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1 最強種




 坂棟が歩いた距離は十分ほどだろうか。

 ついに森の終わりが見えた。

 歩を進めるごとに太陽の光がだんだんと強くなってくる。ついに森の終わりとなる境界にたどりついた時、坂棟は、樹木のない世界に眩しさを感じて目を細めた。

 だが、すぐに陽射しは翳る。

 影となった正体を、坂棟はその目で確認した。


 長大な影は天に伸び、また、地にとぐろを巻いていた。長い胴体にはどうやら四肢があるようだ。頭部には角が二本あり、顔は蛇とも鰐ともつかない造形をしている。

 全体は黒であり、紫のラインが走っていた。


 ――ありえない。


 見間違えだとしか思えないが、そこにいたのは架空の動物。東洋の竜である。


 坂棟は竜の姿に息をのんだ後に、予感を覚え横へと跳んだ。瞬間的なその判断は、彼の命を救った。破裂音が生じ、彼が立っていた場所には穴が穿つ。

 坂棟は生まれたばかりの穴と竜とに、視線を交互に送った。

 目の前の生物が坂棟に敵意を抱いていることだけは間違いない。それが明確な殺意なのか、邪魔な蚊を追い払おうとしているだけなのかはわからないが。

 どちらにせよ、彼はあの攻撃を受ければ死ぬだろう。


 竜がかすかに身を引いた。


 ――まずい。


 坂棟は後ろへ思いきり跳ぶ。

 竜の尾が遠心力を伴って彼を目指してしなってきた。間にある樹木を軽々と砕きながら尾は進んでくる。


 ――避けられない。


 坂棟は激突の瞬間両腕に渾身の力をこめた。せめてもの防御だ。

 竜の尾が彼の腕にぶつかり、坂棟の身体は反発力の高いゴムボールのように弾けとんだ。

 坂棟は背中を樹木にぶつけて地面に転がる。

 一瞬息がつまった後に、彼は咳きこんだ。


 ――なぜ、俺は生きている?


 坂棟は立ちあがると竜を睨みつけた。

 両腕に力が入る。骨折はしていない。背中も多少痛む程度で騒ぐほどのものではなかった。

 大型トラックにぶつかるような、あるはそれ以上の威力のある打撃を受けてなお生きられる人間など普通いない。


 坂棟は竜の動きに集中すると同時に、自らの身体にも集中した。

 すると気づく。

 これまでにない感覚が彼にそなわっていた。

 大きな力が彼の中にある。その一部が全身を巡っている。

 自分が生きている理由はこれだと、坂棟は理性と直感で悟った。この内にある力を引きだすことで、あの竜から逃げのびることができるかもしれない。


 すぐに逃げることはできなかった。

 背中を見せれば、飛び道具によって簡単にやられてしまうだろう。

 竜の隙をつくしかない。

 坂棟は周囲へ視線を投げた。

 ひらけた場所の他は、森ばかり。

 木では、竜の攻撃は防げない。


 観察と思考の時間を竜は与えてくれなかった。竜の眼前で何かが光る。

 坂棟はとにかく横へ大きく跳んだ。

 樹木に穴が開き、次々と倒れていく。

 簡単に人間の身体など穴が開きそうだ。

 だが、竜の攻撃の威力よりも、重要なことがある。坂棟の跳躍が助走なしで三メートルに及んだということだ。

 ある種の力がそなわったことが実証された。間違いなく彼の肉体には変化が起こっていた。

 坂棟は竜の動きだけに集中し、とにかく攻撃を避ける。

 すると、勘で避けていた攻撃も見えるようになってきた。


 かすかな期待が生まれる。攻撃することも可能ではないか?

 一撃を入れて、その隙に脱出するのだ。

 だが、まだだ。少しずつ力のみなぎる量が増えている。もっと多くなるまで待つのだ。

 坂棟は竜の攻撃を避けつづけた。

 時間の経過とともに増えるはずの力は、だが増えなかった。

 力はあるのだ。それは感じる。だが、何かが詰まっているかのように、少量しか力は流れ出てこない。


 攻撃は中止するべきか。

 竜の咢が坂棟を喰い裂かんと伸びてきた。彼は何とか避ける。

 竜が身体を引く瞬間。

 坂棟にはそれが隙に見えた。

 彼は思いきり地面を蹴り、竜の額を殴りつける。

 重い衝撃が走る。だが、相手にもダメージが入ったはずだ。

 空中に坂棟は一瞬無防備に浮いた。

 坂棟はもう一撃を入れることを考えていた。

 思考が攻撃に集中した中で、彼は横から激突される。


 ――何?


 坂棟には何が起こったのかわからない。

 それは尾による死角からの攻撃だった。

 彼の身体は何度も跳ねた後に土煙を上げながら、止まる。

 全身に痛みがある。

 さらに、鈍い痛みが身体を駆けぬけた。


 ――おそらく肋骨が何本か折れた。


 最初の一撃との違いは、敵の攻撃に対する意識の有無。

 意識して防御しなければ、竜の打撃によって彼は大きなダメージを受けるらしい。

 坂棟はうつ伏せの状態から何とか立ちあがった。

 そして彼は己の敗北を悟る。

 一瞬でも敵から目を切ってしまった。あまりに大きな失敗だ。

 すでに、彼の目の前には、一面を埋めつくす紫光の光熱波が迫ってきていた。


 ――こんなところで、死ぬのか?





 坂棟克臣さかむねかつおみには身寄りがなかった。

 彼は生後間もない赤子の時に、坂棟家に拾われた。坂棟家にはすでに二人の子供がいたのだが、夫婦は自分たちの手で育てることにしたのである。

 父から受け継いだ夫の会社の景気が良く、坂棟家が裕福だったのも大きな要因の一つだろう。あるいは、その日出席したパーティーで、海外のセレブ達の養子事情を聞いたことも影響したのかもしれない。小さなことでは、一人娘が弟が欲しいとねだっていたことも、いくらか理由となったのだろう。

 さまざまな事情が絡みあって、家の前に裸同然で置かれていた赤子は拾われ、後に坂棟家の養子となったのである。


 そして、坂棟克臣と命名された。

 すくすくと赤子は育つ。

 坂棟克臣は優秀だった。勉学だろうと運動だろうと常にトップクラスである。わざと手を抜いているのではないかと思えるほどに、その姿には余裕の香りが漂っていた。

 品行方正でまったく手がかからず、坂棟家の夫婦も彼のことを誇りに思い、拾ったことを全く後悔していないようであった。

 坂棟家には兄妹がいた。

 兄の名は、直人なおと

 妹の名は、玲花れいかである。


 決定的な決裂が家族に走ったのは、克臣が中学二年生、玲花が高校三年生の時のことだった。


「姉さんは、大学行くんでしょ」


「いちおうね。私、保育士さんになりたいんだよね」


「子供が好きなんだ」


「あなたみたいな生意気な子じゃなくて、素直な子がね」


 玲花は笑った。春風のような優しい笑顔である。

 克臣ほどではなかったが、玲花も充分に優秀だった。一カ月後に迫った私立大学の受験もおそらく合格するだろう。


「そういえば、克臣は彼女とかいないの?」


「いないよ。姉さんは?」


「うん、これという人がいなくてね」


「そういう考えって、売れ残りになるんじゃないの?」


「へえ、誰にそんなことを言っているのかな? まだ、私は一八歳なんだけど」


 玲花は弟にアイアンクローをかけた。

 たいして痛くはない。というか、手の大きさがぎりぎりすぎる。

 克臣は玲花が加減していることがわかっていた。本気を出されても、正直たかが知れているのだが、それでも彼女は相手に気を使って力を緩めるのである。

 優しい人だった。

 この時、克臣はまったく意識していなかったが、玲花は、彼にとって初恋の人であったのかもしれない。

 少なくとも彼にとって、大切で貴重な存在であることは間違いなかった。

 中学二年生のあの日まで、坂棟克臣の日常は平穏に過ぎた。


 その日は雪が降っていた。

 克臣は学校に行く前に、家族へ挨拶するためにリビングのドアを開けた。


「あ、すみません」


 克臣は頭を下げる。

 客がいたのだ。

 老人がソファーに座り、背後に黒服の男が二人立っていた。

 坂棟夫妻の顔は硬く、傍に立っていた玲花の表情は蒼白である。


「君が克臣君か」


 坂棟家の人々の表情とは逆で、老人の顔には穏やかな笑みがあった。


「はい」


「君は優秀な子だというね。君のような子に、日本の将来を背負ってもらいたいものだな。これからも文武に励み確かな成長を遂げてほしい――ああ、君には私の著書をプレゼントしよう」


 黒服の男から、克臣は一冊の本を受けとった。


「克臣、もう学校に行きなさい」


「はい。行ってきます」


 扉を閉じる時、最後に見えたのは玲花だった。

 彼女は小さく手を振る。顔には笑顔があった。その笑みは、彼女が気丈に振るまった結果であることが、一四年という付き合いのある克臣にはわかった。

 これまでに感じたことのない不明瞭な不安感が、彼の胸に重くのしかかった。


 すべての誘いを断り、克臣は急いで家に帰った。

 玲花はいなかった。

 おかしなことではない。

 予備校にでも行っているのだろう。

 だが、玲花は食事の時間になっても帰ってこなかった。連絡すらない。

 食卓は、玲花をのぞいた坂棟家全員で囲っている。

 言葉を紡ぐことを許さない、ひどく重い緊張感があった。

 だが、克臣は口を開いた。


「姉さんは、どうしたんだろう?」


「克臣」


「はい」


「玲花はもういない」


「どういうことですか?」


「もういないんだ!」


 父がわずかに声を荒げた。


「……もう家には帰ってこないということですか?」


「そうだ」


「わかりました」


 会話はこれだけであった。

 疑問を投げることも表情を変えることもなく、克臣は食事を終えた。普段通り片づけを手伝う。

 二階の自分の部屋に戻る時、彼は直人から声をかけられた。


「おまえ凄いよ」


「え? 何か言いました」


 克臣は階上から、見おろす。

 直人は廊下に立っていた。


「凄いって言ったんだ。もともと俺らとは出来が違うなと思っていたけど、あんなことがあっても全然普通だもんな。おまえ、玲花と仲良かったじゃん――別に責めているわけじゃないけど、おまえさ、ちょっとおかしいよ」


「……そうかな」


 克臣は反論しなかった。

 直人もそれ以上何も言わない。

 克臣は「おやすみ」とだけ言うと、自分の部屋へと戻った。



 克臣は玲花の身に何が起こったのかを知らない。

 だが、直人は「あんなこと」という表現をした。つまり口にできない何かが彼女の身に降りかかっているのだ

 思いあたるのは朝の光景である。

 克臣は老人にもらった本を取り出した。

 著者名に萩郷十弦はぎざとじゅうげんという名がある。詩人、思想家等と肩書きが記されていた。さらに、住所と連絡先まで載っている。

 ネットで調べてみたが、老人の名は検索ではほとんどヒットしなかった。無名であるからと言うのが理由であるのなら、まったく問題はない。だが、別の理由で調べられないのであれば、それは大きな問題だった。


 克臣は着替えると、そっと階段を下りる。リビングの電気はついていた。

 両親の声がもれてくる。

 しばらく彼はその場にいた。

 そして、音をたてずに玄関から外に出る。

 事情はわかった。

 父の会社が厳しい状況に追い込まれていた。そこに救世主が現れ、その老人は時代錯誤な要求をしてきた、ということだ。

 克臣の中で何かにひびわれが生じた。

 朝会った老人の顔が彼の脳裏に思い浮かぶ。


「萩里? ――奪っただと? 俺から奪うのか」


 克臣は本に書かれた住所に向かった。

 雪が積もり、寒い夜であったが、彼はまったく寒さというものを感じなかった。

 事務所があるのだろうという、克臣の予想は外れる。


 そこは閑静な住宅街だった。高級住宅地に区別される地域だ。その中にあって、なお広大な敷地を所有しているのが、萩郷十弦だった。

 三メートル近い石壁が周囲をかこみ、各所に監視カメラがついている。石壁の上には、高圧電流を通しているような電線もなく、侵入は不可能ではなさそうだった。あまりに厳重な安全装置を置くことは、景観を損なうことにつながり、高級住宅街では避けられるのかもしれない。

 監視カメラに死角があるのか、克臣には判断がつかなかった。そんなものはないのかもしれない。

 克臣は監視カメラを睨みつけた後、さらに歩いた。立派な門の前で彼は立ちどまると、呼び出し音を鳴らす。


「どちら様でしょうか?」


「坂棟克臣と言います。坂棟玲花に会いに来ました」


「しばらくお待ちください」


 相手にされない可能性があったが、それは杞憂に終わった。

 五分と待たずに、本門の側にある小さなドアから克臣は招き入れられた。


「十弦様がお会いになるそうです。こちらについてきてください」


「わかりました」


 克臣は老人の後に従う。

 少年は、外からは冷静に見えた。だが、内心はまったく異なる。

 彼はこれまで人生で本気になったことが一度としてなかった。

 感情任せに行動するなどしたことがない。

 そんな必要はなかった。学校と言う小さな世界の中だとはいえ、すべてのことが思いのままにやれたからだ。

 だが、今の克臣は感情を一つの色に染めあげていた。

 彼が初めて本気となり、支配された感情は、怒りであった。

 奪われるということが許せないのだ。

 奇妙なことに怒りが燃え上がれば燃え上がるほどに、彼の頭はどこか冷えていく。だが、冷えた頭で考えられた思考は異常なものだった。


 ――あの男を殺す。


 彼は、感情を怒りに支配され、脳を殺意で埋めていた。

 少年は、人間の悪意と言う闇に直面することで、その精神を大きく変貌させつつある。品行方正の少年は、本質に変化を起こしていた。いや、底に眠っていた本質が目覚めようとしているのかもしれない。


 家へと上がり、長い廊下を歩き、いくつかのふすまを抜けた後に、克臣はようやく屋敷の主人と対面した。


「座りなさい」


 克臣は言われたとおりに老人の正面に正座する。彼を案内してくれた老人はすぐにその場から離れた。


「優秀かはともかく、常人ではないようだな」


「私の用件はわかっていると思います」


「目上の人間の話をさえぎるものではない」


「用件、いや要求はただ一つ。坂棟玲花を返してください」


「そのまっすぐな心根はよろしい。粗相も若さ故と赦そう。だが、根本的な勘違いをしているようだ」


「勘違いの余地などありません。金の代わりにあなたは玲花を求めたのでしょう」


「私から言ったところで、これは信用しないな」十弦が声を上げた。「玲花、来なさい」


 隣の部屋に人の気配が現れる。

 すっと襖が開くと、中腰の姿勢で襖に手をやる玲花がいた。彼女が伏せていた目を上げた時、克臣のそれとぶつかる。

 すぐに彼女は襖を閉じようとした。


「玲花、入りなさい」


 だが、十弦が命じた途端、彼女は動きとめる。一瞬、指に力がこもった後、襖をすべて開き室内に入ってきた。

 玲花の着ていた服は透けていた。身体のラインどころか、裸身がすべてあらわになっている。

 彼女が自分の意思で着るような物ではない。


「女性にこんなことを強いるあなたを信じろと言うのか!」


 少年の顔は怒気で塗りつぶされた。


「おお、それはすまぬ。だが克臣君、君が来た時間も悪い。それに強いたわけでもない」


 十弦の笑いの混じった声に、克臣は怒りで震える。


「玲花、おまえの弟はどうも勘違いしているようだ。事情をきちんと説明してから来なかったのか? きちんと物事を出来ない者にはお仕置きが必要だな」


 十弦の最後の言葉に玲花が異常な怯えを示した。

 克臣は玲花のその姿を見て、すぐに言い返す。


「私の要求は玲花を返してもらうこと。その返事を下さい」


 玲花が克臣の言葉に反応して顔を上げた。彼女の瞳から怯えが消え、意思の力が宿る。


「私は望んでここに来たの。十弦様に無理やり連れてこられたわけじゃない。私が選んだの」


「彼女の言うとおりだ。私は選択肢を与えただけに過ぎない」


 克臣は二人の言葉を聞いて事情を察した。

 萩里十弦は要求したのではない。

 選ばせたのだ。

 一見、一方的な要求よりもましに思えるが、もっと悪い。

 最初に選ぶしかない状況を設定しているのだ。選択肢は一方しかない上で、本人の意思に委ねたようにする。

 あるはずのない可能性を提示することで、人々が苦しむ様を楽しんでいたのだ。

 もてあそんだ。

 坂棟家の人間を観察し嗤っていたのだ。

 高みから絶対者の気分を味わっているのだ。


「あなたは坂棟の人間ではない。関係ない人がかかわらないで!」


 一度も克臣が見たことのないような厳しい顔で、ヒステリックに玲花が言う。

 だが、拒絶の内容と口調とは逆の本音が、克臣の心に伝わってくる。

 自分に付き合うことなく、あなたは自由に生きろ。自分にかまうことなく、楽しんで生きなさい、と言っているのだ。

 彼女は厳しい状況にある自身ではなく、それでも、他者を思いやっていた。彼女の優しさを彼は受けとめなくてはならない。


「知っていたよ。俺が両親の血を引いていないことは」


 克臣は玲花の目を見て語った後に、再び十弦に視線を投じた。


「返事を聞かせてください」


「誰に物を要求しているのかわかっているのか?」


「知りません」


「名は知らずとも、この屋敷を見ればわかるのではないか?」


「あなたは私を知っていますか?」


「何?」


「私は坂棟克臣。今は何者でもない」


「将来は、か? だが、将来があるとはかぎるまい」


 危険な匂いが、十弦から漂う。


「早く帰って! 私は十弦様を選んだの」


 克臣は十弦をじっと見据えて言葉を紡いだ。


「あなたは、強者ではない。真に強い者なら、弱者をいたぶることをせず保護するはずだ。上位者であるというのなら、下位者の行いには寛容であれるはずだ。あなたは、そのいずれもしていない。いや、できないんだ」


「あまいことを」


「違う。それができないのは余裕がない。もしくは、あなた自身の器量に限界があるからだ。私ならば、弱者を保護し、導く。あなたのように権力と金にしがみつき振りまわすような愚かなことはしない」


「なんと、阿呆で傲慢なこと。頭がおかしいのではないか」


「そこがあなたの限度であり、俺に及ばない点だ!」


「小僧が言いよるわ! 頭を下げろ! さもなくは、その首は胴体から離れることになるぞ」


 老人の口調にひび割れが起きた。

 怒りが姿を現す。この姿が本来のものなのだろう。怒りを周囲にまきちらし、自分にへつらわせることで、満足を得る。


「克臣、謝りなさい。そして、早く帰って。私はここにいるの! 大丈夫だから」


 玲花が克臣の手を取り、懇願した。

 克臣は彼女の手を握りかえす。


「姉さん。あなたが自らの意思でここに残るというのなら、俺はそれを尊重する。そして姉さんが戻ってきた時、俺は姉さんを歓迎しよう。姉さんが自分をたとえ認められなくなっていても、俺が姉さんを認める。あなたが戻る場所は、俺であり、俺とあなたとはいつであろうとつながっている、この空の下でね。そして――玲花、あなたが自由を得たいというのなら、今俺が――」


「この小僧を始末しろ!」


 十弦が怒鳴り、周囲の襖が開くと、黒服の男たちが克臣を取り囲んだ。

 玲花の手は克臣のもとを離れ、十弦へと奪いとられる。

 克臣は中腰になると、その場で回転し、男たちの足を引っかけた。倒れたのは一人だけ。彼は男の顔に躊躇することなく拳を撃ちぬく。骨が砕ける鈍い音がした。


「何をしている。やらんか!」


 いっせいに黒服の男たちが克臣に向かってくる。

 克臣は一人の男の胸に跳びこみ、カウンターでパンチをくらわせた。うまく顎に入ったらしく男はすとんと倒れる。

 振りかえったところに拳が迫り、克臣はガードした。だが、所詮一四歳の未熟な身体である。鍛えられた成人男性の拳を受けとめることはできなかった。

 そして、一度崩れた体勢は二度と戻ることはない。

 克臣は身体を丸めて防御したが、それ以上の抵抗はできずに、ついに意識を失った。


 彼は数時間後に目覚める。

 両手首を縛られ、木に吊るされていた。

 いまだ夜更けである。

 雪は止んでいた。

 月が姿を現しており、白面の世界を照らしている。

 克臣の耳に、女の声が届いた。

 彼の正面にある部屋には明かりが灯っていた。ガラス越しに部屋の中が見える。

 克臣の網膜は、現実世界を正確に映しだした。

 彼の顔から表情が消える。

 朝になるまでずっと、彼はその体勢のまま瞳を開けつづけた。


 翌日、克臣は家へと送り届けられた。

 彼は、一日だけ学校を休んだが、その後は依然と変わらない生活をした。

 一週間後、玲花は萩郷十弦の家を出た。

 彼女が戻ったのは、克臣の元ではなかった。玲花は病院へ入院した。

 玲花はそのまま面会謝絶となる。

 だが、彼女は、克臣に一度だけ顔を見せてくれた。

 ひどく痩せ細り、まったく生気が感じられない姿だった。

 玲花はぎこちなく微笑んだ。


「あなたは生きてね」


「姉さんと一緒にな」


 彼女の頬に涙がこぼれた。

 翌日、玲花は病院の屋上へと登った。そして、克臣が会うことのかなわない世界へと旅立ったのである。



 少年はこの日から明確に変わった。

 家や学校などの大人たちの前では、これまで通りの品行方正な彼であった。だが、それ以外の場では異なる。

 武術に興味を示し、喧嘩をし、女性と遊び、女を抱き、楽器を奏でては歌をうたった。休日には、終日図書館にこもるという姿も多く見られた。

 克臣と言う少年を理解していた人間はいないだろう。誰であろうと、その場その場の彼しか知らない。誰もが彼の一面のみの目撃者でしかなかった。

 ある者は、克臣が優等生であると言われても笑って信じなかっただろう。

 また、ある人は克臣が汚い方法で金を稼いで回っていると言われても、言った本人の頭を疑ったことだろう。

 それでも、表向き、坂棟克臣は何も変わっていなかった。だが、彼の内面は、光と闇が混じりあい混沌が支配していたのである。

 彼は一定の条件の下ではあるが、自由に動き回り、自身に必要なものを手に入れていった。



 克臣が中学を卒業した翌日、坂棟家の夫婦は、息子から家を出ると告げられた。


「一人で生きていく? 無理だ。中学を卒業したばかりのおまえが、しかも、優等生のおまえが、社会で生きていけるわけがない。高校はどうするんだ。せっかく合格したのに」


「いいえ。大丈夫です。高校に行かなくても、大学に行けばいいだけでしょう? それに俺がここにいては迷惑をかけることになると思います」


 息子と対峙しながら、父は違和感を覚えていた。

 この子は、本当に克臣だろうか、と。


「どういうことだ?」


「俺には許すことのできない相手が、いや敵がいます」


「敵? おまえまさか……」


 思いあたるのは一人の老人だ。


「父さんと母さんに対する感謝は言葉のしようもありません。兄さんのことも言わないと怒られるな」克臣は微笑んだ。「俺の気持ちはいずれ二人の耳にも届くことになると思います」


「何を考えている! やめなさい。子供にどうこうできる相手じゃない」


 子供故の浅はかさだった。

 この決意が、息子を別人に見せていたのだろう。


「父さん。俺があの程度の人間に負けるとでも?」克臣は不敵に笑う。「それじゃ、お元気で。兄さんにも感謝の言葉を伝えておいてください」


 克臣はしっかりと頭を下げた後、部屋から出ていった。

 父は息子の背中を追えなかった。

 この子は、こんな物言いをする子供じゃなかった。

 考えてみれば、自信がないという素振りを見せたことはなかったが、自信を表すようなことも絶対にしなかった。

 なのに、さっきのの克臣は、傲慢ですらあった。

 隣では、妻が呆然としていた。彼女にも息子がかすかに見せた変化がわかったのだ。だが、それはあまりに大きな変貌であることにも気づいたのだろう。

 そして、彼と同様、現実についていけないでいる。


 克臣はその日以降姿を消した。

 半年後、坂棟夫妻は、萩郷十弦の死を噂で耳にした。彼の死は、新聞やテレビで報道されることはなかったが、亡くなったことだけは確かであるようだった。その原因まで彼らは知らない。

 そして、坂棟夫妻は、この後一生、克臣と言う息子に会うことはなかったのである。





 坂棟は迫りくる紫光を見ながら思う。


 ――生きることを諦めるわけにはいかない。


 生きてと言われたから。


「死ねるか!」


 理不尽な死に対する坂棟の怒りに反応して、彼の眼前に巨大な光の球が生まれた。


 人の生みだしたエネルギーと竜の生みだしたエネルギーがぶつかりあう。








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