15 ラバル戦争 破軍の連鎖
ラバル軍に所属することになった有松虎足は、自分でもわけもわからないままに咆えていた。彼は周囲の異常な熱気に同調して、これまで経験したことのないほどに精神を高揚させていた。
実際のところ、ラバル西防壁を守る防衛隊には、まったく余裕はなかった。
エルフたちはラバル軍の飛び道具を恐れてかまったく進軍してくることはなく、竜王により壁が破壊されることを待っているようだった。
対陣しているエンシャントリュース軍には、あらゆる生物から逸脱した力を持つ竜王がおり、ラバルの防壁はその脅威にさらされていたのだ。
防壁は竜王の一撃で破壊されることこそなかったが、無傷では済まされなかった。繰り返し攻撃されれば、防壁は破壊されるだろうし、数度の攻撃により一部ではすでにひび割れが生じている。ひびわれた箇所に再度攻撃を命中されれば、壁は崩れてもおかしくない状況だった。壁の大きさからすれば、小さな黴でしかないが、人が通るには充分なほころびと言えた。
もちろん、ラバル兵も攻撃はしていた。だが、弓や槍、岩や砲撃、すべての攻撃が竜王には届かない。それどころか反撃をくらい、多くの砲門が失われていた。ラバル兵は竜王の攻撃にただ耐え忍ぶしかなかったのだ。
壁を壊すことに竜王は執着しているようだが、それが終われば、当然ラバルを灰塵へ誘う行動を始めるだろう。
攻撃方法のないラバル兵士は、自身を壁として竜王の攻撃を防ぐしか道は残っていない――はずだった。
そこに救世主のように現れたのが、ラバル王である。王の攻撃は絶大で、エルフたちは多大な被害を受けているようだった。竜王の攻撃も止んでいる。
この光景を見て咆えないラバル兵はいないであろう。ラバルに縁の浅い有松でさえ咆えていたのだから。
突如生じた光球からの攻撃を防ぎ切った竜王フューリオンは、現在ラバル王と空中で相対していた。
フューリオンの目的は、小賢しいシャインラトゥと生意気なギルハルツァーラを叩きのめすことにあった。
シャインラトゥはヒューマンごときの策に嵌められ足掻いているようだった。あんな者たちの罠にはまるなど笑止でしかない。今なら勝つのはたやすいだろう。だが、ヒューマンを一掃した後の手負いの幻竜を倒したところで満足などできやしない。
ではギルハルツァーラを潰すかと考えたが、あれはアブリューソスと戦っているらしい。
こうなるとフューリオンの戦うべき相手がいなくなってしまった。なので、シャインラトゥが作り上げた町を徹底的に破壊してやろうと考えた。まずご自慢の防壁を壊そうとしたところで、邪魔者が現れたのだ。
白い戦装束をまとった人間である。
「人間、貴様の事は憶えているぞ」
フューリオンはラバル王坂棟克臣を視界に収め、エルフの王宮で受けた屈辱を思い出した。人間ごときに抑えつけられたというあまりに許しがたい屈辱のために、これまで彼は坂棟に関する記憶を無意識の内に薄めていたのだ。
「エルフの王に伝えろ。約束を違えれば、エルフがどうなるかわかっているのかと」
「貴様、私を伝令扱いするつもりか!」
膨大な圧力を伴った水流が渦巻きながら直進し、異界者の身体を呑みこんだ。
水流の中で突如生じた一瞬の光輝。光線は、水流を逆上する。
光の閃きは竜の鱗をたやすく貫通し、血塵を宙へ撒き散らした。
傷を負ったことで、初めてフューリオンは、光線が異界者の攻撃であったことを理解した。竜王の本気の攻撃を受けて、人間ごときが反撃するなど思ってもみなかったのだ。
そこにあったのは、ありえないはずの現実だった。水流が消えた後には、変わらぬ姿で宙に浮く坂棟がいた。
「エルフの王に伝えろ。国境を越えたことに関しては、後で申し開きを聞き入れても良い。だが、攻撃するというのなら、たとえこちらが無傷であろうとも容赦はしない――それとフューリオン、貴様は駄目だ。おまえの攻撃で、ラバルの防壁は傷つき、兵士に死傷者が出ている。何より、俺に攻撃してきたんだ。死ぬ覚悟はできているんだろうな?」
それはまったく一方的で増長甚だしい宣言だった。
「……人間ごときが正気か?」
「野良の竜ごときが本気か?」
坂棟が薄く笑った。
竜王フューリオンの激怒は、流れゆく空気を震わせ激流へと変える。水より作られた百を数える砲撃は、形なき空気までも切り裂いて坂棟を切り刻もうとした。
だが、竜王の攻撃はその大部分が坂棟の力によって消滅されられる。数条の狙いと角度のずれた水閃が地上を鋭く抉り、偶然にもひびわれたラバルの壁を切り裂いた。
坂棟もやられてばかりではない。凝縮した光熱波を放った。光熱波は竜王の防御を突破し、竜王の身体を削っていく。
竜王は血風を周囲に噴出しながらも、攻撃を止めず、それどころか互いの距離を強引に縮めた。
フューリオンはその長大な巨体をしならせながら坂棟へと襲いかかる。
巨大な鞭と化した長い尾が、凄まじい速度で坂棟に叩きつけられた。その威力は絶大で坂棟の肉体を粉微塵に破裂させるかと思えたが、異界者の瞳は竜の尾を完璧に追尾し、余裕をもって半身となり、竜王の攻撃を避けてみせた。
坂棟の行動は終わっていない。異界者の身体が光を纏った。彼は半身になった身体をそのまま急激に回転させる。
坂棟は自らの身体を刃と見立てて、攻撃を始めた。
回転する坂棟によって竜王の鱗は斬り刻まれ、筋肉は切断され、ついにはむき出しとなった骨までも削り取られる。
空に赤い大花が咲き、地上へと散っていく。
だが、竜王は止まらなかった。長大な竜身をぼろぼろにされながらも突進を止めず、そのまま巨体を坂棟にかぶせていく。
天空にありえない光景が現出した。
坂棟が作った光球よりもさらに数回りほどの大きさを持った水の塊が突如生じたのだ。巨大な水球はよく見ると激しくうねり激流の中にある。人の手が触れたならば、簡単に千切れ飛ぶこと間違いない。
水球から光閃が数条伸びた。いずれもエンシャントリュース軍のいる場所ではなく、ラバル南方へと消えていった。
水球は空中にとどまることなくラバル北西へと墜落し、激しい爆風で一帯を吹き飛ばした。天を隠すほどに粉塵が髙く舞い上がる。爆風の余波はラバル防壁にまで達し、収まるのに二〇秒近い時間を数えた。
「え? 負けたのか?」
有松虎足は思わず呟いた。
数秒遅れて周囲から殺気の混じった視線が彼に集中する。
「王が敗れるはずがないだろう」
兵士の一人が感情の高まった甲高い声で有松に詰め寄った。容姿はヒューマンと変わらないので、鬼かそれこそヒューマンだろう。
「いや、でも、相手は竜だし……仕方ないんじゃないか?」
「おまえは、王を信じないのか!」
「いや、でもさ――」
「止めろ。あれを見ろ。俺たちは目の前の敵と戦うだけだ」
二人を止めた上官が指し示した場所には、鬨の声を上げながら突撃してくるエルフたちがいた。
壁に穴が開いたことを好機と捉え、ついに森から姿を現したのだ。
「有松、君は神法術を使えるのだろう? ならば、神法術での攻撃を行ってくれ」
「あ、ああ。わかった」
有松は数歩あるき、壁際まで到達すると、防壁上からエルフの突撃を見下ろした。
どれくらいの数がいるのかは、彼には正確に測れない。だが、何となく五〇〇〇はいるんじゃないだろうか、と彼は推察した。
ラバルから砲弾が放たれる中、エルフは恐れることなく突き進んでくる。砲門の数が少なくなったとはいえ、エルフに恐怖はないのだろうか。有松には理解も共感もできない行動だった。
エルフの特徴である長い耳が何となくわかるようになると、さすがに有松も覚悟を決めた。防壁の修復は間に合わないだろう。そうるなるとラバルへの侵入を許すことになる。戦いはいよいよ近接戦闘へなだれ込み、剣で血を争う戦いへと変わるのだ。
だが、彼の覚悟が試される時間は訪れなかった。
突撃するエンシャントリュース軍の上空に長大な影が出現した。影は重力に従い落下を加速させ、ついには地面へと激突する。轟音と共に地面が大きく揺れた。
多くのエルフが長大な影に押し潰されている。
長大な影はラバル王と戦っていたはずの水竜フューリオンだった。
フューリオンは尾を大きく振って地面をのたうちまわる。竜王の身体に触れると、おもしろいように人影が飛んでいった。
水竜は全身を朱に染め、口からも大量の血流を吐き出している。水竜の体躯に穿たれた穴から血が流れ落ち、地面を真っ赤に染め上げていた。
水竜は未だ意識はあるらしく、わずかに首をもたげて大きな瞳で上空を睨んだ。
その視線の先には、涼しげな顔でたたずむラバル王がいた。
防壁上で有松は、これらの光景を呆然と眺めていた。
「あいつ何なんだよ」
圧倒的という表現では済まされない、強すぎる存在がそこにはいた。
「あんなの許されるのか……?」
水沢美由紀はエルフと行動を共にしていた。
美由紀はエルフにやや先行してラバルに向かっていたのだが、途中でエルフの集団に気づき合流したのである。
合流したと言っても、エルフは美由紀の存在を認めたわけではなく、同行を黙認したという形だ。邪魔にならなければついてくることくらいは許してやろう、という傲慢な意思が見えたが、美由紀は気にしなかった。
美由紀としてもラバルに潜入するために、エルフを利用してやろうと考えていたのだから、お互い様と言うわけだ。
何より竜王という最強の存在を使わない手はなかった。
あれは味方として使うことができれば、兵器としては有能だと彼女は考えていた。
彼女の思考は間違いではないが、この情感の排除の有り方は、ただの高校生であった女性が備えるのには異質である。
同時期に存在した異界者五人の中――坂棟は除く――で、もっとも戦うことに適していたのが、水沢美由紀であったのかもしれない。戦いに必要な資質や才能と呼ばれる物が、彼女にはあったのだろう。
美由紀は、今、彼女の大切な存在を奪った男を視界に収めていた。
坂棟克臣――彼は、竜王の頭部に着地すると、竜王の角に左手を当てた。ちょうど、美由紀からは坂棟の背中が見えている。
竜王が弱々しい咆哮を上げ、起きあがろうとすると、坂棟はわずかに足を上げて踏み落とした。たったそれだけの衝撃で、竜王の頭部は再び地面に崩れ落ちた。
坂棟が角に視線を投じる。変わらずに彼の手は角に当てられていた。坂棟の手に力がみなぎった。
何かが突っ張るような、何かがはがれるような、何かが引きちぎれるような異様な音が竜王の頭部から発せられた。
美由紀は坂棟が何をやろうとしているのかを理解した。彼は竜王の角を抜き取ろうとしているのだ。
彼女には坂棟の行為がまったく理解できない。表情を変えることなく残酷なことをやろうとしている姿に、おぞましささえ感じた。
だが一方で、もう一人の彼女がこれはチャンスだと囁きかける。
坂棟の注意は竜王へ向けられている。おそらく美由紀のことなど雑兵の一人としてしか認識していないに違いない。ならば「魔族殺し」を使って、竜王を仕留めたのと同じことが可能ではないか。
だが、信じがたいことだが、坂棟はどうやら一対一で竜王に勝ってしまったようだった。竜などという巨大生物に勝ったのだとしたら、彼は「魔王」という呼称にふさわしい力を持っているということになる。
坂棟の手に武器はなかった。純粋に自らの力のみで勝ったということだ。
ありえるのだろうか? たかだか人間が竜よりも上だ、などと言うことが。
美由紀の腕には「魔族殺し」は一本しかない。竜王に対してさえ、四本の槍を使って殲滅したのだ。竜王よりも上である坂棟に一本で足りるのか? そもそも通用するのか?
美由紀は思い出す。あの竜王は二本の「魔族殺し」を受けたことで力を失ったようだった。本能的に敵にとどめを刺すために行ったことだが、二撃目は必要なかったのではないか。せめて後一本あれば……。
――だが。
坂棟は人間だ。
身体のサイズは竜王と比べればはるかに小さい。「魔族殺し」をその身に受ければ耐えられないのではないか?
希望的観測だろうか。
通用するかもしれない。あるいは通用しないのかもしれない。
わかっていることは、坂棟を攻撃するには、これが最大にして最後のチャンスであるかもしれないことだ。
距離は五〇メートル。
常人離れした力を持つ美由紀が投擲した槍ならば、避けられることはないはずだ。槍の持つ特殊な力もある。
当たる可能性は極めて高い。ならば、坂棟を倒せる可能性も出てくる。
背中にある槍を右手に持ちかえると、彼女は狙いを定めた。だが、坂棟に意識を集中することはしない。距離が近いからこそ、殺気で勘付かれると考えたのだ。
美由紀は瞼を下ろした。心眼で見ようというのではない。槍が敵の位置を教えてくれるのだ。
ありったけの神法力を槍にこめると、美由紀はその場で思い切り槍を投げつけた。
淡い光をまとった槍は、背を見せた坂棟に向かって一直線に飛んでいく。
坂棟が振り返った。彼はまるで攻撃されるのがわかっていたかのように、瞬時に視線を槍へと合わせた。
槍はその先端を牙を生やした口へと変化させる。
坂棟がすっと身を引いた。彼の動きは悠然としたもので、槍に対してまったく怖さを感じていないかのようだった。
――避けられた!
当たると信じて疑っていなかった美由紀は、坂棟のあまりにあっさりとした対応に力が抜ける思いだった。
坂棟の真横を通りぬけようとしていた槍がふいに進路を変更する、肉食獣が首の動きだけで獲物を捕らえるかのような俊敏な動作だった。
だが、獲物にかぶりつくことはできなかった。奇襲さえも、坂棟によって見透かされていたのだ。槍は造作もなく、坂棟の手によって捕らえられていた。
「生きてるのか?」
坂棟が槍に視線をやってわずかに顔をしかめた。彼の首筋まで後二〇センチメートルと言うところで槍は動きを封じられている。だが、先端は変わらず牙を剥いていた。
「魔族殺し」は槍先だけではなく胴体部分も変化し、坂棟の腕に干渉しようとしていたが、坂棟の身体から発せられる炎のような白光に溶かされて、干渉できずにいる。
ふと坂棟が槍から視線を外した。
「おまえがラトをやったのか」
美由紀は坂棟の黒い双眸に捉われ、動くことができなくなった。
彼女は本能的に察した。こちらを見る男は普通ではない。人間ではない何かおぞましい物だ。
「――魔王……」
美由紀の呟きが、坂棟に届いたのかはわからない。彼はかすかに眉をひそめた。
坂棟の視線が自分から切れた瞬間美由紀は逃げようとしたのだが、身体が動いてくれなかった。坂棟に「動くな」と命令されたわけではないし、命令を聞く言われもない。それでも、勝手な行動を取ることは死を意味すると理性ではない感覚によって彼女の身体は本能的に察知していたのだ。
ここからの美由紀は、坂棟の行動を目で追うことしかできなかった。
坂棟は槍を持ちかえると、槍先を下へ向けた。そのまま槍を竜王の頭部へと突き刺す。
槍は新たな獲物に歓喜したかのように、竜王の鱗を喰い破り、内部へともぐりこんでいった。
耳をつんざく悲鳴が天空と大地に響き渡る。竜王の咆哮だ。それは聞く者の心身を喪失させる叫びだった。
力を失ったはずの竜王が、最後のあがきとばかりに巨体をのたうちまわす。
竜王の一動作で、十を超えるエルフの命が奪われていった。
美由紀も例外でない。運悪く、彼女は竜王の角に弾かれた。
激突した衝撃で彼女の身体は大きく宙を舞い、勢いのままに地面を何度も転がりようやく止まる。
うつぶせとなった美由紀は、自分の肉体が燃えるような熱さを持っていることを感じ取った。意識の糸が急速にほころび、思考がぼやけていなければ、この熱さは耐えがたい物だっただろう。
身体を動かそうとしたが、地面に磔にされたかのように、四肢がまったく動かない。まるで自分の身体ではないかのようだった。血液が鉛へと変わってしまったかのように身体が重かった。
実は美由紀の左わき腹はこの時一部失われていたのだ。水竜の角が激突した瞬間に、肉が抉り取られていたのである。
美由紀は地面に頬をつけたまま、空を見上げる。
坂棟が天空から見下ろしていた。
――何もできない……ミル……ディナス……。
最後に皇子の姿を思い浮かべると、美由紀の意識は暗闇に呑みこまれていった。
すでに竜王も動きを止めている。
槍で貫かれた時に放った最期の咆哮は、竜王の断末魔の悲鳴だったのである。
エンシャントリュース軍による最後の抵抗は、王と近衛兵による突撃であった。
ラバル王の圧倒的な力を見てなお突撃するその姿勢は、勇敢と称するに不足はない。
だが、愚かな行為だとも言えた。
力の差があまりに大きすぎたからだ。
突撃に意味を見い出すとすれば、殿の役目である。だが友軍の退却を助ける時間を稼げたかと言えば、疑問符が付くところだった。
竜王が動きを停止すると、ラバル兵も城門を開き、反撃に出た。一方的な守勢の後の攻撃であったために、その攻勢は苛烈なものとなったが、追撃戦はごく短い時間で終わった。ラバルの敵はまだ残っていたからだ。
ラバル西方面の戦いは、水竜フューリオンの死と共に終息を迎えた。




