22 ラバル戦争 公国の終焉
ラバル暦〇〇三年一二月初旬。
ラバル王坂棟克臣はボルポロス公国を訪れた。
戦が終結して間もない。未だ各国がラバル主導の下に戦後処理に慌ただしい時期である。敗者となった国々は、未来に向けてと言うよりは、過去の清算に身を削っている最中であった。
勝者となったラバルは、パルロ国と帝国北部のイビウス・ラクサス・ドーガの統治する属州が安定した市場となるはずなので、今後は彼らを相手として大きな経済発展を見込むができる。
――が、それはもう少し未来の話である。
坂棟に従うのは、ハルとラトの二人だ。彼自身は個人の力を振るったのは一時的であったので、たいした負担を覚えていなかったのだが、彼の三人の側近はそうは考えていないようだった。
突然坂棟が眠りにつく可能性を考えて、常に護衛をしているのだ。
ちなみにセイは、エルフ国家エンシャントリュースに先遣隊として派遣されている。公国の次に坂棟が訪れる予定である。今のところ、唯一手付かずなのが、このエルフ国家だった。エルフたちは森の奥に閉じこもり何ら動きを見せていなかったので、坂棟は放っておいたのだ。正確に言えば、そこまで手が回らなかったというのが実情だが。
坂棟は、ボルポロス公国の統治形態を早期に決定しなければならないと考えていた。
パルロや帝国は領土が広大であり、間接支配や間接的に政治影響を及ぼすほうが、ラバルの国力からすれば多くの利益を求めることができる。下手に領土欲を出そうものなら、両大国の負債を一手に担わなければならない可能性が高かった。他にも、種族問題や他の理由による叛乱の可能性など様々な問題があり、安定的な統治を行うには直接支配を望まぬ方が具合が良かった。
能力を持った統治者がいるというのであれば、統治を押しつけた方が合理的だと坂棟は考えたのだ。
一方で、ボルポロス公国は小国だ。
ラバルに組み込むことは簡単とは言わないが、不可能ではない。
また、なさねばならない理由もあった。
何しろ、ボルポロス公国のラバルに対する敵対の仕方が問題であった。同盟関係にあったにもかかわらず、戦の最中に突如裏切り奇襲をかけるという、言い訳無用の約定破りであり卑劣な行為を行ったからだ。
ラバルとすれば、これまで下級魔族退治の協力を惜しまず、また、パルロと帝国の圧力に対抗する後ろ盾としても公国の国益に報いてきたつもりである――むろん、それはラバルの国益に叶うものであったからだが。
ボルポロス公国の裏切りに対して、ラバルからすれば、いかなる寛容も持つ理由がなかった。
今回の戦いで公国領地は緩衝地帯としての使命を終えた。これからは帝国とエンシャントリュース(エルフ国)に対する積極的拠点としての意味合いを持たせた方が、ラバルにとっては利点が大きいのだ。
公国は、ラバルの支配下に治めるべきであった。
情理両面から、ラバルにとってボルポロス公国の存続は許すことができない。
問題は、どうやってボルポロス公国に幕を下ろすのか、ということである。
坂棟に思案がないわけではない。
特別な血族支配によって成立している国家では、最もありふれた外交政策である「婚姻」だ。
飾らずに言えば、その正体は婚姻関係による国家の乗っ取りである。
ボルポロス家の女性をラバルに迎え、ボルポロス公をラバル王が兼任する。あるいは公国を属州の位に落とし、いずれ、坂棟とボルポロスの姫の子の一人を公国の領土の統治者とするというのもある。
この婚姻で問題があるとすれば、パルロから物言いが入ることだろう。当初は、ラバル王との婚姻など見向きもされなかった事案である。だが、今となってはパルロもラバルとの結びつきを強化するのに婚姻関係が最も費用がかからず効果的だと考えるはずだ。
欲望の舌なめずりをしてしまうほどに、今や独身のラバル王は、パルロにとって魅力的な存在に変貌していたのだ。
国力を考えれば、正室となるのはパルロの姫となり、ボルポロスの姫は側室になる。第一王妃、第二王妃などと名称を変えたところで席次が着くのは免れない。
ただ、現パルロ王には娘がなく、また姉妹はすでに嫁いでいた。この状態で、ラバル王との婚姻を求めるのなら、姉妹のいずれかを離別させ、改めてラバル王に嫁がせるか、いずれの良家から娘を王家の養子として迎えた後に、ラバルに嫁がせるという形になる。
勝者となったラバル国の臣民――ただでさえヒューマン国家の姫など認められないのに――からすれば、心情的に王妃としてふさわしくないと考えたくなるだろう。
また、ボルポロス公国の民も、そのようなパルロの姫の下に自慢の姫が置かれるなど、内心面白くないに違いない。支配を容易にするための融和策である婚姻関係が、逆効果になっては意味がなかった。
坂棟は、あくまで政治の一環としてのみ、自らの結婚と言うものを考え、頭を悩ませている。
二〇代前半の日本の若者としては、まったく特異なことに、好悪の判断ではなく、政治判断のみで女性の判別を彼は行っていたのだ。
彼は相談しないタイプの統治者であった――この点から見ても、ラバルは完全な専制国家であったことがわかる――ので、もちろん、彼の内心を知る者はいない。
家臣の間では、王の婚姻などまったく政略の選択肢に入っていないだろう。王の考えを聞けば、驚くに違いない。皆、そこまで他国に気を使う必要はないと主張するはずだ。
こんなことを坂棟が考えていると知ったら、驚くどころか顔を真っ赤に染め上げて失神するほどに怒りを発する人間たちもラバルにはいる。恋愛至上主義で女性しかいない種族だ。
他国の姫との婚姻が成立していたら、妬心で箍が外れた本気のマーメイドたちによる色仕掛けが、ラバル王を襲ったことだろう。男なら誰もが羨む波状攻撃を坂棟は経験することになったに違いない。
人として常軌を逸脱している坂棟といえども、そこは若い男である。彼も色に溺れる可能性はあった。この世界に来て、初めての敗北を坂棟は経験するかもしれなかったのだ。そして、後の人々はマーメイドの事を「傾国の美女」と呼んだかもしれない。
だが、そんな未来は訪れなかった。
それはボルポロスの姫に原因がある。
マリー・ヴァン・ボルポロス――現ボルポロス公の直系の女性である。
戦いが起こる前に彼女がラバル大使に託した手紙を坂棟は読んだ。
そこに書かれていたのは、ナギサの血筋についてであった。彼女の母はマリーの叔母にあたる人物で、ナギサの父(異界者)と結ばれることで完全に公国との関係を絶ったという過去があった。もちろん、直系ではないナギサの母はボルポロスを名乗れないが、ナギサにもボルポロスの血が流れているという事実は重大であった。
マリーは文中にナギサを坂棟の側室にしろ、などと直接書いてはいなかった。だが、ナギサを用いてボルポロスの統治権の移行を平和的に行ってほしいとの嘆願を坂棟は文中から読み取った。
ボルポロス公国はラバルに敗北すると、戦前からマリーは考えていたらしい。視えていたのかもしれない。
敗戦後、彼女自身は政治に関わるつもりがないとの意思も示されていた。
やはりボルポロス家と言う権力のある家系に生まれたからか、彼女がナギサに願う幸福の形は一般の常識からは離れていた。政略結婚であろうと、権力者の保護を受けられるというのは、女性にとって幸せであると考えている向きがマリーの文章にはあった。
ナギサを担ぐという考えを坂棟は採用しなかった。ナギサに対する同情心からではない。ナギサはすでにラバル軍に属しており、そんな中で、無名のナギサがボルポロス公国を背負うというのは、あまりにラバルに都合が良すぎる。民からの反発が大きいだろう。
そもそもマリーと言う婚姻にふさわしい候補がいるのだ。わざわざ不利益を内包している人物を選ぶ必要はなかった。
坂棟はマリーの意思が否定的であろうと、必要であれば婚姻関係を結ぶつもりであった。
だが、彼は神託の内容をパルロを通じて知らされたことで、マリーについての問題を白紙に戻した。
その神託の内容を要約すれば、復活しようとしている魔王の憑代はヒューマンの二人の男女であると書かれていた。
一人は帝国皇子ミル・ディナス。
もう一人が公主マリー・ヴァン・ボルポロス。
ミル・ディナスはすでに魔族に奪われていた。
だからこそマリー・ヴァン・ボルポロスだけは、絶対に死守しなければならない。
こういった内容である。
魔族は神域に入ることは不可能なので、マリーが神殿内から出なければ魔族に連れ去られることはないと神殿関係者は言う。
坂棟は神殿から出なければ安全であるという言葉に懐疑的であった。
実際に、すでに帝国皇子がさらわれているからである。
たとえ、神殿内に入ることができなくとも、魔族は何らかの方法でマリーを外に連れ出すことができるのではないか?
彼らは強い催眠力を持っているらしい。それを用いてヒューマンを操り、マリーの奪取に成功するかもしれない。
しかし、魔族がマリーを狙っているという事実は、上位魔族三体を捜索している坂棟としては罠にはめるのに魅力的な状況である。だが、これを実行し成功させるには一つの条件があった。
坂棟はこの後二週間を超えて眠りつく可能性がある。本人はそれを感覚的に自覚している。その間、魔族からの襲撃がない。あるいは、襲撃を受けてもマリーの防御を完璧に果たすことができるという保証がそれである。
大戦後の不安定な状況下で――しかも王が不在の中――ハルやラトをマリーの警護に張りつけておくことはできない。
坂棟が不在の状況で、彼らは世上の安定に欠かすことが出来ない存在なのだ。
坂棟はボルポロス公国の統治と魔王復活の問題の二つに道を示さねばならなかった。目覚めれば、再び大戦が起こっている――これでは、できの悪い悪夢にもならない。
坂棟は公国に入ると、まず公国の罪を国内の民に明らかにし、その責をボルポロス公と行政に関わっていた貴族たちに求めた。
公国の裏切りを強調し、ラバルは卑劣なその行為を許さないことも強調する。
ボルポロス公と貴族たちにとっては今さら公言されるまでもないことだ。坂棟は公国民に対して説明していたのだ。彼らに誰が悪いのかを明らかにし、自分たちはラバルから恨まれていないと思わせることが狙いだった。民に自分たちは安全なのだと実感させる必要があったのだ。
畏れられるのは良い。だが、敵対心を燃やし続けられるのは不要だった。
ラバル軍は公都ミルフディートに駐留しているが、進軍したいかなる地域であっても暴行や収奪といった行為をおこなっておらず、彼らは侵略者ではあったが、略奪者の一面はまったく公国民に見せていなかった。
民は今のところ、ラバル軍によって目立った被害を受けていなかったのである。
これにより、公国民はラバルに対して一定の信用を持つようになった。むろん、心の底では信じてなどいないだろう。だが、彼らも信じたふりをした方が、生きる上では楽であったのだ。民とは日常に生きる人種なのだ。
このわかりやすい情報戦はラバルに思わぬ効用をもたらした。公国民の多くは強い種族差別主義者であったから、自分たちがラバル排除運動の先鋒者であったことを知っている。内心では王家にすべての責任を押しつけたことに対して後ろめたい思いがあったのだ。
そして、人間とはやましい気持ちが強いほど、自己正当化を図ろうとする動物なのである。
ラバルが宣伝するまでもなく、彼らはボルポロス一族の卑劣と無能を大声を上げて喧伝し始めた。悪事はすべて権力者が行ったのであり、自分たちは被害者なのだという論理を公国民が自ら謳ったのである。
公国民が積極的にラバル側につくとは、坂棟は予想していなかった。そういった人間もいくらかはいるだろうという程度の含みは持っていたが……。
坂棟は公国民の変わり身に対して何ら発言しなかった。だが、愉快に感じている様子ではなかった。彼は人間に対してどこか甘い幻想を抱いているのかもしれない。
ともあれ、ボルポロス公への徹底的なネガティブキャンペーンは成功し、人柱を立てたことで、少なくとも表面上はラバルに対する反抗の意思を示す者はいなくなった。
そして、ボルポロス公を惑わした者たちとして、反ラバル派の有力者たちは逮捕・討伐された。
彼らの財産はすべて没収される。
公国は三州に分解され、新たな統治制度が推し進められた。
元公都を含んだ、帝国とラバルに接する最も大きな領土は、ラバルによって統治されることになった。
残り二つは、ラバル派であった有力者に任された。
といっても、ラバルからの紐はしっかりと結ばれてはいる。新たな統治体制をつつがなく成立させるための「援助や助言者という顔」と「監視官と言う顔」という二つの面を持った十人規模のラバルの官僚団がそれだった。
ラバルが力を示し続け、そして、短期間の内に治安と流通を二本柱とした安定を実現できるかどうかで、この地域にある争乱の種が芽吹くかどうかが決するだろう。
元公国領内では、支配や欲望、利己と犠牲が人の内面と行動で爆発的な化学反応を起こしていた。それは急速に新秩序を成立させる原動力となっている。
新たに生じた変化は、人間の持つ醜悪を端々に臭わせながら、加速を増していった。
一方で、清廉さと静寂をまったく失わない領域もある。
女神ミルフディアを信仰するミルフディア神殿である。
だが、五大神殿であるミルフディア神殿も外界との交流を完璧に断つことはできなかった。
侵略者ラバル王坂棟克臣が正面から堂々と神殿へ足を踏み入れたのだ。
華麗な軍服姿のまま外套をたなびかせ、風を切るように迷いなくラバル王は歩みを進める。
背後に従うのは絶後の美貌を持つ二人の男女だ。二人も軍服姿である。その姿は実用的な美とは何であるのかを見る者に納得させる美しさを放っていた。
神官たちは――奉じる神が女神のためか圧倒的に女神官が多い――膝をつくことはせず、頭を下げ、最低限の礼節のみをラバル王に示した。
五大神殿において最高位に位置する五司祭の前で、坂棟は歩みを止めた。
ミルフディア神殿の五司祭は女性であった。顔には年月を重ねた証拠である皺が散見されたが、意思の刻まれた瞳の強さと芯の通った立ち姿は、神に仕える者としての美しさと女性としての美しさを未だ併せ持っている。
彼女は背後にある女神ミルフディアの神像から力を与えられたかのように毅然として、最強の力を持つ覇王の前に立っていた。
「世俗の争いに神殿は関わることを致しません。しかし、あなたが神殿にその権力の腕を伸ばそうとするのなら、命を懸けて我々は抗います」
「神殿が政治に関わらないかぎり、私は神殿を敵とはみなさない。だが、政治に関わるというのであれば、それはあなたの言う世俗そのものに神殿が接することになる。いかなる理由があろうとも、私はそれを認めない。穢れは神も認めまい。私が業火の炎ですべて燃やしてしんぜよう」
「神の代理を名乗るというのですか? 何と傲慢な」
「誰であろうと、人間に神の代理などできるはずもない。だから、神なのだろう?」
「―――」
「神託がすでにあったはずだ」
「――それが何か?」
五司祭の声には嫌悪がある。あなたに言われる理由はない、という言葉が聞こえてきそうだった。
坂棟は決定的に五司祭の心証を損ねてしまったらしい。
「マリー・ヴァン・ボルポロスの身の安全を確保する必要がある」
「ミルフディア神殿にあるかぎり、公主様の身は安全です」
坂棟の眉がわずかに動いた。彼の瞳はおもしろうに五司祭を見ている。
布告により、ボルポロス公国が消滅したことは、すでに神殿も把握しているはずであった。それが、ラバル王坂棟によってなされたことも認識しているはずである。
にもかからず、坂棟の前にあって、わざと公主と言う敬称を五司祭は用いたのだ。
新たな権力者と敵対することは、神殿としては避けねばならないはずだ。だが、五司祭は権力者に対して矜持を見せた。むろん、それは賢い行為とは呼べないものではあったが、一方で内部に向けて改めて権力に屈することはないというメッセージを送ることにもなるのだ。
神殿の高潔さを示すのに、ラバル王を目前に行う以上のシチュエーションはないであろう。
仮に、この五司祭が坂棟という人がこの程度のことで怒るような人物ではないと知っていたとするならば、なかなかの役者であると言えた。
彼女が人前で語る言葉は、本心だとは限らないということである。
そこに、坂棟はおかしみを覚えたのだ。
「だが、アルガイゼム帝国皇子ミル・ディナスは、マリー・ヴァン・ボルポロスと同じように神殿にて生活を送っていたはずだ。それでも、魔族によってその身を奪取された」
「ラーン神殿はいたずらに拡張を繰り返したために、境界が神気を超えてしまったのです。すでに原因は明らかであり、そしてミルフディア神殿ではラーン神殿のような事は起こりえません。私たちは古より変わらぬ姿の神殿と共にあるのです」
「五司祭に問うが、神々は何を最も重視されているのか? マリー・ヴァン・ボルポロスという個人の命を守ることか、それとも魔と言う世界の外敵を排除することか」
「神はそのような選択をなさりません」
「なるほど――五司祭。案内を頼もう。ああ、他の神官のつきそいは必要ない。以降は日常に戻るが良い」
大仰なもてなしなど必要ないという王の気遣いにも取れる言葉だが、もちろん、この場にいる全員は真の意味を間違うことなく受け止めていた。
――誰であろうとここから先についてくることは許さぬ。
「――わかりました。皆もラバル王の言うとおりに、特別なことをせず、いつものように行動しなさい」
坂棟と五司祭が並んで歩き、その後ろにハルとラトの竜王二人が従っていた。
優美な曲線を描いた大理石の廊下に四人の足音のみが響いている。
「上位魔族がいかなる手段を用いるのかは、残念ながら私どもにはわかっておりません」
五司祭の声からは攻撃色が完璧に拭い取られていた。すべての着衣を脱ぎ去り素肌をさらしたかのような、本音の響きが感じられる。
「守りきることは不可能と言うことか?」
「人のなすことです。完全と言うのはありはしません。神託は、魔族からマリー様の身柄を全力で守れ、と申しておりました。わざわざ全力と言う文言が加えられているのは、そうしなければ、奪われる危険性があるということでありましょう。今の神殿の状態は完璧ではないということです」
「神殿にも自覚があるのだな」
「ラーン神殿の神官たちが神気の及ぶ範囲を知らないはずがありません。むしろ神経質になっていたはずです。それなのに皇子を神気の結界の外に出してしまった。何らかの齟齬があったのです。その齟齬の生まれる原因に上位魔族が関わっていないと言い切れるでしょうか」
「自覚がありながら、あの弁論か」
「神殿の存在の意義の一つは魔族を滅すること、それは事実です。ただし神々は――神殿は、それが誰であろうと、何のためであろうと、人々の命を見捨てることがあってはなりません。たとえ一人の命を犠牲にすることで、万人の命が救われることになろうとも……」
「――なるほど。神殿からの情報がやけに滞ることなく入ってくると思ったが……」
坂棟の呟きは冷たい響きを帯びている。
彼はすべてを語らなかったが、神殿がラバルに対して、いや坂棟克臣に対して汚れ役を押しつけようとしているのは明らかだった。
ラバル王が罪を背負うというのなら、見ないふりをすることで協力する。神殿はそう言っているのだ。
初めて神殿は、坂棟に本音を漏らしたのである。
魔王の完全復活を阻止するのに最も効果的な手段が、憑代となる人物を消すことであることは間違いない。
おもしろくないことだが、今のところ坂棟の行動は、神殿の思惑通りと言うことだろう。目的が同じなので、仕方のないことではある。
「魔王の情報はお聞きになられましたか?」
「マリーを憑代と必要としている点と、二人の人間を憑代とするのは過去の二度の魔王復活と異なる点なら聞いた」
「その通りです。男女一体の融合した身体など、神々の思いに反したこの世に存在してはならない形です。しかし、だからこそ、世界の理から外れた想像もつかない力を発揮するという恐れがあります」
「両性具有は禁忌なのか?」
「神々は、種を形成するのに男と女を御創りになったのです」
「魔族たちが必要としたのは、ヒューマンの男女だけか?」
「どういうことです?」
坂棟は五司祭の問いに答えなかった。
魔族に奪われた可能性の髙い重大なものがある。それはこの世界で最も力ある存在が宿していた心臓だ。
「本当ならば、魔族と戦うのは勇者の役目なのです」
坂棟からの言葉はないと判断したのか、五司祭が口を開いた。
「勇者とは世界の希望を背負う者とも言われています――ところで、勇者の存在をご存じでしたでしょうか?」
「はっきりと認識したのは、あなた方の情報によってだ」
勇者の名は、坂棟の記憶にある者の名と一致するものだった。「ノウドウの乱」を共に戦ったジークセイドと言う若者である。
「そうですか……やはり思うように勇者の物語はひろがっていないようですね」
「何か原因に心当たりでもあるのか?」
「ここ数年、世界の話題をさらう人物が現れ、その男の噂話が世界で猛威を振るっていたのですよ。魔王坂棟克臣――この人物のせいでちっとも勇者の冒険譚が世俗に溶けこまなかったのです」
神殿は最初から坂棟のことを本物の魔王だとは考えていなかったようだ。
市井の民もラバルの勝利によって恐慌をきたすようなことはなかったので、「魔王」という単語を記号や象徴のように捉えていたのだろう。
これは、一般の人間が魔族の脅威をまったく認知していないことも表している。
「魔王がいれば、勇者はより引き立ちそうだが」
やや茶化すように坂棟は言った。
「そうはなりませんでした。過去の人魔大戦では、勇者が先頭に立って戦い、人々は戦う者たちに希望を託したと伝わっています。戦うのはあくまでも勇者や神法術師と言う選ばれた者たちだったのです。しかし、今の世ではなぜか『魔王を排除するためにヒューマンは一体となり戦うのだ』という戦いに対する積極的な意思が流布しました。この考えを否定するつもりはありません。しかし、それが勇者の力を削ぐことにも繋がった」
「まるで、自ら戦うことが悪だとでも言いたげだな」
「そうは言っていません。しかし、このまま魔王が復活し、今代の勇者が戦うことになれば危険です。勇者は皆の期待と希望が大きければ大きいほど、その真価を発揮すると言われています。今の状況では、今代の勇者は過去のいずれの勇者にも劣る力しか発揮できません」
「それはわからないだろう」
「わかるのです。今代の勇者には、過去には例のないことなのですが、神々から防具が贈られています。これは心強いことではありますが、神々が今代の勇者の強さを危惧しているからこそ贈り物を与えずにはいられなかったとも考えられます」
五司祭は神々に全幅の信頼を置いていないようだ。神々を妄信しているのなら、神々の選んだ勇者が敗北する可能性など考えないはずだ。
この五司祭が特別なのか、それとも神官たちは全員がこういった思想の持ち主なのか、なかなか興味深いものがある。
世俗の権力に対しても神殿は冷ややかだった。何しろ政治への介入がほとんど見られないのだ。少なくともミルフディア神殿はそうだ。
坂棟は、もっと早く接触すべきであったかもしれない、とミルフディア神殿に対する評価を改めた。
「いずれにせよ、魔王と言う名称が人々の口に上る前に、強い勇者の存在が世界に知れ渡っていれば、このようなことにはならなかったでしょう。しかし、すでに遅い。魔王は勝利してしまった」
「責任を取れと?」
「私はあなたがどのような人間であるのかを知りませんでした。しかし、あなたの強さに関してならば、すべての人が同じことを言います。この世界に置いて比類なき存在である、と」
「世界を魔王に託して良いのか?」
笑いを含んだ坂棟の口調に対して、真正面から五司祭が答える。
「わずかな時間でしたが、ラバル王サカムネ様との会話は私にとって有意義なものでした。あなたは権力に溺れる者でも、権力に使われる物でもない。あなたは高みに到達しながら、他者を受け入れる余裕がある。私自身があなたをそう判断したのです。だからこそ、私はあなたに希望の一つを託すのです」
厳しい空気をまとい真摯な口調ではあるが、まったく勝手な言い分である。しかも、彼女の言う「希望」とは、一人の人間の命を奪う、「希望」という言葉の響きを裏切る残酷な現実なのだ。尋常の有り様ではない。
だが坂棟は反論を口にしなかった。それこそ、五司祭が言うように余裕を持って、彼女の言を器の中に受け入れたのだ。彼も常人ではありえなかった。
「一つ言っておくが」
「何でしょう?」
「頼みごとをするのなら、次からは自分の足で訪ねることだ。それが礼儀というものだろう」
「はい。陛下」
五司祭が坂棟に頭を下げた。
二人の歩みは止まっていた。
坂棟の前には白く大きな扉があった。
その先には、公主の身分を剥奪された、魔王復活の鍵を握るマリー・ヴァン・ボルポロスがいるはずである。
感情の消えた坂棟の表情の中にあって、瞳にのみ微量な哀切が流れていた。




