07 異界の王~レイティアの思惑
坂棟克臣という男がレイティアに現れて、未だ一月も経っていない。
だが、レイティアという町は劇的にその姿を変化させた。
荒廃の外套に押し潰されそうになっていた町が、今や活気と喧騒に満ちている。
あるいは大陸のいずこの町よりも景気の良さを誇っているかもしれない。
すべてのきっかけが坂棟という男にあることを否定できる人間は、港町レイティアにはいないだろう。
すべては魔王軍に勝利したことから始まったのだ。
坂棟を召喚した白巫女アエリアは、すでにレイティアの支配者と言っても良い存在になっている異界者に対して疑問をぶつけた。
「なぜ、ここまでしてくれるんです?」
「まるで俺が何かたいそうなことをしたみたいだな」
坂棟が笑った。
「たいそうなことでしょう。一度として勝利したことのなかった魔王軍を幾度も破り、しかも、町までも大きく発展させている」
「アエリアの依頼は、魔王軍の排除だったと思うが?」
「それはそうですけど、こんなに何もかもを変えるなんて……それに依頼と言いましたが、私はあなたがなさったことに対する褒賞など与えることができません」
「褒賞はすでに受け取った」
「何も与えていません!」
「異なる世界へ来た、という事実だけで俺には充分なんだが……」
「言っている意味が分かりません」
「俺は納得していると言っているんだから、それでいいと思うが?」
アエリアは唇を噛みしめた。
「何やら不満そうだな」
「不満です。なぜ、あなたが危険をおかしてまでこんなに協力してくれるのかが分からないのです」
「いくら言葉を重ねても理解してもらえるとは思えないが、それでも説明するとなると――簡単に言えば、たいしたことじゃないんだ」
「何がです?」
「ここに来てから、俺がやったことすべてが、俺にとってはまったくたいしたことじゃないんだ。だから、それほどアエリアはありがたがる必要はない。何しろ、まだ結果は出ていないんだ。実際、これからヴァルキアという国は大きく変わっていくことになるだろう。俺がそうするからな。未来に描かれる世界はアエリアにとって決して感謝できる世界ではないかもしれない」
「――不吉なことを淡々と言わないでください」
「そして、たいしたことがないとしても、なぜ行動したのかといえば、さっきも言ったがこれは感謝の印――恩返しだよ。アエリアが呼びかけてくれたことで、俺は新たな感覚を得ることができた。それはなかなか画期的なことだったんだ」
「……何だか、自分がとても悪いことをしてしまったかのような気がしてきました」
このまともではない男が言う、画期的なことというのは何なのだろうか。
人間が得てはならないモノを得ることに、結果としてアエリアは協力したのかもしれない。
「そうか? まあ、俺への無用な感謝の気持ちがそれで消えるならいいだろう。納得してもらえたか?」
「いえ、納得はまったくしていません。むしろ、不安度があがっています――というか、足を止めて私と話すという選択肢はないのですか?」
決して急いでいるようには見えないのだが、坂棟の歩く速度ははやい。
アエリアは身長が低いわけではないが、成人男性の平均身長に比べればやはり差がある。
当然、坂棟との歩幅には差ができるので、彼女はどうしても急ぎ足にならざるを得ないのだが、それ以上の差があるように彼女には思えた。
少々きつい。
何と言っても急ぎ足で歩きながら話すというのは、ひどく忙しないのだ。
伝えられるはずの言葉もこれではうまく口にできない気がした。
「足をとめて話すことが不可能というわけじゃないが、それをすれば、会議室へつくのがいくらか遅くなる。たいした遅延ではないかもしれないが、その影響を受けるのは港町レイティアに住む人々ということになるが、アエリアはそれでいいのか?」
「とても嫌な言い方ですね。何となくですけど分かってきました。坂棟さんは人が悪いですね」
「アエリアも出会ったころに比べれば、口がよく動くようになったな」
「それは坂棟さんのせいです!」
「というわけで、会議室に来たが、一緒に入るか?」
「政治は分からないし、秘密を知りたくもないので入りません。昼食時にもう一度話をさせてもらいます」
アエリアは坂棟に礼をして、もう一人の人物にも礼をする。
坂棟の秘書サイアスが目礼を返してきた。
アエリアは坂棟とサイアスが部屋へと消えるのを見送ってから、急ぎ足で来た道を戻っていった。
全力で走られるほどに、彼女の身体は回復していない。
だが、その足取りは弾んでいる。
一定の健康状態を取り戻した彼女には仕事が任されていた。
それは文字を教える教師である。
召喚士であるアエリアは年齢性別さまざまな生徒を受け持つ教師となっていたのだった。
召喚士は世俗から完全に分離されて生活していたので、人に接することができる教師という役目は、彼女にとってたいへん楽しいことであったのである。
会議室では、すでに坂棟を待ち受ける人々がいた。
レイティア市長アルマンド、将軍カルトゥス、魔妖術士長グロスの三人である。
坂棟が着座し、サイアスはやや離れた位置で控えた。
坂棟は三人を排除しなかった。
亡国の危機にあって、各々の分野において秩序の維持に成功していた点を彼は高く評価したのだ。
能力のある者を、すでに過去の存在であるというような理由で遠ざけることを坂棟はわざわざしない。
そして、三人は大きな失敗もなく坂棟の期待に応えてきたのだった。
「やはりとう言うべきか。大陸に逃れられた陛下がヴァルキアへ帰還なさるということです」
ヴァルキア最高位に位置する国王に対して、アルマンドの発した敬称は、どこか空虚に響いた。
敬意に内実が伴っていないことを隠そうともしていないためだろう。
カルトゥスやグロスは僚友の口調をなだめることをしなかった。
当然というふうに聞き流している。
坂棟も何も意見しない。
「帰還と言うが、陛下は一万二千の兵を伴っているという。いったいあれは何に対抗するための兵力だというのか」
カルトゥスは疑問符を用いたが、彼自身その答えは分かっているのだ。
口調の不快感がそれを示していた。
「陛下の言を用いるのならば、我らは逆臣であるという。つまり、一万二千の兵は我らを討つための戦力ということになる」
「逆臣? 最後まで魔王軍と戦い続けている我らのどこをとって逆臣とするのか」
カルトゥスの顔と声には怒りがある。
だが、アルマンドとグロスの顔にその感情はない。
すでにヴァルキア国王を見限っているからだ。
実際アルマンドは坂棟からある指示を受け、影ですでに動いていた。
それは国王との対決は避けられないと早々に判断した坂棟からの密命であった。
「今さらでしょう、将軍。すでに我々の訓練は海からの敵に対するものへと移っていた。兵士も我ら魔妖術士も、そして民も国王軍が敵であることなどすでに分かっている。覚悟をする時期は終わっているのだ」
グロスが冷静に述べる。
「そんなことは分かっている!」
「ならば、執着は捨てることです。将軍の忠誠は生まれ変わったヴァルキアに向けられるべきものだろう」
「分かっていると言っているだろう!」
「では、実際の情報を教えてもらおう。魔妖術士の数は?」
グロスの興味は最初からその一点にあったようだ。
もともと国への忠誠心などたいしてもちあわせていないのかもしれない。
「総兵力は一万五千から二万というところのようだ。魔妖術士に関しては、さて、王軍には百もいないだろうが、ワールランド軍には千とも二千とも言われているようだ」
答えたのはアルマンドだった。
「倍の数を相手にするかもしれないというわけか」
グロスが嘆息交じりにいった。
だが、その瞳にはまったく恐れの色がない。
「二万であるというのなら、我が軍の倍だが、一万五千というなら、まったく我らヴァルキア軍を嘗めているというしかない。いや、二万でもあろうとも二倍の兵でレイティアを落とせると本気で思っているのか!」
カルトゥスが怒る。
将軍は、ヴァルキア王の動向を聞いて以来、怒ってばかりいた。
裏切られたという思いをもっとも抱いているからだろう。
「将軍の言うとおりだな」坂棟が口を開く。「前にも言ったが、今回の戦いに私は基本的に参加する気はない。ヴァルキア軍と魔妖術士隊によって迎撃することを望む。誇りある戦いを見せてほしい」
「むろん」とグロスが自信ありげに答える。「訓練の成果をご覧にいれましょう」
「もちろん、我が軍もそのつもりだ。訓練どおりに戦えば勝利は間違いないものと考えている。しかし、坂棟殿。私には一つの懸念がある。彼らが港を封鎖するような動きをした時、いかがするおつもりか?」
「その点は私もお聞きしたい。港が封鎖されれば、レイティアの景気などいっぺんに吹っ飛ばされるだろうから」
アルマンドがカルトゥスの意見に同意する。
「ワールランドが長期戦を望むとは思えないが、仮にワールランド軍がこちらの攻撃の届かない位置から港の封鎖を行う動きを見せたのなら、戦いはもっともそっけない経過をたどることになるだろう」
「――なるほど、坂棟殿自ら戦うというわけですか。前言をひるがえすおつもりですな」
「今のヴァルキアに持久戦を戦う余裕はないし、今のヴァルキア軍に敗北の経験は必要ないからな。私が参戦する事態が訪れないことを期待するさ」
早い段階で、坂棟はヴァルキア国王と戦いになることを明言していた――もちろん最初は一部の者のみにである。
好き勝手にやっているのだから、名ばかりとはいえ現在の権力者と衝突することは目に見えていた。
坂棟はそれに実力をもってあたることも断言していたのである。
この戦いは、レイティアにいるヴァルキア軍のために坂棟が用意したものだった。
むろん、敵には敵の事情があるだろうが……。
レイティアのヴァルキア軍には、坂棟に頼ることなく自力での勝利が求められていた。
魔王軍と戦うことになった時、精神に『自信』という強い意思がなければ、少しでも敗勢になった時粘ることさえできずに敗れるという危うさがヴァルキア軍にはあった。
何しろ彼らだけで魔王軍に対した過去というのは、敗北の経験を培った事実でしかないからだ。
レイティアにいるヴァルキア軍には、戦いで踏んばるため、勝利をもぎとるために「自信」が絶対に必要であった。
今回彼らは自らの力によって、勝利の女神から祝福のキスをもらわねばならないのだ。
「戦いに関してこれ以上私から言うことはない」
実践レベルでの話がなされることはなかった。
後は敵軍の状況を確認してからということになる。
今回の会議には、戦いに臨む最後の確認という以上の意味はなかった。
だが、必要な儀式であった。
何しろ旧来の主君を討ち取る戦いになるやもしれないのだから。
「市長、彼との接触には成功したのだな」
「はい、思った以上にたやすく――すでにその身はしかるべきところに寄せています」
坂棟の最後の問いに、アルマンドが頷いた。
残る二人も坂棟のいう『彼』がいかなる存在であるかはそれとなく承知しているようで、小さく頷いたのだった。
この時から、レイティアでは本格的な戦の準備が始まったのである。
ワールランドの港町から一万を超す兵士を乗せた船が出港し、一方で港町レイティアでは戦準備が進められていた。
すでに、戦が生じることは隠しようのない現実となっている。
ワールランドで暮らす人々にとって、勝敗はあきらかだった。
彼らは全員がワールランド軍の勝利を疑っていない――主将はヴァルキア国王なのだが、誰一人としてヴァルキアが主導権を握っているとは思っていない。
なぜなら、ワールランド正規軍がヴァルキア地方軍などに負けるはずがないからだ。
正確な情報をもたぬ庶民は、感覚と感情によって戦の勝敗を予測していた。
だが、商人たちは違った。
特にレイティアへ投資している商人たちは、当然レイティア軍が勝利すると考えている――が、絶対に勝利するとまでは考えていない。
彼らは双方の兵数をつかんでおり、常に数字を相手にしているからこそ、数の力の強さを良く知っていた。
ワールランド軍が兵力で優っているために、レイティア軍の勝利を確信することができなかったのである。
だが、坂棟という英雄を知る彼らは、レイティア軍への信頼というより、坂棟個人への信頼からやはりレイティア軍の勝利を思い描いていたのである。
いずれにせよこの戦いで、ヴァルキアの支配権を有する者が誰なのかがはっきりすることになる。
それによって、商人たちの動きが大きく変わることになるだろう。
レイティア軍が勝利すれば、レイティアに投資していなかった商人たちは顔色を変えて、坂棟の前へと参内することになるはずだ。
逆の結果になれば、商人たちの立場もまた変わることになる。
人々の視線は両軍の激突へ自然と集まっていた。




