3 幻竜シャインラトゥ
青と白の鱗を持った美しい竜である。
竜身の時のハルと同じように流れるような巨体を持ち、地上の強者として君臨しているものにふさわしい威圧を放っていた。
坂棟と竜の間には、良好とは言い難い空気が流れている。
「どのような手段によってかは知らぬが、竜王を従えたか」
「竜王?」
坂棟は隣に立っているハルを見る。
彼女は小さく笑った。
「それで、竜王をも従えた人間が私に何を望む」
「俺が、あなたに望む?」
「そうだ。人間が私に会いに来る時、彼らの多くは財宝を求め、または武器を求める。あるいは、強さそのものを求め、美女を求める。さあ、おまえの望みは何だ? 何を私に願う?」
「ない」
「何?」
「ない。あんたに叶えてもらうような願いはない。だいたい、望みや願いは、自力で叶えるべきものだろう?」
「傲慢な口を利く。それでは何をしに私の元まで来た?」
青い宝玉のような瞳が坂棟を見つめる。最強種にふさわしい傲岸な色がそこにはあった。
「それは――」
坂棟が隣を見た時、そこには誰もいなかった。彼が顔を戻すと、竜の顔を殴る美女の姿があった。
竜の顔が勢いよく吹っ飛ぶ。
「決まってるでしょ。あんたをぼこぼこにするためよ!」
楽しそうにハルが宣言した。
坂棟は自身が苦笑しているのを自覚する。脇腹が痛いのを、我慢して見せなかったのはよくなかったのかもしれない。
「それでハル、ぼこぼこにするのは誰の役目だって?」
坂棟の前に着地すると、ハルは彼に微笑んだ。
「もちろん、あなたの役目です。私の主人であることを証明してください」
「主人になった覚えはないな」
「一生仕えよって言ったじゃない」
ハルが大きく跳躍した。
彼女の姿が消えたところから、入れかわるようにして青い光熱波が坂棟に向かってきていた。
坂棟は周囲に力場を作って受けとめる。
「なるほど少しはやるではないか」
「なんなら、ここから一歩も動かずに相手をしようか?」
「竜王である私を愚弄するのか」
「分をわきまえていないのはどっちだ?」
坂棟は竜を挑発した。
半ば演技である。
力押しであれば、勝負できる。それは、ハルとの戦いが証明していた。だが、動き回るような戦いをすれば、負傷している分だけ後れをとる可能性があった。
三つの青い光球が竜の前に生じた。
坂棟は前方に防御を集中する。
まるで彼の対処を嘲笑うように、背後から大きな衝撃が彼を襲った。
坂棟は前のめりになる。胸に鋭い痛みが走った。
「――がっ」
基本的に全方位に坂棟は防御の力場を作っているが、それでも、攻撃を受けた時はそこに力を集中して防ぐ。その方が効率的であるし、安全でもあるからだ。
そして、今、坂棟はそれを逆手にとられた。
竜は、正面から攻撃すると思わせておいて、背後から攻撃をしてきたのだ。
もちろん、正面からの攻撃も連続して行ってきたが、坂棟は防いでみせた。
「なかなか良い性格をしてる」
坂棟は竜から距離をとった。
「どうした? 動かないのではなかったのか?」
「見学することにした」
「何?」
「お勉強の時間だよ」
「これは実戦だ」
――右と思えば、左。
――前と思えば、後ろ。
左右を警戒すれば、上下から。
何とか防御をしているが、坂棟は翻弄されていた。
ボクシングで言えば、ぎりぎりのところでグローブで防いでいるが、相手のパンチ力が大きく衝撃が突きぬけてくる状態である。
力を殺しきれていないのだ。
折れた肋骨がきしみ、痛みが神経を切り刻む。
坂棟は、全方向に意識を集中させる。また、力を静かに流れるように意識した。
大ざっぱでは駄目だ。
もっと鋭く繊細に力を練り、広い視野を保つのだ。
目の前の竜の攻撃は多彩である。各種フェイントを織り交ぜている。
ハルとは大違いだ。
ハルとは大砲の撃ち合いだった。持っている力はどちらが上かを比べるという単純な戦いの方式である。
だが、今回は異なる。
駆け引きが求められ、対応する引きだしがなければ互角に戦えない。そして、坂棟には引きだし自体がそもそもなかった。
経験が圧倒的に不足しているのだ。
内にある力が圧倒的であるからこそ、いまだに坂棟は竜と対峙することができているのだろう。
自分の方が不利な状態にある。だが坂棟は楽しんでいた。自らが強くなっていることを、現在進行形で実感しているからだ。
彼は、実戦から急速に学んでいたのだ。
坂棟の周囲で連続して小爆発が起こった。
坂棟は周囲に力場を張り、自らを守る。
――おかしい。
派手ではあるが、坂棟にとってはたいした威力ではない。この程度の攻撃ではきかないことは、相手にもわかっているはずだ。
性格の悪そうな目の前の竜が無意味な攻撃をするはずがなかった。
坂棟は本命の攻撃に対してセンサーを張る。
だが、その時はなかなか訪れなかった。
この時、坂棟はすでに竜の術中にはまっていたのである。
連続した爆発が収まると、青白い淡光が雪のように一帯に降りそそぎ、世界を幻想的に彩った。
乱反射する光の煌めきの中、坂棟は戦闘中であることを忘れたように呆然とたたずんでいる。
竜の名をシャインラトゥという。
「幻竜」あるいは、「幻光竜」と人間からは呼ばれていた。
シャインラトゥは、幻を見せる力を有しているのだ。
見たことのある玄関がある。
坂棟は誘われるようにしてそのドアを開けた。
よく見知った廊下だ。左のドアを開ければ、リビングへと続く。テレビやソファーが置かれていて、家族の誰かがいつもくつろいでいた場所だ。
坂棟はリビングへと続くドアを開いた。
「あら、お帰り。ちゃんとただいまって言った?」
玲花がちょっと怒ったように、坂棟に言ってきた。
日常がそこにはあった。
黒いソファーに、ガラスのテーブル、大型テレビではバラエティ番組が流れている。
「いや」
「ダメでしょ。挨拶はしっかりしないと」
懐かしさが坂棟の胸に生じる。
彼のよく知っている、健康的な玲花の姿だった。春のような優しさと温もりを感じさせる、彼の姉だった人である。
「そうだね……」
「あなたは何でもできるだから、きちんとしてよ。できないことなんてないんでしょ?」
「………」
「――ああ、でも、できなかったことが一つあったね」
玲花の顔から生気が消えうせた。
痩せ細り青い血管の浮いた肌。落ちくぼんだ目。骨しかないような腕が坂棟の頬に触れた。
「なぜ、あなたは私を助けてくれなかったの?」
「あなたは凄い人なのでしょう?」
「あなたが余計な事をするから、十弦は怒った」
「私は死ななくてはならなくなった」
「あなたは何を望んでいたの? 本当に私のことを考えていたの? 私と一緒にいるなんて、あれは本心だった?」
「自分のモノが奪われるのが許せなかっただけじゃないの? 汚れたモノはもういらないと思っていたんじゃないの? ――私はあなたの好きな私じゃなくなったから」
弱々しい口調で言葉をつむぐと、玲花はゆっくりとうつむいた。
「私のことなんか、本当はどうでもよかった……そうでしょ?」
「人殺し!」
小さな声で呟くと、玲花が顔を上げる。
彼女の瞳は憎悪に染まっていた。
深い闇が視線と言葉となって、坂棟に襲いかかる。
「人殺し!」
玲花が坂棟の両肩をつかんだ。
「人殺し! 人殺し! 人殺し!」
醜く歪んだ顔で玲花が坂棟を責めたてる。
「新たな力を得て、今度は何人の人間を殺すつもり? 百人? 千人? 一万人? 一〇〇万人? この世界の人間すべて?」
「あなたなんか人間じゃない。あなたを必要とする人なんかいない。あなたは迷惑な存在。人の形をした災害――死になさい」
玲花が坂棟に優しく微笑みかけた。
容貌は艶っぽく変化し、危険な色気が漂っている。
花びらのような紅唇から、誘いの言葉がつむがれた。
「さあ、私のところへ――あなたは、私の傍にいればいいの。ずっと一緒にいてくれるって言ったよね」
玲花が手を差し伸べる。
無表情のまま坂棟は彼女の手を取った。
そして、彼は笑う。
そこに浮かんだのは、ひどく作り物めいた笑みだった。
「おまえは誰だ?」
「誰って、何を言っているの? 私のことがわからないの?」
坂棟は握力をいっきに強める。玲花が腕を引こうとするが許さない。彼は彼女の手を握りつぶした。
果物が潰れるように血が飛び散る。
「これは、竜の仕業か?」
坂棟の中に、懐かしさを含めさまざまな感情が生まれていた。言うまでもない、過去への追慕だ。だが、それ以上に強い感情が彼の胸の中で猛っている。いつもは胸の奥底に封じこめられている獣が、どす黒い怒りを養分として咆哮を上げていた。
「もう一度逢わせてくれたと感謝するべきなのかな、俺は?」
感情のない声。
表情の消えた顔。
坂棟の身体から力が爆発した。
荒々しく満ちた光輝が、玲花と過去の風景すべてを燃やしつくす。
確かに捕らえたはずだった。
しかし、それは一瞬でしかなかった。
目の前の人間に生まれた隙はすでにない。
だが、シャインラトゥは全力で人間を幻界へと誘ったばかりだ。竜王たる彼であっても、すぐに力を放出することは難しい。
坂棟の瞳に殺気と冷気が宿るのを、シャインラトゥは感じた。
坂棟の身体が眩い光りで燃えあがる。強烈な力がいっきに放射され、空気を弾いた。上昇気流が巻き起こる。
「覚悟はいいか?」
坂棟が呟く。
人間の身体を巨大な力が渦巻いていた。それは竜王さえも凌ぐものだ。
力の収束を坂棟に感じ、シャインラトゥは前方を防御する。
背後から重い衝撃が突きぬけた。長い首が前に傾く。
――これは。
予想外の方向から攻撃が飛んできた。先程までとはまったく異なる戦法であり、威力だ。
連続で衝撃が竜王を襲う。
――これは。
――これは、私のした攻撃ではないか!
坂棟はシャインラトゥの攻撃を再現していた。それだけではない、独自に各種攻撃を織り交ぜている。
しかも凄まじい速さだ。
さらに、一撃一撃が重い。
竜の巨体が大きく弾かれるが、即座に逆方向から攻撃が入り、倒れることは許されなかった。
シャインラトゥは防御一辺倒になっている。竜王が人間に圧倒されていた。
シャインラトゥの周囲で小爆発がほとんど同時に起こった。
――まさか、幻覚までも。
シャインラトゥが底知れぬ怯えを抱いた時、眉間にこれまでにないほどの痛みが竜を貫いた。
竜の鱗を突き破り眉間に埋めていた右腕を、坂棟は抜いた。
激しい勢いで流血が起こり、若者の全身を赤色に染めた。
数十秒の間血は流れつづけ、人間と大地を濡らしつづけた。
血の勢いがなくなり、同時に、竜の瞳からも光が失せていく。瞳からだけはなく、身体からも力はなくなり、竜は首をそのまま地に伏せた。
巨体の体重の衝撃に大地は陥没し、土砂が舞う。
坂棟は竜の眉間に足をかけたままの姿でいた。彼の指先からは血がしたたり落ちている。
坂棟が右腕に力を入れた時、彼の腕に白い腕がそえられた。
「この者は役に立ちます。あなたはこの世界のことを何も知らないのでしょう? この者の知識を有効利用してはいかが?」
「――契約をすれば、竜の力が手に入るのか?」
坂棟はハルに鋭い視線を投じた。
「わかるんですか?」
「答えは?」
「はい。あなたは大きな力を扱うことを得意だと感じているでしょう。それは、私の力を吸収したことに起因しているはずです」
「こいつが得意なものを俺のものにできるのか」
「おそらく」
「わかった」
坂棟は竜の瞳をのぞきこむ。
力を失ったシャインラトゥの青い瞳に、絶対的強者の光はすでにない。
「一生俺に仕えろ」
傲然として傲慢なことを、坂棟は竜に向かって言い放った。
人間と竜が強烈な光に包まれる。
暴竜に対して行ったことを、幻竜にも若者は行ったのである。
「私の名は、シャインラトゥと言います。以降、あなたに従うことを誓います」
坂棟の前で、青年が片膝を地面につき臣従の誓いを行っていた。
月夜の海を思わせる青みがかった長い髪、人跡のない処女雪のようにどこまでも白い肌をしている。今は顔を伏せているために、その長い睫毛がよく目立つ。睫毛に隠れた瞳は、宝石のような青い輝きを放っていた。
あまりに美しすぎる造形には、妬心もわかずただ賛嘆があるばかりである。
「俺は、坂棟克臣。よろしくな」
坂棟の中から、すでに怒りは失せていた。いや、獣は心の奥底で再び眠りについたというのが近いだろう。
シャインラトゥは、頭を下げたまま動かない。
「そういうのはいい。俺は王様じゃないんだから、大げさな礼儀は必要ないよ」
「わかりました」
優雅なふるまいで、シャインラトゥは立ちあがった。美麗な青年は、いちいちしぐさが絵になる。
「何とお呼びすればよろしいでしょうか?」
「ああ、そうだな……」
ハルよりもさらに頭一つ髙いシャインラトゥを見上げながら、坂棟は思案する。
とりあえず、ご主人様というのはないだろう。
かといって、坂棟と呼び捨てされるのも、おもしろくない。
「お館様とかどうだ?」坂棟はにやりと笑った。
「お館様ですか? 聞きなれない呼び名ですね」
「そうか、まあ、冗談だよ――」
さすがに大仰すぎる。
「よろしいじゃありませんか。私はそれがいいと思います。そうしましょう、決まり」ハルが手を叩く。「新しいというのが、とてもいい響きじゃない。竜を従えるのだから、それにふさわしい、新しい呼び名がいいに決まっているもの」
黙っていたハルが楽しそうに顔をほころばせた。
「そうですね。私も、よい尊称かと思います」
シャインラトゥは誠実な解答をしていると坂棟は感じたが、ハルは坂棟が嫌がるのを楽しんでいるように、彼には思えた。
このまま嫌がれば、ハルを余計に喜ばせるだけである。
それはちょっと癪だ。
べつだん、絶対に嫌だというわけでもないので、坂棟は従者の意見をいれた。
「じゃ、そうしてくれ」
「わかりました」と、シャインラトゥ。
「……あっさりと頷くんだ」ややつまらなそうに、ハル。
「こんなことで、悩むのもアホらしいしな――で、呼び名つながりで決めてしまうけど、シャインラトゥのことを、俺はラトと呼ぶことにする。嫌だったら拒否するように、今なら受けつけるぞ」
「――ラト。かまいません、お館様の呼びたいようにお呼びになっていただければ」
「そうか。ハルもそうだったけど、竜はあまり呼び名にこだわりがないのか?」
「人間ごときにどう呼ばれようと、興味ないから」
肩にかかる髪をハルが払う。
夜に近い深い紫色の髪が、流れるようにふわりと宙に舞った。
「堂々と従者に馬鹿にされたのか、俺は……」
「ああ、お館様は人間離れがはなはだしいので、人間であることを忘れていました」
ふふふとハルが笑う。
「いろいろとどういう意味だ?」
坂棟の問いに対して、ハルは笑っているだけだった。
「こだわりがない、ということはありませんね。確か、彼女が人間の町を破壊した理由に、呼び名が気にくわなかったというのもあったと思います」
「よくそんな昔のことを憶えているわね。あなた、ちょっと偏執的すぎるんじゃない」
人身となった竜同士の視線がぶつかった。
種族が同じだからと言って仲が良いということでもないらしい。人間と同じだ。
「つまり、二人ともある程度気に入ってくれたということで、オッケー?」
「そういうことです」端的に、ラトが答えた。
「そういうことかもしれないかも」そっぽを向いて、ハルが言う。
「しっかし、その服装だけど」坂棟はラトに視線を投じた。「軍服というか、SF的な宇宙制服というか……これも、俺の好み?」
長身でバランスのよい体格をしたラトは、どのような格好をしても似あうだろう。
黒をベースに金の装飾と銀のラインの入った機能性の高い制服は、それだけ見れば、舞台衣装のようで日常においては異質であるはずなのに、彼が着ているとごく自然であり、彼自身の容貌を映えさせる役目を果たしていた。
「お館様、一つ質問してもよろしいでしょうか?」
「どうぞ」
「なぜ、あんなにあっさりと私の創りあげた幻の世界から脱出を、いや、幻を破壊できたのです」
「なぜって、そっちこそなんで、幻ごときを現実と混同するなんて思えるんだ?」
坂棟は、あっさりとラトの力を否定した。
「どのような幻を見ようとも、結果は同じだったということでしょうか?」
「試してみればいいんじゃないか。ただし、痛い目に遭うことは覚悟しておけよ。幻であろうと、俺は誰かに強要されるというのが嫌いなんだ」
ラトは頭を下げた。
坂棟は二人目の従者を手に入れた。
二人が竜王と言う規格外の存在であることを、坂棟は認識していない。彼はラトの言葉を聞き流していた。
だが、たとえ竜王だとわかったところで、彼はたいした反応を示さないだろう。
坂棟克臣は、そういうおかしな若者なのだ。




