたくなるし、環境の違いを認識して奴隷も反発するかもしれない。最悪、支配体制がうまくいかなくなる可能性だってある」
「……よくわからないが、気づいていないだけじゃないか?」
「かもな。それで、能動は、この国の王に対してどういった印象を持っている」
「印象……強い、だろうな」
「それだけか? 能動は、これからどうするつもりでいる? 新たな国をつくるつもりか? パルロ王と交渉するつもりはないのか?」
「――いや、何も考えていない」
「何も考えていないようには見えないが、まあ、これから考えるにしても、王のことは無視できないだろう。この国では、王が強い権力を持っている。彼を知っていて損をすることはない」
坂棟は大学生という話だ。
能動よりも二つ上だが、二年の経験の差だけが、言動の差として現れているとはとても思えない。
資質の差だろうか。
「坂棟はいったい何者だ?」
「坂棟克臣、日本人としかいいようがない」
「何のためにここにいる?」
「ずいぶんな言いようだ」
「坂棟は、どこか違うところに自分の本当の居場所があるんじゃないのか?」
「だとしたら?」
「なぜ協力するんだ?」
「――能動、君と話すために俺は来たんだ」
坂棟の口調はどこか試すような響きがある。
「僕と?」
「ああ、そのつもりだったが、状況を見ると、判断に迷った。君こそ、いったい何をやるつもりなんだ? 俺は、君が何をつくろうとしているのかが、さっぱりわからない」
「僕は皆を救いたい」
能動の本音であった。
だが、何と曖昧なものだろう。
「君は、トップなんだから明確な形を示さなければならない。この戦いが終わったら、きちんとつくるべきだ。人間が生きていくためには、食べなければならない。そんな当たり前のことを実現させるために、何をするべきなのかを考えた方がいい。彼らは死ぬために生きているわけじゃないだろう?」
「本当に何者なんだ? その仮面も含めて」
「さあな。でも、能動が形を整えたら、いろいろとわかるかもしれない。形とは人だぞ」
「……坂棟は、僕に何かを期待していて、それが果たせなかったんだな」
唐突に思いついたことだった。
本来、坂棟は、戦うためではなく、他の何かをするために能動に会いにきたのではないか。
取引のような何かを……。
だが、彼が訪れた場所、そこにあったのは、ただの人間の集まりでしかなかった。社会的秩序からほど遠い、未熟な集団。
「俺から言えることは、戦場に立ったら迷うな、ということだ。おまえは旗だろ?」
「ああ、わかっている。大丈夫だ。まず、勝ってから、すべてはその後だ」
新たな国?
バカげている。
能動は、暗い天井を見ながらそう思う。
だが、どこかで自分が求めていたのはそれだったのではないか、との思いがある。
当たり前のことが、当たり前に許される世界をこそ、彼は望んでいたのだ。
そんな世界を実現するのは戦ではない。
創ることだ。
もっとしっかりと人を見なくてはならない。
一六万の人間の中には、国をつくるという大きな仕事に貢献できる者たちが、いくらでもいるはずだ。
十人会議ではまったく足りていない。
そう、次の戦いが終われば、解放軍は大きく変わらなければならないのだ。
それは、戦以上の大きな戦いとなるだろう。
だが、やりがいはある。
少なくとも、夢に出てくる勇者のように、絶望を背負うようなことにはならない。
「どうかしたんですか?」
「ああ、悪い。起こしたかな?」
「いいえ」
オフィーリアがじっと能動の瞳を見つめる。
暗闇なのでわからないが、おそらく彼女は、その青い瞳を能動に一心に投じているのだろう。
「大丈夫だよ」
「私にはすべて話してください。他の誰に言わないことでも、私には話してください。私はすべてを受けとめます」
「そんな深刻なことじゃない。いや、大切なことなんだけど、これからのことを少し考えていたんだ」
「これから――ですか?」
「ああ、今回の戦いが終わった後に、一度きちんとしないといけないと思って」
「何をです?」
「皆のこと。みんな戦うために生きているわけじゃないからね。あと、もちろん、オフィーリアのことも」
「私、ですか?」
「ああ、僕たちの関係ももっときちんとした形にしないと――神官は結婚できないとかないよね」
「ええ、ええ、でも、そんな……」
「ああ、えっと、この話は、きちんとするから。だから、えっと、こんな寝起きで話すことじゃなくて」
「――わかりました、そういうことなら」
オフィーリアは能動に抱きついた。
彼女は頬を能動の胸にあてている。
「うん、今度の戦いが終わったら、全部変えなくちゃ」
「私も、次の戦いは傍で戦っていいでしょうか?」
「それは、ダメ。神官はヒューマン同士の戦いに参加してはいけない決まりなんだろ」
「はい、そうですけど。でも、今度の戦いは、大事な戦いでしょう? 私は、あなたの傍にいたいのです」
「どうしたの? これまでそんなことを言ったことはなかったのに?」
「これまでも思っていました。我慢していたのです。もともと、あなたと私とで始めた戦いです」
オフィーリアが身体を起こし、真上から能動を見おろす。
彼女の髪が、能動の頬に触れた。
「もちろん、僕たちの戦いだよ。オフィーリアが戦場で力強い仲間となることもわかっている」
「では、私もあなたと一緒に戦います」
「君みたいな勇敢な人にこそ、あの剣はふさわしいのかもしれない」
「鍛えられし希望ですか? 勇者に選ばれたあなたが持つべきものです」
「――どうだろうね」能動は、そっと彼女の頬に触れた。「オフィーリア、今回はダメだ」
「どうしてもダメなのですか?」
「ああ、大丈夫。勝つから」
「生きて、私のところに戻ってきてください」
「約束するよ」
「本当ですよ。私は、あなたが死んだら、自ら命を絶ちます」
「それは困る」
「なら、あなたを生き返らせます」
「無茶な」能動は小さく笑った。「大丈夫。ちゃんと君のもとに帰る」
二人の影が重なった。
翌朝、能動は十人会議を招集した。
「オーダルオン城塞をとる。そのために王軍を破る。これは、すべてを変えるための戦いだ。今回得られる勝利は、これまでの皆の苦労に報いる勝利となるだろう」
能動は全員に語りかけていた。
誰にも発言を許さない空気がある。
「僕たちに小細工など無用だ。全総力を挙げて、王軍を叩きつぶす」
能動の瞳に迷いはなかった。




