15 異界の王~ラバルにて
ラバル暦〇一三年。
ラバル王子坂棟克文は、五つの年を数えていた。
数年後には『暁の王子』と呼称される王子であるが、そこはまだ五歳の子供である。
利発さを垣間見せてはいても、周囲を驚嘆させるほどの言動を見せることはなかった。
周囲が異常な能力を持つ者ばかりであったので目立たないが、実際は年齢に比して文武共にすでに図抜けた才を見せ始めていた。
未だ幼いながらも容姿は端麗で、母の血を濃く継いでいるのが分かる。
外見では、黒髪黒目のあたりが父から引き継いだところだろうか。
耳がやや長く、肌の色がほんのりと浅黒いところはダークエルフの特徴で、他はヒューマンと変わりない――厳密に言えば、父はヒューマンではなく異界者であるのだが。
父王は、力を持つが故に受動的であろうとしたが、子は父とは違い、性質・性格が受動的で、慎重な性分をしていた。
これは周囲にいた者たちが凄すぎたために、彼らを目標とした王子は努力の人にならざるをえなかった、ということも関係しているだろう。
すべてが足りないという強い思いが、謙虚な向上心と同時に強い自制心を育てたのである。
父は一撃粉砕を好んだが、子は粘り強い性格であった。
創業と守成の役割を考えた時、見事に合致する父子であったと言えるかもしれない。
二代目となる王子は、いずれ初代の王――父とそのすべてを比べられることになる。
だが、この王子はついに父王に対して卑屈になるということがなかった。
周囲の環境も良かったのだろう。
良い家臣にも恵まれた。
だが、何より王子自身が父に対して純粋に尊敬の念を抱いていたことが、彼の性格を至極まっすぐなものとした原動力であったのかもしれない。
克文が父に絶対にして最上の尊敬の念を抱いたのは、もう少し幼い頃に時をさかのぼる。
王子は、誰もが一度は頭の中で思い描き、そしてこの時代の誰もが経験したことのないあることを当時――最近でも時々――実体験したのである。
空を飛んだのだ。
父王の特別な青い騎獣にまたがり、あるいは、父の腕の中で空を自由に飛んだ。
夢のような経験だった――というのは、王子が空を飛べる人間などいないという当たり前の常識を知った後のことで、その時は、ただただ胸をわくわくさせていた。
その頃のラバル王は大海に浮かぶ島々に興味を抱いており、海軍を訪れることがたびたびあった。
父王はラバル海軍へと訪れるついでに空の散歩を通して子守をしていたのである。
ちなみに、王子は海軍のことで鮮明に憶えていることがある。
海軍の麗しき将クシナの発言だった。
「陛下、あなたは殿下を殺すつもりですか! いったい何を考えているんです、殿下をつれて空を飛ぶなんて!」
一度として見たことのない、というかついにその一度だけしか見ることのなかったクシナの剣幕だった。
父と子の関係は他にもある。
たとえば、王子は父王に訓練をつけてもらうことがあった。
勝てないのは当然だが、どんなに隙をついたつもりでも父王の服を剣がかすめたことさえなかった。
力の差は絶対だが、父は考えてくれているようで、抑えた力で戦ってくれていた。
それは完璧な力の制御で強くなったり弱くなったりという上下のぶれが一切なく、王子が力をつければ、強くなっていることが認識できるものだった。
自分の力がついていることがよく分かった。
ただし、一定の時期まで来ると、一段階力をあげて、また、王子はまったくかなわなくなるのだ。
一から出直しである。
ある時、王子は父王の完璧な力の制御に対して疑問をぶつけたことがある。
「いや、簡単なものじゃないぞ。単に手加減するというのはちょっと違うしな」
という答えだった。
だが、さらに父王は続けた。
「でも、俺もけっこう楽しんでいるんだ。何て言うかな、説明は難しいが、両腕でぎりぎり抱えることのできる大きな樽にいっぱいの水をいれて、十メートルくらい高い位置から、酒を飲むおちょこがあるだろう? あれに一滴もこぼさずに水を入れる感じだ。どうだ? そこそこ難しいだろう」
それはちょっと不可能じゃないのかな、と子供心に王子は思ったものだった。
その時、思っただけでなく、声をあげて非難した者がいた。
「陛下、そのように危険なことを殿下になされていたのですか! ありえない。ありえませんよ! 陛下はいったい殿下を何とお考えなのです。殺すつもりですか!」
王子つきの侍女が顔を真っ赤にして噴火していた。
ちなみに、この侍女はセイレーンである。
海軍の将クシナもセイレーンだった。
セイレーンは怒りっぽいのだろう、という誤った教訓を王子は学んだものである。
この誤解は数年解けることがなかった。
他にも父との関係から、王子は他者への対応も学んだ。
ある日、王子は父王の側近であるセイを呼び捨てにしたことがある。
彼は父王がしていたことを真似ただけだった。
そこに深い意味はなかった。
だが、無意識だからこそ戒めは必要なことであったのかもしれない。
その時、彼の父は非常に冷めた声で言った。
「克文、セイは俺の臣下であって、おまえの臣下ではない。子供でしかないおまえがなぜセイを呼びすてにできる? 何もできない子供が尊大さを発揮するのは見苦しい。不快だ」
ハル、ラト、セイの三者が父にとって特別な存在であることを、王子はこの時知った。
これ以降、三者には身内内でなら「さん」他の時は「殿」をつけるようになった。
これは、他の臣下に対してもそうするようになった。
もちろん、彼は王子というラバルにおいて二番目に高い地位の人物である。
いずれ立太子の儀を行い、正式な後継者となる身だった。
他者への敬称など無用なのだが、王子は子供の頃の経験によって礼儀をわきまえるようになった。
父の影響で、年齢も彼の中では礼儀の対象となったのだ。
日本文化の一部が父から子へと継承されていた。
また余談であるが、分別のある彼は王子として不必要な丁寧さで他者と接することもしなかった。
この点は、彼の教育係の腐心の結果でもあった。
王宮内を歩く王子の傍には、王子付きの侍女である年若いセイレーンがいる。
近頃侍女の機嫌がすこぶるいいことに王子は気づいていたが、それがなぜなのかは分かっていなかった。
理由は単純で、王子の傍に常に控えることができているからだ。
それは間接的にいうと、王の不在に理由を求めることができる。
王の行動にこの侍女はたびたびついていくことができず、放置されることがしばしばであった。
王の行動についていける者など限られていたのだが、このセイレーンにはそんなことは関係ない。
セイレーンにとって時に王とは、自分と王子を引き裂く悪者なのであった。
これは王への叛逆心があるというわけではない。
王子がいなければ、彼女の忠誠心は王のみに投じられていた。
ただし、王子の側付きになってからは、王から王子へ忠誠心の比重が変わったというだけである。
年若いセイレーンの忠誠心は、王子と王、そして王家に投じられていた。
割合には大きな差があったが……。
「父上!」
自然と発せられた王子の喜びの声。
同時に王子の背後でセイレーンの笑顔が軽く硬直したのだが、むろん王子は気づかない。
父王が三貴臣をひきつれている。
王宮を歩くその姿は英雄譚に描かれる絵画のようだった。
一種の神々しさも持ち合わせていた。
自然と王と三貴臣を目にした者たちが頭をさげる。
それは時代の麒麟児にふさわしい姿であった。
王子にもその感覚はある。
だが、それ以上に肉親の情が王子の内では優っていた。
王子は父王に歩みより、父の腕に抱かれた。
これは王子に許された特権である。
王子の後ろでは、取り残された年若いセイレーンがかすかに震えている。
王子をあっさり奪われた、という悔しさがさせているのかもしれない。
王と三貴臣を前にして、自身の感情を優先させるセイレーンの姿はただ者ではなかった。
あるいは、セイレーンの血を彼女はもっとも濃く引き継いでいるものかもしれない。
「父上、いったいどこにいってらっしゃったのですか?」
王子の口調は、まだあどけなさがある。
「軽く冒険に」
「皆さんは父上のおむかえにあがったのですか?」
王子は、父の三貴臣の顔にそれぞれ視線を投じた。
「迎えというより、つきまとわれたと言うべきかな」
王子は父王の言葉がぴんとこなかったが、父が笑っているので良いことなのだろうと思い笑った。
三貴臣の一人、絶後の美貌の青年の眉がぴくりと反応したが、むろん、父の腕の中にある王子は知らない。
「冒険のお話をお聞かせください」
「じゃあ、家族のところに移動しようか」
王子は父からさまざまな話を聞かせてもらう。
後に、王子は側近の一人でありラバルの宰相となるラグルーグに父王のさまざまな話を語ることになる。
これは王子の語りたいという気持ちもあったが、それ以上にラグルーグのほうが話をせがんだのだ。
ラグルーグは終生初代ラバル王の熱狂的な支持者であった。
少年期の経験がその思いを強くしたのだろう。
ラグルーグの記した日記や回想記は、後の世に発見され、ラバル王の伝説を多く彩ることになるのだが、一方で信憑性の低さを指摘されることになる。
妄想宰相などとあだ名をつけられる始末だった。
むろん、王子はそのようなことになるなど知らず、父王から聞いた冒険譚を数年後ラグルーグに語るのだった。
家族との団欒を過ごしたラバル王は、臣下からさまざまな書類の決裁を求められることになる。
世界最大の大国らしくその量は凄まじいものであった。
ラバル王はすなおに仕事に勤しむのだった。
最近ではたいへん珍しいことに、一週間続けてラバル王が執務室で働く姿が見られた。
ルーン大陸に未だ争乱の芽がないわけではない。
だが、ラバル暦〇一三年は平和の内にその一年を終えたのだった。
異伝『異界の王』 完
これにて『異界の王』は終わりです。
お付き合いいただきありがとうございました。