12 異界の王~戦いですらない戦い
その身を呈して時間稼ぎをしようとした青餓と緑洞は、実力をもって坂棟の行動を制止することはできなかったが、結果として時間稼ぎには成功した。
坂棟が待つことを選択したというのが、時間稼ぎの主な成功理由であったのだが……。
ちなみに二人は、坂棟の美貌の従者二人に瞬殺された――といっても、殺されてはいない。
無力化されただけだ。
従者二人は主人のように受けきるという優しさは持っていなかった。
彼らは一撃で魔王軍の将軍をこらしめてしまったのである。
坂棟は急ぐことなく移動を開始した。
全員が飛行している。
青餓と緑洞は、大柄な従者セイに抱えられて移動していた。
急いでいなくても、いずれも力が傑出しているために、そのスピードはやはり速い。
坂棟と従者の間では念話による会話がなされていた。
最初の内容はラバルについての報告だった。
王が不在であるにも関わらず、ラバルでは行政、軍事、日常がつつがなく送られているということだ。
王の不在に上層部にいる者たちは慣れているのだ。
王の普段の行いが分かろうというものである。
ラバルの報告が終わると、坂棟が当面の問題に話を転じた。
(……魔王は逃げたようだ)と坂棟。
(私が行ってとどめを刺してきますか?)ラトがすぐに提案する。
ハルが口を挟まないのは、戦いの相手として食指が動かないためだろう。
すでに彼女は魔王の力を見極めているのだ。
主人の意向を思うのではなく、自身の嗜好を優先するのは彼女らしいと言えるかもしれない。
(いや、三人は異界につながっている穴を無理やりでもいいからふさいでおけ)
(いったい何を? お館様、言っていることがよく分かりませんが)
(俺が教えるポイントに世界の穴がある。そこに三人が順番に力をぶつけていればいい。向こうから流れてくるモノをとめるんだ。根本的な解決は俺がする。そんなに時間はかからない)
(承知しました)とラト。
ハルは無言の承諾。
セイは始めから全身で承諾している。
(あ、やっぱりセイは俺についてくるように。荷物係としてな)
(承知しました)とセイ。
ハルから抗議の声があがったが、坂棟は受け入れない。
そして四人はこの場で別れたのだった。
四人にとっては流れの中での別離だったが、念話を知らない者からすれば、突然の進行方向の転換である。
青餓と緑洞はさぞ驚くところだが、あいにくと、いや、幸せなことに彼らは気絶していたので、突如の急旋回を実感することはなかったのだった。
通称ハル――正式にはギルハルツァーラといのが彼女の名前だ。
夜色に近い深い紫色をした髪と黒い瞳、白光のような輝かんばかりの白い肌をした、誰もが認める美貌を有している。
圧倒的な力、生命力、存在力を誇る彼女の本性は、竜王である。
地上最強の生物である竜種に君臨する竜王――その人身の姿が今のハルであった。
彼女の隣にいるのは、ラト――シャインラトゥというのがその正式名である。
月夜の海を思わせる青みがかった長い髪、人跡のない処女雪のようにどこまでも白い肌をしている。
性別を超えた美の具現者だった。
宝石のような青い輝きを放つラトの瞳は、今ある地点に投じられている。
神殿の壁である。
白磁の壁には一見ひび一つない。
綺麗なものである。
だが、ハルとラトの視線はその壁に投じられつづけていた。
この場所が、彼らの主人から申しつけられた地点であった。
ここは廃墟と化した王都ヴァルア。
コンスタイア城内の一室である。
城内といっても奥庭である。
まるで隔離されたように目立たない場所に建てられた神殿であった。
「なるほど、これほど目を凝らしてようやく認識できる。敵を知覚するのとは、また異なる感覚であるのだな。これがお館様のいう異界の気配というものの一端か――」
ラトが呟く。
その声には、自らの主人への感嘆があった。
「御託は良い。さっさと終わらせるのよ。お館様がいなければ、こんな場所には一秒だって用はない」
「その意見には同意だが――どうするつもりだ?」
何かがある――というのは、ラトにも分かる。
だが、それをどうやって封じるのかは分からない。
長い時間を生きてきた竜王の彼も経験したことのない力の使い方だったのだ。
「どうこうもお館様は私たちにできると思ったから命じたのでしょう。なら、やればいいだけよ」
紫光がハルから放たれ、壁へと激突する。
やわらかな砂で作られた壁であるかのように、あっさりと神殿の壁が破壊された。
普通ならばそこから外の景色が見られるはずだが、実際には、暗黒が現れた。
粘りのある液体のように暗黒の空間が波うっている。
「きさまは本当に破壊するしか能がないのか」
「何もできずにただ見ているだけの無能者には言われたくないわね」
「観察して行動するのは当然のことだ」
「現実を直視しなさい。見つけたのも穴をふさいでいるのも私よ」
「穴をふさいでいるのは、きさまだけではない」すでにラトも力を暗黒へとぶつけていた。「そもそもスムーズにこちらの世界へ渡られたのは、私の完璧に制御された繊細な力加減によるものだ――」
パンという音と共にラトの顔が弾かれた。
「あら、悪かったわね。力の制御に失敗したようね」
「ほお、そういうわけか。いいだろう、退屈しのぎになる」
二人の周囲で見えない何かが弾けつづけた。
空間が割れるような音がそこらじゅうで響く。
数秒と持たずに神殿は破壊された。
竜王による意地の張り合いが始まったのだ。
だが、暗黒の空間への力がいっさいどちらも途切れていないのは、さすがと言うべきだろう。
魔王と朱那の逃走は海上で終了することになった。
大陸に渡ることができれば、多くの人間の生命と引き換えに、魔王は力を手に入れることができただろう。
また、少しでも時間を稼ぐことができれば、それだけで魔王の生まれ故郷からの力がこの世界へ流入し、ここからも力を手に入れることができたはずだ。
むろん、魔王軍もまた生まれるはずである。
だが、いずれも魔王には許されなかった。
「おまえが坂棟という男だね」
自身と同じように宙へととどまる人間に魔王は話しかけた。
「ああ、俺が坂棟だ。そして、後ろにいるのがセイ」
坂棟が背後に控える大柄な男を律儀に紹介した。
セイと呼ばれた男は、両腕に青餓と緑洞を抱えている。
青餓と緑洞は意識を失っているだけで、生きているようである。
「魔王に名はあるのか?」
坂棟が問う。
「僕に名を訊ねたのはおまえが初めてだよ。おかしみを感じる。そうだね、この楽しい気分に乗じて僕の名を教えよう。覇魔だ」
「覇魔の家臣はすでに実力の差を理解しているようだが」坂棟はごく自然に魔王を呼び捨てにした。「王自身はどう考えているんだ?」
「何もせずに敗北を認めることなどできないよ。それに僕がたどりつくべき頂は、おそらくおまえよりも彼方にあるのだから――負けるわけにはいかない」
「セイ鎮まれ」
一瞬にして場に莫大な力が生まれ、そして霧散した。
朱那は後ろにいるセイという人物もただ者でないことを理解した。
ほんのわずかな時間だったが、突如生じた力は信じられないくらいに巨大なものだった。
あれが全力であったのかは分からない。もっと力を秘めているのかもしれない。
いや、たとえあれが最大の力であったとしても朱那は勝てないだろう。
魔王であっても、おそらく……。
仮にさらに力を隠し持っていたとしたら、坂棟に届かないのはもちろん、それ以前で完敗するということだ。
「そっちはどうする?」
坂棟が朱那に訊ねる。
「王が戦うというのに逃げる者はいませんわ」
「ずいぶんと人間的なんだな――というのは、失礼か。魔にもいろいろあるということか」
分析するような坂棟の口調である。
目の前にいる者たちを敵として認識していないかのようだった。
魔王軍の最高実力者、魔王の力を見切ったからの余裕だろうか。
ありえる、と朱那は思う。
手も足も出なかったらしい同僚の姿が実力の違いを否応なしに押しつけてくる。
少なくとも戦いで命のやりとりをすることなく、手加減して相手を縛りあげるだけの力があるのだ。
「会話は嫌いではないけど、僕の配下を葬った相手といつまでもなごんではいられないな」
覇魔に戦気が宿り、力が収束する。
それは魔王にふさわしい強大な力だった。
たとえ人間が大軍で押し寄せてきたところで一蹴できるほどの力である。
次元が違った。
朱那も魔王の力を傍で感じ、その力が予想以上であったことに誇りを持った。
だが――それでも、先程セイが見せた一瞬の力に及ばない。
力の劣る朱那が判じることができるほどに、そこには差があった。
魔王覇魔も分かっているだろう。
だが、彼は力を縦横に振るった。
闇が集い、すべてを引き裂こうと荒れ狂う。
魔王の力の余波で海が荒れ、空が怪しく光った。
何もしてこない坂棟に対して、魔王覇魔が闇の力を叩きつけた。
闇が坂棟とセイをおおいつくす。
内からの音は、いっさい外に漏れてこない。
不定形の闇は、内に取り込んだものを喰いつくしているかのように、じょじょに体積を小さくしていった。
一口食べるごとに、一回り小さくなる。
まるで、自ら自らを食しているかのようだった。
ずんずんと闇は縮まり、そして、闇が消えた。
未だ天は昏く、海は荒れている。
だが、坂棟とセイ――ついでに青餓と緑洞も――は、まったく変わらぬ姿で宙に浮いていた。
魔王覇魔は全力を尽くしたのだろう。
あえぐ様に息をしている。
「今のが最高の攻撃か?」
淡々と述べられた坂棟の感想は、あまりに冷酷な宣告だった。
痩せ我慢などそこにはない。
わずかでもいい。
表情に変化でもあれば、坂棟の態度は演技であると言えたかもしれない。
だが、坂棟にそんな様子はいっさいない。
まるで防いだという気持ちすらないかのようだった。
「――なるほど、本当に僕の軍を全滅させたようだね。ふざけている。ありえないほどに圧倒的だ。なあ、朱那。僕たちの到達点はこれよりさらに向こうなんだ。はるかかなた、魔王などと呼ばれるモノが届くはずがない。これは最初から負けが決められたゲームなんだよ」
魔王覇魔がまるで泣くように笑っていた。
朱那は何も言えなかった。
今の魔王にかける言葉など誰にもありはしないだろう、朱那はそう思った。
だが、声をかける者がいた。
「到達点というのは、神とか呼ばれる存在だな」
坂棟である。
「そのとおりだよ」
すでに戦う意欲を失ってしまったらしい魔王は存外に素直に答えた。
「なら、確かめにいくか。その強さを経験したらいい。ついでに連れて行ってやる」
坂棟が言って、楽しげに笑った。
「どうする?」
「すでに死んだ身だ。本当の敵を見ることができるというのなら、見てみたい」
「分かった。そっちはどうする? ああ、ちなみに気絶しているそいつらには拒否権はないから」
坂棟が朱那に訊ねる。
いったい何の話をしているんだ、という思いが彼女にはある。
しかし彼女に混乱を吐露する時間はなかった。
「大丈夫だ。彼女も僕と同じ気持ちだと思う」
魔王覇魔がかってに朱那の気持ちを答えていた。
朱那に否はない。
最初から魔王と共にあるつもりだった。
だから否はないが、それでも少しだけ彼女は納得がいかなかった。
しかし、意見を差し込む暇はない。
その場から四人と意識のない二人の姿が消えた。
後には荒れ狂う海のみ。
その海も時間が経過すると、静けさを取り戻していった。
魔王が起こした戦いは、数時間という短い時間ですべて終わってしまったのだ。
坂棟と全魔王軍の間に起こった戦いは、戦いと呼ぶには一方的な内容でしかも短時間で決着を見た。
理由はあまりに単純だった。
勝者が強かったからだ。
ラードルリッヂに過去生まれた魔王と比べても、魔王覇魔は最強クラスであっただろう。
時間が彼に与えられていたのなら歴代最強となりえたかもしれない。
だが、魔王覇魔はその脅威を世界に知らしめることなく敗れ去った。
坂棟というイレギュラーの存在によって……。




