29 日常
ラバルには四季がある。
季節は冬へと衣替えが進み、空気は硬質化し、寒さが身にしみるようになっていた。
ラバルの住人たちの吐く息は白い。
ラグルーグの日課は、午前中は学校に行って授業を受け、午後は防壁づくりの手伝いをするというものだった。
夕方には、家族の全員が仕事を終え、皆で食卓を囲む。
実は、夕食前に一家から一人、言語と算数を習いに学校に行くというのがラバルの決まりとしてある。そこへは母と姉が、喜んで通っていた。
長であった父は、読み書き計算ができたので、習う必要はない。
時々不機嫌そうな父の姿があったが、それ以外には問題は何もなかった。
強いて挙げれば、ラグルーグの姉ヴィムと恋人のブルラーグが何かとうざったいことくらいだろうか。
ラバルは初期には木造建築物しかなかったが、現在ではコンクリート製の建物も建っていた。
材料が格段に増えたことが、建築の選択肢を増やしている。
今、ラバルでもっとも注目を集めているのは、建築途中のある建物である。
もっとも豪華で、もっとも大きな建築物になるだろう。
一つは行政府。
もう一つは「お館様」と呼ばれている男と従者の住居だった。
二つの建物といっても、縄張りは重なっていたので素人目からは一つの巨大な建物がたてられているかのように見える。
いずれにせよラグルーグも完成を楽しみにしていた。
「おお、思うに、おまえラグルーグじゃないか」
学校が終わり、一度家へ帰ろうとしている途中で、ラグルーグは声をかけられた。
「あ、お館様」
ラグルーグが返事をすると、坂棟はかすかに顔をしかめた。
「思うにって、何ですか?」
「こっちのこと……にしても、すっかり、俺、お館様になってるな」
「何言ってるんですか? 当たり前でしょ」
「当たり前を疑うことに価値があるんだぞ……で、勉強は終わったのか?」
「はい」素直にラグルーグは返事をする。
「ビグズの教師ぶりはどうだ?」
「わかりやすいです」
「そうか。ラグルーグは、将来、そっちに進むのか」
「そっち、ですか?」
「ああ、そっち」
「よくわかりませんけど、ラト様の下で働けるようになりたいですね」
「物好きな」
「僕みたいに思っている人はいっぱいいます!」
「セリアンスロープは戦士になりたいやつばかりだと思ったが」
「昔はそうだったけど……でも、やっぱり無理でしょうか?」
「何が?」
「鬼やセイレーンの子たちは、僕なんかより優秀なんです」
セリアンスロープの少年はうつむいた。
「足の速さなんか、人それぞれだ」
「え?」
「前に進んでいるなら、いずれ目的地にたどりつくってことだ。なりたいものがあるんだろう?」
「はい」
ラグルーグは、坂棟の言ったことをきちんと理解していない。
ただ背中を押されたことが、うれしかった。
「じゃあな」
坂棟が歩いていく。
ラグルーグは彼の背中を見送った。
坂棟のことをセリアンスロープの大人たちはよく噂している。
とんでもない男だ、と。
自分たちは賭けに勝った、と。
セリアンスロープの暮らしは、わずかな時間で驚くほどに変化した。
坂棟は、どこまで行くのだろう。
セリアンスロープをどこへ連れていってくれるのだろうか。
この間会ったばかりなのに、すでにずっと遠い存在になっていた。
当初は、すぐ傍で汚い口を叩いていたのだ。
今思うと赤面ものである。
大人になれば、自分も、あの人の見ている風景を見られるのだろうか。
ずっと遠く広い世界を。
坂棟が女性に声をかけた。
セイレーンだ。
セイレーンのことが、ラグルーグは苦手だった。
セイレーンは皆彼のことを「かわいい」と言って、からかうからだ。
でも、今、坂棟が話している人には、悪い印象はない。
サクヤという女性は、唯一彼のことをからかわないセイレーンなのである。
「何してるんだ?」
「ええ、ラグルーグがいたから、手を振ったんです」
坂棟に挨拶した後、サクヤは離れたところに立っているセリアンスロープの少年に気がついた。
手を振ると、少年も手を振りかえして、照れたように急いでその場を去ってしまった。
「ああ、さっきまで、話していたからな」
「あの、住む場所を用意してもらってありがとうございます」
サクヤは深くお辞儀をした。
「俺が移住しろって言いだしたことだから、セイレーンの当然の権利だろ。それに、水の管理まで任せているし、礼を言われることじゃない」
「あれは私たちに向いていることですから」
ラバルに住むセイレーンは当初の予定よりも多くなり、五〇〇人をこえていた。
この先もっと増えるかもしれない。
セイレーンは、現在、ラバルと海底都市のどちらかで暮らしている。
ラバルの水源となっている、北を流れるウディーヌ川の河口の冲に、以前よりも小規模であるがセイレーンの新たな海底都市があるのだ。
疑似『王の石』とでも呼べるものを坂棟が創りだしたことで、セイレーンはまた海底で生活することが可能となった。
「王の石」は坂棟とセイによって製作された。
その期間は短く二ケ月ほどだ。
二ケ月と言っても、二人は他の作業も同時に行っていたはずである。
実際の製作期間はずっと短いだろう。
おそろしいというか、さまざまな面で、次元の異なる位置に坂棟がいることをサクヤは知った。
「うちの母が迷惑をかけてませんか?」
セイレーンで、年が上の方々は、坂棟に熱を上げている。
年の功か、露骨なアプローチをしていないために、坂棟本人が気づいていないことは、良いことであるのか、悪いことであるのか。
ちなみに、彼女の母アマミコは、坂棟の近くにつかえる良い位置をせしめているらしい。
以前、母は坂棟のことをこう評した。
「貴女の言うように、静かで、基本は我が儘など言わない人よ。でも、あの方は根本的に我が儘だし、応用的には自分勝手で我がままでしかない男なの」
サクヤのことを小娘扱いする母に、娘は「このババア、何言ってんだ」と心の中でののしった。
さらにアマミコは、上気しながら言った。
「あの方は他人の思いを背負い、でも、他人の思いなど意にも解さない、真の王よ」
手がつけられない。
思い込みの激しい女だ、とサクヤは思う。
異性に強い思い入れをするのは、セイレーンの特徴であり、だからこそいかにもセイレーンらしい母の坂棟観はあてにならない。
独善的に過ぎる。
ただ、坂棟が凄い人だ、という点だけは、彼女も同じ思いであった。
坂棟のことを不審者扱いしたことなど、サクヤはすっかり忘れきっている。この辺りの自分勝手さもセイレーンの特徴であり、彼女自身気がついていないが、彼女もまた実にセイレーンらしい性格をしていた。
「いや、特には。それよりサクヤの方が大変でしょ。ハルの相手をしているんだろ?」
「いえ、そんなことは――楽しいですし」
「楽しい? マゾなのか?」
「マゾ?」
「あまり無茶なことを言ったら、俺に言うように」
「――はい……でも、この町凄いですよね」
セリアンスロープの町だとサクヤは思っていたので、完全に侮っていたが、セイレーンよりも、数歩どころか数十歩は先に行っている。そして、日々進化し続けているのだ。
「そう? これからだろ。まだ始まったばかりだ」
「そうか……そうですよね。今からですよね」
彼女の中にはある野望が生まれていた。
それは、坂棟からハルの服についての説明を聞いたことに起因している。
ハルの服は、もともと舞台で着用するためのものであるという。
パルロ国の王都では、舞台で演劇やら歌やら興行されているらしい。
彼女は、ラバルにも舞台をつくって、自分たちの衣装を着させて、誰かに演じてもらったり、歌ってもらったり、あるいは踊ってもらいたいと考えていた。
ハルを巻きこめば、けっこういけるのではないか、とサクヤはひそかに思案している。これが彼女の野望だ。
「この後どうするんですか?」
サクヤの吐く息は白い。
冬の風を彼女は感じた。
「ああ、なんか、ヤマトがまた訓練したいんだと。あいつ、しつこいよね」
ヤマトという鬼の女性を、サクヤは思いだす。
可愛いというよりは、美人系の顔立ちだ。素材はよく、着飾ればかなり人目を惹きつけることになるだろう。
サクヤは、ヤマトを舞台にあげる候補の一人として数えた。
セイレーンと鬼の諍いのことは、すでに頭にない。
彼女は、やはりセイレーンらしい思考形態を持っていた。
ある日、鬼の選抜がラトによって行われた。
ヤマトは選ばれなかった。
彼女は、そのことについて坂棟に質問した。
「ああ、ヤマトには絶対に向かないことだ。あいつ、本気であんなことやるんだもんなあ」
「何をやっているんですか?」
「個人としてではなく、国として強くなることかな」
「国、ですか?」
「ああ。皆優秀だ」
個人として強くなれないのならば、ヤマトに興味はない。
それ以上の質問はしなかった。
彼女の意識は、自らの強さのみに向けられている。
このラバルで、彼女よりも強い者はかぎられていた。
セリアンスロープにはいない。互角に近い戦いをできるものが、二人いるだけだ。
ドワーフの王は彼女よりも強かった。
鬼には彼女の師であるタチバナがいるだけ。
そして、ラバルの最高戦力集団である坂棟を筆頭とした上位四人、これは強すぎた。
これらの人と、彼女は隙あらば戦っていた。ただ剣技を高めるために。
もっとも多く戦っているのは、坂棟である。
彼は剣技に興味があるらしかった。
そして、たいした時間もかけずに、一定の技量を獲得した。
ヤマトは天才だと言われてきた。
だが、坂棟こそ天才なんだ、と彼女は思った。
彼は迷わない。
そして、変化をしつづける。
現状では、純粋に剣術のみを競うのならば、まだまだ坂棟はヤマトの相手ではない。
だが、本気で剣の道に打ちこまれたら、彼女は遠からず負けると感じた。
これは剣術に限ったことで、剣にとらわれない戦いになると、ヤマトはまったく坂棟の相手にならなかった。
坂棟の武器が何であるのかさえ、いまだに彼女はわかっていない。
日々悔しさのみが、彼女の中にたまっていた。
そして、その悔しさを訓練で爆発させる。
この繰りかえしだ。
ヤマトは気づいていないが、圧倒的存在と傷だらけになって毎日戦うことで、彼女の実力は、これまでにない速度で上がっていた。
「よう」
坂棟が現れた。
「お願いします」
ヤマトの口からは、言葉と同時に白い息がもれた。
今の彼女にとって、寒さは緊張をまとわせる効果があり、むしろ心地良い。
刀を片手に、ヤマトは坂棟に躍りかかった。
平和の内に、ラバルは急速にその姿を現実化させていた。
日常編 了




